「独り戯(ひとりぎ)」
白諸葛亮編
 諸葛亮×劉備


 しん、と静まり返った城内は、未だに人が残っているはずだが、まるで諸葛亮一人だけがそこに存在しているかのように、蕭然しょうぜんとした空気が漂っていた。
 しかし、それも当然であろう。この新野の城は明日には打ち捨てられるのだから。
 曹操の軍が荊州へ向けて出立した報は、早々と諸葛亮たちの下へ届いた。その数は、劉備たちが顔色を変えるほどの軍勢だった。
 ざわめく人々の中で、諸葛亮だけが冷静に決断を発した。すぐに新野より離れ、江陵へ身を寄せるべき、と。
 すでに打てるべき手を打ち、荷物もまとめた。後は明日、ここを発つだけだ。
 準備は万端のはず。張り巡らした策の網の隅々を頭の中に描き、何度もほつれた部分がないか、確認をした。
 大丈夫だ。必ず、劉備を逃がす。曹操などの手に落とさせやしない。
『お前を、信じている』
 屈託なく向けられる、主の笑顔に、自分も微笑み返した。
 この人の、人を慈しむ笑みと、流した涙の清さに惹かれた。草庵を出るつもりのなかった自分を動かした、主の心根は、ここで尽きて良いものではない。
 自分の持てる智略を振り絞り、助けなくてはならない。
 それが、自分へ立てた誓いだ。
 その自信はある。
 それでも、何か遣り残したことがあるような、意味をなさない焦燥感に、諸葛亮は襲われる。
 羽扇の柄を指先が白くなるぐらいに握り締め、細く震える息を吐いた。
 らしくない、と言えるのか。それともらしい、と言えるのか。
 主の義弟たちのように、腹を据えて来るべき時に備えるだけの豪胆さが自分にはない。ないし、ぎりぎりの時まで、最善の策を探し奔走してしまうのが、自分の性なのだ。
 仕方ない。
 だからこそ、眠れずにこうして一人で城内を彷徨っている。
 まだ、他に良策があるのではないか。穴はないか。そればかりを考えている。
 ふと、廊下に陰りが生まれた。人の些末さを笑うように燦然と輝く月が、雲に隠れたのだ。
 隠れた月を見上げ、諸葛亮はふっと、自嘲めいた笑みを浮かべた。
 輝く、手の届かぬ月さえも、時に雲で休むときもあると言うのに、自分は思考の連環へ繋がれ、休むいとまさえないのだ。
「……はっ」
 不意に耳に飛び込んだ、その微かな呼気に、諸葛亮は月から目を離して辺りを探った。息の詰まったような、そんな吐息だった。
(殿……?)
 その、声ともつかない小さな息は、間違いなく劉備の私室からだった。気付けば、そのような場所まで歩いてきていたようだ。
 すでに、回せる兵士などは行軍の準備のため城内にはほとんど残ってはいない。普段なら私室の前にいるはずの衛兵も、今はいない。
「……く、ぅ」
 隙間から漏れ聞こえるのは、劉備の声に他ならなかった。その辛そうな息が、諸葛亮の冷えた頭を痺れさせた。
 これは、苦しみからの声ではない。愉悦の混じった声だ。
 戦を前にすると、気持ちが昂ぶる、と言う。特に剣を握るものならば顕著に現れる、と。
(殿もそうだと?)
 いささか信じられぬ思いだった。
 あの、穏やかに笑い、優しげに語る主が、血を滾(たぎ)らせ、それを持て余して行為に耽るなど。
 だが、漏れている吐息はそれを想像させるに相応しい色を伴っている。
 確かめたくなった。主の知らぬ姿を見たくなった。
 諸葛亮は、礼を欠くことを承知で、断りも無く部屋へ忍び入った。
 月光が薄れて暗い室内だったが、闇に慣れた目には十分の視界を与える。その両目で捉えたのは、寝台の上で入り口に背を向けている劉備の背中だった。
 そして、掛け布の下から聞こえる己を慰める淫猥な音が、諸葛亮の耳へ忍び寄ってくる。
「っふ……ん、ん」
 声が部屋に解き放たれるたびに、劉備の背中が震える。着乱れて首筋が露わになっているそこへ、解れた髪が張り付いて、艶やかな色彩を描いていた。
 信じられなかったが、主も乱世を渡り歩いている男だった、ということだ。
 諸葛亮は、どこかで安堵もしていた。優しすぎる主だ、そう思い、いささかの不安を抱いていたのだ。それが解消される思いだった。
 確認は済んだ。これ以上ここへ居る必要は何もない。主に気付かれる前に去らなくてはならない。
 このような悪辣な行いは許されない。
 理性を保っているはずの頭が、そう命令してくる。だが、諸葛亮の足はそこに根が生えたかのように動かなかった。
 不意に、雲に隠れていた月が顔を出した。戸から差し込んだ月明かりが諸葛亮の影を伸ばし、劉備の上へ被さった。
 はっとしたが、遅かった。劉備の体がびくん、と震えて緩慢な動きながらもこちらを向いた。
 悦に浸った濡れた目元が訝しげに諸葛亮へ当てられた。口元が妖しく戦慄いて、自分の名前を呼んだ。
「諸葛亮……?」
 はたり、と手にしていた羽扇を足元へ落としてしまう。
 自分の中で、音を立てて断ち切られる鎖があった。それが何なのか、諸葛亮には分からなかった。
「殿、眠れませんか?」
 ゆっくりと、寝台の下へ歩み寄る。
「あ、いや……」
 諸葛亮の問い掛けで、劉備は恥じたように頬を赤くした。何をしていたかを思い出したようだ。
 急いで身を起こして居住まいを正そうとする。その手を掴み制すると、戸惑ったような目を向けられる。
「私も眠れません」
 半身を起こした劉備の下肢へ、見当を付けて手を伸ばす。屈み込み、布越しに熱い塊を捉えた。
「――っぁ」
 こぼれた吐息の熱さに、諸葛亮は目を細めた。そのまま緩々と掴み上げて擦れば、布を濡らしてくる雫を感じる。
「諸葛、亮……?」
 きゅっと眉根を寄せた劉備の眉間へ唇を落とした。さらに強く絞り上げるように中心を掴めば、間近になった劉備の甘い声が諸葛亮を惑わせていく。
「やめ、よ……しょ、葛亮っ」
 嫌がる口調とは別の生物のように、諸葛亮の手の中のそれは身を震わした。
「あっ、やぁっ」
 一際に乱れた吐息を上げて、劉備は達した。布をしとどに濡らす感触を覚え、諸葛亮はそこから手を離した。
 しばらく、劉備の荒い息だけが部屋に漂った。
 静かに身を起こして、劉備を眼下に捉えた。自分の意思でなく達せられた劉備は、頬を朱に染めて瞳を揺らしている。その瞳で諸葛亮を見上げてきた。
 そこに浮かんでいる請うような艶が、諸葛亮の口を動かした。
「眠れぬのならば、私が安らぎを与えて差し上げましょうか」
 自分でも、考えてもいない言葉だった。いや、そもそもにして、今してしまった行為さえ、考えてもいなかった。
「なぜ、このような……諸葛亮」
 穏やかな、いつもと同じ主の声に、どこかで安心するのと同時に、落胆を覚えている自分がいる。
 狂いそうだった。理路整然と並べられた書物が、意味も無く並べ替えられてしまうような状態。
 止めて欲しい、とそれを止める自分と、それでもいいか、と思う自分。
 書物はどう並んでも、書物は書物なのだ。何も変わりはしないではないか。
「なぜでしょう。私も、眠れぬからかもしれません」
「……そうか。ならば、頼む」
 微笑んだ主の顔は、やはりいつもと同じ優しげな微笑みで、諸葛亮の冴えた思考をきしっと軋ませた。
(どうして、そのような笑顔で受け入れようとなさるのでしょう、貴方は……)
 頭の軋みに小さく眉をしかめながら、諸葛亮は劉備を寝台へ縫い止めた。
 剥ぎ取った掛け布の下から、乱れた衣が現れる。その帯を取り去って、劉備の全てを視界へ映した。
 その露わになった肌へ強く唇を落とせば、劉備の体は反応する。色付く胸へ口を寄せた。熱を帯びた劉備の息が、部屋の空気を震わした。
 いつの間にか、また月が雲に隠れたようで、部屋を闇に染め上げていた。その闇の中で、唯一の輝きを放つ劉備の肢体へ、諸葛亮は埋没していく。
 互いを求めるように合わされた唇から、濃厚な色が溢れる。伝い落ちる雫を指先で拭い、口に含むと、ひどく甘かった。
 それを見た劉備は、ふっと目を逸らしてしまう。それが寂しくて、諸葛亮は主を呼ぶ。
「殿」
 素直に自分を見つめ返してくれた劉備は、また屈託のない笑顔を浮かべた。それへ眉をしかめた妙な笑顔を作ってしまう自分がいて、逆に目を逸らしてしまった。
「諸葛亮」
 自分を呼ぶ主の声が愛しくて、熱を持ち始めた中心へ指を伸ばす。諸葛亮の腕の中で背をしならせる劉備は、一層の艶やかさを醸した。
「んんっ……うぁ」
 甘えるように、垂らしたままの諸葛亮の髪を引っ張る劉備へ、諸葛亮は衝動を抑えられなくなる。
 断ち切られた鎖が冴えた頭を縛り、そして、導くように体を動かしてくる。その鎖に逆らうことなく、諸葛亮は濡れた指を劉備の熱い最奥へ伸ばした。
「ぁ、あっ。いや、だっ」
 拒絶するように劉備がこぼす声を、諸葛亮は今度こそいつもの微笑みで安心させる。
「私に全てをお任せ下さい」
 すると、劉備はあの時と同じように屈託のない笑みを表した。
「お前を、信じる」
 頷き返し、指を沈み込ませる。劉備のうちに隠れた悦を探し当てれば、その笑みは艶やかな面へ変化する。
「いぃ、ぁんっ……」
 唇を滑り落ちる熱がさらに濡れて甘くなった。身を捩って悶える劉備の姿態に、諸葛亮を縛る鎖が強くなる。
 丹念に解し、柔らかくなったそこは、縋るように諸葛亮の指を追い求める。その主の腕も、諸葛亮の背中へ強く回された。
「眠りを……」
 途切れがちながらも、劉備の願いが発せられた。
「仰せのままに」
 諸葛亮は答えて、劉備へ楔を打ち込んだ。上ずった声が劉備の咽から溢れていく。腰を強く引き寄せると、さらにそれは高くなり、濡れていった。
「ぁうんっ……孔、明っ」
 不意に呼ばれた字に、背筋が粟立った。夢中で、諸葛亮は劉備を呼ぶ。
「殿っ」
「は、ぁ、んんっ。孔明っ」
 劉備の、艶を含んだ高音たかねが上がるまで、諸葛亮は劉備を呼び続けた。



          ※



「これで、良く眠れるな」
「はい……」
 笑いの滲んだ劉備の声に辛うじて返事はしたものの、しかし諸葛亮は顔を上げられないでいた。
「どうした、諸葛亮?」
 寝台から降りて、床に跪いている諸葛亮の頭の上に、劉備の声が降る。
「臣下として有るまじき行為を致しました。何とお詫びしても足りません」
 絞り出すように、諸葛亮は言った。
 頭を縛り付けていた鎖が解けると、冴えた頭は活動を始めて、先ほどまでの行為の重大さをまざまざと教えてくれた。
 身を震わすような恐怖と戦いながら、それでも諸葛亮は逃げ出すわけにはいかずに、留まっている。
「私が命じたのだ。それにお前は従っただけだ。それを詫びる必要はどこにもないと思うが?」
「ですが……」
 初めに部屋へ侵入し、劉備の痴態を覗き見て促したのは自分だ。あのときに断ち切れた鎖は、理性を繋ぐ鎖だったのだろう、と今なら推察されるが、時はすでに遅かった。
 目線を上げれば、いつものようと変わらずに自分を見つめる劉備の眼差しがあり、それが逆に居た堪れなさを生み、諸葛亮の目線を下げさせる。
 寝台へ腰掛けている劉備は、そんな諸葛亮へ何を思ったのか、諭すように語り掛けてきた。
「諸葛亮、お前は何にでも精通しているし、思慮深い。それを頼もしく思っているし、大事にしている。だがな、それ故の苦しみもあるだろう」
 はっとして顔を上げた。自分を見つめる劉備の双眸が、全てを見透かすように諸葛亮を射抜いていて、頭を下げられなくなる。
「大丈夫だ、お前は手を尽くした。何も心配するな。後は私の天命があればどんなことがあろうとも生き抜ける。無ければ、お前がどのようなことをしても朽ち果てるだろう」
「殿……」
 そんなことにはさせたくない、させない。そのために自分がいるのだ。
 そう訴えるはずの言葉は、咽に張り付いて出てこない。
「だからな、お前は一人で抱え込むのはやめろ。私の命を守るのは何もお前の智だけではない。雲長や翼徳、趙雲の武もある。そして、私もここで朽ちるつもりはない」
 微笑んだ劉備の目は、揺らぐことのない想いを湛えていた。
「天命に、見苦しくも足掻き続ける。それが、私の道だ。曹操なぞに天命を委ねるつもりはない」
 穏やかで、優しい微笑みの下に、これほど強い想いが秘められていたのだ。それを自分は見抜いて、この方へ付いていこう、と決めたのではないのか。
 思考の連環に繋がれていたために、大切なものを忘れていた。
「はい、その通りです」
 溢れる忠心を抑えられず、諸葛亮の声が震える。
 間違っていないのだ。自分が選んだ男は、自分の全てを掛けるに相応しい。
「愚かなる行いをした自分ですが、全身全霊を掛けて殿へお遣いしたいと願っております。それだけを望んでおります。この行いにはいかような罰も受けるつもりです。ただ、私のこの望みだけは、抱き続けさせてください」
 切実に伝えたかったことだけを告げ、後は配が下されるのを待った。
 劉備が苦笑を作る。
「そうだな、ではお前に罰を与えよう」
 諸葛亮の身が引き締まる。
「眠るのだ。それがお前への罰だ」
「はい……はっ?」
 咄嗟に返事はしたものの、その言葉の意味が分からずに聞き返した。
「お前は私にとってなくてはならぬ存在だ。そのお前が眠れぬ夜を過ごしているのなら、気にならないはずはなかろう?」
「知っておいででしたか」
「それはな」
 魚はな、自分が住んでいる水が濁ると、すぐに分かるのだ、などと言う劉備は、楽しそうに笑った。
「ですが、それでは罰になりません」
 それでも、納得が行かずに言い張ると、劉備は今度こそ声を立てて笑った。
「そうか。ならばもう一つ明かすべきことがあるな」
 改まる諸葛亮へ、劉備はにっこりと笑んだ。
「魚はな、水に抱かれるのが本懐なのだよ。水以外でこの身を差し出すことなど、決してしないのだ」
 だから、お前の行いは責められる筋はないのだから。
 そう言ってまた笑う劉備の姿を、諸葛亮は茫然として見つめた。
 その意味を解すのに、諸葛亮には少し時間が欲しかった。
 雲に隠れた月が再び顔を出した時、水が朱を含んだのは、やはりそこに身を委ねていた魚にしか、分からなかったであろう。



 了





 あとがき

 はい、諸葛亮編です。ちょーっと、いつものうちの諸葛亮×劉備と違ってます(笑)。いつもは諸葛亮はもっと強気でガンガン攻めるのですが。劉備が誘い受け風味です。
 でも、書いたことはあるのですけどね。結局、諸葛亮も劉備には弱いですから。

 さてさて、お次は曹操編です。良かったらどうぞ!

 そして、どうしても腹黒軍師が読みたい、と言う方は黒諸葛亮編をどうぞ!



目次 黒諸葛亮編 曹操編
関羽編 関羽編2(曹操編の続き)