「大道之交 3」
〜 劉備、曹操に招かれて許都に赴くも 〜
曹操×劉備


 それから数日は何事もなく平穏に過ぎていった。
 曹操からの誘いも私室での騒動以来ぱたり、とやみ、劉備は庭の菜園造りや、昔取った杵柄で筵や草履を織ってみたりして、手慰みにしていた。
「相変わらず、殿の作られる草履は秀逸ですね」
 茶を啜りつつ、孫乾がにこにこと笑って褒め称える。もっとも、彼はいつでも微笑んでいて、怒ったところや不機嫌そうなところは見たことがないので、劉備は男の穏やかな笑みに癒されている。
「そうだろう。特に今回のこれは力作でな、ほら、ここを見てみろ。足の裏に当たる部分に、わざと固いしこりを作ってみた。これは歩くたびに足裏のツボを刺激して、人体に活力をもたらすのだ」
 ――それって健康サンダル。
 という現代人からのつっこみは残念ながら誰も入れられないので、ただ感嘆の声が上がるだけである。
「どうせなら、それ売りに行こうぜ」
 珍しくも簡雍が屋敷にいて、ずずっと同じく茶を啜りながら提案する。
「売るとな。商人の真似事を兄者にさせるつもりか?」
「なに言ってんだ。下?でもよくやってたじゃねえか」
「あれは売っていたのではなく、支給をしていただけだろう」
 劉備が徐州で牧をやっていたころは、まだまだ州内は曹操の侵攻の痛手を癒していた最中で、商売も中々成り立っていなかった。
「じゃあ、これ、どうすんだよ」
 言われて、みなは室内を見渡す。
 部屋のいたるところに広げられた筵や草履に、広いはずの室内はずいぶんと圧迫されている。しかも次第に昔の勘を取り戻してきた劉備は、複雑な模様を描く筵や、先ほどのように凝った作りをしている草履まで作り始めていた。さらにそれらに飽き足らず、草履から派生し沓まで作り始めたのだから、どれだけ暇なんだ、この男、という我知らずとも、劉備を除く全員の顔にありありと書かれていた。
「ですが、ここで商いを行うには、一手間いりますよ」
 新しい茶葉を注ぎ足し、みなの湯呑みに茶を注ぎながら孫乾が言った。ちなみに、いつもは出涸らしを何度も使うのだが、茶葉など生活品の一環は曹操から支給されているので、孫乾は嬉しそうに茶葉を取り替えていた。
「市(いち)で店を開くには許可が必要です。決められた手順を整えませんと、罰せられます。儲けの一部も税として納めなくてはなりませんし、市籍(しせき)といって……」
 つらつらと、許都での商売の手順を説明する孫乾に、劉備は感心する。
「詳しいな、公祐」
「せっかく大陸の中央へ身を置いているのです。勉強しなくてはもったいないですから、色々調べたのです」
「誰かさんなんぞ、女のところへ入り浸っているだけなのになぁ」
「俺だって、遊びだけで女んとこにいるわけじゃねえぜ」
 不服そうにする簡雍を劉備は一瞥し、にやっと笑ってみせる。
「誰もお前のことだとは言ってないぞ、憲和?」
 墓穴を掘った簡雍はちぇっと、そっぽを向く。
「しかし一手間をかければ、商売は出来るのだな?」
「ええ。曹(操)司空が商人の立場を向上させているようで、規制はかなり緩やかになっているようです。少しツテがあれば潜り込めるのではないでしょうか」
「ツテか……。一人心当たりがあるな」
 簡雍が口を挟む。
「玄徳、お前も知っている奴だ。昔馴染みのさ」
 そう言って、簡雍は?県にいたころにつるんでいた侠仲間の名前を挙げる。
「あいつか! なんだ、こっちで商売しているのか」
「そうらしいぜ。俺も市は覗いてみたことがあってさ、そのときにどっかで見た奴だなぁって思ったらそいつでさ。まだ市の隅っこにしか場所をもらえないらしいけども、順調だって言ってた」
「じゃあ、ちょっと話つけてもらえるか。私も久々に商売っ気が出て来た」
 俄然張り切り始めた劉備に、簡雍は、あいよ、と気軽な調子で返事をし、なぜか窓から出て行った。彼にとっての出入り口は窓らしい。
「ではせっかくですから、菜園で出来た野菜も売りにいきましょうか。こちらは私と関羽殿で売りますよ。ねえ、関羽殿?」
 孫乾に振られ、関羽はしばらく迷っていたが、仕方がない、とため息を吐き、
「兄者一人を町で歩かせるわけには参りませぬからな。お供いたします」
 と言った。
 決まりだ決まり、と劉備は手を打って、ではもう少し作りこんでおこう、といそいそと作りかけだったツボ押し草履に着手した。


 目を丸くする。
 想像以上の賑わいがそこには広がっていて、しばし立ち尽くす。
「そうか、玄徳は初めてか」
「ここを初めて目にしたときは、誰もが驚きます」
 人、人、人の波である。途切れることなく流れる大河にも等しい人の行き交いに、劉備はただただ眺めていることしか出来なかった。
 あれからさらに数日後、無事に昔馴染みと連絡を取り合えた劉備たち一行は、許都の市へとやってきていた。
「凄いものなのだなぁ」
「今、一番勢いのある町ですからな」
 同じように市へ来るのが初めての関羽が、相槌を打った。すでに一、二度来たことがある簡雍と孫乾の先導で、商売品を背負った二人ははぐれないように付いていく。
 軒下で広げられている色彩豊かな果物、野菜、穀物、調味料、または反物が目に痛いほどだ。通りを歩く人々へ呼びかける声もまた活気に満ちている。
 そこにいるだけで活力が湧いてきて、世が乱れ、憂い顔の民も多い、ということを忘れそうになるほどだ。
「よお、玄徳!」
 目的の場所に着くと、懐かしい顔が出迎え、劉備も破顔した。
「元気だったか」
「おお、そっちも相変わらずみたいだな」
 ひとしきり、今回の市での商売の手助けをしてくれた仲間と再会を喜び合う。
「急な話だったから、こんなところぐらいしか用意できなかったが、使ってくれ」
 用意されたところは隧(すい)――店舗間の通路――でも端であったが、ここで商売をするには市籍と呼ばれる身分証明を登記させておく必要があったのだが、昔馴染みの手引きで免れたのだから、上々である。
「では、殿、私たちはこちらなので」
 孫乾と関羽は野菜を売るので、隧が違う。野菜は野菜、劉備のような筵や草履といった生活雑貨は生活雑貨として、区域が違うのだ。現代で言うところの専門店街のようなものである。
 二人と別れ、劉備は簡雍とともに軒先に店を広げ、渾身の作を陳列する。
「商売の勘、忘れてねえか?」
 からかう簡雍に、劉備はどうだろうな、と返す。こうして筵売りをしていたことは、遥か昔のようだ。ただ、あのころに感じていた義憤は、未だに自分の中に強く存在している。それを、こうして人の波に揉まれていると鮮烈に蘇る。
「こうして、時々商売するのも必要かもしれんな」
「そうそう、貧乏人は働いてなんぼだぜ」
 そういう意味ではないのだが、と劉備は苦笑するが何も言わずにおいた。
 さて、と簡雍と顔を見合わせて頷いた。
 今から少しの間、元徐州牧でもなければ豫州刺史でもない。左将軍という地位や劉皇叔という名でもない、一人の商売人になる。
 それが、許都へ来て、心の底から晴れた試しのない劉備の面容を明るくさせた。


 汗だくの額を拭って、劉備は振り返る。
「あと幾つだ?」
「残り三つだ」
 簡雍が釣りを渡しながら、在庫の確認をする。
「思った以上の盛況ぶりだな」
 笑いが止まらない、といった風の簡雍に、劉備も同意を示す。午前中から始めた店も、市の終わる時刻が近付くにつれ、徐々に忙しくなってきた。初めのうちはまばらだった客足も、午後には市の客数自体が増えてきたせいだろうが、簡雍の陽気な呼び込みに足を止め、劉備の筵の出来に感嘆していく。
 気が付けば、持ち込んだ筵や草履、沓は残り僅かとなっていた。
「関羽の旦那たちも順調みたいだし、すげえな」
 客足が途絶えた隙に、簡雍は関羽たちの様子を見に行ったらしい。
 しかし、劉備たちの商品の云々ももちろん関係はしているだろうが、これだけ鬱然であるのは、やはり市の整然さ、隆々たる様のおかげだろう。
 これだけのものを生み出しているのは、曹操の為政あってこそだ。
 ちりっと胸を焦がす思いに気付かないふりをするほど、劉備は己に偽りを貫ける男ではなかった。
 最後の草履を客に手渡したところで、二人は手を打ち合った。
「申し訳ない、完売だ!」
「すまねえな、また次、頼むよ!」
 覗き込んでいた客たちに謝り、やれやれ、とその場に座り込んだ。
「久しぶりだったせいか、疲れたな」
「でも、楽しかったぜ」
「私もだ」
 笑い合う二人へ、関羽と孫乾がやってきた。
「兄者、そちらも完売ですか」
「雲長か。お前たちもこっちへ来た、ということは同じくか」
「ええ。無事に持ち込んだ分は売り切りましたよ」
 孫乾が懐を軽く叩く。貨幣がぶつかり合う重そうな音がした。
「関羽殿は、商売の運気でも纏っておられるのでしょうか。立っておられるだけでお客様が訪れました」
「いや、拙者は本当に立っていただけ。応対は全て孫乾がやっていたではないか。寄った客全てが何かしら買っていったのは、お主の話術あってのこと」
 あまり同輩を手放しで褒めることはしない関羽が、孫乾を称えている。よほど見事だったのだろう。商売に向いている組み合わせなのかもしれない。
「しっかし、腹へったな。ちょっとそこで旨そうな芋汁売ってたから買ってくるわ」
「これから食事をして帰るというのに、何か食べるつもりですか?」
 腹を押さえてしかめっ面になる簡雍を、孫乾が止める。
「だってよー、お前らだって腹へっただろう? もたねえよ!」
「そうだな、私もだ。せっかくだ、四人分、買ってきてくれ」
「あいよ!」
「では、私も行きます。一人で四つは運べないでしょう」
 駆け出す簡雍のあとを、孫乾が急いで追っていった。
 残った劉備は、関羽とともに店じまいの続きを始める。久しぶりに浮き立つ気分になっており、劉備は心地良い疲労感に包まれていた。
「お元気になられましたな」
「ん? どういう意味だ?」
「陛下にお会いになられた日から今時分まで、どこか沈んでおられましたでしょう」
 弟の、切れ長の双眸を見つめ返した。
「雲長には敵わんな」
 誤魔化さずに、劉備は素直に認めて小さく笑った。
 曹操にされたことで沈んでいたわけではない。そも未遂であったし、あの男のすることにいちいち目くじらを立てていては身が持たない。
 ただ、言葉だけはちりっと胸を炙るのだ。
『大器なのではないかと、儂は思う』
 そうなのだろうか。
 もしも仮に苦難をともにしている目の前の義弟から言われたら、どうだろう。もしも、見ず知らずの道行く人々から囁かれたらどうだろう。そうしたら、その言葉を信じられ、嬉しく思えるのだろうか。
 きっとそうであろう。
 胸が焦げるのは他でもなく、曹操が言ったからだ。
 棘のように、言葉はちくちくと突き刺さっていた。
「少しな。だが、悩んでいても仕方のないことだ。大体、私が鬱々と悩んでいるところなど、気味が悪いだろう」
「そのようなことはありませぬ。兄者が心を痛めておられるなら、取り除きたい、分け与えてもらいたい、と望んでおりますゆえ」
 深い情を映し込んだ眼差しを向けられて、劉備は今度こそはっきりと笑んで、礼を言おうと口を開くが、
「なんだ、もう店じまいか。もっと早くに来るのだった」
 固まった。せっかく浮かんだ笑みも、後ろから聞こえたその声に引き攣った。
「――っ」
 振り返り、想像通りの男が立っていたので名を呼ぼうとしたが、男が「しっ」と鋭く止めたので飲み込んだ。
「儂の名を大声で言ってみろ。市が大騒ぎになるだろう。名を呼ぶのは控えろ」
 後ろからの声は紛れもなく曹操であり、にやっと浮かべた少し人の悪そうな笑みも間違いなく当人のものだ。関羽が急いで拱手していた。
「どうして貴方がこのような場所に!」
「息抜きだ。それにお主がここで店開きをする、というのを小耳に挟んだものでな。見にきた」
 事も無げに言う曹操は、劉備が疑念一杯の面容をしていたので察したらしい。
「お主の動向は調べさせておる。このぐらいの情報なら入ってきて当然であろう?」
 周到な男のことだ。考え至って当たり前のことであった。むしろ失念していた劉備のほうがおかしい。
「別にこのぐらいのことをしていても、咎められはしないでしょう?」
「当たり前だ。むしろ、お主の腕を見てみたい、と思ってこうして執務を抜け……息抜きをしに来たぐらいだからの」
 一瞬、聞き捨てならないことを聞いた気がしたが、怖いので触れないことにする。
「今度、儂にも作ってくれぬか。そうだな、沓が良い。ぜひ、お主の腕が見たい」
 構わんだろう、と普段は冴え冴えとしている双眸を子供のように輝かせ強請(ねだ)る曹操に、劉備は慌てて拒む。
「私のそれなど、曹操殿の足元を飾るのに相応しくありません」
「そうであろうか。儂はお主の作るものを何一つとして目にしてはおらん。おらんものの良し悪しをつけるほど、儂は愚かではない。もっともこの盛況ぶりからして、きっと良いものであろう?」
 だから作れ、と命じる声音は、いつも通り逆らいがたい威を伴っていた。
「どうして貴方はそう、私のことを評価なさるのですか」
 つい、言葉が口からこぼれていた。
「なんだ、まだ儂の言うことを信じておらなんだか。やはり本当に儂に抱……」
「曹操殿!」
 急いで続きを遮った。今は不味い。劉備の隣には関羽がいるのだ。曹操の問題発言を聞いた関羽がどんな行動を取るか、容易く想像がつく。
「……まあ、あれは少々やりすぎた。惇にも派手に怒られたし、おかげでここ数日は司空殿から一歩も外へ出させてはくれんかったからな。すまなかった」
 本当に反省しているのかどうかはともかくとして、頭まで下げてしまった曹操を、許さない、と言わないわけにはいかないだろう。何より、これ以上その話題をしていると、関羽が勘付いてしまうかもしれない。
「分かりましたから、貴方のような方が道の往来で頭を下げないでください。お連れの方が凄い目付きで私を睨んでおりますし」
 ちらり、と曹操の後ろに控えていた男に目を走らせた。呂布討伐のときにも冴えた軍才を見せてくれた、郭嘉奉孝だ。曹操とこんなところまで来るぐらいなのだから、かなり規範には緩い男であろうが、曹操への忠心は篤いらしい。
「目的がすんだなら、もう行きましょうよ、主(しゅ)上(じょう)」
 郭嘉は曹操を促す。
「いや、せっかくだから儂は劉備と飲むぞ。お主の勧めの遊郭へ繰り出そうではないか!」
 嬉々として宣言した曹操へ、劉備と関羽が目を剥いて、郭嘉が天を仰ぎ、戻ってきた簡雍と孫乾が手にしていた芋汁を落としそうになっていた。



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