「大道之交 2」
〜 劉備、曹操に招かれて許都に赴くも 〜
曹操×劉備


 曹操に連れられて、初めて帝へ謁見することとなった。細かい作法などあったが、曹操が傍にいるせいでうるさく言われることはなかった。座拝する劉備は、面を上げよ、と言われて尊顔を見ることが叶った。
 ――お若い人だ。
 初めの印象はそうだった。
 とても、漢王朝、大陸の頂点に立っているとは思えぬほど若く、細い体躯をしていた。
 そもそも九歳にして帝に選ばれ、それから苦難の道を歩んできた人だ。暗愚と呼ばれたここ近代の皇帝に比べれば、遥かに聡明であることも、交わした言葉の端々から窺えた。
 それでもひどく若い、という印象だけは拭えなかった。
 なのにどうしてか、帝の周りに漂うのは、達観したような老成じみた雰囲気で、それが外見の若さのせいでなお際立っていた。
「そうか、そちは中山靖王劉勝の……」
「はい」
 ただ、劉備の家系の話になったときだけは、年相応に顔を明るくさせて身を乗り出してきたので、口元を綻ばせて説明した。家系図を持ってこさせて、熱心に系図を辿る指先は細くとも踊るようで、その様を眺めるのは楽しかった。
「なるほど。ではそちは朕の叔父に当たるわけじゃな。ならばこれからは、そちのことを劉皇叔と呼ぼう」
 帝には相応しくなく、しかし十八の若者とすればよく似合う、明朗とした口調で告げられた言葉に、居合わせた人間は顔を見合わせた。顔を綻ばせる者、しかめる者、反応は様々であった。その中にあり、普段の饒舌さが嘘のように口数少なく劉備と帝のやり取りを繋いでいた曹操も、口許に笑みを刷いていた。
 短かった謁見の時間が終わり、劉備は曹操とともに執政殿が並び立つ場所へと戻ってきた。
「劉皇叔、か。よい称号をもらったものだな、左将軍」
 帝に付けてもらった称より前に、曹操の上表により劉備は左将軍の位を下賜されている。しかし当然のように、司空(しくう)である曹操より、帝である劉協から直接恩賜されたもののほうが価値は高い。
「はい、身に余ることです」
 短く答える。
 半歩後ろを歩く劉備は、曹操の横顔を下目で窺う。
 機嫌を悪くしているわけではない。そもそも、劉備が帝に気に入られて、自分のつけた位よりも良いものを賜ったからといって、その程度のことで臍を曲げる男ではない。
「曹操殿、これからどちらへ?」
 正直、劉備は堅苦しい朝服を脱ぎたくて仕方がない。朝早くに起こされて、何度も体を清めさせられ、丁寧に髪を梳かれて結われて重い冠は乗せられるわ、窮屈な衣を着せられて帯は締められるわ。足元は履きなれない沓を身に付けさせられるわ……。
「そうだな、儂の私室へ来ぬか。旨い酒が手に入った」
「昼間から酒ですか」
 どうやらすぐに解放されない、と知れて、思わず厭味を漏らす。
 しまった、と思うが、別段曹操は気を悪くした様子もない。はは、昼間から飲むから旨いのだ、と一笑する。
 誰もが劉備の素性を怪しみ、胡乱じみた目付きで眺めるというのに、曹操だけは闊達に劉備と接する。
 今日の帝との拝顔も、曹操の勧めがなければ決して叶わなかったことだ。
『陛下に、お会いしたいとは思わぬか』
 訊かれて劉備は瞠目した。もちろん、帝が都にいるのは承知していたが、所詮は一介の農民から州牧まで這い上がっただけの劉備である。帝に拝謁するなど、夢の話だと思っていた。
 大半を占める好奇心と、胸を疼かせる志が劉備に二つ返事をさせた。
 謁見が終わり劉備が連れて行かれたのは、曹操が、政務が立て込んだときに泊り込むための私室らしく、司空殿の奥まったところに設けられた一室であった。
 簡素ながら調度は整えられ、機能的で、落ち着くつくりになっている。窓辺に胡床(椅子)を引き寄せ、吹き込む春の風に撫でられながらの献酬である。
 戸棚から嬉しそうに取り出してきた酒瓶を、曹操は劉備との間にある卓子の上へ置いた。互いに杯へさして、軽く持ち上げた。それを合図に、揃って口を付ける。
 舌の上に酒が滲みた瞬間、芳醇な味わいが口一杯に広がる。辛口であるが、何よりも濃い味わいに劉備は目を見開く。普段の酒は薄っぺらく、何杯も飲まないと酔いはしないのだが、曹操の酒は違った。一口でも酔えそうなほど、濃厚である。
「気に入ったか」
 一気に飲み干したところで曹操が尋ねる。はい、と頷くと、それはいい、と曹操は形の良い口許を綻ばせた。
「それで、陛下はどうであった」
 しばらくは酒の話や最近訪れた西方の商人の話をしていたが、話題は自然、帝のこととなる。
「お若い、と思いました」
 第一印象通りのことを口にした。
「儂らの息子、といっても差し支えがないほどの御歳であられるからの」
「あの細い御身に漢の民全ての幸せが圧し掛かっているのか、と思うと、哀憫を覚えます。どこか達観された風なのは、そのせいなのでしょうか」
 すると、曹操が大きく目を見開いた後、はっはっ、と大笑した。
 呆気にとられる。何か、可笑しなことでも言っただろうか。
「そうか、そうかお主には陛下――いや、天子が一個の人として捉えられておるのか、これは面白い!」
 突っ伏すように体を折り、曹操は大笑いし続ける。
 言われて、劉備はようやく自分が口にした言葉の意味を悟り、頬を熱くさせた。
「そのようなつもりではなかったのです! 言葉の綾というものでして……」
 尊き天子、人ならざるものとされる存在を自分たちと同じ人として扱ってしまったことに、劉備は恥じる。
「いや、いやいや! 違う、違うぞ、劉備。よい、それはそれでよいのではないか? 儂はお主のその考えは好きだ」
 笑いながらであったが、曹操にからかっている様子はなく、言葉は真実のものと取れた。それでも、自分の発してしまった言葉に不安を覚えて聞き返した。
「そうでしょうか」
「大多数の者は、帝に拝謁、となれば顔も上げられぬほど緊張し、仮に上げられたとしても帝が身にまとう典雅に気圧されて、感想は版で押したように『生まれながらの気品が漂っておりました。天子に相応しいお方でした』と言う。お主のように天子を一個の人として捉えられ、気持ちに添うことが出来たものなどおらんかった。それはある意味で大器なのではないかと、儂は思う」
 大器。
 思わぬ言葉に劉備は目を丸くする。
 またしてもだ。
 人気(じんき)を能(よ)く集めるもの、と言われる。門下生として魯植の下にいたころも、侠客に身を投じていたころも、そして義勇軍、小さな官職を経ての徐州の牧だったときも。
 劉備の周りには人がいて、また慕ってくれていた。
 なぜだろうか、とあるとき真剣に古い友人である簡雍に訊いてみたことがあった。
 すると悪友は幾度か目を瞬いたあと、なぜかわざとらしい、それは深いため息をついて、
『あえていうなら、そういうことを真顔で訊くところじゃねえの?』
 と答えてくれた。
 もちろん、劉備はそれでは分からん、と抗議したのだが、一生分かんなくていいって、と往(い)なされておしまいとなってしまった。おかげで未だに釈然としないままだが、それでも様々な経験を積むうちに、人気、仁徳というものがいかに有効的なものか理解してきた。
 だから、徳を損ねないよう行動しているし、言動には注意を払っているつもりだ。それだけに、人気を能よく集めている、と言われれば当然の評価、と自負はあった。
 もっとも、真顔でまたしても簡雍にそのことを言ったことがあったが、今度は盛大に噴き出され、
『あれで注意を払ってたのかよ? ぶっはっはっ』
 と笑い転げ回られてからは、誰にも言ったことはない。
 しかし、大器、とは初めて言われた言葉であった。
「大器、ですか?」
「そうだ。天子というものは、天である。王朝、人民の頂点に立ち、あらゆる祝福、災厄をその身に集めている。いうなれば、朽ちることのない大木であるのだ。生い茂る葉と太い幹の下に人々は集い、安住し、生まれた陰で身を横たえることができる。そのような人ならざるものの身を親身に案じることができるのは、大木を支えている大地ぐらいのものではないか」
 大地――すなわち大器であろう? と曹操は屈託なく笑う。
 しかし劉備は笑えなかった。
 では、その例えようもない天子を大木に例えた上に、根を張り木陰を生み出すものと、言い切れるこの男は何であろう。大樹があろうとも、木陰があろうとも、身を伏すことができる大地がなくては意味がないだろう。
 遠回しに曹操は、己がいなくては天子というものも意味がない、と言いたいのだろうか。いや、そこまで穿った見方をしなくとも良いかもしれないが、少なくとも劉備を大地に例えたのは事実だ。
「そのようなこと、畏れ多い。我が身には過分です」
 急いで首を横へ振って否定する。
 すると曹操はやや不満げに、ふぅむ、と唸って頬杖をつく。片手に杯を遊びながら、じっと劉備の顔を眺め始める。二人の距離は一歩ほどで、膝を突き合わせるように向き合って飲んでいる。間に卓子はあるが、頬杖をつく曹操の顔は目の前だ。
 黒光りする双眸で見つめられ、劉備は落ち着かなくなっていく。
「何でしょうか」
「お主、己のことをどう評価しておるのだ」
「……まともに一州すら統治出来ぬ不肖の身、と思っております」
 正直に答えた。
「しかし、元は一介の義勇軍の身からの出自であろう。それが州牧だ。ありえぬ出世だろう」
「幸運に恵まれたせいでしょう。州牧も陶謙殿から譲り受けただけ。実力ではありません。様々な要因が重なり転がり込んできた役目です」
 徐州の牧は偶因が重なった結果であり、運が関係していた。それでも劉備は、運――天の意志と言い換えることができるだろうか――を引き寄せることができるのも器量である、と思っていた。
 つまり、州牧でいられなくなった自分は、まだ器量が足りなかった、ということだ。
「本当にそう思っておるのか」
「どういう意味でしょうか」
 首を傾げる。人の底を見透かすように射抜く眼差しに晒され、落ち着かなくなる。曹操は、じいっ、と劉備を見つめた後、ふぅむ、と唸った。
「……本当にそう思っておるようだな。だとしたら、お主は己というものを理解しておらん」
 また、首を傾げる。
「お主が陛下に気に入られたのはなぜだ?」
「分かりません。私の出自がお気に召したのではないでしょうか」
「違うな。そもそも劉勝の末孫など、掃いて捨てるほどおる。陛下はそのことを知らぬほど愚鈍ではない。あの御歳にして言い知れぬ苦労をされてきた。醜いものも尊眼に映されてきただろう。人を見る目は自然と養われておる。その陛下がお主を気に入られたのだ。それはお主に出自以外の部分に何かを見出されたからであろう?」
 そうなのだろうか。
 劉備は自分を過小評価も過大評価もしていないつもりだ。そして、曹操の下す月旦を鵜呑みにできるほど、単純でもなかった。
「儂の言葉が信用ならんか?」
「そういうわけではございませんが……。弱りました。私には曹操殿にそこまで評されるほどの器を持っているかどうか、判断が付きかねます」
 すると曹操は笑った。男に似合う、あたりが華やかになるほどの快笑だ。
「朝服が似合っておる。赤が映えるのであろう。どこか気品すら漂う。これで中山靖王の末孫、と名乗れば信じる者も多いであろう」
「何を急に……」
 戸惑う劉備に構わず、曹操は頬杖をつきながら、次々と劉備を誉めそやす言葉を口にする。
「普段は手入れなどしておらんから気付かなんだが、お主の髪は黒々としていて美しいのだな。儂の選んだ冠も飾るに相応しい髪である、と喜んでおる」
 顔がどんどんと熱くなるのが分かる。自分でも真っ赤な顔をしているだろうことは想像に難くない。
「眼が澄んでおる。そのくせ、折れない強かさを秘めている。ときに鋭く前を見ることを儂は知っている。弟たちに見せる朗笑も良い」
「も、もうお止めください!」
 止めても、曹操は詩を謳い上げるように、優美な文を綴るように劉備の秀逸さを舌に乗せて生み出してくる。
 居た堪れなさを感じて、劉備は下を向く。
 褒められることが嫌いな人間などいないだろう。それでも限度がある。ましてや相手が自分よりも褒められて当然のような外面や内面を持っているのなら、馬鹿にされている、とさえ思えてくる。
「なぜこんなことを急に」
 俯いていても聞こえる美辞麗句に、劉備の我慢は限界に達して立ち上がった。
「どうした。耳まで赤いの。ふくよかな耳朶だ。人より優れたるは英雄の証、と言う。お主の耳はそれを能く表しておるな」
 やや下方にある曹操の腕が伸び、指で耳朶を摘ままれた。びくっとして体を引いたが、腕を掴まれた。小柄な体から発せられているとは思えないほどの力強い手応えに、劉備は焦った。
「離してください」
 耳を触られるのは苦手だ。人より大きい耳は子供のころより劣等感があった。触られるとまるで胸間(こころ)の中を無遠慮に撫で回されているかのような不快感を覚えるのだ。
「これほどにお主には美点があるというのに、お主は己を信じられぬか?」
「分かりかねます! そもそも貴方に――男に褒められても嬉しくもなんともありません!」
 言い切って、腕を振り払おうとしたが、いきなり強く引っ張られた挙句、足払いをかけられて床に倒される。
「――っ」
 衝撃で息を詰める。一瞬状況が判断できずに、呆然とする。
「儂に抱かれろ。そうすれば、己がどれだけ求められているのか肌で感じられる。肌と肌を合わせると、人は嘘がつけぬものだ」
 曹操の言葉が危うく右の耳から左の耳へ一直線で通り抜けるところだった。
「…………はっ?」
 それでもたっぷりの沈黙のあと、劉備は聞き返した。
「抱か……って、私たち、男同士ですよっ? 何を考えておられるのです!」
「知らぬのか。同性同士だろうとも愉しむ術は幾らでもある」
「いや、そんな真顔で答えられても困りますって!」
 そもそもにして、この男の考えていることは――先ほどの『大器』という評価もそうだ――劉備が理解に苦しむことが多かった。
 そう、またしても、だ。
 呂布を討ったあとも、分け与えてもらった豫州の地へ放り出されるのか、と思いきや、許都へ来い、と言われる。追従し都まで来れば、傍にいることを許され、あちこちに連れ回される。
 何が目的なのかいまいち把握できない。
 曹操にとって、己の存在は利用価値のあるものなのだろうか。己は曹操にとってどのような存在なのだろうか。
 許都へ来て以来、ずっと劉備の心にまとわりついている疑念が、再び頭をもたげて来る。
 劉備には夢がある。野望、大望、大義、志。どのような名で呼べばいいのかまだ分からないが、形に出来ない強く熱い想いがある。
 侠客に身を投じていた。そこで得たものは大きかった。母親や親戚は学を学を、と煩かったが、自分には荒くれた男たちの中が心地良かった。培ったものは、決して文卓の前では学べなかった。
 遊んでばかりいられなくなり、筵や草履を織りながら暮らす日々の中でも、くすむことなく劉備の中で生き続けた、侠の世界や身近な人々の中で笑い合うこと。
 あるときそれらが脆いことを知った。守らなくては、それも力がなくては到底守り切ることなど出来ぬことを知った。
 黄巾賊と呼ばれる人々からだけでなく、それを討伐するはずの役人たちからも、劉備の愛する者たちは虐げられていた。
 守れない自分の非力さに泣き、憤り、また立ち上がった。諦めずにいられたのは、ともに泣いて、怒り、歩んでくれている二人の義弟と、決して多くはないが、確かな絆を感じる仲間がいたせいだ。
 どうにかして、この義弟と仲間と、そして大好きな人々が何にも恐れることのない大地をつくりたい、と願ったのは至極当然であった。
 そして今、劉備の目の前に、願った大地を持っている男が立っている。
 帝を戴き、貧困に苦しむ民に大地を与え、戦に喘ぐ大陸を併呑し耕している男がいる。
 曹操孟徳、と言った。
 初めて名前を聞いたのは、黄巾賊討伐の折だったか。初めて顔を見たのは、董卓討伐の時分。そして、初めて言葉を交わしたのは、やはりその時、関羽の武勇を褒められたときだった。
『良い武人をお持ちだな』
 どこの馬の骨とも知れぬ、公孫?の口利きで討伐の末席に加わっている劉備へ、まともに口を利いたのは曹操が初めてだった。
 誇りに思っていた弟を褒められたことが嬉しくて、そのときの劉備はあれこれと色々なことを語ったような気がした。それらに一つ一つ楽しげに相槌を打つ曹操がまた、劉備の口を軽くした。
 華のある人だ、と思った。劉備から見ても統率の取れていない、寄せ集めの連合軍の中で、曹操自身も、曹操が率いている軍も異彩を放っていた。
 好印象だった。
 戦い方も好きだった。董卓討伐、と大義を掲げながらも一向に重い腰を上げようとしない諸侯の中、曹操だけが真っ先に軍を上げ、進攻した。そして見事に玉砕した。だが、それでも劉備は曹操の戦いが好きだった。
 それから、各地を転戦する劉備の下に、曹操が青州兵と呼ぶことになった黄巾賊の大軍を従えた、と聞こえてきた。
 負けるときは見事に負け、勝つときは大いに勝つ。
 ますます劉備は曹操に惹かれた。
 その矢先だった。
 曹操が徐州の民を虐殺している、との報が公孫?より入り、劉備は信じがたい思いのまま、徐州へ救援に向かった。向かった先で見た惨状に、劉備は己の中で曹操への憧憬が崩れていくのを感じた。
(曹操、お前は何がしたいのだ!)
 同時にそれは、劉備の中に確固たる指標が生まれるきっかけでもあった。
(私の望む大地は、このように血に染まったものではない! 決してお前のようなやり方で手に入れるようなものではない!)
 劉備には夢があった。
 恐らくは、今はただ夢としか言いようのないものだ。
 自分にしか描けない天の形がある、と。それを己が大事にしている皆とで目指したい、というあまりにも漠然とした夢(おもい)だ。
 ただそれは、目の前の男とは決して同時に描けないものだ。
 徐州での虐殺、そして曹操という男を知れば知るほど、悟ったことだった。
 しかし、劉備は男の前に膝を折ることになった。呂布を倒すにはそれしかなかったからだ。
 劉備が頼って、曹操が応えたのも、呂布を倒す良い機会だ、と思ったに過ぎないだろう。今の劉備のどこに利用価値があるのか。
 解せない。不可解だ。謎である。
 胸のうちは疑問を宿す言葉で溢れかえっている。
 落ち着かない。
 許都は居心地が良すぎる。劉備の好きな、笑顔溢れる者たちで賑わい、勢いのある町並みは心が安らぐ。宮殿内は、身元の知れない劉備を怪しみ、曹操に近寄らせたくない、と思っている者もいるようだが、曹操が盾となり大きな波風とならずにすんでいる。
 具合の悪いことなどないに等しい。
 だが、曹操の時々読めない言動のせいで、劉備の日常は落ち着かなかった。
 今も、まさにとんでもない曹操の行動で貞操の危機に陥っている。
「曹操殿、お戯れはおよしください! ご自分が何をなさろうとしているのかお分かりですか!」
 声を荒げて、曹操の行動を非難した――

「兄者? 具合でも悪いのではないですか?」
 ふっと劉備は義弟の長い髯を視界に入れ、続いて顔を振り仰いだ。つかの間、頭(こうべ)を巡らせていたようだ。
「いや? そう、陛下であられるがな、お若い方であったよ。とてもお若いが、苦労を重ねられてこられたせいか、貫禄が御ありで」
 胡床にどかり、と腰を下ろした劉備の前に、関羽も静かに座って耳を傾ける。
「そうそう、陛下に皇叔と呼ばれるようになった」
「それは素晴らしい誉れですな」
 嬉しそうに目を細め、関羽は頬髯を撫でる。劉備も関羽と話しているうちに、曹操の突然の行動に動揺していたことも忘れかけ、いつもの自分を取り戻していった。
「……あっれ、なんだ玄徳。いつもと変わんねえ格好じゃねえか」
 二人で帝の様子、宮殿、許都の町の賑わいについて話題を広げていたところへ、不服そうな声音で割り込んできた男がいた。二人のいる部屋の窓の外からだ。
「また憲和(けんわ)、お前はそんなところから。たまには入り口から来い」
 呆れながら劉備は簡雍――字は憲和である――に声をかける。
「俺が来る方角からは、こっちのほうが近いの」
 気にすんな、といいながら、義勇軍の旗揚げ前より付き合いのある悪友、簡雍は窓枠を乗り越えて、邪魔すんぜ、と室内に上がりこんだ。
「お前が来る方角って……、ずっと気になっていたんだが、お前、こっちに来ていったいどこで寝泊りをしているんだ」
 劉備も関羽も、簡雍の気随さには慣れたもので、窓から入る不届き者を諌めることはしないが、
「え? へへ、せっかくこんないいとこに来たんだから、これのとこだよ、これ」
 と、にやけた顔で、小指を立てて見せられたときは、さすがに呆れた顔になった。
「のん気だな、お前は」
「だってこんな機会、滅多にねえじゃねえか。また、いつ極貧生活に戻るか分かんねえんだしよ」
「あまり不吉なことを口にするな、簡雍」
 苦笑して関羽が諌める。
「なんでだ? だって本当のことだろう。どうせいつまでも曹操んところに居座っているつもりなんかねえんだからさ」
 そうだ、と簡雍の言葉で劉備は決意を固める。あのような真似までされて、いつまでも留まっている理由はない。元から長居をするつもりもなかった。
 あとは遺恨のないように庇護下から逸しなくてはならない、その機であろう。
「しかし、もう着替えちまったのかよ。玄徳が似合わない朝服を着込んでいるところみて、からかってやろうって張り切って来たのによ」
 窓枠に腰をかけたまま、大袈裟に両手を広げて悔しがる簡雍に、劉備は首を傾げる。
「どうしてそれを知っているのだ?」
 ふらふらと出歩いている簡雍は、今日、劉備が帝と会うことになっているなど、知る機会はなかったはずだ。
「ああ、孫乾に聞いた。さっき、ばったり街中で会ったんだ」
 合点がいく。劉備が曹操に与えられた屋敷に、きちんと定住しているのは劉備と関羽、孫乾ぐらいだ。簡雍は前述の通り、女たちの宿をはしごしているのだろうし、張飛は曹操があまり好きではないらしく、許都へ来てからは酒家(しゅか)に入り浸るか、連れてきている数少ない兵卒たちと調練へ出かけているかのどちらかだ。
「そういえば、公祐(こうゆう)(孫乾)も昼間はあまり姿を見ないな。どこへ行っておるのだ?」
 さあ? と関羽は首を傾げ、簡雍は肩を竦めた。
 孫乾のことだ、心配することはないだろうが、と劉備は追求を諦める。
「で、どうよ、関羽の旦那。玄徳の朝服、あんたは見たんだろう?」
 話を蒸し返す簡雍に、関羽はにやり、と笑ってみせて頬髯を撫で下ろす。
「残念ながら、お前の予想は大外れだ。兄者は良く似合っておられた」
 義弟に率直に褒められて、嬉しいながらも照れ臭くなるが、
「なんだよ、馬子にも衣装かよ〜」
 心底がっかりした、という簡雍の口調に、劉備は傍に置きっぱなしだった沓を放り投げた。沓は見事、簡雍の額に命中し、彼は体勢を崩して窓の外へと転がり落ちたのだった。



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