「大道之交 1」 〜 劉備、曹操に招かれて許都に赴くも 〜 曹操×劉備 |
上質な床敷きが背中で滑っている感触がする。 贅沢を嫌っている男が珍しくも大金を払って商人から買った、という自慢の敷物で、床に置いて使用するものであるのに、もったいない、と思ってしまうほどの作り込みがなされている。 これを作った者の想いが感じられる、丁寧な出来上がりだ。 と嬉しそうに説明した男の顔と、実際に同じような物を作ったことのある身からしても、敷物の出来具合は賞賛に余りあるものであった。そういう点では、男の目利きは確かなものがある。 しかし今の劉備にはそれを味わっている余裕は虫の足ほどもなく、小柄なくせに力は人並み以上の男の腕を振り払うことで精一杯であった。 大いに油断した、というべきか。 それとも想像してしかるべきで、予想していたのなら危機管理能力の欠如である、と嘲笑われることかもしれない。 いや、と抵抗を続けつつも劉備は力いっぱい否定する。 誰がこうなると思った! 男が男に押し倒されるなんぞ、しかも自分よりも小さ……(おっと、これは禁句だった、と胸中ながら先を言葉にするのを控える)もとい、体格差のある相手にだ、押し倒されるなんぞ、予想できたのなら、そいつは予言者にでもなればいいのだ。 そうだ、そうすればきっとこの乱世で一旗でも二旗でも挙げられるに違いない。名案だ。 うっかり悦に入り、抵抗を忘れそうになり、劉備は慌てて目の前に迫った男を睨み付けた。 「曹操殿、お戯れはおよしください! ご自分が何をなさろうとしているのかお分かりですか!」 同性の劉備から見ても、惚れ惚れするほど好い顔立ちをしている男は、柳眉をやや釣り上げて、ふっと笑んだ。笑んだ唇も色濃く鮮やかで整っていて、笑みは男の器量を際立たせるものだった。 迂闊にも、劉備はどきり、と踊った胸を意識したが、男が口にした言葉に目を剥いた。 「お主こそあまり寝ぼけたことを言うなよ。お主は自身の魅力を少しも理解していない。儂に抱かれるほどの価値がある、と分からせるためにも必要だ」 含む笑いとともに、男は耳の穴へと息を吹き込む。 ひぃっと心の中で悲鳴を上げて、敏感なところへの吐息に怖気を走らせたが、何とか気を取り直して、 「必要じゃありません、理解不能です、分かりたくありません!」 と、唾を飛ばす勢いで食ってかかる。 「ふぅむ、素直ではないな」 ぐぐっと男の体重が劉備に目一杯圧し掛かり、動きが封じられる。顎を囚われて唇同士が触れるか触れないかの際どいところまで近付いてくる。 涼やかな目許が瞳を覗き込んできた。 真っ直ぐに人を射抜く眼差しに、逃げられない、と観念し、反射的に目を瞑る。 「おい、孟徳!」 そのときだ。 大声で曹操の字を呼んで私室へとずかずかと入り込んできた男がいた。 今や帝を擁護し、治める町に都、と称せるほどの力を持つ男の字を無遠慮に、さも当たり前のように呼び、さらには私室にまで踏み入ることができる人間など、大陸中どこを見渡しても一人しかいない。 「聞いたぞ、孟徳! お前、また黙って護衛もつけずに遠乗、り、に……」 不自然に途切れた言葉は、踏み込んだ先に広がっている光景に仰天したからだろう。後ろから、どたどたと重そうな足音が近付いてきて、男へ声をかけた。 「夏侯将軍、駄目だってばよぉ、いま曹操さまはお人払いをさせていてだなぁ」 曹操の親衛隊の許チョが諌めるが、それはすでに手遅れというものだ。 「夏侯惇〜?」 地を這うような恨みがこもった声が劉備に圧し掛かったままの曹操から溢れる。うぐっと、奇妙な呻きを夏侯惇は発するが、劉備は幸いと声を張り上げる。 「将軍、夏侯将軍、お願いですから助けてください! このお方、こんな昼間から執務をサボって、私を押し倒すのです!!」 見苦しい、と言われようとも、劉備の信条は使えるものは使う。逃げるときは一目散、だ。 「な、劉備、貴様。根も葉もない……」 何かを言いかける曹操を遮って劉備は、 「私は必死で諌めたのですが、曹操殿が無理矢理……」 うるっと目元を涙で濡れさせて夏侯惇を見やれば、うぐぐぅ、とまた夏侯惇から珍妙な呻きがこぼれた。 「もーとく!」 どすどすと強面の将軍は二人がもつれている床まで歩み寄ると、曹操の首根っこを掴んで放りやった。 大陸広しといえども、三公の位の一つ、司空まで上り詰めた男を猫の子を扱うように出来る男は、やはり従弟でもあり、腹心の部下でもある夏侯惇しかいまい。 しかし放り投げられたほうも、猫のように床に着地をし、きっ、と夏侯惇を睨んだ。 「何をするか、惇よ!」 「それはこちらの台詞です、殿。左将軍殿、お怪我はありませぬか」 曹操が上から消えた途端、さっと起き上がって衣服の乱れを直した劉備は、ちゃっかり夏侯惇の背中へと隠れていた。 「はい、助かりました。将軍が来てくださらなかったら、と思うと」 小刻みに震える手で、ちま、と夏侯惇の袖口を掴む。 (ちょっとやりすぎか) と思ったものの、どうやら直情型の夏侯惇には効果てき面だったらしく、隻眼となった顔が怒りで一気に朱面へと変化した。 「もーとく! お前、そこに座れ!!」 「もう座っとるわ」 放り投げられたときにしゃがんで着地したので、そういう格好だった曹操は言い返したが、当然火に油を注ぐ結果になる。 「いいか、よく聞け! お前はそもそも自分の立場というものを理解しておらん。そも、こんな真昼間から公務を行う場所で房事につこうという――しかも左将軍殿を相手に、何を考えているんだ!!」 雷を落とし続ける夏侯惇からそっと離れて、オロオロと二人を見守っている許チョへ、劉備は声をかける。 「あの、私はこれで帰らせていただきます。このご様子ではしばらくは曹操殿も手が離せないでしょうから」 「あ〜、んー」 ちょっとだけ困った顔をした許チョへ、劉備はにこり、と微笑んだ。 「また、御用がありましたら呼びつけてください。私は曹操殿に逆らいはいたしません」 先ほど散々暴れたくせに、堂々と言いのける劉備に、無垢な瞳をしている親衛隊長は、ただ「分かっただぁ」と答えるだけに終わる。 後ろで続く夏侯惇の怒声を聞きながら、劉備は鮮やかに逃走を果たしたのだった。 ぽいぽいっと窮屈だった朝服用の沓を脱ぎ散らかし、帯をしゅるしゅると解き、豪奢である冠を無造作に放り投げる。 床に落ちかけた冠を慌てて掌に受け止めた関羽は、劉備の様子を見て眉をひそめた。 「何かございましたか、兄者」 ――ああ、あったともあったとも! と、危うく大声で先ほどの出来事を吹聴したくなったが、思いとどまる。 ちらり、と義弟の様子を窺えば、真に劉備の身を案じている面容だ。義に篤く、情に脆い。義兄である劉備を心の底より慕っている武人に、曹操との一件を話したらどうなるだろう。 元々の赤ら顔をさらに赤くして、劉備の立場も我が身の立場も省みず、司空殿へ乗り込んで曹操の首を掻き切りに行くかもしれない。 それは不味い。大いに不味い。 劉備は内でくすぶっている不快さをするり、と消して関羽に思い切りしかめ面をしてみせる。 「あったとも、雲長。全くこの朝服という代物、肩が凝る、なんてものじゃないな。身に着けて寸刻経たないうちに、背中は痒くなるわ、首は痛くなるわで散々だ」 「そうでござったか」 ほっとしたように表情を緩めた関羽に、劉備は大袈裟なほどに肩を回してみせる。帯を解いて緩まった袍(ほう)を肌蹴させ、いつもの平服を部屋の隅から引っ張り出して着替える。 「ですが、陛下に会われるためだったのでしょう? 身だしなみは整えておかれませんと。曹操殿が用意してくれたこれらの品々、物の良し悪しの眼は肥えておらぬ拙者でも、立派なものだとすぐに分かります」 ぞんざいに扱う劉備に対し、関羽は受け止めた冠や脱ぎ散らかされた沓を揃え、脱いだ衣も丁寧に畳んだ。 「まあな」 気のない返事をしつつ、ようやく劉備は人心地がついてため息を吐く。 「いかがでしたか、陛下のご様子は」 「ん、ああ……そう、だな」 玉座に座る漢王朝第十四代目の帝――劉協の姿を思い出す。 |
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