「彼と私の十の約束 3」
 趙雲×劉備


 趙雲は必死だった。
 気を抜けばがちがちと鳴り出す奥歯を噛み締めて、激しい焦燥と悔恨に身を焦がし、ともすれば湧き起こる、あってはならない結果に恐怖する心をねじ伏せていた。
 異常はすぐに察せた。
 厠へ立った劉備を見送って、どうも遅い、と思い始めたころだ。広間に戻ってきた男に何とはなしに目をやった。
 伊籍という男で、劉備に対して好意を寄せていて、劉表の身内にしては信用できる男だった。その伊籍が、何かを言いたげに趙雲を見やったのだ。
 瞬間に、趙雲は疾駆した。
 事情を訊くよりも己の身で確認したほうが確実だ。
 厠に劉備の姿はなかった。そして、続けて厩を覗く。的盧だけ、姿がなかった。
 舌打ちをした。もちろん、己の間抜けさ加減に嫌気が差してのことだ。
 劉備との仲違いで起きた、僅かな隙をたまたま、とはいえ衝かれたのだ。護衛としての任を最優先と肝に銘じておけば、あんな酒のせいでの軽口など受け流して、傍で守っていられた。
 それを……!
 後悔は思考の妨げになる、と無理矢理押し込めて、趙雲は連れてきていた兵たちに命じる。
「殿が行かれた方角を探し出せ。急げ」
 沈着冷静な男の珍しくも焦りが滲んだ声音に、兵たちも事態の重大性を感じ取ったのか、何も聞き返さずに散っていく。
 その間に、周りも騒がしくなってきた。どうやら、劉備の姿が消えたことにようやく気付き始めたらしい。
 どちらが先に劉備の行き先を見つけるか。命運を分けるところだ。
 兵が一人、駆けてきた。劉備が的盧に乗って出て行くところを見かけた、という。方角を示されて、趙雲は鞍に跨った。
 蔡瑁より早く劉備の下へ辿り着けなければ、劉備の命はないだろう。鋭い気迫で馬を逸り立て、趙雲は闇の中へと飛び込んだ。
 どうかご無事で、殿。
 願をかけるものなど持ってもいないし、己の目に見えぬもの、心に感じ得ないものなど信じたことはないが、趙雲は何とも、誰とも知れないものに祈るような思いで劉備の無事を願った。
 蔡瑁の兵たちが、渓流が通る方角へ集まっていくのが分かった。
 趙雲も急いで馬首をめぐらせた。馬が息せき切って走っているが、さらに追い立てて駆けさせる。
 視界に劉備の姿がちらり、と映る。
 どけーっ、と吼えた。近くに居た蔡瑁の部下たちは恐れをなしたように道を開けたが、劉備のところへ辿り着くまで幾重にも人垣がある。
 趙雲の目の前で、劉備が的盧ごと崖を飛び降りたのが見えた。
「殿ーー!」
 叫んだ声は届いただろうか。
 蔡瑁の慌てる声と兵たちのざわめきを縫うように、趙雲の耳に確かに劉備の声が聞こえた。
「探せ、私は生きるから、絶対に探し出せ!」
 かぁっ、と全身が燃えた。
 必ず、必ずや!
 再び趙雲は馬首を返して、闇の中へと駆け出していた。



 そのまま一昼夜が過ぎて、ようやく劉備の居所が知れた。
 劉備の暗殺未遂の件は、決して張飛の耳に入らないように念を押し、糜竺にだけ伝わるように兵へ命じておいた。なにせ張飛のことだ。いきなり蔡瑁を殺しに行きかねない。関羽が不在の今、張飛を止められる者は誰もいないからだ。劉備が戻ったときに帰る場所が失われていたのでは話にならない。
 糜竺の手回しは早かった。彼の持つ人脈を使い、あっという間に襄陽の外れに住む老人の下に、得たいの知れない男が転がり込んだ情報を入手した。
 趙雲は飛ぶように老人――近隣では水鏡先生と呼ばれる高名な人物らしい――の草庵へ向かった。
 果たして、劉備は軒先に立っており、老人と談笑しているところだった。
 馬蹄に振り返った劉備は、ああ、と声を漏らして破顔した。
「子龍、さすが早いな。もう見つけてくれたのか。今、戻ろうとしていたところだったのだが……」
 劉備の言葉を最後まで聞かずに、趙雲は腕の中へと劉備を抱き寄せていた。
 硬い、男の身体が腕の中にあり、暖かな鼓動が密着した胸を通して伝わってくる。
 嗚呼、生きておられた……。
 劉備の首筋に鼻を埋めるようにし、趙雲は安堵する。
 全身から力が抜けそうになった。情けなくも全身が震えて、泣きそうになる。今、この腕の中にある存在が永久に失われるところであったのだ、と思うと震えは収まるどころか止まらずに、ますます腕に力が籠もっていく。
 ぐぅっ、と劉備が低く唸った。
 どうやら力を籠めすぎたらしい。
 急いで腕を解き、跪いて頭を垂れた。
 ご無事で何よりです、と声を発そうとしたが、詰まって言葉にならない。深く首を垂れたまま、全身の震えが収まるのを待った。
 視界の端に映っている劉備の沓先が動き、膝が目に入る。
 ふわり、と暖かなものに頭が包まれた。
「すまなかった。心配をかけた」
 耳からでなく、体を通して伝わる劉備の声に、趙雲は自分が今度は抱き締められていることに気付いた。それだけで、一気に震えは収まり、冷静さを取り戻した。
「いえ、違います。私が護衛の任を怠ったがために」
 そっと身を離して、拱手した。
「申し訳ございませんでした、殿」
「子龍」
 劉備の声はどこか寂しそうに聞こえて、趙雲は珍しくも見上げる形になっている主の顔を見やった。
 初めて逢ったころより顔に刻まれた年輪は深いが、眼差しはあの頃と変わらずに深い色を携えている。誰の目にも劉備と同じ深さを見つけることが出来なかった趙雲は、やはり自分が仕えるべきは、あの方だ、と確信した。
 だが、ようやく再会したときにその色が消えかかっていた。
 だから私は貴方を抱いてしまった。
 ふと、過去の苦くも甘い思い出が蘇りそうになるのを振り払い、劉備の双眸を見つめ返した。
 何かを言いかけてか、劉備の唇が薄っすらと開かれるが、言葉は漏れずに閉じられて、弧を描いて終わった。
「気に病むな。お前は悪くない」
 反論しようとする趙雲を軽く制し、
「水鏡先生」
 立ち上がった劉備は振り返り、佇んでいた老人に丁寧な拱手をした。
「改めて、お世話になりました。ご恩は必ずお返しさせていただきます」
「いや、構わんよ。わしも久しぶりに面白い御仁と話せたので、楽しかった」
 声はしわがれていたが、にこにこと微笑む顔は老人と呼ぶには相応しくないほどの闊達とした生気が溢れている。
「しかし、まさか目の前で熱烈な愛情表現を見せられるとは、思わなんだがの」
「先生」
 微笑む顔はそのままに、からかう語調を含んで老人は白い顎鬚をしごくので、劉備は苦笑した。
 熱烈な愛情表現とは、今の趙雲と劉備のやり取りのことだろうか。だとしたら大きな勘違いだ、と思いつつも趙雲も深々と老人へ拱手して見せた。
「司馬先生、とお見受けいたします。話を窺うに、我が主が大変お世話になったよう。私からもお礼申し上げます」
「よしよし」
 何が佳(よ)いのか、老人――司馬徽は笑う。
「それと、先生。あのお話、拝聴いたしまして、前途がひらけたような思いです。必ずや、臥龍、もしくは鳳雛、見つけてみます」
 うむ、と司馬徽は頷いた。
 どうやら、劉備にとって実りのある話をしたらしく、数日前の脾肉を嘆いていたときに見せていた鬱屈した表情はどこにも浮かんでいなかった。
「さあ、帰ろう。みなも心配しておるのだろう?」
 はっ、と答えて、草庵の脇に繋がれていた的盧を連れてくる。全身が擦り傷だらけの的盧の姿に、劉備の身が無事であったことが不思議にすら思えてきて、趙雲は改めて安堵した。



 新野に向けての帰路、劉備は司馬徽に相談した内容を話してくれた。
 これから先、劉備が大望を成すには何が必要なのか。武は余りあるほどであるのに、活かしきれていない。やはり、智が必要である、と相談したこと。
 そして司馬徽が勧めたのは臥龍と鳳雛と呼ばれる智者、二人である。
「どちらか一人でも手に入れれば天が掴めるであろう、とおっしゃった」
 だが、あの方は少々人をからかうのが好きらしく、臥龍と鳳雛の正体を教えてはくれなかった。
 劉備は苦笑している。
 途中、護衛の兵たちとも合流を果たし、今は後ろに従っている。二人の会話は後ろまで聞こえてはいないだろう。それを見越してか、劉備がぽつり、と漏らした。
「本当に、心配をかけたな」
「もう、おっしゃらないでください。私も用心が足りませんでした」
「いや、お前は充分にやってくれていた。私がお前を怒らせるような真似ばかりしたから、護衛に集中できなかったのだろう」
「……」
 沈黙が肯定になることは分かっていたが、趙雲に気の利いた答えが浮かぶはずもなかった。
「こたびのことで、久しぶりに命の危険に晒されて、私は思ったよ。まだ生きたい、やりたいことが山積みだ、死にたくない、とな。お前に対してもそうだ。あの時の非礼をまだ謝っていなかった。謝れないまま死に別れるなど死ぬに死ねないからな」
 子龍、と劉備が馬上の上で身を正して、真摯な言葉と視線が注がれた。
「酔っていたとはいえ、醜態を晒し、お前の心に無遠慮に入り込み過ぎた」
「私も、我を張りすぎました」
 そのせいで貴方を守れなかった。謝るのは自分のほうだ。
「お前の中では、もう私は恋慕の相手ではなかったのに、うぬぼれていた。せめてこれからは、お前の主に相応しい男でありたいものだ」
 笑みは自然にこぼれた。
「殿は充分に、私の主に相応しい方です」
 そうか、と照れたように劉備は笑い返してきた。
 劉備の笑顔は眩しくて、趙雲はすぐに目を逸らしてしまう。
 そのとき、趙雲がもう少し、長く見つめていたのなら気付けただろうか。笑みの中に、また一抹の寂しさが混じっていたことに。
 二人は轡を並べて、新野への道を歩んでいた。


 ******


 趙雲が戻らないという。
 曹操の荊州への南征に、劉備たちは大勢の民を連れて逃げた。逃げ切れないだろうことは劉備自身も分かっていたが、曹操を恐れ、劉備を慕って付いてきてくれる者たちを見捨てることなど出来るはずもなかった。
 しかしやはり足の遅い民たちを連れての逃亡は無理があり、疾風のごとく追いすがる曹操軍に捕まった。
 張飛を殿(しんがり)にし、軍師の策で何とか足止めをし、被害を大きくすることは免れた。夏口へ援軍を頼みにいった関羽も途中合流を果たした。
 ただ、妻たちや生まれたばかりの阿斗の護衛を任せた趙雲だけが戻らないという。
「殿、まだここも危のうございます。お早く先へ」
 傍に立った青年が劉備を促す。
「軍師、だが趙雲の行方が知れぬ」
 軍師――諸葛孔明だ。司馬徽に聞いた臥龍の正体である。徐庶という、一時やはり劉備の軍師を務めてくれた男から正体を聞き、何としても迎え入れたい、と三度、諸葛亮の草庵を訪ねた。そうして招いた男だった。
「趙雲殿でしたら、先ほど曹軍の中を駆けている、という情報を掴みました」
「本当か!?」
 生きている、という報告は少しだけ劉備に安堵をもたらしたが、敵陣に身を置いている、という状況が気にかかった。
「そのような危険な場所にどうしてあやつは。早く戻ってくればよいものを」
 気を揉む劉備に、諸葛亮は微笑む。
「殿は、趙雲殿が裏切った、とはお考えにならないのですね」
 馬鹿な、と目を丸くした。
「そなたはそう思ったのか?」
「あらゆる可能性に思考を巡らせてしまうのが、私の癖ですから」
「ならば、覚えておくといい。あやつは何があろうとも、絶対に私を裏切るような真似はしない。それは考えるだけ無駄なことだ」
「これはまた随分と」
 ふふっ、と手にした羽扇で口許を隠して、諸葛亮は笑う。戦場で不謹慎だ、と思ったのかすぐに笑いは消えたが、目は楽しそうだった。
「趙雲殿がお戻りになりました!」
 兵士が駆け寄ってきて、大音声に知らせた。
 途端に、劉備は駆け出していた。
 殿、と諌める諸葛亮の声にも振り返らずに、民や兵の間を縫うように走る。
「子龍ー!」
 叫ぶと、道が開いた。
 赤い戦袍に身を包んだ男が、懐を押さえながら立っていた。
 劉備を認めて、小さく笑った。死地を掻い潜ってきたであろう男にしては柔らかな笑みで、どきり、と劉備の心臓は跳ね上がった。
 殿、と男の口許が劉備を呼んだ。手を差し伸べれば、乗せられたのは暖かで柔らかい小さな生き物の気配だ。
「阿斗様を……ただ、奥方たちは」
 消え入りそうな声で告げ、趙雲の体は傾いでいく。
 受け止めるには阿斗を預かった腕が邪魔だった。それでも全身を使って、倒れるところなど想像したことも無い男の体を支える。
「子龍!」
 むせ返るような血の臭いと土埃の匂いが入り混じっていた。赤い戦袍に見えたのは血を浴びているせいだと、ようやく気付く。いや、男自身の血も混じっているのかも知れない。
 ぞっとした。
 このまま男が死んだらどうする。
 私はかけがえのない男を失おうとしているのか。
 駄目だ、嫌だ!
 そうなってしまったら、私は……!
 阿斗を放り出すように、傍に侍ていた兵へ渡す。
「子龍、子龍! このような、私の子のためにお前が傷付くなど。子など幾らでも儲けられる。だが、お前のような男は……」
 言葉に詰まり、強く趙雲の体を抱き締める。
「汚れます、殿」
 掠れた声で趙雲が気遣う。
「阿呆、そのようなこと、どうでもよい!」
 濡れていた頬を、趙雲の肩口に押し付ける。
 お前が無事ならば、それが何ものにも代えがたい宝なのだ。
 男の重みが増す。意識を失ったらしい。劉備は周りに呼びかける。
「子龍を運べ! 手当ても急げ!」
 劉備の命令に、兵たちが慌しく動き始めた。



 劉備たちは命からがら、夏口へと身を寄せていた。被害状況は刻一刻と明らかになり、逃避行の凄まじさを物語る結果を伝えている。
 今も諸葛亮から報告を受けて、沈痛していたところだ。
「民たちには出来うる限り、施しをしていかねば」
「ええ。しかし曹操の侵攻はまだ終わりではありません。我々だけでは対抗しきれないでしょう」
「助力が必要だな。誰に頼れば良いものか」
「……孫家、でしょうね」
「江東か」
 諸葛亮が頷いた。
 また、詳しくはみなが揃ったところで話しましょう、と諸葛亮は切り上げた。
「ところで、趙雲殿のところへは?」
「まだだ」
「おや。しかし随分前に意識を取り戻されたのでしょう。見舞いに行かれてないのですか」
 意外そうな面持ちになる諸葛亮に、うむ、と生返事をする。
「真っ先に顔を出されたのだと思っていたのですが」
「いや、きっかけがな」
 自分でもいい訳だ、と分かっているだけに、白々しさが漂う。
「軍師殿、こういうときはですな」
 劉備とともに話を聞いていた糜竺が、何やら耳打ちをする。なるほど、と頷く諸葛亮は、劉備を見やってにこり、と笑った。
「殿が見舞いに行かれて、諌めませんと、趙雲殿のことです。本調子でもないのに、鍛錬を始めかねませんよ。お早くお願いいたします」
 む、むぅ、と唸る。
「趙雲殿も、殿が顔をお見せにならないのを気に病んで、治るものも治らなくなるかもしれませんぞ」
 糜竺が駄目押しをしてくる。
 い、行ってくる、とようやく劉備は重い腰を上げた。
 去っていく劉備を見送り、諸葛亮は呟く。
「扱いにくいような、扱いやすいような」
「そうでしょう。そうでしょう」
 糜竺が同意を示し、二人は顔を見合わせて忍び笑ったのだった。



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