「彼と私の十の約束 2」
 趙雲×劉備


「蔡将軍が? 随分と急だな」
「ええ、まあ。しかし珍しくも将軍からの招待ですし、出向かないわけにも参りませぬでしょう」
 趙雲と口論をした夜から、数日が過ぎていた。
 劉備は糜竺から蔡瑁の招きの話を聞いて、首を傾げた。
「だが、劉表殿に招かれたのもつい先日の話だし、そのときに将軍もおられた。また今さら、という気がするのだが」
「匂いますな」
 人の良さそうな丸い眼を糜竺は細めて見せた。
「元々、私の存在を嫌っている人だ。そもそも、招待する、という時点で怪しいことは分かりきっている」
 今さら警戒することもないだろう、と劉備は判断するが、糜竺はそう思わなかったらしい。
「誰か護衛に……趙雲殿にお願いいたしましょう」
「……子龍か? あいつにはこのあいだ、頼んだばかりだ」
 なんとか、駄目だ駄目だ、と喚くことだけは堪えられた。
 数日前に喧嘩別れしたきり、まともに口を利いていないのだ。護衛としてついてこられても気まずい。
「雲長に頼むから」
「関羽殿は昨日から北方の賊退治に行かせたではありませんか」
「そ、そうだったな。ならば翼徳に」
「冗談ですよね?」
「う……、じょ、冗談だ」
 冷静に確認されて、劉備は同意してしまう。蔡瑁と張飛など、顔をつき合わせたら最後、水と油も良いところで、むしろ燃え盛る家に油をまきに行くようなものだ。問題が起きるのが目に見えている。
「趙雲殿に何か問題でも?」
「……いや」
 趙雲と気まずいことになっていることは、誰にも話していない。趙雲も劉備に叩かれて腫れた頬の理由を誰にも説明していないようだ。
 一晩明けて冷静になったあとでは、思い返すだけでも羞恥の沙汰である言動は、劉備としても隠しておきたかった。
 当の趙雲といえば、顔をあわせれば挨拶はするが、あとはむっつりと黙り込んだまま、話すことなど何もない、という無表情でいる。劉備もあえてそんな趙雲に話しかけることもできず、何より夜のことを謝ろうとしても、いいわけにしかならないことは、自分でも良く分かっていた。
 酔っていた、と酒のせいにするのは簡単だ。事実その通りでもある。
 ただ、酔いのせいにするにはあまりにも男を傷付けることを口にしてしまっていた。
 趙雲が劉備を慕っている。主従を越えた想いを抱いているときは、再会し、抱き合ったときから分かっていたことだ。
 一度、満たして欲しい、と劉備から懇願して肌を合わせたきり、求められたこともない。そもそも、態度に少しも滲まないのだ。
 敬慕としての眼差しや言動は常に携えていても、色めいたものが混ざったことは一度としてない。本当は、抱いてくれたのは男の優しさで、劉備のことは主としてしか見ていなかったのかもしれない。
 それほど、あのとき以来、趙雲が劉備に対して欲めいた感情を滲ませたことはなかった。一番考えられるのは、すでに趙雲の心から劉備に対する恋情が失われた、という可能性だ。
 だからこそ、あの夜はあれほど怒り、嫌がったのだろう、と合点がいく。
 趙雲とは劉備にとって時に厳しく接してくれる、義弟たちとは違う優しさを携えた真っ直ぐな男だ。それは劉備の迷いを正してくれる指標とも言える存在で、恋慕とは少し違う、敬慕と言えるだろうか。臣として傍にいてくる男に対しては逆かもしれないが、敬意を抱いている。
 何より、己の気持ちを押し殺してまで、主として敬ってくれる趙雲の姿勢が好ましく、それほどの男に慕われている自分がまた誇らしく思えた。
 そんな男に絡み、胸裏を悪戯に暴けさせてもてあそぼうとしたのだ。いくら男の忠義が篤かろうが、怒りに駆られるのも当然だ。それでも、男が劉備を突き放したりはしないだろう、と踏んでのあの発言だった。
 結果は、手痛い頬への答えだったわけだ。
「傲慢であったか」
 小さく呟く。
 聞き取れなかったらしい糜竺が首を傾げたが、なんでもない、と答える。
「趙雲殿と、何かあったのですか?」
「なぜだ?」
「そうとしか思えませんが」
 苦笑している古い付き合いになった臣下の顔を見やった。
「それもそうか」
 護衛として適任の趙雲を渋ったのだ。よほど鈍い人間でない限りは察すだろう。
「また、貴方が我がままをおっしゃって、趙雲殿を困らせたのでしょう?」
「またとは何だ。それにそんな童子のようなこと」
「したことがないと?」
 むぅ、と不貞腐れる。
「関羽殿や張飛殿と違い、趙雲殿は殿を甘やかしはしないですからね。大方、我がままを言い過ぎて叱られたのでしょう」
 まるで見ていたかのように、ずばりと指摘されてぐうの音も出ない。
「趙雲殿への護衛は、殿が直接頼まれたらいかがですか? きっかけが欲しいでしょう」
 さらにこの気遣い。
「子仲、私はお前のような臣を持てて、幸せだ」
「皮肉ですか。しかし、ありがたくいただいておきます」
 平然と返されて、劉備は肩を竦めたのだった。



 ひそひそと女官たちが囁き合っている。視線の先には男が一人、目を瞑ったまま佇んでいる。劉備が近付けば、女たちは慌てて頭を下げて去っていった。大方、腫れた頬の行方でも噂していたのだろう。
 今はすっかり腫れも引いているが、女たちの間でしばらくはこの話題で持ちきりだ。
 鍛錬に入る前の精神集中を行っている男は、女たちの好奇の視線には全く気付いた様子はなく、劉備が歩み寄ってようやく目を開いた。
 黙って拱手した趙雲を、劉備はじっと見上げた。
 自分も上背はあるほうだが、趙雲はそれ以上だ。鍛えられた体躯に乗っている顔も整っているし、機転も利く。心根も真っ直ぐで忠義に篤い。
 女にもてないわけはないのだが、未だに一人身だ。
「何か御用でしょうか」
 あまりにも劉備が沈黙したまま見上げているので、趙雲から切り出してきた。
「明日、護衛を頼みたい」
 気まずさは残っていたので、あえて淡々と告げた。
「どちらへ」
「蔡将軍のところだ。場所は襄陽になる」
 険しい顔になる趙雲へ先回りして言い含める。
「将軍の誘いを断れんだろう」
 だから、お前に護衛を頼むんだ、と言外に伝える。
「御意」
 短い返事は心地良い。少し気まずさが薄れたような気がして、訊いてみた。
「まだ、怒っているか」
「はい」
 正直すぎる答えに言葉をなくす。
 再び、気まずい空気が辺りに立ち込める。見下ろしてくる趙雲の眼差しに数日前の怒りは灯っていなかったが、同時に何の感情も浮かんでいないことが薄気味悪さを覚える。
 頑固だ。
 この男は、こうと決めたらなにが何でも意志を貫き通そうとする。そもそもにして、公孫サンを離れて、劉備の下へ辿り着いたことにしても片鱗が見える。
 よほど、劉備の言動が許せなかったのだろう。
 少し、ほとぼりが冷めるのを待つほうが良さそうだ、と劉備は諦めた。
「とにかく、明日は頼んだ」
 拱手だけは迷いなく行われたので、劉備は踵を返した。



 宴は、表面上は何事もなく過ぎていった。
 普段は不機嫌な様子で劉備を見ている蔡瑁も、自らが招いただけあり、終始笑顔を浮かべて(もっとも、それ自体不気味といえば不気味だ)、和やかな雰囲気だった。
 途中、劉表やカイ越も顔を出し、話に花が咲いた。酒も入り、劉備もすっかり酔いが回って良い気分になる。唯一、劉備の背後の趙雲だけが、宴の広間を睥睨するかのように立っていて穏やかではない。
 蔡瑁も気になったのだろう。しきりに趙雲へ酒を飲んで寛ぐように勧めたが、趙雲は一向に盃に手を付けなかった。
 これ以上、蔡瑁の盃を断るのも失礼だ、と思い劉備も勧めたが、必要ありません、の一点張りだ。
「お前、本当に頑固だな」
「殿こそ、私が何のためにここにいるのかお忘れではありませんか」
「忘れてはいないが、一杯ぐらいお前なら平気だろう」
 うわばみ、というか、趙雲はかなり酒には強いらしく、張飛と酒比べをしても顔が赤くなるところを見たことがない。
「私が口移しで飲ませるなら飲むか?」
 ぎろり、と槍の切っ先ほどの鋭い視線を浴びて、劉備は酒で軽くなった口が滑ったことを自覚した。
「貴方は懲りておられないのか」
 背後では、蔡瑁が盛んにどんどん飲んでください、と煽っている。笑い声の絶えない広間であるのに、二人の間に漂った空気は重い。
「劉備殿ー、早くこちらへ!」
 呼ばれて、劉備は振り返った。
「すいません、少々厠へ」
 居た堪れなくなり、言い訳を口にして広間を離れる。本来なら趙雲も従ってくるが、その場から動こうとしない。やはり、まだ怒っているらしい。なのにまた自分は火に油を注ぐような真似をしてしまった。
「しばらく、酒を絶つか」
 厠で用を足しながら、一人呟いてしまう。
「劉備殿」
 緩めた下穿きを直していると、隣に誰か立ち、劉備を呼んだ。薄暗い厠内では誰だか分かりにくかったが、目を凝らすと見知った顔が浮かんできた。
「伊籍殿か」
 声をかけてきたのは、劉表の古くからの知り合いで、幕客のようなことをしている伊籍という男だった。嫌劉備派の多い劉表臣下の中では、数少ない親劉備派である。
 的盧、と呼ばれる馬を譲られたときも、狂馬である、と教えてくれたのもこの男だった。
「今すぐ、ここからお逃げください」
「何ですか?」
 突然の言葉に、酔いが思考を鈍らせている劉備は咄嗟に聞き逃す。だがすぐに、普段は温良そうな顔を強張らせている伊籍の尋常ではない様子に、身を正す。
 長年の経験と勘から来る劉備の心臓が警鐘を鳴らし始めた。
「罠です。お早く」
 誰が、どんな、など訊くまでもない。
 蔡瑁がついに劉備の抹殺を謀りにかかったのだ。
「先日の貴方の髀肉の嘆、感心いたしませんよ」
 それだけ聞けば十分だ。
 今の境遇に嘆いた劉備の言葉に、未だ野心を抱く者、として蔡瑁の警戒心を煽るのには充分だったのだろう。趙雲が案じたとおりだ。
「厩はまだ手が回っておりません。馬に乗れば逃げ切れるでしょう」
「助かります」
 礼を言い、劉備は迷わずに走り出す。ちらり、と残していく趙雲のことが頭を過ぎったが、男なら案ずることはないだろう、と振り切った。
 厩へ駆け込めば、的盧が鼻をすり寄せてきた。
「お前が本当に狂馬だというのなら、私と命運を共にすることになるぞ。そうでないのなら、私を助けよ」
 軽く鼻面を叩いて、その背に跨った。
 正門で何かを喚いて止めようとする兵士たちを振り切って、劉備は疾走した。
 背後から、劉備を追いかけてくる大勢の気配がする。撒こうと闇夜の中をでたらめに走った挙句に、断崖へと辿り着いてしまう。
 追いすがったらしい蔡瑁が、嬉々とした調子で話しかけてきた。
「どうしたのです、劉備殿。突然に宴を抜け出して。そこは危ないですから、どうぞこちらへ」
 危ないのはどちらだ、と罵るのも馬鹿らしい。
 くるり、と背を向けて、劉備は的盧の腹を蹴る。嘶きも激しく、的盧は崖を力強く蹴り上げて、劉備もろとも渓流へと身を躍らせた。
 殿!
 趙雲の声が聞こえたような気がした。
 探せ、私は生きるから、絶対に探し出せ、と叫び返したような気がした。
 ざぶん、と身を切るような水中へ浸かり、劉備は的盧の首にしがみ付いた。
 あとの記憶は、曖昧だった。
 気付くと、ずぶ濡れのまま的盧の背中に揺れて、どこともしれない木立の中を彷徨っていた。
 濡れた衣が重く、夜は明けているが辺りは寒く歯の根は合わない。朦朧とした意識の中で、目の前に牛に乗った童子が現れた。
「ありゃりゃ、こんな朝早くから川で泳ぐ物好きがいるとはなぁ」
 のん気な口調が現実感を喪失させる。
 夢か現か、と思いながらも藁にも縋る思いで、童子へ声をかける。
「すまないが、近くに体を暖められるところはないか」
「ん〜、あることはあるけども、おいらはそこの家の人間じゃないから、許しがもらえるかどうか、分からないぞ?」
 歳のわりにははっきりとした返事がもらえて、劉備はいくぶんかほっとした。
「構わない。とにかく連れて行ってくれ」
 じゃあ、いいよ、と童子はやはりのん気な口調のまま劉備を導いた。牛の歩みは遅かったが、全身が鉛でも含んだかのように重く感じている劉備にとっては、ついていくだけで精一杯だ。
 ようやく揺れる牛の尻尾が止まった、と思えば、質素な一軒屋の前だった。
「せんせ〜い、川で泳いでいたおかしな人を拾ったよ〜」
 泳いでいたわけではない、と言い返そうにも気力はなく、劉備は的盧から滑るように落馬し、意識を失った。
 遠くでしわがれた『佳佳(よしよし)』という声を聞いたような気がした。



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