「彼と私の十の約束 1」
 趙雲×劉備


 ぬるり、と手綱が滑って抜け落ちそうになる。
 急いで両腿を馬の腹に押し付けて体を安定させた。ぬめった手を拭こうと服にこすり付けるが、すでにいたるところが血に染まり、拭い切れない。
 低く唸る。
 目に入る雫も、汗なのか返り血なのかも分からないほどだ。
 馬の息も荒く、全身から汗を噴き出して、同じく真っ赤に染まって戦場を駆け抜けている。
 馬と一体になっている男の前に、数人の兵が飛び出してくる。左手で手綱と懐を守りつつ、片手で槍を振り回す。
 馬の疾走としなる腕から放たれた衝撃は容易く兵士を吹き飛ばした。
 また、目の前が赤く染まる。
 累々と転がる屍は、兵卒の格好もあれば、平民の格好をしたものもある。
 数多の戦場を渡り歩いてきた男でさえ、平民がこれほど倒れている光景を目の当たりにしたことはない。
 戦うべき者たちが死んでいる情景に今さら心を動かされることもないが、戦場に立つべき人でない者たちが倒れ伏している光景に奥歯を噛み締める。
 死の香りが色濃く漂う場所に、心が和むはずもなく、長居をしていてよい所でもない。何より、男には帰るべき場所があった。
「行きます、若君」
 懐へ声をかける。
 死の匂いが広まっている中、唯一、男の懐にある小さな気配だけが、濃厚なまでの生を醸し出している。
「大丈夫です。私はあの方の下へ帰ることが、得意なのですから」
 懐へ語りかける語調や、にこり、と浮かべられた笑みは、血まみれの姿に似つかわしくないほどに柔らかい。
 得物を握り直す。
『曹』の旗がひしめく中を、赤い塊が貫くようにひた走り始めた。


 ******


 ふらっと体が揺れて、倒れそうになった。
 鍛えられた腕に支えられて、劉備は転ばずにすむ。
「ああ……すまないな」
 支えてくれた腕を軽く叩いて、笑いかけた。劉備の笑顔に大抵の者は笑い返してくれるが、腕の主だけは別だった。
 精悍な顔立ちには、見る者によっては微笑んでいるように取れるかもしれない、僅かな弧を描いている口許が刻まれている。ただ、それが普段の男の顔なので、劉備の笑みに反応してのことではない。
「飲みすぎです、殿」
 耳に心地良い安定感のある低い声が、飾り気のない面容を唯一彩っている笑んだ形の唇からこぼれた。
「そんなことはないぞ。ほら、歩ける」
 支えてくれた腕を払い、一歩二歩、と歩いて見せた。しかし三歩目で再びよろけて、また男の腕の世話になる。
「殿」
 男の口調に呆れた語調が混じる。
「ははっ、なんとあれしきの酒で私は酔ったか。歳をとったものだ。なあ、子龍」
 見上げた先の男が、小さく眉をひそめた。
「こんな酔っ払いの相手、迷惑だろう。もう戻っていいぞ」
 支えられなければ歩けないくせに、そんなことを言ってみる。
「そのようなわけには参りません」
 男が、趙雲ならそう答えるだろう、と分かっていてのことだ。
「お前は優しいなぁ、子龍」
 また、趙雲の眉が眉間に寄せられた。
 酷い酔い方をしている自覚はあるが、酩酊した思考ではくだを巻く自分を律することなど出来るはずもない。寝所へ連れられるまで、くだらない、趙雲が困るようなことばかりを口にし続けた。
 男は眉間に皺を集めながらも言葉少なに、律儀に劉備の相手をする。
「しりゅ〜ぅ、今夜は一緒に寝よう、なあ?」
 そんなものだから、同衾を命じたくもなる。あまりにも情けない主の様を慮ってか、趙雲は衛兵たちに立ち去るように指示して、劉備を牀台(しょうだい)に寝かしつけた。
 馴れた手付きで劉備の余所行きの衣を脱がして、寝衣に着せ替えようとする。その手を掴んで、
「そんなものはいいから」
 とぐいっと引くが、鍛え抜かれた体躯が傾ぐはずもなく、手堅い感触が跳ね返るだけだ。
 半端に脱がされた衣が邪魔で、劉備は自ら脱ぎ捨てる。下穿き(下着)だけ付けた状態で牀台の上で胡坐を掻いた。
 腕を伸ばし、自分でも媚びた笑みだと分かる顔を作り、趙雲へ言った。
「私を抱け」
 元々切れ長である男の目尻が、きりり、と釣り上がる。
「お断りさせていただきます」
 槍の切っ先を思わせる鋭い声だ。冷水でも浴びせられて、酔いが醒めそうな気分になる。だが、やはり悪い酔い方をしていたらしく、普段の酒の入りかたならば身を引いたであろうに、劉備は抗った。
「なぜだ。抱いてくれぬのか」
 私の命令だぞ。
 自分の直弟にも負けず劣らず忠義に篤い男の、もっとも弱いところをつく。ああ、卑怯だな、と頭の片隅で自分をなじる声がした。
「抱く理由がありません」
「あのときは抱いてくれた」
 身体を傾げて、伸ばしていた腕を趙雲の首に絡げる。唇と唇が触れ合いそうなほどの至近距離に顔が突きつけられた。それでも趙雲の視線は揺るがずに、真っ直ぐ劉備を見返してくる。
「あのときは、理由がありました」
「私を抱くのに、理由が欲しいのか」
 いつまでも煩いことを口にする形ぶりの良い唇を塞ごうと、あと僅かの距離を縮めようとするが、すっと離れる。
「子龍」
 苛立って、男の字を呼んだ。
 あのときの始まりも、子龍、と呼んだときからだった。


 ******


 手を握られて、視線の定まらないまま、手の主を見やった。精悍な顔付きが気遣わしげに曇っている。
「劉備様、劉備様!」
 握られたまま、強く名を呼ばれた。熱い掌だ、と思いつつも、やはり劉備はぼんやりと己を呼ぶ男を眺めていた。
「お分かりになりますか。子龍です。趙子龍です。常山の趙雲でございます。貴方に言われて、あらゆる地を巡り、様々な主に仕えましたが、やはり貴方以外の主君は考えられません」
 戻ってきました、戻ってきたのです。今度こそ、貴方の臣にしていただきたい。
「趙雲……趙子龍?」
 遠い記憶に引っ掛かる名前だった。
 まだ少年らしいあどけなさを残しながらも、槍を操る手は戦人(いくさびと)であり、発する語気も一人前の男であった。ただ、青年の端正な面持ちの中で凛と輝く双眸だけが、唯一若さを宿していた。
 公孫伯珪の下で振るう武技に見惚れ、真っ直ぐな心根に惹かれた。
『私とともに来ないか』という言葉を何度呑み込んだだろうか。口に出来なかったのは、青年の目が世の全てを映し込んでいない清いままだったからだ。
 もしもこのまま自分とともに来ることを頼み、受けてくれたとしよう。そして彼の目に相応しくないものを見せるようなことになったとき、彼は自分をどう思うだろうか。
 すでにともに歩こう、と決めた義弟たちに遠慮はなかったが、青年に自分たちのような絆を押し付けるのは違うような気がした。
 だから、青年から『貴方と参りたい』と告げられたとき、断ってしまった。
 同じ気持ちであったのか、と嬉しく思う反面、案じていたことが現実になったときの恐怖は堪らなかった。
『趙雲は、もっと世を知らなければならない。あらゆるものを見、感じ、それでもそなたが私を望むのなら、迎え入れたい』
 結論を先延ばしにしただけだ、と非難する身内の声に耳を塞いで、青年と別れた。
 もう十年近く前の話だ。
 懐かしさに、ここしばらく忘れていた笑みがこぼれた。
「良く、見つけ出せたな」
 今、劉備は袁紹のところへ身を寄せている。一度は手を携えたはずの曹操を裏切り、領地を奪った。奪われた領地を取り戻しに来た曹操に、劉備はなすすべもなく敗退した。
 傍にいたはずの張飛もいなくなり、ひとり、留守を預かっていた関羽も恐らくは曹軍に殺されたか、捕まったか。
 近臣たちも誰も行方が知れない。劉備は身一つで袁紹の下へ逃げてきたのだ。
「苦労しただろう」
「噂から噂へと駆けずる毎日でした。逢いたい、という思いは強まる一方でしたが、耐えることも学びました。それに、貴方を見つけ出し、『帰る』とことも、得意となりそうです」
 嬉しさが男を饒舌にさせているのだろうか。端正な顔が興奮に紅潮し、劉備を案じていた愁眉が開き、笑みが浮かべられた。変わらず、中心で凛と輝いている双眼に、劉備はぼろり、と涙をこぼした。
「りゅ、劉備様?」
 驚きに目を見開く趙雲に、劉備は答える言葉もなくして泣いた。
 私は一人になってしまった、雲長も翼徳も、誰もいない。城も土地も兵も民もいない。からっぽだ、からっぽになってしまった。
 そんなようなことを泣きながら訴えたような気がした。
「私はここに居るのか、何も持たぬ私など、死者も同然ではないのか」
 袁紹は劉備を厚遇してくれたが、全てを失った劉備は茫然と日々を過ごすばかりで、役に立たない、と思ったのだろう。離れが与えられ、放置されていた。事実、劉備はただ毎日をぼんやりと過ごしていた。
 何かを考え、行動したくとも、それはすなわち失ったものを思い出さなくてはならない、ということだ。取り戻せないものを思い出すことほど恐ろしいことはなかった。
 突然、目の前に現れた趙雲は、劉備の押し殺していた感情を湧き上がらせるには充分の存在だった。
 からっぽは嫌だ、からっぽは悲しい、怖い。
 支離滅裂なことを口にしていたと思う。戦場で何重にも敵兵に囲まれて怖気も見せなかった青年が、劉備を前にして途方に暮れていたほどだ。
「劉備様……殿、殿!」
 しかし、きつく呼ばれて僅かだが平静さを取り戻す。
「私がおります。私は殿の臣下です。たった一人かもしれませぬが、貴方は臣を召している主君です。臣の前で、そのような見っとも無い姿をお見せになられるのか」
 気を確かに持ってください、と叱咤される。
「だが、趙雲」
「子龍で結構です。私はもう、貴方の臣です」
「……子龍、私はここにおるか。立っているか。また歩き出せるか」
「はい、殿は確かに私の目の前におります。立てない、とおっしゃるのなら、肩を貸します。歩けないとおっしゃるのなら、杖になります。ですから……っ」
 不意を衝いたからだ、と後から思う。そうでなかったのなら、あれほどの武を持つ男が、容易く劉備に組み敷かれたりしないだろう。
「ならば……ならば、私の中にお前をくれ、子龍。お前を受け入れて、私の中をお前で埋めつくせば、信じられる」
「殿、それは」
 焦った面容の男へ、唇を落とした。すぐに引き剥がされた。
「殿っ」
 非難めいた声に、劉備は顔を歪めて命じた。
「私を抱け、子龍」
 蹲り、趙雲の胸元へ顔を埋めた。懇願だった。
「……よろしいのですか」
 埋めた顔と全身を伝い、趙雲の鼓動が聞こえてくる。ひどく早い。
「構わん」
「分かりました」
 身を起こした趙雲に横抱きにされて、牀台に運ばれた。優しく扱う手付きに無性に泣きたくなった。
「利用しているな」
 趙雲の誠実さと忠義に甘えている。口にして自嘲すれば、男の整った眉が奇妙に歪んだ。
 利用しているのは、きっと私です。
 そう聞こえたような気がした。
「子龍?」
 聞き返したときには、趙雲は淡い笑みに顔付きを変えていて、言葉の意味は聞き出せなかった。
 横たわる劉備に覆い被さるように、趙雲が牀台に乗り上げた。背の下で軋んだ音が鳴り、劉備は目を閉じた。
 唇を吸われた。幾度か啄ばむようにされて、そっと深く唇が合わさる。掌と同じ熱さを感じた。
 首に腕を絡げるのを合図にしたように、舌が唇を割り、歯列をなぞる。淡い痺れが首筋を這い、絡げた腕に力を込めた。誘うように歯列を広げると、舌は迷わずに滑り込んできた。
 生暖かい弾力に夢中になった。
 顔の向きを何回も変えて、深く男の舌を味わう。甘く蕩けそうな官能に支配され、劉備は男の髪をくしゃり、と掴む。
 指の隙間を通った柔らかい髪に、ぞくっと悦が走った。
「ぁ……っん、はぁ」
 舌をきつく吸われて、濡れた声が上がる。気付けば男の手は劉備の全身をまさぐっていた。
 趙雲の腰を挟むようにして、両膝を持ち上げる。鍛えられた男の腰があり、知らずに膝頭に力が入った。動きづらくなったのだろうか。やんわりと手で膝を押し広げられた。
 膝を押しやった手はするっと太腿を撫で上げて、腰帯に指を絡げた。口腔をまさぐられながらも、意識がそちらへと向いてしまう。
 唇が離れ、親指で口の端を拭われる。溢れた唾液で汚れていた顎も丁寧になぞられた。
 瞼を持ち上げて、趙雲を視界に入れる。
 真っ直ぐに劉備を見下ろしている趙雲の眼差しに、もう迷いは浮かんでいなかった。腹を括った、ということだろうか。
 腰帯を解かれ、上肢の素肌が晒された。
 じ、と視線が注がれる。
「どうした」
 凝視される気恥ずかしさもあるが、視線の意味が気になって問い掛けた。
「傷が、増えていらっしゃいます」
「そりゃあ、お前と別れてからも戦、戦の日々だったからな」
 関羽や張飛が体を張って守ってくれていても、劉備自身も戦わなくては成り立たない小さな軍だったのだ。生傷はもちろん、戦を潜り抜けた傷跡は全身に刻まれている。
「これからは、私もともにお守りいたします」
 肩に付けられた矢傷を撫でながら、趙雲は言う。
「子龍……」
『これから』という言葉と『私も』という言葉に男の優しさが見える。劉備の未来は絶たれていないし、弟たちも健在である、と暗に励ましている。
 きっと、趙雲という男は饒舌ではないのだろう。それゆえに、少ない言葉に込められた意味は大きく、劉備を揺さぶる。
「子龍」
 字を呼びながら、劉備の両目から涙が溢れる。
 趙雲が拭っても拭っても止まらずに、最後には困り果てたらしい男が唇を塞いでくるまで、止まることを知らなかった。
 泣きやむまで、優しい口付けが降り続けられた。
 しまいには、殿、殿……と穏やかな声で呼ばれ続けて、頭を撫でられる。
 まるで子供のようにあやされていることに、ようやく劉備は羞恥を覚えて、涙を止める努力を始める。
「ああ、すまない」
 手の甲で顔を拭う。
 すまないなぁ、とまた言う。
「せっかくお前が追いかけて、忠義を誓ってくれたというのに、こんな情けない主で、失望して去ってしまうか?」
「いいえ」
 微笑まれた。精悍な顔が和らいで、どきり、とするほど綺麗な笑顔が生まれた。
「いいえ、殿」
 上手く想いを口に出来そうにもない、不器用そうな男の腕に抱き寄せられた。
「どのようなお姿であろうとも、私は貴方の臣でおります」
 そうか、と言う。
 劉備から口付けた。
 男の目許が赤くなる様を見つけ、密やかに笑う。
「このようなことで赤くなる歳か?」
 いえ、と小さく否定する言葉に、説得力があるはずもない。
 続きを頼む、と耳もとで囁けば、小さく頷きが返ってきた。
 胸の突起に舌が寄せられ、舐められる。びくっと身体が反応を示し、趙雲の愛撫に悦ぶさまをさらけ出されてしまう。
 ただ甘い、男の丁寧な愛撫に昂ぶり尽くし、我を失うまで乱れた。
 男を抱くのは初めてなのです、とぼそり、とこぼした趙雲に、劉備はまた密やかに笑い声を立てた。
 何事も経験だ、と若いころから異性に限らず、同性との交わりも愉しんでいた劉備は、戸惑っている趙雲に説明する。
 律儀な男はくそ真面目な顔をして、劉備の言葉にいちいち頷いては従うものだから、最後のほうは可笑しいやら恥ずかしいやらで大変だった。
 それでも、男の熱いもので貫かれたときには、ようやく満たされた想いに浸ることができた。
 無我夢中で抱き合って、上り詰めたのはほぼ同時だったろうか。
 弾む息と汗が滲む肌を交えながら、しばらく二人は無言だった。
「子龍」
 身を起こすと同時に、趙雲を呼んだ。はい、と短い返事とともに、趙雲も上肢を起こし、正座する。
 先ほどまで曲がりなりにも漂っていた淫靡さは霞のように消え、劉備を見つめる趙雲の双眸は真っ直ぐだ。抱いている間は欲情を宿して光っていたが、もう片鱗を見つけることはできない。
 少し寂しいな、と思ってしまった自分を、甘えるな、と叱咤し言った。
「私は今から、袁紹殿に白馬を攻めるならば軍列の末端でもよいから、くわえてくれ、と言いに行くつもりだ」
「はい」
 嬉しそうに笑う趙雲の顔は、まるで童のようだった。
「お前も付いてきてくれるか」
「どこまでも」
 拱手された。下がる頭をじっと見つめて、劉備は逡巡のあと、続けて訊いた。
「お前は、私のことが好きか」
「お慕い申しております」
 即答されて、かっと顔が熱くなる。
 まさか、こんな素直に答えが返るとは思っていなかった。
「……そ、そうか。ならば、ますます私はお前を利用したことになるな」
「いえ、私こそ利用いたしました。弱って人を求めている貴方につけ込んだ」
 申し訳ございません、と身を折る男を、劉備は複雑な思いで眺める。優しさと想いに嬉しくなるが、誠実な態度に他人行儀な距離感も覚えた。
「子龍、優しすぎる男は、誰かの特別にはなれないぞ」
「昔、同じようなことを言われました」
 途端、難しい顔をした男に、劉備は小さく笑った。
「私はお前が大切な臣である、という認識しかない。お前の気持ちに応えられない。それでも、付いてくるか」
「関係ありません」
「今日、お前に抱かれたことをなかったことにするが、いいか」
「はい」
 やっぱり、お前は優しすぎる。
 なぜそこで嫌だ、と言わない。
 寂しいな。
 勝手なことをと我ながら思うが、男の未練もなさそうな口振りに切なさを覚えたのは確かだ。切なさが、男の内面の辛さを思ってなのか、自分の僅かに芽生えていた男への想いを摘んだせいなのか、答えは出なかった。


 ******


 初めて会ったときから変わらない、凛とした眼差しが劉備を睨み付けていた。
「酔った貴方は随分と卑劣でいらっしゃる」
 鋭利な刃先がぴたり、と頬に当てられたような、冷たい声音だった。
「何をもって卑劣だというのだ」
 冷たさに怯みそうになるが、むっとして言い返す。
「何が卑劣かわからないのなら、なおも性質が悪い。酔いを醒まされるとよろしいでしょう」
 首にかかっていた腕を払われる。立ち上がった趙雲の長身は、座り込む劉備の遥か先にある。厳しい眼差しに、いつもの輝きが失せている。
 私が何よりも恐れていた、お前の目に入れたくない汚れたものが、私自身だとでも言うのか。
 胸が詰まるが、葛藤も知らずに劉備を拒絶する趙雲に腹も立つ。
「私が今、どれほど惨めな気持ちであるか、知らぬだろう」
 今日、劉備は劉表の招きに応じて、宴に参列していた。
 最中、厠へと立ち、己の手に掴めるほどの腿の肉に驚いた。いつの間に脾肉がついていたのだろう。腿だけでない。体は贅肉に覆われ、遥か彼方を望んでいたころの姿など、微塵も残っていない。
 しばらく、涙が溢れて止まらなかった。
 惨めさを抱えて、何とか留めた涙を拭って宴に戻ると、劉表に目敏く見咎められた。
『どうなされました』
『……実は』
 荊州という土地で穏やかに暮らしている現状に、自分の至らなさを痛感させられた。決して世を糾す、という誓いを忘れていたわけではないのに、漫然とときを過ごしていたことに情けなさを覚えた。
 劉表はしきりに慰めてくれたが、劉備の沈んだ心持ちが浮かび上がることはなく、酔いに口惜しさを紛らわすしかなかった。
「雲長や翼徳の武も、お前の信義も、私は無為にしている。自分自身への価値を見出せぬのだ」
 胸の内を吐露する劉備だったが、趙雲は微動だにせず佇んでいる。
「迂闊なことを口にされました」
「なんだと」
 劉備の期待した、慰めの言葉は趙雲の口からは与えられなかった。
「それでは、貴方がまだ大望を抱き、劉表の下になど留まっていられない、と公言したも同じ」
「それは……っ」
 指摘されて、初めて劉備は失言に気付いた。
「劉表殿はまだ良いでしょう。しかしもし、蔡(瑁)将軍あたりが耳にしたら、また心証を悪くするだけです」
 容赦なく劉備の迂闊さを責める趙雲に、今日の惨めさと苛立ち、遣る瀬無さが混じり、咄嗟に手を上げていた。
 ぱん、と鋭い音が室内に響いた。
 顔を背けた趙雲の頬に、すっと赤味がさす。唇を切ったのか、口の端が赤かった。だが、趙雲は何事もなかったかのように劉備を見つめ返した。よほど叩いた劉備が怯んで謝りかけたが、趙雲の言葉に謝辞を失くす。
「甘えたいだけでしょう。『貴方は良くやっている』と、そう言ってもらいたいだけです」
 甘えだと、男は言い切った。
「ようやく、ご自分の境遇に気付かれたのなら、良いではありませんか。今からでも遅くはない」
「駆けることを忘れた脚でか」
 もう嫌だ、と口にしかける。漫然と流れたときが、自分の心を弱らせていた。嘆いたのも所詮は一過性の思いで、昔の志を思い出して感傷に浸っただけだ。
 誰かの肌に触れながら、もういいのです、と言われたかった。そうしたら、自分はきっと歩みを止められる。
「だからです。慰めで貴方を抱くことはいたしません」
 だが趙雲は、迷いもなく断りの言葉を再び吐いた。劉備は哀願すら含ませて字を叫ぶ。
「子龍!」
「いい加減になさいませ。私には貴方を抱く理由が見出せない、と申し上げております」
 冷ややかな眼差しだった。
「私に魅力を感じぬか」
 臣に抱け、と命じる主など見っとも無いだけだ。そのようなことはありません、という答えを期待していて、わざと自嘲してみせる。
 ああ、本当に今宵の酒は、悪い酒だ。
 しかし、もう止まらなかった。
「今宵の貴方からは全く感じられません」
 これでも感じぬのか、と唇を強引に押し付けようとしたが、かわされる。
 苛立ちは頂点に達し、いらぬことまで口走ってしまった。
「理由なら、お前は持っているだろう。お前は私のことが好きだ。抱きたいと……っ」
 痛みはなかった。音も、劉備が叩いたときに比べれば大したことはない。加減をしたのは分かったが、劉備は趙雲に叩かれた、という事実に愕然とした。
 呆然と男を振り仰いだ。
 目に、激しい怒りが宿っていた。
「私の知る劉玄徳という男は、貴方のような真似はいたしません」
 冷え冷えとする、怒りの灯った双眼とは真反対の声音が、趙雲の内面の嫌悪を表現していたのかも知れない。
 子龍、と呼び止める間もなく、男は踵を返して部屋を出て行ってしまう。
 趙雲の忠義心に疑念を抱いたことはなかったし、非礼とすら思えるほどの拒絶の言動を突きつけられても、信頼は薄れない。男の揺るぎない眼差しが僅かな疑念すら挟ませないのだろう。
 己が違う、と思ったのなら、絶大な忠心を寄せている相手であろうとも諫言ができる。趙雲という男の強さであり、だからこそ劉備も心を寄せていられる。
 一気に酔いを醒まされた劉備は牀台に仰向けに転がり、盛大に呻く。
「痛いぞ、子龍」
 叩かれた頬ではない。趙雲を叩いた手と、傷などないはずの胸が激しく痛みを訴えていた。



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