「口は災いの元なのか 2」
 曹操×劉備


 まあしかし、そんな怒りも長く続くはずもなく、後にはやってしまった、という悔いだけが残ってしまったのだった。
 与えられた宿舎に戻ってきた劉備は、ああ、と頭を抱えた。そんな劉備を見かねて、張遼との鍛錬から戻ってきていた関羽が声を掛けてきた。
「どうされたのです、兄者」
 そんな弟を、じとっと劉備は恨みがましくも悲しい目付きで見つめ、大きなため息を吐いた。
「いいよな、お前は。好きな奴と好きなことをしてきたんだし。私なんぞ……」
「ですから、どうされたのですか、兄者」
「いいよ、いいよ。お前は張遼にも曹操にも好かれていれば。……いや、そんなことを言っている場合じゃない。そうだ! 早くここから逃げなくてはならん!」
 重要なことに気付き、劉備は立ち上がった。
 何せ曹操を殴りつけた上に、嫌いだ、とまで宣言したのだ。どう考えても無事ではすまされない。
「翼徳はどうした。出立の用意をしろ!」
 一人で焦る劉備を、関羽は怪訝そうな顔で聞き返す。
「どうしたのですか、急に。翼徳ならどこかの飲み屋で一杯引っ掛けているでしょうが」
「またか! すぐ、すぐ探し出して荷造りさせろ」
 胸倉を掴んで揺する劉備に、目を白黒させる関羽は、事情を何とか聞き出そうとする。
「ですから……」
 と、その時だ。家の外から声が聞こえた。
「劉皇叔は御在宅か」
 曹操からの怒りの呼び出しか、と思い、遅かったか、と劉備は一人で青くなった。どうしようかと考え込み、いつまでも応答しない劉備の代わりに、関羽が家先に出向いていった。
 あわわ、と劉備は近くの窓から逃げ出そうとするが、関羽が戻ってきて引き止めた。
「兄者、程中郎将が来られていますが……」
「何? 曹操ではなく程中郎将か?」
 窓枠に足をかけた状態で振り返った劉備は、訪問者が程cと聞いてほっとした。だがよくよく考えれば、それもあまり喜ばしい訪問とは思えない。程cなど、曹操と劉備が親しくすることに眉をひそめている連中の筆頭と言えるのだ。
 合議の冷や水ぶっかけ事件のときも、熱があるはずなのに厭味を言いに来た一人だった。
「劉皇叔、説明いただこうか」
 しかし、招き入れてもいないのに、程cはずかずかと家の中に怒鳴り込んできた。
 八尺(約百八十四センチ)を越える長身が相手だ。その迫力は天からの雷のようだった。
「何のことでしょうか」
 取りあえず窓枠から足を下ろして、劉備は向き直る。
「何のこととは白々しい。胸に手を置いてくだされ」
 そう言われて素直に劉備は掌を胸に当てるが、はて、と首を傾げた。
「お分かりになられないようですので、説明します。殿が大変落ち込んでおられます。ええ、それはもう。しかも、なぜか顎に青痣まで出来ています。これに心当たりがないとおっしゃるか」
「あー、そう、ですね。どうでしょうか」
 もちろん、心当たりはありすぎるほどある。曖昧に笑ってみせるが、程cの険しい眼差しは緩む気配がない。
「誤魔化そうとしても無駄です。貴方が殿と一緒に市へ行き、その後に口論になり殴ったことは存じておりますから」
 思わず劉備は目を剥いた。耳が早いにも程がある。
「殿を一人で出歩かせるなど、そんな愚かしいことを我々がするとお思いですか」
 初めて、程cの顔に笑みが浮かぶ。しかしそれは不敵で恐ろしい笑みであった。
「ご存知でしたら、遠回しに言わず、はっきり言ったらどうですか。私に罪を問うためにやってきた、と」
 しかし劉備もここまで伊達に乱世を生き抜いてきてはいない。ふてぶてしくもそう言い返した。
「そう出来ればどれほど欣喜か。ですが、貴方に罰を下すようなことになれば、殿はお怒りになり、どれほど嘆くか。全く運だけは良い男ですね、貴方は」
 先ほどまでの怒りや笑みを消し去り、程cが嘆息混じりにそんなことを言い出したので、劉備は雲行きが変わったことを察した。
「あのように落ち込まれた殿は見たことがありません。何を言い争われたのか知りませんが、殿は誰とも口を聞きたがらないのです。ああなると誰にも手がつけられません。それこそ、当事者でなければ」
 じとっと、恨みがましくも懇願めいた眼差しで、程cは劉備を上から見下ろした。
「殿を何とかしてください。あれでは政務も滞ります。言っておきますが拒否権はありません。貴方は殿を殴ったのですから、どれだけ殿が庇おうとも、充分に罰を与える理由があるのです」
「つまり交換条件、というわけですか」
 罪を免除する代わりに、曹操の機嫌を取れ、というわけだ。
「察しの良いことです。ですから私は貴方が嫌いなのですよ」
 はあ、とそれには取り合わず、劉備は気になっていることを聞いた。
「あの、私と曹操殿が争った原因というか、その前後は詳しく……」
「知りません。護衛のものもあまり近くに行くとばれますので」
 ならば、劉備が曹操に口付けられた不名誉な場面は誰にも見られなかった、ということだ。不幸中の幸い、と劉備は胸を撫で下ろした。
「仕方ありません。お引き受けします」
「頼みます。殿はお屋敷に引き籠もっておいでですので」
 用がすめばこんなところに長居はしたくない、とばかりに程cは踵を返したが、何を思ったのかまた振り向いた。
「そうそう。もしもこれ以上殿の身に何か起こりましたら、劉皇叔様といえどもどういったことになるか、身を持って知ることになりますので。くれぐれもご承知ください」
 恐ろしいことをさらっと言って、程cは出て行った。
「兄者……」
 当然、今のやり取りを聞いていた関羽が、不安げな顔で劉備を窺っている。
「そういうわけだ。後は頼んだ」
 朗らかに笑って関羽の肩を叩く。
「せいぜい、最悪私の貞操が失われるぐらいだろう。案ずるな」
「て……っ?」
 意味が分からなかったのか、関羽はまた目を白黒させた。そんな関羽の肩を叩いた手に力をギリギリと込めて、劉備はにっこりと微笑んだ。
「無事に私が戻ってきたら、その髯、練習台にさせてもらうからな、雲長。元はと言えば、お前が原因なのだ。十分に責任は取ってもらう」
 関羽が全ての原因ではないはずだが、劉備の笑みに逆らうことは出来ない。そして関羽は改めて劉備の言葉を反芻する。
「練習……」
 はっとして関羽は自慢の髯を手で隠して、泣きそうな顔になりながら、劉備を見送ることになる。
 哀れ美髯公……。



 程cや関羽には、その場の勢いで大言したものの、劉備は今すぐにでも回れ右をしたい気分で、曹操宅の前で逡巡していた。
(どうして私が曹操の機嫌取りをしなくてはならないのだ。悪いのは向こうであるのに)
 しかし、曹操を殴ったのは事実であり(それ相応の理由はあったにせよ)、そのことで罪に問われることは免れないだろう、と思っていた矢先のことだ。渋々ながらも条件を飲むしかなかった。
(貞操だけは守ってやる)
 一人で握り拳を作って気合を入れて、劉備は来訪を告げた。

「曹操殿?」
 家僕の案内で私室の前まで来た劉備は、恐る恐る部屋の中へ声をかけた。家僕は劉備を案内するとさっさと下がってしまい、降りかかる火の粉は被るまい、という様がありありと見受けられた。
 部屋からは沈黙しか返らない。再度声を掛けてから、劉備は一言断って、足を踏み入れた。
「入りますよ」
 清貧、といえば聞こえはいいが、要するに貧乏暮らしの長い劉備からみれば、曹操の部屋は無駄に豪奢に見える。その豪奢である部屋は妙に淀んだ空気が漂っていた。
「曹操殿、いらっしゃるのでしょう?」
 さっと部屋を見回すが、曹操の姿は見受けられない。衝立で遮られた奥の方かと劉備は遠慮がちに覗き込む。だが、そこにも曹操はいなかった。
 後は……。
「寝所か……」
 重いため息をつきながら、劉備は寝所であろう部屋へ通じる戸を開けた。慎重を規して、まずは顔だけ覗き込む。
「曹操殿?」
 部屋は雨戸が閉じられているせいか、薄暗い。闇に目が慣れていない劉備は、その中から曹操は見つけられなかった。仕方なく体全体を滑り込ませて、もう一度呼びかけた。
「曹操殿、劉備ですけど、いらっしゃいますか」
 そっと足をずらすと、途端に床にあった何かにぶつかって、劉備は仰天する。
「――っ、誰だ、こんなところに物を置きっぱなしなのは?」
 思わず文句を言いながら目を凝らすと、それこそが探していた曹操だった。
 なぜか床に蹲って、膝を抱えて俯いている。
「何をやっているんですか、何を!」
 曹操の前にしゃがみ込み、その肩を掴んで揺すった。どう見ても尋常ではない。世から捨てられて、寂しく一人歳を取っていく老人や、明日死刑になろうという受刑者ですら、ここまで陰気ではないだろう、という有様だった。
「……」
 無言のまま、ちらっと曹操が劉備の顔を見やって、すぐにまた顔を俯かせた。
「そんなに痛かったですか、顎」
 薄暗くて良くは見えないが、確かに青痣が出来ているようだった。
「手加減はしたつもりでしたけど」
 手加減しなければ、曹操の形の良い顎など今ごろ砕けている。
「痛い……」
 ようやく、曹操が小声で答えた。
「痛むのならちゃんと医者に見せて、手当てをしてもらってはどうですか。こんな陰気臭い部屋に閉じ篭もっていらっしゃらないで」
「お主があんなこと言うからだ」
 ぼそぼそと曹操が言うのを、劉備は聞き取れずに「はっ?」と聞き返す。すると、ぷいっと曹操は顔を背けてしまう。
「ちゃんとおっしゃってくれないと、私も困ります」
 背けられた顔を追って、劉備は覗き込む。すると慌てたように曹操は顔を深く俯かせてしまった。
(……?)
 劉備はあるものを目にして、思わずそれを口にしていた。
「泣いていました、曹操殿?」
 ぴくっと、縮こまっている曹操の肩が揺れた。
「知らん」
 否定する曹操だが、劉備の見つけた赤い目元と今の反応から、図星だったことは丸分かりだ。
(子供か、この人は)
 喧嘩をして殴られて、挙句に部屋に引き篭もって泣いていた、など、子供のようだった。
「申し訳ありません。少しやり過ぎました」
 だが、それは妙に劉備に親近感を抱かせた。劉備から見れば曹操とは、厭きれるほど色々なものに恵まれている男だ。それがこんな些細なことで落ち込み、泣くほどの弱さを持っているとは、滑稽でもあるが微笑ましい。
「泣かせるほど力を込めたつもりはなかったのですけど」
「泣いていない!」
 きっ、と曹操は顔を上げるが、はっきりと現れた顔は、間違いなく泣き腫らした後の顔つきだった。
「第一、殴られたぐらいで泣くか!」
「ではなぜ?」
 揶揄からかい半分で聞き返すと、曹操は途端に目を伏せてしまう。
「曹操殿?」
「知らん知らん知らん!」
 駄々を捏ねる子供のように、曹操は叫んだ。
「もしかして、私が貴方を嫌い、と言ったことを気にしていますか?」
 唇が一文字に引かれる。
(これも図星か)
 可笑しくなって、劉備は忍び笑ってしまう。
(もしかすると、この人は今まで人に嫌われたことがないのかもしれない)
 それだけ、愛される立場であり人柄であるのだろう。それは曹操の周りにいる人物たちを見れば良く分かる。
(もちろん、全ての人に好かれてきたのではないだろうが、自分が好きだ、と思ったものから嫌いだ、と言われたことはなかったのかもしれないな)
 だから、お互いに心惹かれている、と思っていた劉備から負の感情をぶつけられて衝撃を受けたのだ。
「普段はあれだけ図太いくせに、妙なところで繊細なのだから、呆れる」
 呟く劉備の声は曹操には聞き取れなかったらしく、眉が寄せられた。
 しかし、分からないでもない。
 根っこは同じなのだ。
 近親憎悪もあるが、だからこそ良く理解できる。
 劉備とて、人から徳の将軍と呼ばれるために、どれだけ気を遣っているか。また、常として人々から好意を受け取ることに慣れていると、それがひっくり返ったとき、どれほど痛いかも知っている。
「痛いのは、顎ではなく、ここですか」
 腕を取り、立たせると、案の定見事な痣になっている顎があり、そこを指で撫でてからその指で胸を突いた。
 痛そうな顔になったのは、顎を触られたせいか、それとも真実を言い当てられたからか。
「本当に、お主は儂のことが嫌いか」
「ええ」
 だが今は、そうでもない。
 困ったことに、そう思える。
 返答とは逆のことを思いながら、劉備は答えた。その答えに、曹操は泣きそうに顔を歪めている。
「何せ、往来のある場所であのようなことをしますからね、貴方は。せめて、こういう二人きりのときにしていただきたい」
 恋情ではない思いであるが、惹かれているのは確かであるし。
(機嫌は取っておかなくてはならないし)
 劉備は曹操の唇に自分のそれを押し当てた。
 間近になった曹操の目が見開かれる。
 すぐに唇は離れたが、曹操はしきりに瞬きを繰り返している。
「いい、のか?」
 躊躇いがちに聞いてくる曹操へ、劉備はにやりっと笑う。
「はい。別に大したことはしておりません。ちょっと唇が重なっただけです。死にはしません」
 曹操が劉備へ言った台詞を、そのままそっくり返した。
「それとも、曹操殿は男に口を寄せられて照れるほど、経験がないとでも?」
「そんなことはない!」
 ムキになる曹操が可笑しくて、今度は声を立てて笑った。そんな劉備を呆然と曹操は見ていたが、腕を伸ばして抱き寄せようとした。劉備はさっと身を翻して、
「殴ってしまったお詫びです。これ以上のご期待には添えません」
 と、釘を刺す。
 がっくりと肩を落とす曹操へ、劉備はつかつかと窓に寄る。
「さあ、落ち込むのは仕舞いにしてください。曹操殿が落ち込んだままだと、私は貴方の忠臣たちに殺されてしまいますから」
 淀んだ空気を取り去ろうと窓を開け放てば、涼しい夕方の空気と柔らかい橙色の日が入り込んでくる。
 振り返れば、眩しそうにこちらを見ている曹操がいた。
 逆光で見えないだろう、と分かった上で、劉備は唇を僅かに動かす。

「『お主も』ではなく、『お主が』になったら考えてもいいですけど」

 曹操はやはり分からなかったらしく、小首を傾げている。
 そんな曹操を見てから、劉備は窓へ向き直って忍び笑ったのだった。



 終





 あとがき

 要するに、関羽のせいで嫉妬する劉備と、とっぴな行動をする曹操さまを書いて見たかった、というわけで思い付いた話ですが……。いいのだろうか、こんな話で!?
 後は劉備のふてぶてしくも図太い感じも書いてみたかったのですが……。すっかりギャグですね。

 口は災い〜、つまりはどっちも要らんことを口にして、思わぬことになった、というそんな話でもありました。劉備は曹操さまへ「弟とくればいいでしょう〜」とかツンデレ発言(笑)。曹操さまは劉備へ「関羽関羽〜」と言い過ぎ。そんなわけで、言葉は大事にしましょう、というオチで。
 そして珍しくも「こと」に及んでいないのは(笑)、誰でも読める操劉を書いておこう、と思ったからですが……、結局この続きを書いてしまいました。そういうのが苦手だよ、または1
8歳未満の方はここでお終い、とさせてください。話的にはおまけなので読まなくとも大丈夫ですので。

 では何かありましたらメルフォをご利用ください。大人の方はまたこの先で会いましょう(笑)。




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