「口は災いの元なのか 1」
 曹操×劉備


「関羽をくれ、劉備」
「はぁっ?」
 ある日、脈略も無く曹操に言われ、劉備は繕っていた徳の将軍、という仮面も忘れて素っ頓狂な声を上げた。
「何を突然言ってんですか、あんた」
 つい口調も砕けてしまう。
 それもそのはずで、これが例えば……。

『雲長はよく出来た弟です。私にはもったいなく思っております』
 と、劉備が謙遜を込めた関羽の話でもしている最中だったなら分かる。
『ならばわしに関羽をくれ、劉備』
 ともなろう。

 だが、していた会話は、
「市場の西端に出ていた露店は知っておるか?」
「いえ、ここはたくさんの商いが行われておりますゆえ、中々全てを把握は出来ません」
「そうか。だがあの店を知らぬのはもったいないぞ。あそこの焼き鳥は絶品であるからな。今度二人で食べに行かぬか」
「そうですね……」
 と、内心曹操と二人きりなど嫌だ、とか思っていた劉備が、体良く断る口実を考えている最中だった。
 突然、曹操が、
「関羽をくれ、劉備」
 と言ったのだ。
 劉備が素に戻るのも致し方ない。
「だから、関羽をくれ、と言ったのだ」
「いや、それは聞こえましたよ。私が言ったのはそういうことではなく、どうして今の会話の流れで、そういう言葉が出てくるのか、ということで」
 繰り返す曹操へ、劉備は呆れた眼差しを隠そうともしなかった。
「おかしいか」
 至極真面目な顔で聞き返されて、劉備は「うがぁ」と吼えそうになる。それを類まれなる忍耐力で押し留めた。
「私には理解できません」
 慣れたつもりでいた。
 呂布の討伐がすみ、許昌へ招かれての客将の身分になり、早一月。その前から、何かと曹操という人物とは因縁浅からぬ関係であった。
 卓越した指導力や柔軟な思考、感情豊かな表情やそれを的確に表現する文才、詩才など、己と比べても仕方がないが、劉備には持ち得ないものばかりだ。
 しかし、だ。
 そう、ここでしかし、を付けるべきだろう。
 劉備は目の前で小首を傾げている男を見ながら、ため息を堪える。
「そうか? 焼き鳥は美味い。そこにお主と関羽がいたらますます美味いだろう、と思ったのだが」
 脈絡も無いことを口にされて、堪えたはずのため息が落ちた。
(訳が分からない)
 その柔軟な思考がそうさせるのか、それとも持って生まれた性格なのか。曹操は時々筋道の立たないようなことを言い出す。いや、言い出すだけならまだいい。聞き流してしまえばそれですむ。
 しかし、だ。
 また劉備は付け加える。
 それが行動にまで及ぶから始末が悪い。
(この間はどうしたっけ)
 思い返すのも嫌なのだが、ついつい記憶と体に染み付いてしまった出来事を思い出していた。

 *****

 あれは、劉備は嫌だ、と言ったが(もちろん、嫌だ、とははっきり言わず、劉備得意の曖昧で奥歯に物の挟まったようなもどかしくも遠まわしな断り方をしたのだが)、曹操に強引に参加させられた合議の最中だった。
 さっぱり理解できない、人口配分に対する税率の調整やら、官の位の設置やらの話が、劉備をそっちのけで飛び交っていた。
 まあ、意見を求められても困るので、劉備は目立たぬように目立たぬようにと縮こまっていた。そういうことは、若い頃から得意だった。魯植の門下にいたときも、それで何度も危機をやり過ごした、いわゆる出来は悪くないが、良くもない生徒、という奴だった。
 熱弁を振るっている文官たちを尻目に、劉備は欠伸を噛み殺すことにもっとも神経を使っていた。
 そんな矢先に、曹操が良く通る声で劉備に聞いてきたのだ。
「お主はどう思う」
 はぁっ? とその時は素っ頓狂な声を上げるのは堪えられた。しかし、先生に指されない事には自信があった劉備は、まさか曹操に指名されるとは思っていなく、動揺は隠せなかった。
「部外者である私が口を出せる問題ではありませんから」
 もちろん、やんわりと答えを避けようとしたのだが、まあいいから、と曹操は促すばかりだ。
 こっそりと周りを見れば、冷たい視線が突き刺さるばかり。門下生だった頃のように、隣から、人の良い公孫サンが助言してくれるはずもなく。
 劉備は自分の立場をよく理解していた。曹操以外の見識家は、こぞって劉備を目の仇にしている、ということ。いつか曹操に牙を剥く危険な因子であることを信じて疑わないこと。
 今も、よそ者が何を言うつもりだ、という馬鹿にした雰囲気が隠しようもなく漂っている。
 嫌な汗が背中を伝うが、もちろんここで怯むほど、劉備も無駄に生きてきてはいない。
「まずは皆さん、頭を冷やすことが良いと思われます。先ほどから聞いていれば、同じことを論じているように思えますから」
 一方の意見に賛同するでもなく、かといって反対するでもない、曖昧な答えをして、にっこりと、仁徳、と呼ばれる笑みを作った。
 途端、白けた空気が流れるのは痛かったが、苦し紛れなのだから仕方がない。それに正直なところ、合議の内容は劉備にはそう聞こえていたのだ。
 しかし白ける空気とは別のところで、ぽん、と我得たり、と膝を叩く者がいた。
 もちろん、曹操だ。
「やはりか! 実は儂もそう思っていてな。よし、お主らはそこで少し待っておれ。虎痴、手伝え」
 言い渡されて、臣下たちは一様に不安そうな顔になる。劉備以上に曹操との付き合いが長い人物ばかりだ。張り切ってどこかへ行ってしまった曹操に、何か良からぬものを感じたに違いない。
 しかし、それでも命令違反は出来るはずもなく、大人しくその場で待っていたのだが……。
 再び曹操が部屋に戻ってきたときには、一緒に出て行った許チョが腕一杯の大桶を抱えていた。
 それはもう、嫌な予感は全身を襲った。一足早くその場を立ち去ろう、と劉備は腰を浮かし掛けたが、遅かった。
「どっせ〜い」
 という許チョの掛け声と共に、大桶に汲まれていた冷たい水は、合議の部屋にいた全員に掛かり、全身濡れ鼠の出来上がり、となったのだった。

 *****

(あれから、二日ぐらい寝込んだっけ)
 思わず遠い目になる。
 理由を問い質せば、熱くなっているときは冷やすのが当然であろう、とそれこそ当然のように返されて、その場の全員が脱力したのもまた当然だった。
 もちろん、合議参加者ほぼ全員が風邪をひき、しばらく行政が滞ったのは本末転倒だった。しかも劉備のところには、見舞いと称して厭味を言いに来る人々が後を絶たなかった。
 曰く、劉備が『皆さんは頭を冷やすことが良いと思われます』という発言が、こういう事を引き起こしたのだ、ということになるらしい。
 とんだ濡れ衣もいいところだ。あの曹操の口振りからして、劉備が言わなくとも事に及んだことは間違いないのだ。
 しかし、そんなことを口にすれば、口達者が揃った面々だ。果たして今度はどんな難癖をつけられるか。熱でフラフラする頭で、ひたすら劉備は謝り倒したのだ。
 もうあんな目にあうのは御免である。しかし、何やら爛々と目を輝かせている曹操を見やると、今度も言葉だけでは終わらない予感がした。
「関羽を連れて来い、劉備」
「はあ」
 やはりそう来るよな、と劉備は思った。しかし、生憎と関羽は朝から張遼と鍛錬を兼ねた遠乗りへ出かけている。
 それを伝えると、曹操はあからさまに落胆した。
「おのれ、張遼め。儂の臣下になったばかりのくせして、関羽と遠乗りに出かけるとは。辺境の地へ配属させてやる」
 哀れな、と劉備は張遼へ同情した。しかし、我に返ってみれば、被害者は張遼だけではない。関羽が来られないのなら、この曹操の相手はさらに劉備一人で引き受け続けるしかない。
 関羽がいれば、曹操の執心も二等分される。それだけでもだいぶ気分が違う。
(くっそ、雲長め。帰ってきたら髯を新しい筵の編み込み練習台にしてやるからな)
 私怨で罰を下すどうしようもない主たちである。
「まあ、お主だけでも構わん。行くぞ」
「やはり行くのですか」
「決まっているだろう。儂が思い付きだけで終わる男と思うか」
「いえ」
 むしろ、思い付きで終わり、せめて口にするだけで終わって欲しかった、とはやはり口には出せず、劉備は張り切って仕度を始める曹操を眺めたのだった。



   ※



 目立たない平民の服装に身を包んだ二人は、許昌の西端に立つ市場へとやってきていた。
(護衛も付けずにこんな人込みへ行くなんて、この人は)
 恐らく、お忍びで行く、と曹操が馬鹿正直に言い出せば、臣下たちに止められるのは目に見えている。だから、曹操はこっそりと抜け出したのだろうが。
「あまり感心はしませんよ」
「何がだ」
 活気の溢れる市場の人込みを、右へ左へとすり抜けながら、劉備は曹操へ言う。
「無用心だ、と申し上げているのですよ」
「心配してくれているのか?」
「そう捉えても構いませんけど、ただ曹操殿ともあろう方が大胆なこと、と思っただけです」
 心配などとんでもない。それこそ、まさか、と言い返したい。心配しているのは己の立場だ。
 もし、劉備と二人きりのときに曹操に何かがあれば、合議の事件の比ではないだろう。それこそ罰せられてもおかしくない。
 時に大胆な策や行動は取るが、曹操という人間は基本的には慎重で用心深い性質だ。しかし、こうして時々矛盾した行動をすることが、劉備には理解できない部分である。
「せっかくお主と二人きりなのだ。無粋な輩はいらん」
 劉備の少し前を歩く曹操がちらり、と振り返って笑った。
 劉備は慌てて目を逸らした。
(そういう、笑顔を作るところも嫌いなんだ)
 しかも台詞も台詞だ。
「私を口説いても何もありませんよ」
 素っ気無い答えに、曹操は気分を害した様子もない。ははっ、と一笑いして、こっちだ、と劉備を先導した。
 話題の焼き鳥屋は小さな露店であったが、評判が呼んでいるのか列が出来ていた。最後尾に付いた二人は、大人しく番を待つ。
「ここのタレがまた絶品だ」
 待っている間、曹操は楽しそうに説明をしてくれる。確かに言われてみると、漂ってくるタレの香ばしい匂いは食欲を刺激される。丁度腹の空く頃合だっただけに、劉備も焼き鳥自体は楽しみだった。
 店の亭主とも顔馴染みらしい曹操は、番が回ってくると嬉しそうに、今日は友人を連れてきた、と話し始めた。
(友人、でいいのか?)
 劉備はいささか、複雑な心境だった。
 今は大人しく曹操の客将となっているが、いつかは曹操と袂を分かつ。それは劉備の中で絶対なのだ。
 そもそもにして、劉備は曹操が嫌いだ。自分にないものを持っている、というのもあるが、曹操の傍に居ると苛立つ自分がいる。自分が保てない、というもどかしさがある。
 たぶん、自分と曹操は根っこが似ているのだ。それは薄々感じていた。だから、それに引きずられてしまう自分が許せなくて苛立つのだ。
 近親憎悪に近いかもしれない。
「ほれ、劉備。お主の分だ」
 自分の考えに没頭していた劉備は、差し出された焼き鳥を慌てて受け取った。
「行くぞ」
 歩き出す曹操を追い駆けて、劉備は声を掛ける。
「曹操殿、お代は……」
「儂が誘ったのだ。気にするな」
「はあ」
 ではありがたく、と劉備は断り(そういうところは、生来の貧乏根性が出るらしく、遠慮しない)、歩きながら肉が刺さった串にかぶり付く。
 じゅわっと口一杯に広がる肉汁とタレの味が頬肉を刺激させて、落ちるのでは、という感覚にさせる。
 思わず顔が綻ぶ。
「ようやく、笑ったな」
「はっ?」
 二口目を頬張った劉備は、曹操の言葉で顔を上げる。いつの間にか人通りの少ない裏路地に来ていた。
「笑っていませんでしたか?」
 そんなはずはない、と思った。徳の将軍、とまで呼ばれる自分に不可欠なのは笑みだ。それを絶やすはずがない。事実、嫌いだ、と思っている曹操の前でも、それをやめた記憶はない。
「本当に、という言葉を付けたほうがいいか?」
 見抜かれていたか、という思いは表には出なかった。
 曹操には見抜かれているのでは、という気はしていた。
 根っこが同じ、ということは考えを読まれやすい、ということでもある。
(そろそろ潮時か。あまり長くいると、本当にこの男に取り込まれてしまいそうだ)
「困りました。私としてはそのようなつもりはなかったのですが」
(しかし、せめてここを出るまでは怪しまれないようにしなくては)
 目まぐるしく思考を働かせながら、劉備は何食わぬ顔で会話を続ける。
「つまらん。また戻りおった」
 鼻を鳴らす曹操へ、劉備は弱りきった笑顔を浮かべる。
「やはり、関羽が一緒の方が楽しかったな」
 むかっと、劉備の腹の底がうごめいた。
 勝手に人をここまで連れてきて、自分の思い通りにならないからと文句を付けて、果てには劉備と関羽を比べるとは。
「では、今度は弟と来ればよろしいでしょう。あいつは私のように不正直者ではありませんから。嫌なものは嫌と、好きなら好きと顔に出るでしょうし」
 踵を返す劉備の腕を、曹操が掴んだ。
「何ですか」
 僅かに怒りを滲ませると、曹操は意に介した様子もなく、また脈絡もないことを口にした。
「タレが付いているぞ」
「はぁっ?」
 またしても素っ頓狂な声を上げた劉備は、いい加減にしろ、と続けようとしたが、それは出来なかった。
「ここに」
 と、曹操がタレの付いている場所を説明して、劉備の唇を舌で舐めたからだ。
「――っ」
 咄嗟に突き飛ばしてしまう。
 にやり、と笑う曹操は、劉備の唇を舐めた舌で自分の唇を舐めた。
「やはり、あそこのタレは美味い」
「何をなさるのですか!」
 頬が熱くなるのが分かる。
 いくら突拍子もないことを始める曹操といえども、タレが付いていたから、という理由で唇を舐めてくるとは、思ってもみなかった。
「別に大したことはしておらんだろう。ちょっと唇を舐めただけだ。死にはせん」
「そういう問題ですか!」
「ならば、何が不満なのだ。男に舐められたことか? 別に文句を付ける歳でもあるまい」
「だから!」
 怒りは頂点に達しようとして、劉備の口調が素に戻りつつあった。
「それとも、儂がしたから問題なのか?」
 どん、と傍の壁に押し付けられた。
「儂にされたからそのように動揺しているのか?」
 低い声が耳孔の傍で囁いた。
「違うって……っ」
 抗議の声はまた途切れた。曹操の唇が唇を塞いだからだ。
 互いにタレの味がするのは滑稽であるが、その柔らかさと暖かさは紛れもなく人のものだ。
 即座にまた突き放そうとするが、今度は簡単にはいかなかった。肩を壁に押し付けられて、脚の間に曹操の体が入り込んだ。腕と足の自由を奪われれば、後は唇を噛んでやることぐらいだが。
 それも分かっているのか、曹操はさっとそれを離してしまう。
「顔が赤いな。恥ずかしいのか」
 しれっと尋ねる曹操へ、劉備は低い声で唸った。
「そんなはずあるわけないでしょう。今さら口を寄せられたぐらいで照れる歳ではありません。それは恐らく、私が少しばかり怒っているからでしょうね」
 本当は少しではなく、大いに、ではあるのだが、劉備はまだ立場を忘れてはいなかった。
「ほお?」
 立場か、体勢か、それとも心の持ちようか。劉備が怒りを言葉にしても、曹操に動じた様子はなかった。それどころか、珍しいものでも見るかのように、劉備を見つめている。
(やりにくい。本当にやりにくい相手だ)
 普段、柔和な(例え「フリ」だとしても)人間が怒りを露わにすれば、それなりに怯むはずだ。それなのに、この男はそんな変化すら楽しそうに受け止める。
「ならば、嫉妬か」
「なぜそうなるのですか!」
 またしても脈絡のないことを言われて、劉備は頭を掻き毟りたくなる(もちろん、曹操に押さえつけられたままなので、それは不可能だが)。
「儂があまり関羽関羽というので、自分がないがしろにされて腹を立てたのではないのか?」
 これまた至極真面目な顔で説明されて、劉備は今度こそ獣じみた雄たけびを上げた。
(わっけ分からん。ほんっとうに訳分からん!)
 どうしてそうなるのか、劉備にはさっぱり理解できなかった。
「安心しろ。お主のことも好きだぞ」
(安心じゃな〜〜い!)
 そういう意味で口を寄せたのか。
 しかも、「も」とはなんだ、「も」とは。
 ついでか、自分はついでなのか。
 生憎とこっちは嫌いだ。
 ていうか、貞操の危機か?
 色んなことがいっぺんに劉備の頭を駆け巡ったせいか、口は開くものの言葉が出てこなかった。
「照れておるのか? 愛いな」
 それをまた曹操は勝手に解釈をして言うものだから、劉備の怒りは軽く頂点を突破した。
「いい加減にしろ! この奸雄が!!」
 力任せに曹操の体を突き放し、その顎に拳骨を叩き付けた。曹操は殴られた衝撃で尻餅をつき、ぽかーん、と劉備を見上げる。
「こっちはお前のことなんか嫌いなんだよ、付け上がるな!」
 それはもう、昔の侠客口調が出てしまうほどに、劉備は怒りで我を忘れて、そのままその場を立ち去ってしまった……。



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