「【en】−演− 3」
【en】シリーズ 2014年版 劉備編
諸葛亮×劉備(合作水魚)


「こうして、殿と一緒にこのような時間を持てるだけで充分ですから」
 言うと思った、という台詞を、良い意味でも悪い意味でも裏切らなかった男に、私は幾分か迷ってから口を開いた。
「……それでは、私が充分でない、と言ったら、どうする?」
 そうだ。これはむしろ私の我が侭だ。
 分かっているが、言わずにはいられなかった。
 盃に視線を落とせば、自分の顔がゆらゆらと揺れて映り込んでいた。
 遥か年下で同じ男で、しかも臣下に対して私が抱いた感情は決して公に出来るものでもないし、誇れることではない。それでも、この男を求める気持ちに嘘などつけるはずがない。
 それはきっと、孔明も変わらないと信じたいのだ。だから、尋ねる。
 もどかしさを宿した自分の顔が映る中身を一気に呷った。
「殿……? 十分でないとは……?」
「……」
 やはり分からぬか、と残念に思いつつも、普段は人心の機微を掴み、策にすら転じる才を持ちながらも、こと己のこととなると不器用な一面を見せる。そんな男に小さな苛立ちを覚えたのも確かで、それが言葉にならない無言の仕草となって表に出る。
 答えないまま、空になった盃だけを差し出して、おかわりを要求すれば、孔明は唯々諾々と従い、どうぞ、とまた酒瓶を傾ける。
「……共に過ごせるならば…、嬉しいです。……ですが、私の望みは底がありませんから…」
 傾けこぼれた酒と同じように、その言葉はぼそり、と男の口からこぼれた。注がれる酒から目を離し、孔明を見やったときには俯いていたが、口元に浮かんだ自嘲を窺わせる笑みだけは見えた。
「底がない、と申すわりには、お前、私を追いかけて来なかったではないか」
 ようやく孔明の本音が漏れてきた、と嬉しく思う反面、本当にそう思っているのならば、私の意を汲んでくれて良かったはずだ、と不満にも思った。
 再び、盃の中身を飲み干した。自分でも、いつもより杯を空ける間隔が短い、と感じているが、止まらない。
「……酷いことを…、おっしゃいますね…」
 困ったような笑みを浮かべ、孔明も自分の杯を呷って、ふう、と息を吐いた。
「……、全てを投げ出し、追いかけろと……、それが出来たらどんなにか…」
 とん、と軽い音を立てて杯は卓上に戻った。それを追いかけるようにまた俯いた孔明は、普段の滑らかな口振りとは打って変わって、ぽつぽつ、とひとりごちるように言う。
 誰も、お前にすべてを投げ捨てろ、とは言ってない。言ってない、というのに、この男は本当に妙なところで不器用だ。
「本当にお前という奴は、糞真面目というか、融通がきかんというか……。なんでそこで全て、とか言い出すのだ」
「全てですよ…。私がここにいられるのは、貴方の軍師だからです。貴方が望む天下の形を描くことが出来るから側に侍ることを許されているのです。 その軍師が殿の不在中に私情から動き、その時取り返しのつかぬようなことが起これば……」
 心情を吐き出しすぎた、と思ったのか、我に返って口を僅かに閉じたあと、謝った。
「すみません。少し酔ってしまったようです」
「構わん、酔え酔え」
 そうだ、そういうお前の胸のうちが聴きたかった。
 吐き出させてやりたかったのだ。
 今度は私から孔明と自分の盃にと酒を注いだ。
「酔って、少しはお前の真面目くさった心がとければ良いのだ」
 ぐいっと、また私はすぐに自分の器を空にした。
 やはりいつもより酔いが回るのは早い。顔が熱くなっているのが分かるが、この堅物で不器用な男は酒でも飲ませないと、本音を聞かせてくれない。その上、私とて少しは酔わないと言えないこともある。
「そのように甘やかさないで下さい……」
 孔明も同じような気分なのだろうか。一気に盃を空にして、たん、と卓の上に器を戻した。
「私が甘やかしたいのだ……と言ったらどうする」
 膝の上に手を置き先ほどから俯いてばかりの孔明を、じ、と見つめた。
「殿…」
 我ながらいつももどかしい言葉しか作り出してくれない舌だが、酔ったことで多少は回るようになったようだ。少なくとも、孔明は顔を上げてくれた。しかし、ふいっとすぐに視線は逸れ、まるで何かを振り払うかのように首を左右に振った。
 伝わらないのか、と己の言葉の足りなさに口惜しさを噛み締めようとしたが、孔明は挟んでいた卓を回り込んで抱き締めてきた。
「……お会いしたかった。殿、貴方をこうして抱きしめたかった…!」


 つづく

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