「言絡繰り 4」
劉備、博望坡にて諸葛亮の初陣を見守るも 5
諸葛亮×劉備


   *****

 関羽の軍は新兵が多く、ある程度育った兵たちは張飛と趙雲の軍へ分けられさらに扱かれ、古くから従っていた兵たちは関平や劉封、糜芳が見ていることが多かった。時折、振り分けられた兵たちを混じらせ、力の均等化を図ってきたようだ。これも少数だから出来ることである、しかしその中にあって、一貫して関羽の軍だけは新兵が多かった。
 諸葛亮は初め、それが不思議でならなかった。関羽といえば張飛とともに劉備の両翼を担う、劉備軍の象徴と言うに相応しいほどの武人である。堂々とした風貌は、張飛よりもその度合いは強いだろう。当然、もっとも精強で優れた兵たちで構成されていてもおかしくない。
 疑問を劉備にぶつけると、ああ、と笑った。
『雲長が雲長だから』
 と、例によって例のごとく、説明の足りない言葉で説明した。それでも、忙しい内政の合間を縫っては調練を観察している間、何となく理解してきた。そして今日、関羽の隣に並んでみて、確信できた。
 まさに関羽は象徴であるのだ。関羽、という存在がそこに居るだけで、兵たちは安心できる。特に戦がほぼ未経験である新兵であればあるほど、安心感を得て、そしてこの人が戦ってくれるのなら、勝てる、という自信すら得ることが出来る。特に関羽は自身より下の者への慈悲が強い。なお、兵たちはこの誉れる軍神へ陶酔してしまう。
 今も、斥候が報告してきた情報で、もうすぐ夏侯惇の軍と趙雲とが衝突する、とのことだったが、後ろに控えた兵たちからは動揺もなく、落ち着いた様子で控えていた。
「水の」
 低く、関羽が呼んだ。人目が無ければ、というか劉備の目が無ければ義理も立たない、というのか、関羽は平気で諸葛亮を「水の」と呼び付ける。初めのうちはよほど「何でしょう、髯の」と呼び返そうともしたが、大人気ないのでやめておいた。第一、それでもきちんと関羽は諸葛亮の面倒を見てくれたし、歩兵が多い、というのもあるが、平坦ではない道を馬で進むのに慣れていない諸葛亮に合わせるように、ここまでの行軍はゆっくりとしたものだった。
「どうして、お主自ら出てきた。お主であったなら、例えば兄者の威光を示す何かを借り受けて、拙者たちを強引に従わせることも出来た。ましてや、このような前線へ出ることなど選ばずとも良かったはずだ」
「今さら、のご質問ですね。前線へ出て来た理由は、軍議の際にお話した通りですけども?」
「戦、心より経験したい、と思っているのか。今も震えているくせに」
 新兵を誰よりも見てきた関羽らしく、とっくに諸葛亮の様子は見通しているらしい。
「……誰もが、初めての経験は怖い、と思いますが。ましてやそれが血生臭い戦である、となれば」
「拙者も翼徳も、兄者ですら、お主の歳の頃には戦の只中であった。そのような思い、忘れてしまっている」
「それは、貴方と殿、張飛殿は長い間共に歩んできて、確かな絆がある、ということを自慢されたいのですか?」
「嫌味を口にするな。そうではない。……いや、そういう気持ちもややある」
 嘘をつきたくないらしい、実直な面を見せた関羽に、僅かに唇に笑みを含む。
「特に翼徳は、あやつは感情的で、分かりやすいのでそれはそれで良いのだが、心に秘めておけば良いことを、平気で口にする」
「それは、分かります」
『俺だって兄者と雲長の兄者、両方とも好きだ! じゃあよ、おめぇはどうなんだよ。おめぇは兄者、好きなんだろうな』
 ああして言い切れたり、尋ねることが出来るのは、張飛の強みでもあるのだろうが、諸葛亮にとっては戸惑うばかりだ。
「先日も、突然拙者に向かって『俺だって兄者も雲長の兄者も好きだからな、大丈夫だぞ』とか訳のわからないことを言い出してくるし」
 思い当たり、含んだ笑みが漏れそうになるのを羽扇で隠した。関羽も愚痴になってしまったのに気付いたのか表情を改めた。
「お主は若い上に、兄者や拙者たちと違い、歩んできた道があまりにも違いすぎる。ましてや兄者にあれほどに希(こいねが)われて道を歩き出した。お主は他人(ひと)に押し出されて歩み出した道から逃げ出さずにいられるか」
 薄闇の中で、頬髯と赤ら顔の中心に炯々と光るあの眼差しが浮かんでいる。
 関羽が諸葛亮に求めている本当のもの、『覚悟』を迫られていた。
「それに対しての答えが、この戦への参戦のつもりです。殿に乞われたことに驕るつもりはありません。ましてや見捨てるつもりもありません。命を懸けて殿が示してくれた道を歩んでいきます」
 飾らずに想いのまま告げると、関羽の目がゆっくりと閉じられて、光る両眼を瞼の裏に隠した。持ち上がって再び諸葛亮を射抜く輝きは、少しも和らいでおらず、むしろ強さを増している。
「誠かどうか、見極めさせてもらう」
「ご随意に」
 拱手した。
 さすが軍神、と謳われる男だけあり、簡単には落城せず、と言ったところでしょうか。
「関羽殿がそのように厳格な態度を私に取られる、ということは、少なくとも私を同輩以上、と見てくれている、ということでしょう。ありがとうございます」
 関羽は下の者にはすこぶる優しいが、自分より立場が上、と見れば自己を誇示し、尊大な態度を取るところがある、と聞く。
「口の減らぬ男だ」
 と、関羽が小さく笑ったのを見て、ところで、と諸葛亮も気持ちを切り替えて言う。
「もう一つの策、お忘れではありませんか」
「誰に物を尋ねている」
 趙雲が上手く夏侯惇を誘い込めなかった場合の手を、諸葛亮は趙雲以下、主だった武官たちに伝えてある。許都で曹操の隣に居た男、あれが夏侯惇だと後から劉備に教えてもらったとき、一筋縄では行くまい、と感じた。
 激情家である一方で、曹操を宥めることも出来る男だ。単純な誘いに乗ってくるとは思えない。もしも趙雲が失敗したときには、関羽と自分の出番だろう。夏侯惇が関羽を激しく憎んでいることは知っている。挑発し、誘い込む相手にはもってこいだ。ただ趙雲ほど上手く相手から退きながら誘う、という真似が出来るかどうか。心配なのは周りの兵たちの士気だ。それを抑えるのが諸葛亮の役目であろう。
 関羽から言い出さなくとも、諸葛亮は関羽の軍に組み込んでもらう予定だったが、向こうから提案してくれ、手間は省けた。
 夏侯惇を博望坡まで導いてしまえば、機動力の優れた趙雲の軍は関羽が行うはずだった後軍を攻める役目に回り、後は同じ手はずで各個撃破、となろう。
「いえ、こういった策を弄することを軍神殿はお嫌いか、と思い念のため」
「兄者の身を危険に晒さぬようにするための手、嫌うはずがなかろう。兄者が囮になるなどと、許してはならぬからな」
「気付いておられなければ良いのですが。気付けば、あの方はこっそり付いて来かねません」
 糜竺たちに忠告をしてきたが、劉備が本気になれば説得させられるか、隙を狙って逃亡されてしまうか、結果は見えている。では、あらかじめ関羽を囮にする、という策を口にしておけば良いのでは、と思うが、当然、だったら私がやるぞ、と名乗りを挙げるに決まっている。みすみす寝ている子を起こすようなものだ。
「まったく、兄者のあの何も考えずに行動を起こす癖、何とかしていただきたいのだが」
「ご自身のされている軽率さに、一向に気付かれないのですから、本当に困ったものです」
 以下、どこかでも繰り返された、延々と続きそうな二人の愚痴は遠くから響いた鬨の声でぴたり、と止まった。
「拙者の後ろが一番安全だ。はぐれるな、軍師」
 はい、と頷き返し、関羽との会話のおかげか微かに震えが収まった手で手綱を握り締めた。


 何という様だ、と一人軍列から離れて木立の中へ駆け込み、しゃがみ込んだ諸葛亮は、胃から込み上げた吐き気のままに咽を鳴らした。胃の中はほぼ空だったため、酸を帯びた液が地面に落ちただけだったが、吐き気だけは治まらず、中?(チュウカン)(胃の中央にあるツボ)を押してみるが効果はない。
 精神的なものに起因する嘔吐感には、効かない、ということですか。
 勉強になる、と別なことで気を紛らわせようとするが、鼻を衝く戦場の臭いが誤魔化しを許さず、強い眩暈を覚えて目を瞑る。
 これでも頑張って耐えたのだ。どうやら一番危惧していた夏侯惇の博望坡への誘い込みは無事に成功したらしく、山肌が迫り、木々の生い茂る狭い間道へ騎馬隊だけで突っ込んで来た先鋒に、関平、劉封が辺りに火をかける、その辺りまでは関羽の隣で冷静に眺めていられた。
 しかしその後が良くない。火の回らない風下にいた時には気付かなかったが、殿(しんがり)を叩く、という関羽が馬を走らせて、風上からやや風が流れている風下に移動し、先鋒が火にまかれて右往左往している後陣へ突撃を始めた頃だ。
 風に乗り異臭は漂うは、関羽の後ろに居ろ、と言われたから言葉通り居たというのに、おかげで関羽が敵を切っては捨て、切っては捨て、の大立ち回りを眼前で見なくてはならない羽目に陥ったのだ。
 経験や知的好奇心により、諸葛亮とて薬事や医事にある程度は精通している。血を見るのが苦手、というほどではないが、見ないに越したことはない、と思っている。
 頭脳労働担当者には、刺激が強すぎた。
 自分から言い出した手前、しかも関羽にあれだけ大見得を切ったのだ。気持ち悪いので帰ります、と水鏡先生の塾で使っていた仮病のような言い訳で関羽の傍から離れるわけにはいかない。
 元来、男という生き物は血を見ると興奮するとか、血肉沸き踊るだとか言いますが、あれは絶対に苦手意識を認めたくないから、頭が勝手に興奮状態へと切り替えさせているのですよ。本気で血を見るのが好きだ、とかいう人間がいたら、変態です。
 とぐだぐだ考えながら自分を騙し騙ししていたが、逃げ散った兵たちも粗方叩いた、という張飛の報告や、輜重を奪った、という関平からの報告が入り、趙雲も関羽に合流を果たすと、限界だった。
 関羽の後ろで観戦していただけでこの状態なのだ。心底、趙雲の誘い込みが成功して良かった、と安堵しつつも、急いで傍の木立へ駆けて行く有様となった。
 完勝、と言っても良い勝利にざわめく背後の喧騒すら、吐き気をもよおす一因になっている。また一層、胃から這い上がる嘔吐感に身を屈めた背に、誰かの手が添えられた。
「大丈夫か?」
「すみません、大丈夫ですから、少し放っておいてください」
 今、誰かと言葉を交わす気分でもなく、ましてや構われたくもない。親切な誰かの手を払うようにして、さらに木立の奥へと足を運ぼうとするが、よろけて倒れそうになる。それを再び腕が支えた。
「どうしてお前はそう一人で何とかしようとするのだろうなあ。困った奴だ。第一、私に勝利をもたらしてくれた軍師を放っておけるか」
「勝ちとか負けとか、関係ありません。戦は戦です……!」
 支えてくれている腕の主を睨み付け、再び腕を払って歩き出そうとして、ふと振り返った。今、睨み付けた顔、どこかで見たことがある気がした。どこにでもいる、兵卒其の壱、みたいな身なりをしているが、確かにどこかで見たことがある。
 実際に、少し困った顔をしてこちらを見ている顔、ここに居るはずがないし、居てはならないのだが、居てもおかしくない顔だ。
「なに〜〜〜、趙雲、どうしてそういうことを先に言わぬのだ〜〜!!」
 関羽の怒鳴る声が背後から聞こえる。
「ですから、今真っ先に関羽殿へ知らせに」
 関羽の怒声に怯んだ様子も無い、いつも通りの趙雲の声も聞こえた。
「兄者〜〜〜!!」
 軍神の咆哮が未だ赤々と火を吐き、空を焦がしている博望坡の地へ響き渡った。げえ、と諸葛亮の目の前の男の顔が歪んだ。それから、諸葛亮をちらり、と見やった途端、なぜかさらにその顔は引き攣り、青褪めた。
「殿? どうしてこのようなところにいらっしゃるのです?」
 我ながら、博望坡に広がった火の手すら一気に消火できそうな凍えた声音が出た。
「ちょっと陣中見舞いに、はは、今だ、今来たところだぞ。断じて初めから子龍の軍に紛れておったなど、そんなことはないからな、うん、なあ?」
「ほお、初めから、趙雲殿の軍に?」
 自分で振り払ったはずの手を、今度はしっかりと握り締めた。
「諸葛亮〜、おめえの策、すげえじゃねえか! 俺、こんな簡単に戦に勝ったのは初めてだぜ? いやいやいや、すげえなって、諸葛亮はどこだよ?」
 張飛も合流を果たしたのか、諸葛亮を褒める声が聞こえてくる。そこへ被せるように、関羽が吼えている。
「兄者〜〜、いずこにいらっしゃる〜〜!!」
「そうですね、良い機会ですから関羽殿とご一緒に、じっくり、お話を伺わせていただきますか、ねえ、殿?」
「二人まとめては勘弁してくれーー!」
 勝利に酔いしれている軍勢の中、軍神の怒りの雄叫びと軍師の底冷えする笑みと、劉備の悲痛な叫びだけが場違いだった。



 目次 戻る 次へ