「言絡繰り 4」
劉備、博望坡にて諸葛亮の初陣を見守るも 4
諸葛亮×劉備


   *****

 久方ぶりの戦支度に、新野は慌ただしかった。本格的な戦は、まだ徐庶が劉備に従っていた頃、曹仁との戦以来になろうか。諸葛亮が整えた民政と軍備のおかげで準備は滞りなく行われたが、もちろん糜竺や孫乾、簡雍といった文官役たちが東奔西走(とうほんせいそう)してくれたからでもある。伊籍も手伝いたそうにしていたが、劉gの任地期限が迫っていたため、軍議の次の日、慌ただしく去っていった。
 新野に迫るは夏侯惇率いる軍勢、およそ十万であるが、諸葛亮の策を用い、勝てる見込みは充分にある。上手くいけば相手方の兵糧を奪い、これからの戦のための備蓄を増やせるかもしれない。
 それでも、当然ながら劉備の顔は晴れなかった。着慣れない、軽装ながらも鎧に身を包んだ諸葛亮が出立の挨拶に訪れた際、言うまい、と思っていたが口にしていた。
「どうしてもお前は行くのか」
 軍議が終わり、細かい段取りや編隊、役目の割り当てが決まってからは、諸葛亮と顔を合わせなくなった。向こうが意識的に避けているのは分かっていた。顔を合わせれば、きっと今の問いをしてしまうことを見越されていたのだろう。
「私の策が信用なりませんか」
 初めての戦に向かうであろうに、諸葛亮は口元に小さな笑みすら刷いていた。
「策は信用している。しかし戦場(いくさば)は常に不測の事態が起こる場所だ。心配しないほうがどうかしている」
「それは、関羽殿たちにも言えるでしょう。私の身だけに心を痛めておいででは、関羽殿たちがまた臍を曲げますよ?」
「あいつらは己の身は己で守れるほど強い。心配をするだけ損だ。やはり私もお前と共に……」
「もうおっしゃらないでください。殿は城に残り、万が一に備える。貴方を失ってしまえば元も子もないのです。糜竺殿たちに新野まで手が伸びたときの対処を伝えてあります。有事の際には、速やかに……ああ、脱走や撤退されるのはお得意でしたね」
 小さく笑う諸葛亮に、劉備は笑い返せず、鎧を着込んでも細身の体を無言で引き寄せて抱き締めた。殿、と驚く諸葛亮へ、劉備は押し殺した声で告げた。
「絶対に戻って来い。お前の生きる道(さき)は私の傍なのだろう?」
 はい、と小さな声が耳の傍で聞こえる。そっと、諸葛亮から体が離された。
「行って参ります、殿」
 今度は、微かだったが笑い返せた。扉の前で拱手して退室しようとした諸葛亮は、そうでした、と不意に思い出したように呟いて振り返った。何か大事な言伝でもあるのだろうか、と身構えたが、
「私が戻るまで、部屋、綺麗にしておいてくださいね」
 という言葉に、一気に脱力した。
 それ、この間の軍議の前に、雲長に言われた……と口にする気にもなれなかった。
「分かった分かった! やっておくから早く行け!」
 その分かった分かった、が怪しいのですよ、とまだぶつぶつ言っている諸葛亮を、犬の子を追い払うような仕草で送り出すと、さて、と部屋を見回す。諸葛亮や関羽は散らかしている、といつも言うが、劉備にとっては使いやすいように手の届く範囲に必要なものが置いてある、快適な空間だ。
 確か、あの辺りに仕舞ったな、と見当をつけて探せば、すぐに目的の物が出てくる。
「掃除など、する必要はないのだ」
 誇らしげに、汚く折り畳まれていた衣を広げて、一人でにやり、と笑みを浮かべた。


 そそくさと走り、厩(うまや)へ入ると、劉備の愛馬、的盧(てきろ)が嬉しそうに鼻面を差し出してきた。それをポンポン、と軽く叩いて謝った。
「すまんな、今日はお前では不味いのだ。別の馬で行く、許せ」
 劉備の愛馬は四本の足が白く、四白と呼ばれる凶馬の証の上に、額にまで傷跡のように白い点が入っているのは、さらに災いを招くとされ、何かと目立つ外見だった。劉備が自分以外の馬に乗る、と分かった途端、的盧は寂しそうな眼差しを見せていた。
 代わりの、平凡な馬を連れて、軍列を整えているであろう諸葛亮たちのところへ急いで向かおうとした時だ。
「殿、どちらへ」
 げぇ、と劉備は首を竦める。劉備の妙な得意技は幾つかあり、昔取った杵柄で筵や草履を編むのが上手いだとか、脱走するのが得意だとか。その中の一つ、意識することでそこら辺を歩いている一般人と同じ気配を纏える、というものだった。
 もちろんというか、当然というか、義弟たちには効かないが、大抵の人間はこれでやり過ごせる。悪友で長い付き合いの簡雍ですら、上手くやれれば気付かれないほどなのだが、唯一、義弟以外でこの擬態が効かない人間が居る。
「子仲か、どうした、こんなところで」
「それはこちらの台詞です、殿。いったいどちらへ?」
 ため息混じりに、呆れ顔で劉備の前に立ち塞がったのは、糜竺だった。なぜか、不思議とこの男には見破られるのだ。まったく不思議でならない。簡雍が言うには、そりゃあ、あいつ、お前のこと大好きだからな、とニヤニヤ笑って決め付ける。
「ちょっと、気分転換に散歩へ」
「諸葛亮が心配した通りですね、こっそり付いて行こうなどと。御身の大事さ、ご理解されておりません」
「知っているなら訊くな!」
「私は時々、殿が何を考えていらっしゃるか、分からなくなる時がございますよ」
「大丈夫だ、何も考えておらん」
「胸を張らないでください!」
「今のは冗談だが」
「本気に聞こえます!」
「そう怒るな、お前は怒るとフラフラしてくるだろう。体は大切にしないとな」
「誰が怒らせているのですか、誰が! 公祐、手伝って」
「はい、子仲殿」
 どこからか孫乾が姿を現して、劉備の腕をがっしり掴んだ。糜竺の口振りと孫乾の都合の良い現われ方から、確実に諸葛亮の手が回っている、と劉備は悟る。
 あいつめ、ますます手強くなったな……。
「またお前、公祐、裏切ったな」
「また、とは人聞きの悪い。徐州よりこの身を殿へ捧げて参りました。裏切るなどと、そのようなこと……」
 笑みが浮かんでいる端麗な顔立ちが哀愁に染まると、見る者に切なさをもたらす孫乾の表情も、劉備には効かない。
「許都行き、自分は関係ない、と言って難を逃れたくせに」
「何のことでしょう」
 哀愁が嘘のように笑みを取り戻し、孫乾はトボけた。
「しかし、なあ、子仲?」
「はい。あれは酷かったよ、公祐。私にも内緒にして」
「子仲殿、殿にはぐらかされています」
 冷静に諭されて、糜竺は非難の矛先を逸らされたことに気付き、はっとした。
「殿、とにかくお止めください。しかも一般兵に混じって参戦されるなどと、危険過ぎます」
「大丈夫大丈夫、死なない死なない」
「軽くおっしゃらないでください!」
「子仲、安心せよ、私がこのような小事で命を落とすような男に見えるか? お前が認めてくれた男だぞ? あの星を見よ、まだ私の宿星(しゅくせい)が輝いておる」
「重く言っても同じです! 第一昼間に星は見えません!!」
 劉備のボケに対して全力でつっこんでいるせいで、肩で息をしている糜竺を、孫乾が心配そうに宥める。
「子仲殿、落ち着いてください。殿の言動に惑わされてはこちらの体力が消耗するばかりです。ここは私が」
 頼むよ、公祐、と糜竺が掌を差し出すと、孫乾はその掌に掌を打ち下ろし、はい、と頷く。
 選手(バトン)交代(タッチ)――
「殿、よろしいですか? 貴方が新野で構えていらっしゃる、ということが領民にとっても安心できる材料なのです。ここに居る、ということ自体が殿にとって大切な役割なのです。諸葛亮殿は必ずや貴方に勝利の一報を届けてくれるでしょう。それを信じずに行く、とおっしゃるのでしたら、関羽殿たちと同じ、諸葛亮殿を信頼なさっておられない、ということになりませんか」
 孫乾が得意とする理詰めと情に訴えてくる術である。これを得意とするので、孫乾は使者としての任務に発つことが多く、どちらかといえば理性的で諸葛亮に性質は近い。
 ただし、もちろん、この術が効かない相手、というのも居る。
 代表例が――。
「役割は理解している。だからこっそり行くし、孔明は信頼しているが、私が行きたいのはそれとは関係ない問題だ」
「何でしょう」
「勘」
 劉備だった。
 もっとも、言い切った劉備に、孫乾は決して呆れた顔も嘆かわしいという顔もしなかった。劉備の勘で今まで散々に助かった経験があるからだ。そうですか、と微笑すら浮かべて(これはいつものことだ)、しかしさも残念そうに言った。
「実は今、諸葛亮殿の初陣勝利の宴の準備を始めようとしていたのですが、どの酒を用意すれば良いか、迷っていたのです。諸葛亮殿はどういったお酒を好まれるのか、殿から頼まれておりましたが、ぜひ試飲をしていただきたい、と思っていたのですけど。どうしても行かれる、とおっしゃるのでしたら、仕方ありませんね」
「――っ」
 揺れた、今のは大きく揺れた。
 相手が理屈や情、言葉で動かないと分かった途端に、瞬時に物欲で攻めて来るとは、さすが劉備軍きっての交渉人(ネゴシエーター)である。
「い、いや、そそそ、そのくらいでは私の決意は……」
「不本意ですが、簡雍殿にでも頼みますので」
「ちょちょ、ちょっと待て、憲和に頼むぐらいなら……うん、試飲、試飲か……それは大事な役割だと私は思う。大事だな、うむ、いやだがな、私が戦に混ざろう、という決意も大事なのだぞ?」
「……説得力無いですけど」
 劉備支持率、急落中。古参の二人の冷めた眼差しに、劉備は意思を持ち直す。
「今回はただの思い付きではない」
「……」
「先ほど、勘とは言ったが、それだけではない。相手はあの夏侯惇だ。子龍がいかに巧く退いてみせ、誘い込む、と言っても果たしてそれだけで乗ってくれるだろうか。私とて、孔明の策を信じていないわけではない。それでも、戦は何が起こるか分からない。幾重にも手を打っておくこと、悪いことだろうか」
「確かに、猛将、とも名高い夏侯惇ですし、兵法などを学ぶことに努力を惜しみません」
「戦場にも学師を付けさせて勉学に勤しんでいる、とも聞くね」
「そんな男が容易く危険と思しき場所へ軍を引き連れてやってきてくれるかどうか。私はそのために行かねばならないのだ」
「……待ってください、では殿はもしも夏侯惇が趙雲殿の誘いに乗らなかった場合、まさか」
 孫乾の言葉に、糜竺も何かに気付いたらしく、小さな目を大きく見開いた。
『殿!』
 一斉に声を揃えて非難され、劉備もさらっとしらばくれれば良いものを、身内相手では表情を取り繕うことも出来ず、気まずそうな面容をそのまま晒してしまう。
「なりません、断じていけません!」
 悲痛さすら漂う糜竺に、孫乾も大きく頷く。
「しかし、有効だと思うぞ?」
「有効だろうと何であろうとも、御身を危険に晒すようなこと、絶対に許されません!」
「いや、でもなあ。今までだって前線に立ってきたし、命の危険に晒されたことなんぞ、ざらだぞ? 今さらなあ……」
「今さらもお皿もガラム・マサラもありません!!」
「……ガラム・マサラってなに?」
「印度(いんど)の料理に使われる、辛味のある香辛料を混ぜ合わせた物です」
 料理が得意な孫乾が解説してくれた。劉備自身はごく自然な手だと思ったのだが、糜竺にとっては突拍子も無さ過ぎたらしく、香辛料の名前を叫んだきり、ついにフラフラとよろけてしまった。急いで孫乾がその体を支えつつ、改めて劉備に訴えた。
「確かに殿は許都に滞在の折、夏侯惇からは睨まれておりました。ご自身を囮にして博望坡へ誘い込む、という手は戦の策としては最良かもしれません。ですが、危険過ぎます。殿を失ってしまえば元も子もない、ということ、ご理解されているはずです」
「危険危険、とお前たちは言うが、もしもこの戦で敗れるようなことがあれば、私の身はもちろん、お前たちの身すら危険なのだぞ? 私が動けばその危険性が少しでも回避されるというのなら、私は行く」
「しかし」
「しかしもかかしも明釣(あかし)もない!」
「……明釣ってなんだい、公祐」
「明かりを用いて魚を集め、漁をする方法です。お二人とも、分かりづらい語呂合わせはやめて下さい」
「とにかく、だ! 孔明たちが命を張り私たちを守ろう、としてくれているのだ。どうしてじっとしていられる!」
「結局、殿は諸葛亮殿が心配なのですね」
 孫乾にあっさりと告げられて、劉備は言葉に詰まる。糜竺も孫乾に支えられながら立ち直る。
「そういうことでしたか。貴方は何時でもそうですね」
「仕方のない方です。関羽殿や張飛殿が嫉妬するのも無理はございません」
「そうだね、公祐。私ですら、羨ましい、と思うよ」
 急に態度が変化した二人に戸惑う。
「ただ、気を張り過ぎている若い仲間を案じる気持ちは、私たちも同じです。ねえ、子仲殿」
「うん。彼はいつも貴方に認められたくて、周囲に認められたくて肩に力が入り過ぎている」
「お前たち……」
「そうだとしても、殿。黙って貴方を行かせるわけには参りません」
「必ず無事に戻ってきてください。それが貴方を見逃す条件です」
 糜竺が見つめ、孫乾が掴んでいた手をそっと離した。拱手した二人を劉備は見つめ、頷いた。
「戻ってくる、すまない」
 何も持たない、失ってばかりいる自分に従ってくれている古い臣(なかま)へ、劉備は笑いかける。改めて、馬の轡を取り「行ってくる」と告げた。
 駆け去っていく、己の身を捧げるに相応しい男の背中を見送りながら、二人はあの方と出会えて良かった、としんみりするのだが、不意に振り返ったので、何だろう、と首を捻った。
「酒の試飲、やるから残しておけよ〜〜〜!!」
 この人、絶対に死なない。
 叫んで去っていった劉備に確信するのと同時に、少しだけ、しんみりしていた自分たちを哀れんだのだった。



 目次 戻る 次へ