「言絡繰り 4」
劉備、博望坡にて諸葛亮の初陣を見守るも 3
諸葛亮×劉備


 兄者、と劉備を呼び止める声に、諸葛亮は劉備と共に振り返り、関羽の姿を見止めて拱手した。関羽は諸葛亮へ形ばかりの返礼をし、切れ長の鋭い眼差しで一瞥した。
 当然のように兄者の横を歩いているんじゃない、とっとと去れ、鼠輩(そはい)の青瓢箪(びょうたん)。
 雄弁に、劉備のもう一人の義弟、関羽の瞳は語っていた。決して諸葛亮の偏見の賜物ではない、たぶん。
 胸元まで垂れた長く綺麗に整えられた頬髯と、長身の諸葛亮でさえ見上げるほどの逞しい体躯が際立つ、あの曹操が熱望して止まなかったという武人は、意外に大人げない。張飛ほどあからさまに突っかかってこないだけ、厄介だ。
 諸葛亮は涼やかに笑みを浮かべて見せて、一礼した。
「では、殿。私は先に議の間へ参ります。関羽殿、事態は急を要しておりますので、手短にお願いいたします」
 このブラコン髯達磨(だるま)が、と氷結の笑みに目力を込めて、関羽へにこり、と訴えて、向こうが何かを言い出す前にその場を去る。
 諸葛亮は劉備に連れ添って、軍議の開かれる広間へ向かう途中だった。曹操よりの出兵の詳細が掴めたので、主な人物たちへ召集をかけ、対策を練ろうとするところだ。緊迫していることは関羽とて理解しているだろうが、諸葛亮へ対する不審感がああいう行動を取らせるらしい。
 ちらり、と後ろを振り返れば、どういう話で引き止めたのか知らないが、話を聞いている劉備の顔は楽しそうではない。存外、大事な話であったかもしれない。
 だから、厄介なのですよ。
 胸のうちで呟く。
 張飛ほど単純で感情的な思考から来る反発心なら、分かりやすいのだが、関羽の場合はそこに下手に冷静な諸葛亮に対する観察心が混じっている。器を量られている、とあの眼差しを向けられるたびに感じた。
 陽にも陰にも感情が傾いていない状態で器を量られるのは、諸葛亮とて望むところだ。しかし、端(はな)から陰に傾いた曇った眼差しで量られるのは堪ったものではない。恐らく、関羽の性質は張飛とは逆、諸葛亮側なのかもしれないが、感情論と絡み合った理論者ほど扱い辛いものはなかった。
 今日の軍議の波乱さを憂いながら広間に入れば、劉備を待つだけ、という状態になっているため、すでに全員が集まっていた。
 奥の自分の席へ向かいながら、顔ぶれを確認する。相変わらず機嫌の悪そうな張飛は、さすがに今日は酒を飲んでいないようだ。隣には、趙雲や関平、劉封(りゅうほう)、糜芳(びほう)など武官役が並んでいる。反対側に、糜竺をはじめとする文官役が顔を揃えていた。
 その中の一人、孫乾の隣に居た伊籍へ声をかける。
「伊籍殿、再びのご足労ありがとうございます」
 伊籍は返礼したが、笑いながら首を横へ振った。
「もう畏まるのは無しにしましょう、諸葛亮殿。私も貴方と同じ、劉備殿の臣の末席に加えていただいた者です。むしろ長さでいえば、貴方の方が先でしょう。ご指導ご鞭撻、よろしくお願いいたします」
 半分ほどは軽口なのかもしれないが、伊籍が言うと本気でそう言っているように思えてくるから不思議だ。はい、と微笑むが、伊籍の目が充血していることと、億劫そうに立ち上がって返礼してくれたことが気にかかった。
「昨晩は、遅くまで引き止めてしまい、お疲れになったようですね。申し訳ありません」
 気遣うと、なぜか伊籍は動揺を見せて、ちらり、と孫乾を見やった。孫乾がいつもの微笑のまま言う。
「貴方のせいではありません、諸葛亮殿。伊籍殿がお疲れなのは、私が昨晩……というより朝方までつき合わせてしまったからです」
 ねえ、と孫乾が伊籍を見つめ返すと、伊籍の顔は誰の目にも分かるほど赤くなる。
「何、何を朝方まで付き合わせたんだ?」
 もちろん、この質問は諸葛亮ではなく、三人の会話を聞いていたらしい簡雍だ。いつものニヤけた顔がさらに崩れかけていて、実に面白ことを聞いた、とばかりに喜悦に満ちている。
「もちろん、これからの荊州の行く末について、ですよね、伊籍殿?」
 は、はい、とどもりながら妙に力強く同意する伊籍に、へえ〜、ふ〜ん、と簡雍は興味津々の様子だ。じゃあじゃあ、と今度は首筋を指して見せて「これもそのせいか?」と訊いてくる。
 諸葛亮は意味が分からず首を傾げ、伊籍はぱっと首筋に手を当てて何かを隠し、孫乾は簡雍をじろり、と珍しくも怖い目で睨み付ける。
「なんだぁ、年甲斐もなく女に溺れたのか、それとも、さあ……」
「簡雍殿、私が言ったこと、覚えていらっしゃいますか?」
 これまた聞いたこともないような低い声が孫乾から漏れて、簡雍が急いで距離を取る。
「いいじゃん、お前としては自慢したいんじゃないのかよ」
「……確かにそれもそうですね」
「孫乾殿!」
 伊籍が非難するような声を上げて、簡雍がけたけた笑う。しかし諸葛亮はやはりどういうことなのかさっぱり理解できず、三人の会話に疑問を投げかけようとしたが、劉備が関羽を従えて入ってきたため、席に付いて下さい、と切り上げた。
 関羽が張飛の隣に座し、劉備が奥の席につき、諸葛亮がその脇に控えて腰を下ろすと、劉備が口を開いた。
「集まってもらった理由は、憲和から聞いていると思う。ついに曹操が荊州へ手を出してきた。今回は前哨戦、といったところだと思うが、相当数の兵が送り込まれる」
 身内しか集まっていない、ということもあるだろうが、挨拶を兼ねた前置きや説明を一気に省くあたり、劉備らしく、話が早くて助かる。劉備の視線が糜竺に注がれると、受けて立ち上がった糜竺は、詳細を説明し出した。身近な人々の情報は簡雍の方が強いが、糜竺は徐州で培った人脈があるらしく、大陸各地の情報を仕入れることに関して長けていた。
「掴んだ仔細は、兵力十万、率いる将軍は、夏侯元譲、副官に干禁(うきん)、李(り)典(てん)とのことです」
 十万、という兵力数に、みなから嘆息が漏れる。多いな、と誰かが呟いた。
 多すぎるのですよ、と諸葛亮は胸のうちで答える。幾ら曹軍の兵力が甚大とはいえ、曹操自身が率いない総力戦ではないものだ。十万も兵を裂くとは思えない。案の定、糜竺の説明は続いた。
「ただし、十万と言っても輜重隊が半数を占めているようです。輜重を守る兵たちもほとんどが新米兵や屯田兵、農民よりの徴兵で編成されているらしく、正規の軍は多くて五万、と見込んでおります」
 こちらを侮り勝てる戦のつもりでいるのだろうか。輜重が多い場合は、遠地への行軍か長期戦、長期滞在を仮定している場合だ。許都から新野まではさほど距離はない上に、長期戦になるとは思えない。ということは、こちらをあっさり負かし、城を奪って駐屯地にする腹積もり、ということだ。
 編成を立案したのが夏侯惇なのか曹操なのか不明だが、こちらを侮っていることは確かでも、自分たちの立場は理解している。荊州は肥沃の土地で、新野周辺も例に漏れない。何も自分たちが食料など運ばなくとも現地調達は可能だが、それをせずに自ら運んでくる、ということは、調達が不可能だ、と危惧しているに違いない。
 荊州は徐州からの難民や、長らく戦に晒されていない民たちが多い。徐州の難民は昔、曹操が行った大虐殺によって流れてきた者たちで、曹操の支配など望まないだろう。平和に慣れた者たちは戦になりそうだ、と聞けば逃げ出すかもしれない。
 誰も居なくなった大地ほど、荒れ果てるのは早い。編成に新米兵や屯田兵が多いのも、こちらで屯田開発を行う計画だろう。屯田開拓の主管である、夏侯惇が指揮官、というのも裏づけになる。
 その後に続くであろう、荊州への進軍の拠点作り。そして劉表の考え、出方を計るため、それから――。
『奴は牙の抜けた犬に成り下がったのか、そうでないのか、知りたかっただけだ』
 許都で、曹操と対峙したときの言葉が蘇った。
 曹操の幾つもの狙いが諸葛亮には透けて見え、微かに寒気を感じた。
 恐らく、意識的に曹操という人物に出会うのを、言葉を交わすのを避けていたのだと思う。遠くからでも姿を見る機会は幾度もあったし、仕官希望、ということで出向けば、少なくとも一言二言は会話が出来ただろう。それらをあえてしなかったのは、惹かれてしまう自分があることを、心の奥底で気付いていたからかもしれない。
 許都のあり様や、曹操の政治、軍事など、手本にしたい所は幾つもあり、優れた者が統治することで、民の安寧が早く得られる、という考えも納得できる。否応無く、諸葛亮は曹操に惹かれるのだ。
 だから、会うのを避けていた。言葉を交わす機会を自ら潰していた。
 惹かれてしまうのが分かっていても、諸葛亮は曹操が嫌いだった。どうしても好きになれなかった――好きになりたくなかったのだ。
 身に刻まれた、徐州からの難民と共に行った辛い旅路や、その合間に見た凄惨たる光景と、人々の口からこぼれる呪詛の響きが、消えない傷として体と心に残されている。
 戦など、この世から無くなれば良いのだと、いつも呟いていた叔父は戦の果てに死んだ。戦を無くすために、知識を得なくてはならない、といつも口にしていた兄は、自分たちの許(もと)から旅立っていった。
 戦の傷跡だけが諸葛亮に残されて、それゆえに、諸葛亮が生きる目標も、戦のためだった。自分の能力でもしも戦が無くせる、というのなら、何としても成し遂げたい。しかしそれには、曹操では駄目なのだ。曹操の傍で、曹操のために働くのは嫌なのだ。
 ではどうしたら良い。戦を無くすために、もう人々が傷付かずに済むように、と必死で身に着けたこの才能を生かす場所はどこにある。ずっと長い間探してきた。探して、そして見つけたのが劉備の傍だった。
 誰もが自由である天下が良い、笑っていられる国が欲しい、と訴えた劉備の言葉を汲み、何より諸葛亮にとって最後の機会だった。荊州の片田舎から飛翔する、最初で最後の好機だと捉えた、決断した。
 今はその決断は正しかった、と胸を張って言える。
 身内の声に耳を傾けている間も、劉備たちが用意できる兵の数を趙雲と簡雍が報告し、調達できる武具は糜竺が、とそれぞれが手持ちの札を並べていた。しかしそれでも曹操が差し向ける五万に対抗するにはあまりにも心許ない、と劉備が憂い顔で言った。
「軍師殿はどうお考えか」
 どうしたら良いだろうか、と劉備が皆に振ったところで、関羽が諸葛亮へ水を向けた。関羽の双眼は、諸葛亮の一挙一動からでも内面を測ろうと、炯々(けいけい)と光っている。その隣で張飛は、面白くなさそうに頬杖を付いて唇を歪めていた。
 ここで勝算の見込める策を披露するのは簡単だが、関羽から今、諸葛亮に求められているものは別のものだ。発言の許可を求めて劉備を見やると、促してきたので、立ち上がった。
「寡兵で大軍に勝つことは、さほど難しいことではありません。特に皆様方は少数精鋭で戦を生き抜いてきたつわもの揃い。この点では、精兵である曹軍にも引けを取りません」
 当たりめえだ、と張飛が呟く。規律はやや緩いものの、絆はそれを補うほど強い。曹操と同じ道を歩みたくない、と言った劉備の言葉を裏付けるような、軍紀と正確な鍛錬で鍛え上げられた曹操の軍と真逆である。
「先日、北方の土地を見て回る機会を得ました。寡兵で大軍を破るに最適な場所があります。そこへ敵を誘い込みます」
 孫乾の用意してくれた新野近辺と北方の地形を描いた地図が、壁に掛かっている。歩み寄り、羽扇の先で指し示す。博望(はくぼう)、とそこには書かれていた。
「道は狭く、辺りは木々が生い茂り、伏兵を置くには最適です。まずは正面からぶつかり、敵わぬ、と退いてみせる。追いかけてきた敵兵は、狭い道で細く長く伸び、足の遅い輜重隊、歩兵、騎馬隊で軍は分断されます。そこへ火を放つ。後は簡単な話です。慌てふためいた敵を倒すのは皆様方にとっては嚢中(のうちゅう)の物を探るようなものでしょう」
 策を説明する諸葛亮だが、皆の顔は半信半疑だ。全員の心情を代表するように関羽が言う。
「言うは易く行うは難し、というが?」
「案ずるより産むが易し、とも申します」
 即座に返す。負けじと関羽も続けた。
「机上の空論に過ぎないのではないか」
「もちろん、私の示した策以外に何かありましたら、変えてもらっても構いません。しかし分別過ぐれば愚に返ります。何より、今は火急の時。決断は早めが良いかと」
「そのようなこと、お主に言われるまでもない」
 苦々しげに言い、関羽は場内を見渡す。誰か他に進言してくる者は居ないか、という関羽の眼差しに、沈黙だけが答える。諸葛亮は重ねて言う。
「私の策は試す価値もありませんか」
「試す、などと軽々しい思いか」
「軽々しく聞こえたのなら、私の責任です。所詮、私は戦を経験したことがありません。関羽殿のおっしゃるとおり、文字通り、文卓の前で考えた代物。実戦で通じるのか、と聞かれれば確証はありません。だからこそ、関羽殿や実際に戦の経験がおありの方々から意見を承りたいのです」
「私は諸葛亮殿の策、試してみたい、と思いました」
 趙雲が言った。まさか趙雲が賛同してくるとは思っていなかったのか、関羽は驚いた面容を見せた。
「趙雲、お主も試すなどと」
「何事もそうでしょう。初めてのことならば、試してみないと分かりません」
 にこり、と趙雲は笑う。趙雲の気負ったもののない真っ直ぐな笑みに、諸葛亮は救われる。
「直接体を張る趙雲が言うと、重みが違うよなあ」
 軽い口調で口を挟んだのは、簡雍だ。緊迫した空気も彼にかかると、特技なのか欠点なのか、大したことのないように聞こえてくる。
「俺も、やってみる価値があると思ったけど? ま、俺は直接戦うわけじゃないから、強くは勧めないけどさ」
 他、糜竺や孫乾も簡雍に賛成するように頷いているところを見ると、そもそも劉備の組織は武官役である関羽や張飛の影響力が大きいらしい。こうして軍議を開いても、ほとんどの場合は関羽たちの意見で押し切られていたのかもしれない。
 常に関羽たち主導で策が練られていたのなら、見方も偏るし、文官役からの意見も本人たちが意識しなくとも萎縮して出なくなってしまうものだ。
「あの辺りは大きな集落もありませんし、火をかけたとしても平気でしょう」
 事実、諸葛亮はともかくとして、まだ組織に染まっていない伊籍が、気負った様子もなく口添えをしてきたのが証拠だろう。
 趙雲や簡雍といった思わぬ面子から諸葛亮の支持が入り、関羽の眉宇は一気に曇った。彼の自尊心は、髯の美しさと同じぐらい磨きがかっている。平時であったならさらに理屈を並べてきたかもしれないが、場合が場合だ。
 低い声で諸葛亮へ訊いてきた。
「具体的な役目は決まっているのか」
「初めに正面からぶつかり、退き際を見極めて敵を連れてくる役、趙雲殿が相応しいと思います。追ってきた敵兵へ火を放つのは、関平殿や劉封殿に。取り残された殿(しんがり)を攻めるを関羽殿、中ほどの兵たちは逃げ出すでしょうから、それを仕留めるのは張飛殿がよろしいかと」
「軍師殿はいかがされる」
 瞼を一度閉じ、ゆっくりと開いた。
「実践躬行(じっせんきゅうこう)(自分で実際に行動すること)しなくてはならないでしょう。先ほども申した通り、私は、戦場は未体験です。後(のち)のことも考え、どこぞに組み込んでいただき……」
「孔明!」
 諸葛亮の言葉を遮って声を上げたのは、今まで黙って成り行きを見守っていた劉備だった。劉備とて、諸葛亮を援護したかっただろうが、自分が諸葛亮を庇えば、また関羽たちの機嫌は悪くなり、今からの戦に支障をきたす、と考えたらしい。諸葛亮が自然と周りから支持されるのを信じ、口を噤んでいたが、諸葛亮の思わぬ提案に辛抱堪らなかったようだ。
「お前は武人ではないのだ。安易な気持ちで戦に混じってもしものことがあれば」
「安易ではございません。前々より考えていたことでございます」
「しかし!」
 殿、と静かに呼びかける。
「殿が私の身を案じて止めてくださることは、嬉しく思います。それでも、私は戦に身を投じないとなりません。これから貴方が望む天を得るために何度も戦をせねばならないでしょう。私が示した道です。私が率先して拓かなければ道理が通りません」
 まだ反論したそうにしている劉備に被せるように、関羽が尋ねた。
「馬は」
「ある程度は乗れます」
「剣は」
「真似事でしたら」
「新兵並か。ならば拙者の傍だ、軍師殿。兄者が案ずるようなことには拙者がさせぬが、重々油断せず、足手まといにはならぬよう」
「雲長! 勝手に話を……」
 非難の声を上げた劉備を諸葛亮は真っ直ぐ射抜いた。
 ご理解ください。これは私自身の問題であり、私と関羽殿との問題です。
 思いが通じたのか、劉備はぐっと何かを飲み込んで、浮かしていた腰を乱暴に落とした。小さく頷いたのを見てから関羽へ向き直れば、変わらず胸裏すら見抜いてくれる、とばかりに眼差しは鋭かった。



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