「言絡繰り 4」
劉備、博望坡にて諸葛亮の初陣を見守るも 2
諸葛亮×劉備


 劉備の執務室の前に着くと、形ばかりだが衛兵がいるはずの姿がなかったものの、不思議に思う前に合点が行く。部屋の外へ漏れるほどの大声で、張飛が喚いているのだ。人払いをした、というか、衛兵は追い払われたのだろう。
 どうしたものか、と部屋の外でしばし佇むが、
「だから、あの水の野郎ともう少し離れろって言ってんだ!」
 水の野郎、という張飛の諸葛亮を詰(なじ)るときの文句を耳にして、様子を窺うことに決めた。少々礼儀に欠けるが、幸い誰も居ない。するするっと戸に近寄って耳を押し当てて中の声を拾う。
「この間だって、俺や雲長の兄者に内緒で許都行っちまうし、それを迎えに行ったのがどうしてあいつなんだ!」
「それは、孔明が先に気付いたからだろう」
 劉備の声がした。
「俺たちに相談無しで行きやがった!」
 相談している暇がなかったのです、と諸葛亮は心の中で答える。
「お前たちが孔明を邪険にしているから、相談しづらかったのではないか?」
 それもあります、とこれまた心の中で答えた。
「だって、兄者があいつばっかり構うから! この間だって、兄者とあいつだけで劉gの所へ行ったんだろう?」
「憲和(けんわ)(簡雍)も居たぞ」
「旨い酒飲んだって聞いた」
「あいつ、余計なことを……てか、まさかお前、旨い酒を飲めなかったことを拗ねてるだけじゃないだろうな?」
 劉備が尋ねると、沈黙が返って来た。図星らしく、やれやれ、と劉備の呆れた声が聞こえる。諸葛亮も同感である。
「それだけじゃねえよ! あいつ、また最近俺たちの調練に口出してきやがって、こうした方がいい、ああした方が効率良くないか、とか煩いんだ。俺たちは俺たちのやり方で今までやってきたんだ。なんで急に加わった奴に文句を付けられなくちゃならないんだよ」
 文句ではなく、助言のつもりなのですが。
「そうは言うが、元直(げんちょく)のときにお前も経験しただろう。違う観点からも兵は束ねられ、統率の取れた動きをする。あの時、お前だって納得していたじゃないか」
 元直とは、諸葛亮の古い友人である徐庶(じょしょ)元直のことだ。そもそも、諸葛亮と劉備を引き合わせたのも、彼だった。元々劉備の軍師だったが、今は母親を人質に取られた形で、曹操に仕えている。
「そりゃそうだけど、徐庶と水は違う!」
「何が違う」
「何か違う!!」
「餓鬼じゃないんだから、翼徳、そんな言い分は認められんぞ」
 そうは言っても、殿も似たようなことおっしゃいますけどもね、と感情論の得意な劉備の言葉の数々を思い出す諸葛亮だった。張飛は劉備に言い切られて、ううぅ、と唸っていたが、唸り声と共に言葉を吐き出した。
「……何か、何か……違う。徐庶と兄者はただ仲良かっただけだけど、水野郎とは……何か、お、想い人同士みたいなさあ……」
「誰が想い人ですかーー!」
 ためらうことなく戸を勢い良く開けて、つっこんだ。
「そも、その強面鬚面で良くそんな恥ずかしいことを言えますね!!」
 びしり、と羽扇の先で張飛を指すと、張飛は真っ赤な顔をして言い返した。
「俺だって恥ずかしいよ! 大体、俺だって言いたかねえ! 言いたかねえけど、そう思えたんだから仕方ねえだろう!」
「誰と誰がお、想い人ですか……て、そんなに赤くなられては、私も恥ずかしくなるではありませんか!」
 顔を赤らめた長身の男と大柄な男に挟まれて、劉備はしばらく呆然としていたらしいが、あー、と言いながら頭を掻いた。
「そう、見えたか?」
「殿、聞き返さないでください。話がややこしくなります」
「兄として弟の疑問は真摯に受け止め、答えてやらねばならないと思うのだ」
「必要ありません! 兄の義務とかの前に、君主としての義務を果たしてください! 部屋汚いです!」
「汚くない! 快適だ!」
「汚いって意見には俺も賛同するけど」
「翼徳!」
「とにかく、張飛殿の見解は綺麗に否定させていただきます」
 たとえ、勢いで体を二回も重ねている関係だとしても、です! あ〜、思い出してしまいました、顔が熱いですよ!
 せっかくこの所忘れていたのに、張飛のおかげで思い出してしまった。熱くなった顔を冷ますためにも、急いで羽扇を扇いで誤魔化した。
「ところでおめぇ、今のつっこみ、立ち聞きしてたってことか?」
 じろり、と張飛に睨み付けられるが、羽扇の生み出した涼しい風で頭も冷やした諸葛亮は、微笑さえ浮かべて小首を傾げた。
「殿に呼ばれまして参ったのですが、声をかける前に戸の外まで聞こえる声で張飛殿がお話になっていたので。立ち聞きも何もありません」
「けっ、屁理屈だけは達者だよな、おめぇはさ」
「翼徳、そうやって突っかかるのはよせ」
 間に入って取り成そうとする劉備だったが、逆効果だったらしく張飛の太い眉がぎりぎりと吊り上がる。
「兄者はそうやって、いつもいつもこいつを庇ってよ。結局、兄者にとって俺たちとこいつ、どっちが好きなんだよ!」
「どっちとか、そういう比べる問題ではないだろう」
 どちらかといえば、劉備も人をからかったり屁理屈を捏ねて困らせる方だが、こと末の弟にかかると、やはり兄という立場上なのか、諭すことが多いらしく、弱り果てたように苦笑している。
「俺にとっては大問題だ!」
「ならば、お前にとって私と雲長、どちらが好きだ」
 途端、ううぅ、とまた張飛は唸り始めた。どっちだ、と重ねて問われて、唸り声は大きくなり、搾り出すように言う。
「決めらんねえよ」
「私の答えも同じだ。それよりもはっきりしているぞ。私は翼徳も雲長も、孔明も大事で、大好きだ」
 衒(てら)いなく宣言されて、張飛は元より、諸葛亮の頬も熱くなる。臆面もなく嬉しそうに言われると、反応に困る。もちろん、その後に子龍も子仲(しちゅう)(糜竺)も公祐(こうゆう)(孫乾)も好きだ、と続くとしても、恥ずかしい。
「お、俺だって兄者と雲長の兄者、両方とも好きだ!」
 童のように言い返した張飛は、再び諸葛亮をどんぐり眼(まなこ)でねめつける。
「じゃあよ、おめぇはどうなんだよ。おめぇは兄者、好きなんだろうな」
 これ以上、張飛たちとの関係を悪化させることは、この先慌ただしくなる情勢からしても避けたいところだ。しかし、本人の前で好きか嫌いかなどと答えるのはためらわれる。この間は、糜竺に似たようなことを訊かれて、素直に敬愛している、と口にしたものの、本来諸葛亮は感情をあからさまに表へ出すのは苦手なのだ。
 おかげで怒っているときも笑って見えるのか、「氷結の微笑」などと言われているのも知っている。張飛のように喜怒哀楽がはっきりしている人間とは真逆だ。
 信条は、自己を律し、いついかなるときも自分を見失わないこと。
 酒が嫌いなのも、表情を読まれたくないので羽扇を持ったのも、すべてそこへ起因する。自己を保とうとする諸葛亮を乱す存在は、遠慮無しに胸中へ踏み込んでくる劉備だけで充分だ。
 と、ここまで瞬き一回分の思考である。さて、どう答えようか、と思案するが、情勢は思わぬところから変化した。
「玄徳ー、居るかー」
 窓の外から簡雍の声だ。相変わらず、この男の出入り口は窓らしい。中を覗き込んで思わぬ顔ぶれに驚いた様子だが、劉備が良いも悪いも言う前に、窓枠に腕をかけて興味津々の様子でにやにやと笑い始める。劉備の昔馴染みで、誰に対しても変わらない態度を取る、馴れ馴れしい男だがどこか憎めない。これまた諸葛亮とは真反対の人間で、どちらかといえば張飛と性質は似ているのだろう。
「なに、何の話してたんだ?」
 どう見ても朗らかに、食事も楽しくなる面子、でもないだろうに、簡雍はへらへらしながらのん気に尋ねてきて、この状況を楽しんでいるようにしか見えない。張飛がちらり、と簡雍を見やって答えた。
「こいつが、兄者のこと好きか嫌いか訊いてんだ」
「ははぁん? 面白いこと訊くんだな、大将は」
 簡雍は張飛のことを「大将」と呼んでいた。
「訊くまでもなく、諸葛亮は玄徳のこと好きだろう? だって玄徳と乳くり……っあいたーっ?」
 何かを言いかけた簡雍の頭を、劉備が思い切り殴っていた。胸倉を掴んで揺すりながら、劉備は低い声で脅している。
「おかしいなあ、憲和〜? 確かあの後、何度か殴って記憶を消したはずだが、まだ足りなかったか〜?」
「う、嘘嘘嘘、忘れた、忘れた、忘れました、ははー、何のことかなー? 大将も、とにかくそんなこと訊くまでもないだろう? こんなどうしようもない奴に仕えてるんだ。それだけで俺は、充分に称賛に値するけど?」
 劉備と簡雍はいったい何の話をしているのか、気になったのは諸葛亮だけだったらしく、頭に血が上っている張飛は諸葛亮を弁護した簡雍に食って掛かった。
「簡雍、おめぇいつから水の味方になりやがった! この間まで、糞真面目で面白味がなくて、つまらねえって文句つけてたじゃねえか!」
「いや、それがさ、そうでもないんだって。何なら、今度大将と諸葛亮、差しで酒でも飲んでみなって。絶対に面白いから」
「誰がするか!」
「遠慮いたします」
「やめておいた方がいいぞ」
 初めの声は張飛で、残りは諸葛亮と劉備だが、諸葛亮はもちろん最悪の体験からの拒否なのは当然として、劉備まで止めるとは不可解だ。恐らく、酒を飲んで記憶を失った間に何かあった、ということだろうが、劉備に尋ねても誤魔化すのだ。諸葛亮としては、未だに納得いかない記憶喪失の件だった。
「面白いのに」
「面白がるな。大体憲和、お前はいったい何しに来たんだ?」
 ようやく、劉備がもっともな疑問を口にした。ああ、そうそう、と思い出したように簡雍が袂(たもと)に手を突っ込んで、小さく折り畳んだ布切れを差し出し、これ、預かった、と言った。誰から、とは口にしないし、劉備も訊かないで受け取ったところを見ると、差出人は承知している、ということだろうか。
 無言で開いて、劉備はさっと中に書かれている字を読むと、珍しく深いため息をついて眉間に皺を作った。
「翼徳、お前はいい加減、孔明を嫌っている場合ではないぞ」
 どういうことだよ、と張飛は聞き返さなかった。諸葛亮も同じだ。
「曹操が動きましたか」
「まだ詳細は掴んでおらんが、近々出兵の様子らしい。情報が揃い次第、軍議を開こう。早ければ明日午後、明後日には確実だ。憲和、伝達と集合、頼む」
「あいよ。孫乾は伊籍んところだけど、どうする」
「早ければ夕刻には戻る、と言っていました」
 諸葛亮が口を挟んだ。なぜか簡雍は各人の居所を良く掴んでいる。先ほど諸葛亮が孫乾に頼んだ事柄まで知っているとは驚きだが、こういう時は実に頼りになる。
「じゃあ大丈夫か。それじゃ、ちょっくら行って来る」
 簡雍が姿を消し、部屋には変わらず不機嫌そうな張飛と、難しい顔をした諸葛亮と劉備が取り残された。
「張飛殿、貴方の力が必要なときが来ました。何分、勝手の分からない若輩者ですが、どうかお力添え、よろしくお願いいたします」
 本当に、いがみ合っている時間などない。諸葛亮は真っ直ぐに張飛へと向き直り、丁寧に拱手した。
「……誰もおめぇの力なんぞ頼りにしてねえ」
「翼徳!」
 叱る劉備をそっと制して、諸葛亮は微笑んだ。
「はい、理解しております。私は少々智慧を出させていただくだけでしょう。あとは張飛殿や関羽殿にお任せいたしますので」
「……」
 下手に出る諸葛亮へ、張飛は一睨みしたが今度は何も言わずに、ふいっと顔を背けて部屋を出ていった。
「すまん、孔明」
 座るように促されて、諸葛亮は劉備と向かい合うが、頭を下げられてまた制した。
「いいえ、張飛殿は貴方を慕うあまりの言動でしょう。察しています」
 感情が表に出やすい、ということは考えていることが容易く伝わってくる。張飛から感じ取れるのは、兄を取られそうな少々子供じみた嫉妬と、純粋なる兄を想う心だ。田舎の片隅でついこの間まで畑を耕して暮らしていたような若造に、敬愛する兄が傾倒しているのが、心配でならないのだろう。
 兄弟を想う気持ちは、弟でもあり兄でもある諸葛亮には充分理解できる想いだ。だからこそ、なるべくなら衝突は避けたい。
「それよりも、曹操のほうです。私をお呼びになったのも、もしや?」
「うむ、先ほど憲和が持ってきた情報の他に、出兵の気配を掴んでいたので相談を、と思ったのだが」
「私のほうでも、ある程度掴んでおりましたが」
 諸葛亮は劉備に仕える前、まだ晴耕雨読の生活を営んでいた時分、各地を遊学していたことがある。その時に、世の動きが分かる情報通と繋がりを持っていた。しかし劉備は劉備で独自の情報網を持っているらしく、諸葛亮と同等かそれ以上の量を仕入れていたりする。
 どういった手段で、どういう人材なのか、いつか知っておかねばならないだろうが、劉備に話す気配がないうちは、訊くまい、と決めていた。今のところ自身の網だけで事足りているし、聞き出して統合してしまうよりは、引き続き違う方面からの情報があったほうが助かる。
 何より、普段は劉備の執務室などただの汚い物置である、主不在の部屋であるが、こうして大事が迫るときはさすがに在住してくれているし、情報提供もしてくれるため、不便さはなかった。
「曹操側の具体的な兵力や指揮官が決まりませんと策も明示できませんが、幾つか用意はあります。先日、殿が許都へ無断で出かけられた折の帰路でも、北部の地形も確認できましたし」
「お前もその話を出すな」
 渋面になる劉備だったが、頼もしいな、とすぐに笑顔になる。屈託のない、信頼し切った笑みに、落ち着かない気分になる。ああ、またこれだ、と真っ直ぐに見つめられなくなってしまった劉備の笑顔に、諸葛亮は目を伏せた。
「あとは、翼徳たちか」
 目を上げれば、劉備は腕を組んで唇を引き結んでいる。義弟たちの諸葛亮への反発心は劉備も悩みの種であるようだ。
「嫌われる分には、私は構わないと思っています」
 何を言い出すのだ、と劉備の表情が不審がる。
「策を弄する側として、実際に戦地に赴いて戦ってくださる方々とは必要以上に馴れ合わないほうが、心情としては楽なのです。あまり情を深く持ってしまうと、冷徹な指示を出すことにためらってしまう。最低限、私の最良と思われる策を汲んでくださり、感情の混じらない反論なり賛成なりをしてもらえれば充分です」
「……それは」
 諸葛亮の言い分に何かを言いかけて、劉備は口を開きすぐ閉じて、なぜか少しだけ顔を伏せた。
「お前のことは私が認めているし、な。だからお前は安心して策を振るってくれ。そのうち、きっとあいつらも分かってくれる」
 顔を上げて微笑んだ劉備に、今度は不思議と素直に喜べ、笑みが浮かんだ。



 孫乾は夕刻には、と言っていた通り、夕日が落ちる前に伊籍を連れて新野へと戻ってきた。話の内容が内容なので、諸葛亮と劉備、伊籍の三人で会談することにした。
「大体のことは書簡と孫乾殿からの話で」
 突然の招きに謝辞と礼を述べた諸葛亮へ、伊籍は頷いた。戦のない土地に長年住んでいたせいなのか、伊籍機伯(きはく)という男からは温柔そうな雰囲気が漂っている。そもそもは州牧になった劉表へ同郷ということもあり、役立てることはないか、と移り住んできたという。だから当然、劉表預かりの幕客なのだが、劉備の人柄に傾倒し、先日追従する、という話になった。どうやら、劉表にも正式に断りを入れたらしく、劉表自身からもよろしく、と頼まれていた。
「劉g殿と共に江夏へ参れば、ということでしたね」
 伊籍はもちろん、劉表内部の事情にも精通している。すぐに自分に与えられた役割を理解し、承諾してくれた。劉gの立場の危うさには、伊籍も心を痛めていたらしく、むしろ身の安全が図れる案を出してくれた諸葛亮へ感謝の言葉を口にした。
「しかし、劉備殿」
 劉備へ向き直り、伊籍が言った。
「どうして貴方は荊州を奪取されないのですか」
 諸葛亮は目を瞬き、劉備は苦笑した。伊籍にとっては世話にもなった劉表が治めている土地だ。いくら劉備が傾倒した相手だからとこうもあっさりと奪うことを献策してくるとは、驚きだ。孫乾や糜竺から、伊籍はただの大人しそうな男ではない、と小耳には挟んでいたが、その一端を垣間見たのは初めてだ。
「しかも、劉(表)州牧には貴方にお譲りする意思まであります。奪取、とまではいかなくとも、平和な方法で荊州を手に入れることは可能です」
 それは幾度も諸葛亮が進言してきたことでもある。しかし劉備は感情論で否定してきた。一時は納得できずに嫌味を口にしたり責めたりしたこともあるが、最後には納得した。
 曹操と同じ道(しゅだん)は取りたくない、という劉備の心情を酌んだからだ。
「劉表殿には、長年荊州で世話になった。世話になった相手を裏切るようなこと、義に反するし、私は伊籍殿と同じく劉表殿を好いている。それらを慮れば、やはり幾ら恩人が勧めるからと言って、劉表殿や伊籍殿が築き上げた大事な土地を貰い受けるわけにはいかんよ」
 諸葛亮が初めて荊州奪取の策を論じたときと同じことを、劉備は伊籍にも言う。恐らく、この言葉も嘘ではないのだろう。事実、伊籍は劉表を認める劉備の胸のうちが嬉しいらしく、笑みを浮かべた。
「貴方らしいご理由です。義や情を持ち出されては、景升(けいしょう)殿(劉表)から離れた私など何も申せません」
「いや、私は伊籍殿が臣になってくれて、嬉しかった。義や情に縛られない考えが大事な時もあろう」
「仮に、伊籍殿の献策通り、殿が荊州を継いだとしても、今の状況では余分な内紛を呼ぶだけでしょう。蔡(瑁)将軍の動向にも、情報が入り次第お知らせ願えれば、と思います」
 言葉を添える。劉j側の人間が力を持っている現在では、劉備にせよ、劉gにせよ、継いだら最後、燻っている内乱の火種は一気に火を噴く。
「ええ、分かりました。……将軍も、ただ荊州を好いているだけなのですけどもねえ」
 憂い顔になる伊籍は、人懐こい温良そうな男に戻っていた。
 それから三人で連絡手段の打ち合わせや、曹操の南征への対抗策の案などを出し、明日か明後日に開く予定の軍議に伊籍も参加することを決めたときには、夜は深く更けてしまい、、劉備が気付いて謝った。
「申し訳ない、食事もまだだったな。すぐに用意させる」
 すると、いえ、と伊籍はなぜか急にそわそわし始めて、断った。礼儀の上での三度の断りかと思い、再三劉備が勧めたが、言い辛そうに説明してくれた。
「孫乾殿に誘われていまして、食事もご馳走になることになっているので、劉備殿のお誘いは嬉しいのですが」
 なぜか伊籍の頬が少し赤い。諸葛亮は首を傾げながらも言った。
「孫乾殿の料理はとても美味しいですしね。そういうことでしたら話も大体終わりましたので」
「はい、せっかくのお誘い、申し訳ありません。次回はぜひ」
「こちらこそ、遅くまで引き止めてしまい申し訳ありませんでした。供をお付けしましょうか」
「幾ら遅くなっても良い、と孫乾殿がおっしゃっていましたし、家は知っておりますので大丈夫です」
 伊籍と孫乾が茶飲み友達であることは知っていたが、そこまで親しいとは諸葛亮にとっては驚きだ。もしかしたら伊籍が劉備に追従を申し出たのも、劉備に傾倒した他にも、孫乾の人柄、交渉の賜物なのかも知れない。おかげで、荊州で力を持ち、有能でもある男を味方に付けられた。劉備にとってはありがたいことだったと思い、感想を漏らした。
「伊籍殿と孫乾殿が親しい、というのは、殿にとってはもちろんですが、私としても喜ばしいことです。これからもよろしくお願いします」
 すると、先ほどの比ではないほどに伊籍はそわそわとして、頬が心なしか先ほどよりも赤味を帯びた。
「ああ、いえ、親しい、というか友人として、ということで……その、友人以上のことは何も……ああ、では失礼いたします……!」
 口篭りながら、慌てて立ち上がって退室してしまった。劉備と二人で今のはなんだ、と顔を見合わせたが、首を捻るばかりだ。
「……それにしても、伊籍殿は随分とあっさり納得してくださいましたね」
「ん? ああ、荊州の奪取のことか?」
 二人きりになったところで、諸葛亮が心に引っかかった思いを口にすると、劉備がからかうような笑みで見つめてきた。
「お前はぜんっぜん納得しなかったものな」
「当たり前です。そもそも殿は説明も足りなければ理屈も足りません。あれだけで人を納得出来るとお思いですか。誰も彼もが貴方に心酔し、言葉を交わしただけで得心してくれるなどと、まさか思っていないでしょうね?」
 何となく腹立たしくなり、説諭する口調になってしまう。
「そりゃ思ってない。思ってないが、口が足らんことは認めるな。ただ、伊籍殿はそういう私の口下手なところも酌んで、何か察してくれたように私は見えたがな。伊籍殿とて、あれだけで到底納得はしなかったと思う」
「そうでしょうか」
「何だかんだと、劉表殿も私もあの男を信頼している。つまり、それだけの器(もの)が伊籍殿にはある、ということだ。まあ、伊籍殿との付き合いも長くなったしなあ」
 では劉備の心情を察せず、幾度も献策を訴え続けた自分は、劉備のことを分かっていない、と言うことか。胸の奥の思いのまま諸葛亮の舌が勝手に動いた。
「私はまだ若輩ですし、殿のお心を察すことにも疎く、まだまだですしね」
「何だ、拗ねたのか?」
 言葉の裏にひそんだ暗い思いに劉備はすぐさま気付き、突いてきた。口が足りないわりに、そういうところには常に敏感だ。知らず、眉が寄った。
「己の未熟さを反省しているだけです」
「そうか? まあお前は私の胸のうちを探る前に、自身の思いを少しは口に出してもらいたいものだ」
「出しております。まだ民政や軍備、策など足りなければ今以上に進言いたします」
「そういうことじゃないんだが……」
 とにかく、と劉備の腕が伸びて、強い力で肩を叩いてきた。よろしく、ということらしく、そのまま劉備は立ち上がった。飯にしよう、と屈託なく笑われると、諸葛亮も空腹を思い出し、頷いた。



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