「言絡繰り 4」
劉備、博望坡にて諸葛亮の初陣を見守るも 1
諸葛亮×劉備


 『(げん)


 滑らかに紡ぎ出されるもの。
 流るる水のごとく、涼やかに、滔々(とうとう)と流るる。

 自分が男を表した二つ名と同じように。

 特に男が操るそれは、高尚な楽を詩を歌を聴くがごとく。
 聞き惚れ、身を委ね、知らずに心を動かされる。

 心地良い響き。
 自分は男の声を聴いていることが好きだ。
 水のせせらぎのごとく、清い。
 ただ時に、水は濁流となり押し寄せるように、
 かの響きも人を押し流さんと、牙を剥く。

 痛い辛い怖い。

 まるであの涼やかさは嘘であったかのように、
 人を迷わせ、狂わせ、惑わす。

 そうだ、と気付く。
 それとはそういう両面を持つものだった、と
 ようやく自分は気付くのだ。
 男はその孕んだ両面を巧みに操り、形を織り成す。
 綺麗だ、とやはり自分は感じてしまう。

 だが――

 まるで人へ向けた奔流に、
 自分も飲み込まれてしまったかのような顔をする男へ、
 自分はどうしたら良いのだろう。

 痛い、辛い、怖い。

 声にならない声で泣き叫ぶ男へ、
 差し出せるものは何であろうか。
 自分には、何もない。
 男のように人の心を慰めるそれは持っていない。

 流されかけ、溺れそうな男をどう救えばよいのだろう。

 自分には――何もない……。



【〜劉備、博望坡にて諸葛亮の初陣を見守るも〜】


 回廊を足早に歩く諸葛亮の鼻先に、ぷ〜ん、と酒の香りが漂ってきた。つい先日、二日酔い、という諸葛亮二八年間史上最悪の目にあった自分としては、しばらく酒とは無縁の生活を送りたかった上に、十中八九匂いの元の人物であると考えられる男と顔を突き合わせたくなかった。
 反射的に中庭へ飛び降りて、茂みに身を隠す。すぐにどすどす、と重そうな足音とさらに強まった酒の香りとともに、虎鬚を蓄えた強面の大男が、諸葛亮が歩いてきた方向から姿を現す。諸葛亮の仕える主、劉備の義弟、張飛だ。
 また、昼間から酒を飲んでいるのですか、この人は!
 飽きれながらも、三度の飯より酒が好きな男が、酒を飲みながらのわりに機嫌悪そうにしているので、鉢合わせにならなくて良かった、と己の判断を評価した。何せこの男とは出会う前から印象が悪い。事もあろうに、諸葛亮が劉備を待ちぼうけにさせたから、と怒り狂って、諸葛亮の大事な一軒屋に火を放とうとしてくれたのだ。
 劉備が諸葛亮を迎えたい、と訪れるたびに陰から様子を窺っていた諸葛亮は、当然三度目の劉備の訪問中に昼寝をしていたことも狸寝入りだったが、張飛の怒鳴り声を聞いて危うく飛び起きそうになった。
 劉玄徳という漢を見極めようという、大事な策を台無しにされそうになって以来、どうも諸葛亮は張飛という粗野な男が苦手になっていた。そこに、向こうは向こうで大切な義兄が片田舎の若造にすっかり心酔していることが気に入らないらしく、嫌っている。
 どう頑張っても歩み寄れそうにない。
 それでも、劉備から民政や軍事について任され始めている身としては、軍の中核を担っている張飛といつまでも距離を縮められないままでは不味い。そう思って時々はにこやかに話しかけようと努力はしているのだが、けんもほろろな態度を取られて困っている最中であった。
 最近では、どうせ顔を合わせれば嫌味の一つでも言われる、と思うと、つい今のように物陰に隠れてやり過ごそうとしてしまう。先日もこの状態の打破を計ろうと、古参の臣下である糜竺(びじく)に相談したばかりである。その時に簡雍(かんよう)が潤滑油になるだろう、との助言をもらった。
 簡雍殿に、きっかけを頼んでみましょうか。
 なぜか、先日から急に諸葛亮に馴れ馴れしい態度を取るようになった男の顔を思い浮かべて思案していると、
「何をしていらっしゃるのです、諸葛亮殿?」
 背後から声をかけられて、飛び上がらんばかりに驚いた。それを何とか押し殺して、表情だけは変わらずに振り返り、声の主を見とめて微笑んだ。
「孫乾殿でしたか。いえ、少々……」
 土いじりを、と説得力のない言い訳をしようとも思ったのだが、相手が相手であるし誤魔化すこともないか、と思い直した。
「張飛殿から隠れておりました」
 劉備が徐州の州牧をしていた頃に仕えた古株の文官、孫乾は、ああ、と常に浮かべている微笑に小さな苦笑を滲ませて納得してくれた。諸葛亮が張飛だけでなく、関羽も含め、義弟たちに疎まれていることを、孫乾も重々承知していた。
「もう行かれたようですし、大丈夫ですよ」
 回廊の先へ視線を向けて、身辺の安全を慮(おもんばか)ってくれたので、礼を言いつつ立ち上がると、孫乾に頼もうとしていた事柄を思い出す。
「孫乾殿に一つ頼みたいことがあるのですけど」
「はい、なんでしょう」
「お手間を取らせるのですが、襄陽へ行って伊籍殿に会ってもらってもよろしいでしょうか」
「ええ、構いませんよ」
 にこり、と微笑む顔は諸葛亮の心を和ませる。
 仕える年数や歳から考えれば、諸葛亮より孫乾のほうが上位となるだろうが、劉備が諸葛亮の能力を買っていること、なおかつそれに見合う実力を確かに持っていることを孫乾はきちんと自分の目で確かめてくれている。元から当たり良く接してくれていたので、諸葛亮自身も悪い感情など持っていなかったが、孫乾の有能さと人柄にすっかり親しみを覚えていた。若輩者で仕えてから日が浅いことなど気にした様子もなく、諸葛亮が改革を行っている民政の重要な支えであり、こうして細かな依頼も快く答えてくれる。
「申し訳ありません、このような使い走りのようなことをさせてしまい」
「人手が足りないのは、私が一番存じていますし……それに、何か共に届ける物もありそうですね」
「察しが良いのは助かります。これをお渡し願えれば、と」
 懐から、先ほど認(したた)めたばかりの書簡を取り出して渡す。生真面目な彼らしく拱手して受け取り、中身を問うように見つめてきた。伊籍が渋ることはないと思うが、もしもの時のことを考えて説得してもらおうと孫乾を選んだので、事情を説明しなくては意味がない。小さく頷いて、蔡瑁(さいぼう)の手の者が居ないことは承知しているが、念のために辺りを見回して人の気配がないことを確認して、声を低めて告げた。
「伊籍殿に、劉g(りゅうき)殿の江夏(こうか)行きの同行をしていただきたい、と思いまして、その願文(ことねがいのふみ)です」
 細めの孫乾の目が小さく見開かれた。
「劉g殿の立場が危ういことはご存知かと思いますが、劉g殿ご自身もすっかり今の状況に悩んでおられ、先日相談の上、江夏の太守になることを勧めました。その際に、こちらと、劉(りゅう)表(ひょう)側との橋渡しが出来る人物を供に付けたほうが、ということになりまして」
 今、荊州は老い先短い州牧、劉表の跡継ぎを長子の劉gにするか、次子の劉j(りゅうそう)にするか揉めている。目下の外敵、曹操がそろそろ南征の気配を見せているときにのん気なことだが、起こっていることは仕方が無い。そして、関係ないこと、と高みの見物を決め込めない劉備の立場もまた、苦しかった。
 劉jは劉表の後妻、蔡夫人の子である。蔡夫人はまた、劉表の腹心であり荊州で力を持つ豪族、蔡瑁の妹でもある。当然、夫人と蔡瑁は劉jを推し、困ったことに、蔡瑁は劉備を疎んじ、嫌っていた。もし劉jが荊州牧になれば、劉備は劉表より与えられている土地、新野から追い出され、荊州自体にも居られなくなるだろう。
 そこへ、曹操の南征である。拠り所を失くした劉備軍などひとたまりも無い。劉備の命運もここまで、となるのは火を見るよりも明らかだ。そのような最悪の事態を回避するために、何としても親劉備派でもある劉gを跡継ぎにするしかなかった。
「……伊籍殿を」
 当然、その辺りの事情に精通している孫乾は、供に選んだ人物を評価するもの、と思っていたが、呟いた声色はどこか乗り気ではなさそうだった。小首を傾げて諸葛亮が、何かあるのですか、と訊こうとしたが、すぐに孫乾は口許の笑い皺を深くして頷いた。
「そういうことでしたらお急ぎでしょう。今から行って参ります。上手くいけば夕刻には、伊籍殿と共に戻ってこられます」
 踵を返して去っていく孫乾を見送りながら、なぜか、はぐらかされた、という気がした。簡雍が時々、孫乾の笑顔は曲者なんだぜ、と言うが、なるほど、と諸葛亮は初めて納得した。「鋼鉄の微笑」とも呼ばれる男の笑みは、男の考えも感情も見事に隠してしまうからだ。
 諸葛亮自身、感情を読ませないために表情を殺したりするだけに、悪いことだ、とは思わなかったが、何を言いたかったのだろう、と疑問は残る。しかし、劉備に呼ばれていたことを思い出し、再び回廊を急ぎ足で歩み始めた。



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