「言絡繰り・3」
諸葛亮、劉備に騙されて担ぎ出されるも 6
 諸葛亮×劉備


 全身を包む倦怠感と身じろぎするたびに腰に走る鈍痛に、劉備は呻き声を上げる。加減を知らない酔っ払いほど恐ろしいものはない、と末弟の有り様で知っていたはずだが、普段理性に抑えられて隠されている本性を現した者のほうがその数倍も恐ろしい、と劉備の人より波乱に満ちた人生を持ってしても初めて知りえた真実であった。
「玄徳ー? 入ってもいいか?」
 遠慮がちな声が隣室からかかる。いや、遠慮がちなのは声音だけで、裏に込められているのは愉快さと好奇を宿した本音だ。人生の半分以上を共に歩いてきたからこそ分かってしまう、腹立たしい事実である。
「んー、あー」
 特大に不機嫌な声で返事をすれば、ひょっこり顔を出した簡雍の表情は案の定、友の身を案じている風でもなければ気まずそうでもなく、ニヤニヤと悪戯好きの童が新しい遊びを思い付いたような面容をしていた。
 痛む腰を庇ってなんとか着衣と牀台、部屋の状態だけは整えたものの、劉備の精魂はそこで尽き果てて、すぅすぅ気持ち良さそうに寝ている諸葛亮の枕頭でしゃがみ込んでいた。
「大丈夫か?」
「大丈夫に見えるか?」
「全然」
「なら訊くな」
「さっき、夕餉の仕度が整ったって呼びに来たけど、どうする?」
「どうする、と言っても行かないと不味いだろうが」
 牀台に手をついて、何とか体を起こそうとするが、途端に走った腰の痛みに唸った。
「まあまあ、無理するな。ここは俺の出番だろう? 親友に頼りなって」
 劉備に手を貸して、胡床に座らせて簡雍は誇らしげに言うものだから、劉備は胡乱な目付きになってしまう。
「俺がお前たちの分まで劉gを慰めてくるからさ。もちろん、盛り上げもするぜ」
「……」
「そう疑うなよ。確かに、お前と諸葛亮のことは驚いたけどさ」
 てか、孫乾だけじゃなくて、お前もか。
 後半の呟きは聞き取れず、劉備は眉をひそめたが、簡雍は独り言のつもりだったらしく、あえて言い直しはしなかった。
「俺、付いてきて良かったって思ってるんだぜ? どうしても、諸葛亮のこと苦手で調子出なかったのが、こいつの色んな姿見られておもしれえ奴って思えたし」
 だから、こいつとお前を助けてやろうってわけだ。にやり、と笑う簡雍に、なるほど、と悪友の親切ぶりが腑に落ちて劉備は肩を竦めた。
「じゃあ頼む」
 あっさりと言い、任せな、と胸を叩いて出て行こうとする簡雍へ声をかけた。
「水だけ頼む」
「水だけじゃなくて、ちゃんとメシも運んでもらうぜ?」
「当たり前だ。私を飢え死にさせる気か。そうじゃない、水は孔明に必要だ」
 ああ、と頷いて、簡雍の目が半月を描く。実に気分の悪くなる笑顔である(劉備の心境から来る偏見だ)。
「ほんと、お前そいつに甘いな」
「うるさい、早く行け」
 へいへい、と軽い調子で答えてようやく去っていった簡雍だが、劉備は呟く。
「人の記憶を抹消させるには、殴るのが一番だろうか」
 物騒なことをあれこれと画策しているうちに、侍女が水を運んできた。普通ならば主である劉備が使う牀台を占領している臣下(諸葛亮)に不思議そうな顔をしたが、劉備のいつもの仁徳溢れる笑みで誤魔化した。しばらくしたら、お食事もお持ちいたします、と言い残し、侍女は下がっていった。
「私はお前に甘いか?」
 何となく簡雍の言葉を反芻してしまう。
 だが、私とてやや負い目を感じてはいる。私が無理矢理にでもこの乱世に引きずり出さなければ、お前はあの草庵で弟と妻に囲まれて平穏に暮らしていけただろう。
 才能があるのなら、それを生かさずしてどうする。それは世に生きる者たちに対する大罪だ、と劉備の胸裏の襞に必ず引っ掛かる曹操が、鼻で笑いながら言いそうな言葉を思い付く。
 だが、それを言ってしまうのなら、溢れんばかりの才能を持つ者たちを抱えておきながら生かしきれていない私はどうなのだろうな。
 だから劉備は諸葛亮のような人物を求めていた。才能を生かせない己の弱点を補ってくれる人物をずっと探していた。そして見つけた。見つけたらどうしても、何を置いても欲しくなった。
 もしかしたら、己がこれほどに人を欲しがったのは初めてかもしれない。気が付けば劉備を慕って集まってきた人々で成り立っている集団の中で、劉備が能動的に希ったのは、諸葛亮が初めてだったかもしれない。もちろん、別れを惜しみ引き止めた人間は中にはいたが、初めから求めていたのは諸葛亮だけだった。
 嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
 関羽や張飛が嫉妬するのも無理はない、と冷静な部分が肯定すらしていた。多少おっかないところがあろうとも、口煩かろうとも、ましてや主に対して不敬な振る舞いをしようとも、心の底から嫌だと思ったことはなかった。そんな過剰なまでの劉備の想いや期待を聡い男は感じ取り、応えようと日々努力をしている。
 糜竺から、義弟たちに認められずにいることに悩んでいる諸葛亮のことを聞いた。妻たちからは諸葛亮に安らげる場所がないことを責められもした。
 少し、追い詰めていたのだろうか、と不安に駆られた。
 無理をしなくともよい、と伝えたかったが、そう口にすると諸葛亮は否定するだろう。
 無理などしておりません。私をまた若輩者扱いをして見くびるおつもりですか。殿は殿のなさることをきちんとなさってください。
 否定されて、下手をすれば説教に入りかねない。
 素直ではないというべきか、立派だというべきなのか。
 劉備は諸葛亮のように相手を説得させる饒舌な話術など持っていない。それならば自然体で良いのだ、もう少し力を抜いて欲しい、と伝えるにはどうしたらいいのか。考えた末に、手本を見てもらえばいいのか、と結論に達した。
 白羽の矢を劉gに立てた。
 折り良く、劉gからも諸葛亮に会いたい、という打診があったし丁度良い、と思った。劉備から見て、劉gはある頃まではひどく肩肘の張った、荊州を継ぐ者として、劉表の長子として、という自尊心で固まり、それでいてその気負いが生来の体の弱さを招くのか病に伏してばかりいた。ところがあるときから、ふっと肩から力が抜けて、あれほど目に見えていた気負いが消えていたのだ。
 理由を聞いたことはない。ただ、歳を重ねていくうちに迷いが消えることもある。そういった類かと思っている。気負いがなくなったせいか最近の劉gは病に伏せることも少なくなった。諸葛亮と引き合わせるには今しかなかった。
 少々、騙す形になってもいいから、劉gと話をさせてみたかった。結果はすぐに出ないかもしれないが、戻ってきた諸葛亮が説明してくれた話し振りでは好印象を受けたらしいので、無駄ではなかったようだ。
 胡床から腕を伸ばし、寝入っている諸葛亮の頭を撫でた。
「ただその前に、私は自身を省みたほうが良かったのかも知れぬなあ」
 言葉では伝えられないから、と苦手なことから逃れるのではなく、正直に諸葛亮に訊いてみれば良かった。そうすれば、酒の力を借りていたとはいえ、あのように素直な答えが聞けたではないか。
 劉備が触れたせいか、諸葛亮が身じろぎをして目を開いた。
「起こしたか、すまん」
「……殿?」
 寝起きと深酒のせいだろうか。ぼんやりした目付きで周囲を見回して、ようやく諸葛亮は劉備を見とめて、口を開いた。水を器に空けて渡してやると、億劫そうに身を起こしながら受け取る。促されるままに飲み始めると、咽が渇いていたことに気付いたのか、一気に飲み干した。
 もう一杯飲むか、と言えば、はい、と返した。ようやく、双眸にいつもの諸葛亮らしい光が戻ってきたものの、低く唸って頭を押さえた。
「頭が痛いのですが、殿、もしかして私が寝ている間に殴りました?」
「誰がそんなことをするか。そんなことをしてお前の智嚢になにかあったら私が一番困るだろう」
 苦笑して、もう一度器を差し出すと、今度はゆっくり口を付けた。
「二日酔いに決まっている。あれだけ一気に大量に飲んだのだ。そうなるのは当たり前だ」
「……これが二日酔いというやつですか? あの張飛殿をよく苦しめている」
「そうそう」
 可笑しくなって頷く。
「なるほど、あの張飛殿にして唸らせるのですから、これは大した効き目です。やはり酒など飲むものではありません」
「お前の飲み方が不味かっただけだ。本来なら酒は楽しいものだ。今度、ちゃんと嗜み方を教えてやるから、一緒に飲もう」
「はあ……ですけども、このように記憶を失くすのなら、私はなるべく遠慮したいところです」
「何をもったいない……って記憶がないだとっ?」
 大声を出した劉備に、諸葛亮が半身を折って悶えている。どうやら頭痛を刺激してしまったらしい。ううぅ、と唸る諸葛亮を介抱しつつ、声量を落として尋ねる。
「覚えてないって、どこら辺からだ」
「殿に羽交い絞めにされて、簡雍殿が私に無理矢理酒を飲ませて……その辺りからです」
 それはほとんど覚えていないのと同じだ。
 泣き上戸で絡み酒の上で、記憶を喪失するとはなんと性質の悪い酒飲みだ。
 いや、私のあの有り様を覚えておかれなくて良かったと思うべきか。だが、孔明が吐いた弱音もなかったことになり、私が慰めた言葉も届いていないことになってしまっては意味がないのでは?
 頭を抱える。
「殿も二日酔いですか? 困りましたね。もうすぐ夕餉ではありませんか」
「そっちは大丈夫だ。憲和に行ってもらった。それに私は二日酔いではない。あのぐらいの酒で二日酔いなどなるものか」
「ははぁ、やはり普段からさぼって酒を飲みに行かれる方は違いますね」
 厭味を言われて肩をすぼめる。酒を飲んでいようとも二日酔いだろうとも、諸葛亮の舌は鈍らない。
「可愛げのない奴め」
「結構ですよ。私は殿に疎まれるのが職務ですから」
 にこり、と笑ってみせる諸葛亮に、またちくり、と胸が痛む。
「違うぞ、それがお前の役目ではない。私はお前を必要としているし、大事に思っている。可愛げがない、といったのも言葉の綾で」
 すると諸葛亮は不安そうに部屋の外を窺いはじめる。
「雪でも降るのでしょうか。困りましたね、まだ農作物の収穫が済んでいないというのに」
 か、可愛くないな、本当に!
 言葉で諸葛亮を説き伏せることなど、劉備には無理だということだろうか。
「孔明!」
「っですから、そのように大声を……っ殿?」
 ならばやはり実力行使しかあるまい、と劉備は諸葛亮を抱き締める。
「いいか、今言った言葉に嘘偽りはない。騙してなどいない。お前なら、私の言葉の虚実などすぐに見抜けるだろう、孔明?」
「……」
 抵抗するかと思ったが、諸葛亮は大人しく劉備に抱き締められている。二日酔いで暴れる元気もないせいか、とも思ったが違うらしい。
「分かっていますよ、そのようなこと」
 呟く声が耳元で聞こえる。
「孔明?」
 そっと腕を外して、顔を覗き込む。薄暗くなっている部屋では顔色まではっきりと見て取れなかったが、諸葛亮の目元は赤い。諸葛亮の涼やかな目を見つめれば、困ったように視線は外れてしまうが、孔明、と再び呼んで視線を戻させた。
「可愛くないぞ?」
「可愛くなくて結構です。そうやって子供扱いしないでください」
 それはすまなかった、と言って頭を撫でる。
「殿!」
 声を荒げるが、自分の声で二日酔いの頭を揺さぶったらしい。苦悶の表情を浮かべる諸葛亮に、劉備は忍び笑う。
「また、酒を飲もうな」
 お前が弱音を素直に吐けないのなら、お前が嫌がってでも酒を飲ませてやる。お前が安心して臥すことが出来る場所が生まれるまで、私が与えてやる。それが臥龍を起こした私の役目だ。
「嫌ですよ」
「そうか? 酒を飲んだお前は中々可愛かったぞ。本当に何も覚えていないのか」
「はい、何も。ただ……」
「ん?」
「嫌では、ありません」
 どきり、と劉備の心臓は諸葛亮の言葉に躍らされた。
「なぜか、そう思ったことだけ、覚えています」
「……なら、また」
 また、何であろうか。
 また、体を重ねよう。
 また、飲もう。
 どちらとも取れる含みを持たせて、劉備は口篭もる。
「ええ、そうですね、また」
 頷いてくれた諸葛亮の淡い笑みにどちらの返事だろうか、と劉備は考えてしまうが、答えは出そうになかった。
「殿……」
「どうした」
 切なそうな諸葛亮の声に、再びどきっとする。
「気持ち悪いです……」
 げげ、と立ち上がった劉備は、腰の痛みを顧みずに駆け回り、一騒動となったことだけを付け加えておく。



 終幕





 あとがき

 ここまでありがとうございました! 同人誌からの再録です。
 諸葛亮が酔っ払うとどうなるのかなぁ、という知的好奇心(笑)からの産物、とも言える今回、いつの間にか第三弾です。ますます諸葛亮は可愛くなくなり、劉備がオヤジと化していく、このシリーズ、いったいどこへ向かうのか、書いている人も分かりません(なんと)。

 孔明は若いなりに頑張って、でも自分が頑張っていることに中々気付かない。そんな孔明が心配でならないけども、劉備はどうしたいいのか、良く分からない。だって、自分があんまり頑張ってないんだもの(笑)。
 それでも歩み寄ろうとする劉備は、やっぱりぱっくり食べられてしまうのですが、しかしこんな二人がくっつく日が来るのかどうか、やっぱり書いている人にも分かりません。
 長い目でお付き合いいただけましたら、幸いです。

 では、まだ第四弾で。

 2009年8月15日 発行
 2010年5月19日 サイト収録



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