「言絡繰り・3」
諸葛亮、劉備に騙されて担ぎ出されるも 4
 諸葛亮×劉備


   ※※※

 いってえ、という悪友の声を夢の中で聞いたような気がして、劉備は心地よく身を横たえていた牀台(しょうだい)で目蓋を持ち上げた。
 悲鳴の前に「シャッホウ」という奇声も聞いた気がして、不審に思って床で寝ているはずの簡雍の方を向き――跳ね起きた。
「お目覚めですか、殿」
 季節が逆戻りし、中庭の花々も慌てて花びらを折りたたむのではないか、と思う寒波が劉備目掛けて吹き付けていた。
「お、おおお帰り、孔明!」
 正座して、にっこりと笑ってみせれば、美麗な相貌に相応しい笑みを浮かべて、諸葛亮は「ただいま戻りました」と言った。
 劉備が休息していたのは、劉gに用意してもらった客間であった。客間といっても手狭な劉gの邸宅内だ。二間続きの奥が寝所になっている、というだけの質素な部屋だった。その寝所に、劉備と簡雍は寝ていたのだが、諸葛亮が穏やかな声で続ける。
「殿におかれましては健やかな安眠をお取りになられていたようで、妨げてしまい申し訳ありません」
「いい、いや? 大丈夫だぞ、うん」
 気にするな、うんうん、と何度も頷く。なにせ昼間からの酒盛りでいい具合に酔いが回って眠くなって、劉gと中庭に消えた諸葛亮など忘れて客間へ引き上げたのだ。思い出した劉備としては少々心苦しかったが、そこへ簡雍が頭を撫でながら抗議してきた。
「おい、諸葛亮。いまなにで俺の頭殴ったよ。すっげえ痛かったんだけど」
 今は刺激するなぁ! と叫びたい劉備だったが、口に出せるはずもなく、諸葛亮の背後に居る簡雍へ必死に目で訴える。
「この羽扇ですが、何か」
「マジかよ。それ何か仕込んであるだろう。羽扇がこんな攻撃力持ってるかよー」
 劉備の渾身の目力(めぢから)にも気付かない簡雍はまだ文句をつけている。
「ではもう一度、貴方の体で試してみますか、簡雍殿?」
「おいおい、冗談はやめろって。嫌に決まってんだろう」
 やーめーろー、と劉備、顔面蒼白である。ぶんぶん、と頭を左右に振って伝えようとするが、普段は阿吽の呼吸で理解してくれる悪友は、散々に酔っ払っているせいか通じない。
「おかしいですね。私は冗談を言っているつもりはまったくないのですが」
 劉備の目の前でゆら〜り、と殺意が揺らめくのが分かった。左手に持っていた羽扇を利き手に持ち替えて、思わず見惚れるぐらい綺麗な笑顔を浮かべ、諸葛亮は簡雍へ振り返った。
 正直、劉備とてこの乱世を戦い抜いてきた男だ。目の前で人が殺される瞬間など数え切れないほど見てきた。昨日まで大笑いしながら酒を飲み交わしていた相手が、次の日の戦で物言わぬ骸になっていることも多々あった。今さら死体の一つ二つが転がろうと大した感慨も受けないのだが、目の前で起きる惨劇は止めるべきだと判断できたのは素晴らしかった。
 羽扇を上段に構え、今にも簡雍へ振り下ろそうとした諸葛亮を後ろから羽交い絞めにして、叫んだ。
「やめろ、孔明! そんな酒ばかり飲んでろくに働きもしないうえに、割と美味しいとこ取りするどうしようもない奴だが、私の友なのだ、殺すのは勘弁してくれ!」
「殿、お放しください。大丈夫です、苦しまずに黄泉(こうせん)へ送り届けて差し上げますから」
 妙に静かな声で言うところが怖すぎる。あわわ、と簡雍はようやく身に迫った危機に気付いたらしい。わたわたとしゃがんだまま後退った。
「憲和、そこ、そこに転がっている酒!」
 腐っても乱世を身一つで駆け抜けてきた友同士である。復活した阿吽の呼吸で相手の考えを読み取った。よし、と飛び起きて、まだたっぷり中が残ったままになっていた酒瓶を引っ掴み、羽交い絞めにされてもがいている諸葛亮の口へ突っ込んだ。
 傍からは落ち着き払っているように見えた諸葛亮だが、怒りに冷静さを失っていたようで、流し込まれた酒をそのまま飲み干してしまった。
 くたり、と力を失った諸葛亮をそっと窺って、劉備は恐る恐る諸葛亮の体を押さえ込んでいた力を抜かしていく。諸葛亮は自分で立つこともせず、へたり、と床に座り込んでしまった。
 我を失っているところへの酒の摂取は一気に効いたらしい。すっかり大人しくなった諸葛亮に、劉備と簡雍は揃って額に滲んだ嫌な汗を拭った。
「なんだよ、いきなり。俺、久々に命の危険ってやつを体験したぜ」
「お前が空気を読まずに勝手なことを口にしていたからだろうが!」
「えー、だってこいつが怒ったのって、お前に厄介なことを押し付けられたのに、お前は酒飲んで挙句に寝こけていたからじゃねえのかよ」
「お前なんぞもっとひどい。関係ないのに付いてきて、酒を飲むは女の尻撫でるわ、先に寝たのもお前が先だ」
「お前は胸触ってた!」
「そっちは遠慮もなしにここへ案内させて寛ぎ始めた!」
 醜い責任の擦り付け合いが始まったが、大人しくしていたはずの諸葛亮から嗚咽がこぼれはじめて、ぴたり、と口を噤んだ。
「酷いです、本当に殿は酷いです……ひっく」
 しゃくりあげながらぶつぶつと文句を言っている。
「私があれほど州牧の内々のことに関わらないでください、と言ったのに、よりにもよって私に一番の面倒ごとを押し付けて」
「こ、孔明?」
 急いで劉備はしゃがみ込み、諸葛亮の顔を覗き込む。酒のせいか真っ赤な顔をして、目はすでに据わっている。その据わった目からボロボロと涙を流しているではないか。
「私に、劉g殿に死んでください、と言えるはずもないことを見越して、この会食を計画したのでしょう? そうなのでしょう? ずるいです」
「おい、孔明?」
 焦って肩を掴めば、ひたり、と涙に濡れた目で見つめられる。
「貴方はいつもずるい。私が断れないことを分かっていて、頼みごとをしてくる。私を試して楽しいのですか?」
 ぐいっと諸葛亮は劉備の衿を掴んで揺さぶる。
「あはは、なんだこいつ、おっもしれえ」
 呆気に取られていた簡雍だったが、すぐに我に返り、諸葛亮の思わぬ姿に笑い出した。
「酒飲むとあれだ、泣き上戸で絡み酒になる輩だぜ。一番厄介だ」
「だが、みなで飲んでいたときは何でも……」
 思い返すが、目の前で赤い顔をして泣きじゃくっている諸葛亮の姿など初めて見た。酒瓶ひとつで顔色を変えるのなら、歓迎の宴のときも時々開かれていたよく分からない宴でも顔色が変化していたはずだ。それがなかった、ということは。
「飲むふりだけだったのか」
 酒はあまり好きではない、と言っていた言葉を思い出す。
「私は若輩者のうえ、殿に仕えてから日も浅いです。信用が置けないのは理解しているつもりです。それでも、誠心誠意、殿のお役に立とうとしているのに、殿はちぃっとも理解してくださらない」
 酷いです、と劉備をなじる諸葛亮に、劉備は宥めようとする。
「そのようなことはないぞ、仕えている年数など関係あるものか。お前を大事に思っている。理解しているぞ」
「嘘ですー」
「なぜそう思う」
「だって殿は私の顔を見るとすぐ逃げ出そうとするし、簡雍殿と遊んでばかりいるし。少しも政務をしてくださらないではありませんかー」
「少しはしているぞ、少しは!」
 思わずムキになる。ほんと、少しだけどな、と簡雍が横から茶々を入れる。
「まあまあ、諸葛亮。いいから飲め飲め」
 諸葛亮の変貌ぶりが面白いらしく、簡雍は盃を突き出して、さらに飲むように煽る。
「おい、憲和!」
 止めようとするが、諸葛亮はいち早く簡雍から盃を受け取ってぐいっと呷った。
「よ、いい飲みっぷりだね、色男さん」
 無意味に掛け声で簡雍は諸葛亮を褒める。大概、この男も酔っ払ったままらしい。劉備などは先ほどの騒ぎでほとんど酔いが吹き飛んだというのに、年中酔っ払いのたわ言のようなことしか口にしない男だから、仕方ないのかもしれない。
「美味しいですねー、これ」
 というわりに、諸葛亮は泣くのをやめないのだから、これは確かに簡雍の言うように泣き上戸なのだろう。
「そうだろう? 遠慮せずにもっと飲め」
「簡雍殿は良い人です。私は勘違いしていたようです。今までの無礼を許していただけますか?」
「おうおう、構わないぜ。俺は心が広いからなぁ。それより、俺もお前のこと勘違いしてたぜ。隙のないがちがちの石頭かと思ってたけどよ、こんな人間くせえところがあったんだな」
 泣き上戸と笑い上戸のおかしな酒盛りが始まり、酔いの醒めた劉備はひとり牀台にひっくり返って「馬鹿馬鹿しい」と呟いた。
 しかし当然のように高みの見物、ということになるはずもなく、二人に引きずり下ろされる。
「殿は飲まれないのですか?」
「玄徳、飲め」
「いや、私はもういい」
 すっかり阿呆らしくなっていた劉備は遠慮したが、酒の力で意気投合した二人に挟まれて逃げることもかなわない。
「私とともに酒を飲まれるのはお嫌なのですね、やはり殿は私など」
「あー、玄徳ひでえ、泣かした泣かした!」
「むやみにはやし立てるな、餓鬼か!」
 簡雍の頭を叩き、諸葛亮を宥める。
「大丈夫だ、飲む、飲むぞ孔明。ほら、注いでくれ」
 やけくそ気味に諸葛亮へ盃を差し出す。鼻をすすりながらも諸葛亮は劉備の盃へ酒を注ぐ。じぃっと諸葛亮が見つめてくるので飲みづらい、と思いながらもぐぐっと一気に飲み干した。
 ほら、飲んだぞ、とばかりに笑いかけてやるが、やはり諸葛亮は泣いたままだ。
「殿は酒を飲んでばかりで、全然政務をしてくださらないのですね」
「お前が飲めって言ったんだろう!」
 思わずつっこむ。まあまあ、と簡雍が宥めるが、劉備は諸葛亮の醜態に呆れ返る。
 こいつには酒の正しい嗜み方を徹底的に教え込んでやる必要があるな。
 新たな決意を固める劉備である。
「私に劉g殿の面倒を見させて、殿は酒ばかり……」
 諸葛亮の愚痴を遮る意味で、劉備は言う。
「それで、劉g殿とはどんな話をしたのだ」
 酔っ払い相手に真面目な話をしても仕方がないだろうかと考えつつも、念のために訊いてみる。
「劉g殿ご自身の境遇と、殿のことを」
 しかし意外やまともな返答だった。
「ほお?」
 先を促せば、時折しゃくり上げながらも明瞭に劉gとのやり取りを話して聞かせる諸葛亮に、劉備は感心するやら呆れるやら。
「……そして江夏には伊籍殿と共に行くように」
「マジかよ。諸葛亮、お前孫乾に恨まれるぞ?」
 難しい話になった途端に、一人で黙々と酒を飲み始め、眠くなったのかうつらうつらしていた簡雍が突然口を挟んだ。
「なぜですか。あの人は常に真面目に、殿と違って(いちいち比較するな、と劉備はつっこむ)政務をこなしてくれる人です。きっと伊籍殿を評価したことを褒めてくれますよ」
 だのにどうして簡雍殿は、と絡む諸葛亮だが、すでに簡雍は寝ている。どうやら寝言だったようだ。ころん、と床に転がった簡雍は諸葛亮が揺さぶろうが叩こうが起きなかった。
「孔明、お前、ほんと公祐(こうゆう)に懐いたな」
「孫乾殿も糜竺殿も優しいのですー」
「そうか。そういえばあの二人だったな、私以外にお前を初めて認めてくれたのは」
 考えてみれば、諸葛亮は劉備に従ってくれている者たちの中でも歳若い上に、日も浅い。本人も口にしたように気にして、彼なりに精一杯頑張っていたのだろう。それを劉備は勘違いして、諸葛亮が随分と窮屈そうに、肩肘を張って無理をしているように見えて、心配していた。
 だから、劉gとの会食を計画した。
「お前が言うように、私はお前のことを理解していなかったのかもしれん」
 反応のない簡雍に飽きたのか、諸葛亮は掴んでいた衿を離した。途端にごん、という快音が簡雍の頭の下から響いたが、やはり彼は起きなかった。諸葛亮は手酌で酒を注ぎ始めたが、劉備の言葉にくてり、と首を傾げた。普段の整然とした風体からは想像もつかない姿だが、簡雍の言うように人間くさい、というか親しみやすい。
「殿はやはり私のことを嫌いなのですか」
 しかし、この酔っ払い特有の飛躍した発想は何とかして欲しい。
「違うぞ。ただ、私はお前のことをもっと知りたい、と思っただけで……ってだから泣くな、というのに」
 本当にお前は泣いてばかりいる、と苦笑して、ぐすぐすと泣き出した諸葛亮をあやすかの様に頭を撫でる。
「ほら、もうあまり飲みすぎるな。まだ夕餉にまで時間がある。少し寝て酔いを醒ましておけ」
 諸葛亮の体を抱え上げて、よいしょ、と牀台に苦労して乗せる。まだ飲む、と抵抗するかと思いきや、素直に劉備のされるがままになった諸葛亮は、やはり相当に酔いが回っているらしい。
 ぽんぽん、と胸の辺りを叩き、眠りを促す。諸葛亮は理知的な光を失っている潤んだ双眸で劉備を見上げている。
「どうした?」
「殿は本当に私のことを嫌いではないのですか?」
 またそれか、と可笑しくなるが、酔っ払いのたわ言だと思い気軽に答える。
「嫌いなものか。嫌いな男へ、私が三度も家を訪ねたりすると思うか?」
「あのときはそうだったかも知れませんが、実際に私という存在に触れたら、失望したのではありませんか?」
「まさか。むしろますます惚れた。熱心に希(こいねが)った甲斐があった、と思っている」
「信じられません」
「主の言葉なのにか」
「殿は私を騙します。この間の視察も、今日の劉g殿のことといい」
 ぐうの音も出ない。酔っているのに口が達者なのは、諸葛亮の酔い方の特徴なのだろうか。すまん、と謝った。
「ならば、どうしたら信じてくれる」
 んー? と首を傾げて諸葛亮は劉備の言葉を吟味しているらしい。
「分かりません。人の気持ちなど移ろうものですから、どのような方法であろうとも、信じることは出来ません」
「悲しいことを言うな。じゃあお前は……そうだな、自分の妻のことはどうだ。信じていないのか。私が訪ねたときに実家に帰っていたというが、その理由が法事ではなかったかもしれないぞ」
「そのようなことありません。妻は間違いなく法事でした」
「そうやって奥方のことを信じるように、私のことも信じてくれないのか」
「私と妻は好んで、相手のことを知っているからこそ信頼しているのです。殿にそれを求めるのは少し違います」
「どこが違うというのだ」
「んー?」
 また考え込む。また分からない、と答えるかと思いきや、ぱっと顔を輝かせた。酔っているときは実に素直に表情が変わる。
「男女には肌を合わせる、という方法でお互いの信頼を深める方法がありますから、そこが違うのではないでしょうか」
 いや、そうとも限らんだろう、と今までの女遊びの経験から劉備は思うが、否定しても始まらない。むしろ諸葛亮の一言で思いつく。
「ならば、お前に抱かれてやる。好きでもない奴に抱かれることは出来ないだろう? それに肌を合わせることで信じてくれるならば、容易いことだ」
 もちろん、諸葛亮が嫌がることを承知の上での提案である。諸葛亮には二度ほど成り行きで体を重ねてしまったことはあるが、そのことを持ち出すと決まって諸葛亮は動揺していた。断られること前提であるものの、ここまで譲歩した劉備の心意気を汲んで、信じて諦めて大人しくしてくれるか、と計算の上だったが、劉備は忘れていた。所詮、己の立てた計画など、諸葛亮にかかれば簡単にひっくり返される、ということを。



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