「言絡繰り・3」
諸葛亮、劉備に騙されて担ぎ出されるも 3
 諸葛亮×劉備


 劉gの私邸は、個人的に建てられたというだけあり、襄陽の東の外れにひっそりと佇んでいた。誰も、これが荊州を治める州牧の長子の別宅だとは思わないだろう。中へ招いてくれたのはさすがに侍女であったが、すぐに主人自ら出迎えてくれたことでも、そのこじんまりさと慎ましさが伝わろうものだ。
「よお、劉g。相変わらず陰気臭い顔してんな!」
 誰よりも真っ先に挨拶をしたのが、招かれてもいない簡雍なのだからおかしな話だ。しかも暴言に近い言葉に、諸葛亮は頭を叩(はた)いて止めたくなる。しかし劉gは気分を害した様子もなく、むしろくすり、と笑って「簡雍殿もお変わりないようで」と返した。
 まだ続きそうな簡雍をおい、と劉備が小突いて止めて、招いてくれた礼を述べた。
「いえ、無理なお願いをしたのは私のほうですから。……あの、こちらの方が?」
 劉gの視線が諸葛亮へ注がれる。
 簡雍の言葉に偽りはない。
 元々病弱なのは知っていたし、気に病むことが尽きないであろう昨今の彼の事情を想像すれば、晴れ晴れとした顔をしていることこそ不可思議であろうが、それにしても葬式の片隅にでも立っていれば雰囲気が出ること間違いない。
 諸葛亮より幾分か年上のはずだが、やせ細った四肢と鍛えられずに育ってしまった体躯に、青白い顔が乗っているせいか、儚そうな一見して幼いような、逆にひどく歳を食っているような印象を見る者に与えている。
 諸葛亮は長身を折り、慇懃に拱手した。
「以前より襄陽郡隆中に住まわせていただき、お父上劉州牧のご威光により安穏と暮らしておりましたが、先ごろより劉玄徳に仕えることになりました、姓は諸葛、名は亮、字は孔明と申します。この度は若輩である私を会談へ招いてくださった、ということを主より聞き、恐縮しているところでございます」
 ああ、やはりそなたが臥龍でしたか、と陰鬱としていた劉gの顔が僅かに晴れやかになる。
「堅苦しい挨拶はいりません。私が個人的に友人として招いただけです。ぜひとも楽しみ、寛いでいってください」
 それにしても想像していた通り、怜悧そうで端麗な人ですね。劉備殿はこのような臣を持て、羨ましいです。
 食事の広間へ向かいながら、しきりに劉gは諸葛亮へ熱い眼差しを注いでいる。
「玄徳の奴、お前のことをどれだけ大袈裟に吹き込んだんだろうな」
 先を歩く劉備と劉gを眺めながら、簡雍は後ろ頭に手を組んだ。それには諸葛亮も同感であった。
「あまり人を神算鬼謀と持ち上げないでいただきたいものですね」
「あれ、そうなのか。てっきりお前のことだから褒められて自分を大きく見せることが好きなのかと思ってたぞ」
「もちろん、殿に認められるだけの力を持っていますし、否定はしません」
 諸葛亮の自己肯定に「あ、そう」と簡雍は気のない相槌を打った。
「ですがそれらは外聞的に大仰であれば充分なのです。劉g殿や殿を快く思っていない人々には私の力は過小評価されていたほうが、都合がいい」
「そりゃ言える。盗賊どもにはここの家はなんか知らねえが怖い奴がいるから盗みに入んないほうがいいって威嚇しておいたほうがいいだろうし、家に住まわせてもらっているからには、家主には無害だって思わせておいたほうがいいだろうしな」
 へえ、と思わず感嘆の声が漏れる。
「なんだ、その『へえ』ってやつは。もしかして諸葛亮お前、俺のことけっこう馬鹿だとか思っていたのか」
「いえ、そこまでは思っていませんでしたが、あまり駆け引きめいたことが得意なようには見えませんでした」
「あのな、これでも俺は孫乾の次ぐらいには使者の仕事とかやってんだぜ? 見損なってもらっちゃ困るな」
 胸を張る簡雍へ、諸葛亮は微笑を浮かべた。
「それは申し訳ありませんでした。ではこれからはもう少し政務を積極的に手伝っていただけるよう、努力していただきましょう」
 げげ、と簡雍は顔を引きつらす。
「お前のそういうところ、俺は苦手なんだよなぁ」
 呟く簡雍の言葉を無視して、諸葛亮は自分に与えられた席へつく。当然のように劉gと劉備が上座であるが、諸葛亮の席もかなり近い場所に設けられている。どれだけ劉gが諸葛亮と顔合わせをしたかったか伝わろうものだ。
 会談という名目で始まった食事だ。新野を発ったのも朝だったため、まだ昼の時分である。いきなり酒は出てこなかったものの、簡雍が遠慮なしに「酒ねえの?」と訊いたものだから、劉gが急いで持ってこさせ、昼間から宴のごとく会食が始まることになってしまった。
 やはり失敗だったか、と諸葛亮は思いつつも、劉gと座談を和やかにしていた。もっとも、もっぱら劉gから質問があり、それに対して諸葛亮が答える、という弟子と師のような様相ではあった。
 ひとつ諸葛亮が答えを明らかにするたびに、劉gはいちいち大きく感心して、さすがは諸葛先生です(いつの間にか『先生』がついていた)、と称賛する。いい加減、自信家の諸葛亮といえども落ち着かなくなるほどの褒められぶりだ。
 助けてくださいよ、殿、と劉備へ時々視線を送るのだが、絶対に気付いて無視をしているとしか思えないほど、簡雍と一緒に侍女からの酌に鼻の下を伸ばしている。
 エロオヤジがー。
 毒を吐く諸葛亮に薄っすらと氷結の微笑が浮かびそうになるころ、少し酔い醒ましに中庭に行きませんか、と劉gに誘われる。
 酔い醒ましもなにも、諸葛亮は一滴として酒は飲んでいないのだが(主に劉備と簡雍で酒瓶を空けている)、これ以上醜態を曝している親父二人を目にしているのも心の平穏のために好ましくない、と判断し、誘いに乗った。
 中庭には春を過ぎたもののまだ色とりどりの花が咲き、散策する者の目を楽しませてくれる。狭い中庭の隅には離れだろうか。蔵のようなものがぽつり、と建っている。
「無理にお誘いして申し訳ありませんでした」
 二人きりになり、劉gが突然頭を下げた。驚いたのは諸葛亮で、急いで返礼しつつ頭をお上げください、と手を差し伸べた。
 どう劉備が吹き込んだかは知らないが、劉gはひどく諸葛亮を尊敬している。自分より年下で今日が初対面の相手に対して腰が低いなんてものではない。そもそも、劉gのほうが立場も上である。諸葛亮としては畏まられると逆に居心地が悪い。
「諸葛先生は私のことをどう思われますか」
 狭い庭をゆっくりと歩きながら、劉gが尋ねた。しばらく諸葛亮は考えて、口を開いた。
「素直でご自分を飾らない方だと思いました」
「飾るような自分を持っていないのです。私が父の後を継ぎ、この荊州を守っていくこと。出来るとお思いですか?」
「……」
 出来ないだろう。
 僅かの時間言葉を交わしただけであるし、諸葛亮は劉gの父である劉表も直接は知らない。それでも、彼に父親ほどの才覚があるとはとても思えない。そして父親ほどの才覚があろうとも、これからの荊州を守るには足りない。
「困らせるつもりはないのです。無理にお答えしなくとも結構です。それよりも」
 と、劉gは急に声を明るくして、離れを指差した。
「あちらに、先生が喜びそうな書物があります。ぜひご一読されては、と思いまして」
 劉備殿に今回、諸葛先生を招くときに何が喜ばれるか訊いたのです。お酒や食事にはあまり興味を示されない、とおっしゃられたので、普段は何をなさっているのか、と尋ねました。
『そうだな〜。書簡と睨めっこしていることが多い。休みの日に何をしているのか訊いたことがあるが、やはり書物を読んでいる、と言う。不健康だろう?』
 大きなお世話だ。
 劉備が書簡を読まない分、諸葛亮が補填していると言ってもいいのだ。それ以外にやりたいことがないわけではないが、新しい知識を得ることは好きだ。それには書物を読むことが手っ取り早かった。
「それで、うちの離れに珍しい書物があることを思い出しまして、どうだろうかと」
 書物の題を幾つか挙げた劉gに、諸葛亮は俄然身を乗り出した。前々より興味のあった薬学と医学に関する書名だったのだ。
「ぜひ、読ませていただきたい」
 良かった、と劉gが笑う。ようやく、貴方が歳相応に見えました、と言われて怪訝な顔になる。
「聡明な貴方は随分と落ち着いて見えて、思わず先生と呼称を付けさせていただきましたが、ご自分の好きなものに触れられたときは童のような顔になるのだな、と思いまして」
「そうでしたか」
 そんなに分かりやすい顔をしただろうか、と決まり悪さを誤魔化すように羽扇で顔を覆う。
 離れは楼閣のように二階への梯子がかかっている。こちらです、と二階を案内されて、ぎしぎしと軋む梯子を上る。
「ご気分を害されたのなら謝罪いたしますが、悪い意味で申したのではありません。ただ、少しだけ肩肘を張られているように見えたので、僅かでも緩まったのなら、嬉しいと思っただけです」
 どうぞ、と板の間に敷かれている円座に勧められる。腰を据えて見回せば、片隅にうず高く積まれている書簡が目に付く。書簡より垂れている題目を記している札を読めば、ほとんどが薬学、医学に関する書物ばかりだ。
「医学に興味がおありでしたか」
 諸葛亮の質問の意味を理解して、劉gは小さく笑った。
「ええ、まあ。見てのとおり親にもらった体を壊してばかりいるものですから、少しでも丈夫にしたい、とあれこれと」
 そうだった、と諸葛亮は気付き、己の配慮のなさを恥じ、申し訳ありません、と謝った。
「謝らなくて結構です。確かにあれこれと悩んだ時期もありましたが、病弱であること、それでいて長子であることに随分と苦しみました」
 書簡の並ぶ棚から、劉gは幾巻(いくまき)か書簡を取り出して、自分も腰を下ろした。
「しかしいつ頃でしたか。劉備殿を見ていて、気付かされたのです。一時は徳の将軍、左将軍、劉皇叔とまで呼ばれていたのに、今は荊州の片隅でひっそりと暮らしている。それでいて蔡瑁たちには疎まれて邪険にされている。肩身が狭いだろうに、劉備殿に腐ったところは見受けられない。私ならば全てを投げ出したくなるか、うだつの上がらない己に嫌気がさしています」
 手にした書簡をいじりながら、劉gは言う。
「だが劉備殿はご自分を蔑むことも、ましてや境遇を恨んだりはしていない。ただ、あるべき事象を受け止めて、その中で出来ることを探して成している。そう私には見えたのです」
 諸葛亮は黙って劉gの言葉に耳を傾けた。
 本当は、劉備とて己の不甲斐なさに嘆いたり、秋(とき)を掴めない状況に歯噛みしたりしていた時期もあっただろう。それはこの間の許都へ迎えにいった帰りに漏らした劉備の弱気からも覗けた。それでも、劉備には己を卑下することのない一本筋の通ったしたたかさがある。己の弱さも己の一部として認めることができ、なおかつ笑い飛ばせる強さを持っている。
「そのときからです。劉景升(けいしょう)の嫡子であることへの気負いや虚弱である体質への恨みを捨てて、己に出来ることをやろう、と思い直すことができたのは」
 諸葛亮の前に劉gが手にしていた書簡が置かれた。
「頼みがあります。諸葛先生の智慧をお貸しいただきたい。私は父の後を継ぎたい、と思っていないのです。父が守ってきたこの荊州、そこに暮らす皆が幸せであれば、弟に後を譲っても構わないのです。そのために私が邪魔だと言うのなら、命を絶ってもよろしい。ただその後、果たしてこの荊州が正しく統治されるのか。それだけは私の才覚では分かりかねます。諸葛先生。私はどうしたら良いのでしょうか」
 ここまで、劉gが思い詰めていたとは予想外であった。てっきり、劉j派の圧力が激しく、暗殺から身を守る方法やひいては己が父親の跡継ぎに選ばれるにはどうしたら良いのか。そういう自己保身の内容を想像していた。
 そっと羽扇を仰いで天井を睨んだ。顔に刺さる劉gの視線が痛いほど伝わる。
 殿はこういう相談事だと知って、私をこの人と会わせたのでしょうか。だとしたら、随分と意地の悪い。面倒なことを押し付けてくれたものだ。
「劉g殿は申生(しんせい)、重耳(じゅうじ)の故事はご存知でしょうか」
 頷いた。さすが育ちは良いらしく『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』や『史記(しき)』は知識としてあるらしい。
 紀元前七世紀ごろ、晋(しん)の献(けん)公には複数の息子がいた。そのうちの二人が申生、重耳である。いつの時代も跡目を決めるときは争いが起きるもので、献公の愛妾・驪姫(りき)の息子、奚斉(けいさい)を跡継ぎにさせたいと考えた彼女によって申生、重耳らは謀反の罪を被せられた。奚斉以外の息子たち跡継ぎ候補から除外されただけでなく、当然罪に問われたわけだが、そのときに取った行動の違いが命運を分け、故事となって伝わっている。
「申生は国内にありて危うく、重耳は国外にありて安かりし」
 申生は悪名を被って逃げるより、潔く死ぬ、と自殺を図り、重耳は国外へ逃れ、命永らえた。その後、長年流浪することになるのだが、六二歳で無事に国に帰り、名君として返り咲いたのだ。
「私に重耳になれと?」
「命を絶つなどと早計です。貴方より劉j殿が荊州を確実に統治できる保証はどこにありません。様子を見ることが大事です」
「ならばいっそ、劉備殿に荊州をお譲りして。父もやぶさかではないと……」
「劉g殿」
 いささか強い口調でその先を、羽扇を突きつけて遮った。
「このように、天にも地にも耳や目がないところをお選びになったのは感服いたしますが、今の言葉はよろしくありません」
「なぜです」
「貴方もご存知の通り、我が主は蔡将軍に疎まれております。その問題が解決しないまま荊州を仮に譲られたとしても、内紛が起きるのは火を見るより明らか。そこを曹操に攻め込まれたら一たまりもありませんでしょう」
 確かに、と納得した劉gに分からぬように、小さなため息を吐く。
 跡目争いになど口を出したくはなかったが、ここで諸葛亮が突き放して、思い余った劉gが自殺など図ろうものなら、当然劉jが荊州を継ぐことになる。劉jの後ろ盾は劉備を追い出そうと虎視眈々と狙っている蔡瑁である。劉表が死に、劉jに代替わりした途端、劉備を追い出しにかかるに決まっている。最悪、攻めて来た曹操の盾にされるか、生贄にされるか。
 どう転んでも良いことなど何もない。劉gの告白を聞いてしまってはなおさらだ。劉gには少しでも生きながらえて、劉備が曹操に対抗できうる時まで後ろ盾になってもらわなくてはならない。
 面倒くさい、と舌打ちでもしたい気分であったが、劉備とは劉表や劉gから荊州を奪わない約束をしてしまったし、諸葛亮自身も劉gの人柄にも絆されてしまった。
 恨みますよ、殿。
 今頃、簡雍とくだを巻いているのかと思うと、なお腹が立ってくる。
 ピシピシと凍えていく微笑を意識しつつ、劉gの「しかし……」という問いを促した。
「どこへ行ったら良いものでしょう」
「江夏へ。先ごろ黄祖が討たれて太守が不在になっている地です。貴方が申し出れば一も二もなく賛同の声が上がるでしょう」
「分かりました」
 ようやく、劉gに満面の笑みが浮かんだ。これはお礼として差し上げます、と諸葛亮の読みたかった書簡を渡してきた。
 それは遠慮なく受け取りつつも、ああ、と思いついて付け足した。
「貴方一人では劉州牧や殿と繋がりが絶たれてしまうかもしれませんから、誰か州牧に信頼が厚く、殿に悪い感情を抱いていない方を供につけたほうがよろしいかと」
「そうですね」
 しかしそのような好条件を持つ人物など限られている。すぐに二人は一人の人間の名をほぼ同時に口にしていた。
『伊籍殿でどうでしょうか』
 初めて、二人は声を揃えて笑いあった。



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