「言絡繰り・3」
諸葛亮、劉備に騙されて担ぎ出されるも 2
 諸葛亮×劉備


 書簡を小脇に抱えて回廊を歩く諸葛亮の耳に、楽しげな笑い声が届いてきた。劉備と、どうやら夫人たちが中庭で寛いでいるらしい。時々、赤ん坊のキャッキャと笑う声も聞こえてきた。
 劉備に用があり執務室に向かっていた諸葛亮は、団欒中邪魔をするのも悪いだろうか、と思いつつも放っておけばそのまま執務に戻らないかも知れない、という危惧(むしろ確信)を抱き、中庭に顔を出してみた。
 予想通り、中庭の池の畔に設けられた腰掛け石の傍で、劉備と夫人たち――甘(かん)夫人と糜(び)夫人、そして去年生まればかりの劉備の嫡子、阿斗(あと)が笑いさざめき合っている。
 夫人たちには劉備に仕えてしばらくして、顔合わせをしたときに挨拶をしたぐらいだ。お互いに顔は知っていてもこれといって会話はしたことはない。阿斗に関していえば、夫人とともに紹介はされたが、何せ相手は赤ん坊だ。印象といえば、人懐こいあまり泣かない子、という程度だった。今も劉備の腕の中でケタケタと楽しそうに笑い声を上げている。
 赤子特有のぷくぷくした頬がはちきれんばかりに盛り上がり、無邪気な笑顔とはこのこと、という教本にしたいほどの満面の笑顔だ。赤ん坊と動物には誰も勝てないと誰かが言っていたが、全くその通りで、諸葛亮も知らずに微笑を浮かべていた。
「ほ〜れ、高いたか〜い」
 劉備の長い腕で持ち上げられれば、それはもう本当に【高い高い】だろう。臆病な赤子であったなら泣き出しそうなものだが、阿斗はきゃっきゃと騒いでいる。
「阿斗様は本当に元気で良く笑う子ですねえ」
 糜夫人が兄、糜竺に良く似た目元でその様子を眺めながら微笑んでいる。血筋なのか小柄であるところも糜竺に似ているが、ふくよかな体躯が可愛らしい。また、糜家の娘であるにも関わらず気取ったところのない気さくな印象があった。
「大物になる証拠だ」
 親馬鹿全開の発言を締りのない顔で劉備が言う。
「また、玄徳様は根拠もないことを口になさいますね」
 この人は、とまるで大きな童がもう一人いる、という眼差しで劉備と阿斗を見守っているのが、甘夫人だ。糜夫人とは好対照となるほっそりとして大人しそうな印象を受ける器量の良い人だ。ただ、さすが劉備に長いこと連れ添ってきただけあり、今の言葉を聞く限りでも中々はきはきと物を言う。
「あら、諸葛様。どうなさいました? 玄徳様に御用ですか?」
 回廊に立つ諸葛亮に初めに気付いたのは糜夫人で、続いて阿斗を放り投げて逃げようとした劉備の襟足を掴んで引き止めたのは甘夫人だ。
「玄徳様、どうして逃げられるのです。それに阿斗を乱暴に扱わないでくださいませ」
 びしり、と甘夫人が非難して、ころころと糜夫人が笑いながら、劉備が放り出そうとした阿斗を預かった。
「……す、すまん。つい条件反射というか何というか」
 ちらちらと諸葛亮を窺いながら、夫人たちに謝った劉備は、何の用だ、孔明、と身を正して尋ねてきたが、無論、威厳など手遅れである。
「何かやましいことでもおありだったのですか?」
 思わず厭味を口にしつつ、中庭に下りる。夫人たちに軽く挨拶をして、劉備に向き直ると、いや、そんなことはないぞ、とムキになって劉備は答えた。
「さっきも言ったが、条件反射だ。たとえやましいことが無くとも、突然現れるお前を見ると逃げ出したくなるのだ」
 それは幾らなんでも失礼すぎだ、と思った。
「無くとも、とおっしゃいますがそれは、常にどこか私に対してやましいことをお持ちだ、という証拠なのでは?」
「違うぞ。……そう、それに今はちゃんと執務の休憩中だ。今日やっておかなくてはならないことは、きちんと済ましてある」
 はっとしたように、劉備が弁解するのを、諸葛亮は苦笑して止めた。
「大丈夫です、ただの冗談ですから。私は殿を信じております」
 厭味にしか聞こえん、と呟く声はひとまず無視をすることにして、断りを入れる。
「執務のお話なのですが、よろしいでしょうか?」
 団欒を邪魔することになってしまいますが、と含ませつつ伺いを立てる。
「二人きりでないと不味い話か?」
 聞き返されて、夫人たちに目を走らせる。
「いえ、そこまでではないと」
「なら、お前も休息を兼ねて、ここで話していけ。孔明は休み下手だから、時々肩の力を抜いたほうがいい」
「どうしたのです、突然。むしろ私は休み上手の殿が心配です」
「大きなお世話だ」
 くすくすと夫人たちが笑う。ほら、笑われたではないか、と劉備が軽く睨んだ。
「お前は素直に私の言葉を受け入れられんのか」
「何せ、殿が私の諫言を聞き入れて執務に没頭してくれませんので」
 ああいえば、こういう、と呆れ顔の劉備は、口では諸葛亮に勝てない、と踏んだのだろう。諦めて話を促した。諸葛亮も劉備と水掛け論を繰り広げるつもりはなかったので頷いて、団欒を邪魔するので、失礼を、と意味を含めて夫人たちに軽く頭を下げてから、訊いた。
「昨日の劉(表)州牧の見舞い、いかがだったか、と思いまして」
 ああ、と劉備は頷いた。
「日に日に弱っている。あまり長くしゃべることも出来ないほど衰弱していた」
 まあ、と二人の夫人が眉を曇らす。阿斗だけがきょとん、とした顔で真剣な顔付きになる大人たちを見上げている。
「何か気にかかることでもおっしゃっていましたか」
「昨日は、あれだな。私の前に伊籍殿が見舞いに来ていたせいか、しきりに彼のことを気にしていた。劉表殿亡き後はぜひとも彼を私の下へ、と薦めてきた」
「それは、伊籍殿が殿への追従を望んでいることを聞いたからでしょうか」
「違うようだ。劉表殿は劉表殿で、伊籍殿が私に惹かれていることを理解してのことらしい」
 伊籍が劉備に従いたい、と正式に申し込んできたのはつい先日のことだ。劉備が荊州、劉表の下に身を寄せて以来、的盧が狂馬である指摘をしてもらったり蔡瑁の暗殺から救ってもらったりと、何くれとなく伊籍には助けられていたらしい。
 諸葛亮も伊籍の人柄や知識には折に触れて孫乾より聞き及んでいたので、反対するいわれもない。むしろ劉表側とも繋がりがあり、荊州にも詳しい彼が居れば、この先劉備の役に立つことが大いにあるだろう。
「劉州牧がおっしゃられているのなら、もう問題はありませんね。今度、正式に食事にでも招き、これからのことを話し合う機会を設けましょう」
 そうだな、と劉備は賛成した。
「他には?」
「他、か」
 ちらり、と劉備はなぜか阿斗に目を走らせた。父親に見つめられたのが分かったのか、阿斗はにこぉっと笑顔を浮かべる。
「劉g(りゅうき)殿と劉j(りゅうそう)殿について、ちょっとな。なんと言っても劉表殿の心残りはご子息たちのことであろうからな」
「まだ州牧は悩んでおられるのですか?」
「そのようだ」
「もちろん、殿は何も助言はなさらなかったでしょうね」
「……ん、まあ」
 返事をするまでの間が怪しい。
「糜竺殿から聞いております。殿は以前に後妻の子であり次男である劉j殿を跡継ぎに、と考えている州牧へ、跡継ぎを長子ではない者から選ぶと家を乱すことになる、と忠告なさった。そのせいで、劉j殿を跡継ぎに、と推していた蔡瑁の神経を逆撫でしたそうではありませんか」
 同じ轍を踏もうとしたのではありませんよね、と羽扇を仰ぎながらじろり、と睨む。
「しておらん、しておらんぞ!」
 大声で否定した後、劉表殿には、な、と小声で続いた言葉になんですって、と聞き返す。もちろん、顔には氷のように凍える威力を持つ笑みがびっしりと張り付いている。ずいっと迫る諸葛亮に恐れをなしたのか、劉備は仰け反りながらも笑顔で答えた。
「ほ、ほらほら、その、そうだ。孔明は阿斗をどう思う」
 糜夫人の腕の中にいた阿斗を取り上げて、ひょいっと手渡してきた。慌てて諸葛亮は書簡と羽扇を持ち直して受け止める。突然見知らぬ男に抱かれても、赤子は大人しい。それどころか『氷結の微笑』と名高い諸葛亮の笑みを見ても怖がっている様子はない。
「愛らしい御子(おこ)です」
 思わず、諸葛亮も正直に答えてしまう。
「そうだろう。親でなくとも赤子はそう思えてしまう。子は次代を背負う宝だ。親にとっては悩み、苦しんでいる子というのは、救ってやりたい対象なのだ。正直、劉表殿の気持ちは実感としては分からなかったが、阿斗が生まれてからは、劉表殿のお気持ち、実に深く共感できる」
 何を言いたいのかいまいち理解できず、劉備の言葉を待つ。
「孔明、劉g殿の相談に乗ってはくれぬか」
「嫌です」
 趙雲の槍捌き以上の速さで答えた諸葛亮に、劉備は愕然としたらしいが、すぐにいやいや、まあ待て、と宥めてきた。どうやら劉備は劉表の見舞いの帰り、劉表の嫡男である劉gに捕まり、泣きつかれたようだ。劉gを赤子と比較するには無理があるが、親心というものを学んだらしい劉備としては、放っておけなくなったのだろう。
「私は相談の内容をまだ口にしてないぞ。聞きもせずに断るのは浅慮というものだろう」
「では殿は簡雍殿が『なあなあ、ちょっと相談があるんだけどよ』と言いながら近付いてきましたら、どう答えますか」
「誰が聞くか」
 張飛が酒瓶を空ける速度よりも早く劉備は答えた。にこり、と笑って諸葛亮はそうでしょうとも、と頷く。簡雍のこと。金の無心に違いない。そんな分かりきった相談に耳を貸す必要はない。劉gの相談も同じだ。劉j派の圧力が激しくなり、身の危険を感じ、何とかしてもらいたい、という相談に決まっている。
 しかし先ほどの話でも出たように、他人が――特に劉備や諸葛亮といった目を付けられている人間が跡目のことに口を出すことほど危険なことはない。なぜそんな虎穴に入って虎子も得られないようなことをする必要があるのだ。
 思わず乗せられた劉備は、しまった、という顔をするが、諦めるつもりもないらしい。真剣な顔付きになって、なぜか諸葛亮の腕の中の阿斗へ向かって話しかけた。
「なあ阿斗、お前が将来大きくなって、私の後を継いだとき、何か大きな悩みに直面することもあるだろう。そのとき、傍に居る実に頼りになる漢に相談したとする」
 阿斗は目をぱちくりさせている。
「その男が、これっぽっちも悩まずに断ってきたら、どうする? 悲しいよなぁ」
 なんという回りくどい。
「殿、私に情で訴えられても無駄でございます。阿斗様の可愛さと劉g殿の相談事は全く別物です」
 すぱぁん、と関羽の偃月刀並の切れ味で叩き切る。
「そもそも、なぜ私が劉g殿から相談を持ちかけられなくてはならないのです。殿がお受けしたのなら、殿が答えて差し上げるべきでしょう」
「それはそうなのだが、以前、劉g殿にはお前の自慢話をしたことがあってな。臥龍と呼ばれる稀代の智嚢を携えた男が私に仕えてくれている、とまあ、その嬉しくて少々誇張しつつ……」
 ははっ、と誤魔化すように笑いながら、ちらり、とこちらを見やる。
 自分を客将として迎えてくれている相手の息子に、自分の臣下を嬉々として自慢する劉備の浅はかさに呆れつつも、恐らく誰彼構わず吹聴したくなるほど、諸葛亮の追従が嬉しかったのだ、と悟る。同時に照れ臭さに口元が緩むのを、阿斗を抱えつつも羽扇で隠す。
「玄徳様は、諸葛様が来られる、と決まったときには本当に嬉しそうでしたものね」
 今まで黙って成り行きを聞いていた糜夫人が口を開くと、甘夫人も笑いながら続く。
「私たちには今まで政(まつりごと)のことなど話さなかったのに、諸葛様のことだけはよぉく話題にされておりましたもの」
「ねえ。私たちのところへ帰るたびに、今日は諸葛亮が。明日は諸葛亮と。まるで好いた女でも出来たかのようでしたわよね」
「全くです。もっとも、このように聡明で綺麗な方でしたら、分からなくもありませんけども?」
「お二人とも」
 劉備の援護射撃のつもりなのか、女性特有の噂好きの口軽さなのか、夫人たちの言葉に諸葛亮はたじろぐ。
「そんなわけだから、劉g殿も未だ会ってもいないお前にすっかり心酔してしまったようでな。相談に乗る乗らないは置いておくにしても、一度ぐらい会って差し上げてくれないか」
「ですが……」
 劉gと諸葛亮が会談する、というだけで、蔡瑁あたりに睨まれそうだ。
「もちろん、内密に会えるように手を回すし、私も同席する。それとも……」
 ぐっと劉備は諸葛亮に身を寄せて、夫人たちに聞かれないように囁く。
「やはりお前は劉表殿や劉g殿から荊州を略取しろ、とまだ言うのか?」
 大きくため息を吐く。
「貴方に従うと申し上げたでしょう。持ち出さないで下さい」
 諸葛亮は何度も劉備に献策として、天下を取るにはまず劉表から荊州を奪ったほうがいい、と訴えてきた。それに対して劉備は嫌だ、の一点張りだった。理由が分からずに苛立ちを覚えていた諸葛亮だったが、劉備が曹操を意識してのことだった、と知ったとき、諦めた。
 曹操ならば迷わずに諸葛亮が献策するまでもなく実行していただろうこと。そういう曹操と道を違える、と決意した劉備が同じ手段を選べるはずもないこと。そんな劉備と、その劉備に惹かれて従うことを選んだ諸葛亮とが、劉表や劉gを亡き者にしようとすることなど出来るはずがなかった。
「分かりました、会うだけ会いましょう」
「そうか、会ってくれるか!」
 顔を綻ばせて喜ぶ劉備は、勢い、諸葛亮の肩をバシバシと叩く。危うく諸葛亮は阿斗を落としそうになり焦り、非難しようとするが、それよりも早く夫人たちが夫を叱る。
『玄徳様!』
 すまんすまん、と劉備は首を竦めて、諸葛亮から阿斗を受け取った。
「しかし、お前は中々赤子を抱くのに慣れておるな。てっきりあたふたすると思っておったのに」
「弟の世話をしたのは私ですし、村の子供を相手に子守も時々しておりました」
「諸葛様は、頭が良いだけでなく、父親としても優れていらっしゃるのですね」
「奥様はいらっしゃるのでしたっけ?」
 男同士の話が終わった、と見るや糜夫人と甘夫人の質問攻めが始まった。
「ええ、妻は村で弟夫婦と暮らしています」
「こちらにはお呼びにならないのですか?」
「そうですね、今のところはまだ考えておりません」
「寂しくはありません?」
「少しは。ですが、こちらに来てもらったとしても、あまり相手は出来そうにないですし。それならば向こうのほうがまだ一人ではないぶん、妻は寂しくないと思いますから」
「玄徳様に手がかかり過ぎているせいですわね。本当に申し訳ありません」
「なぜお前が謝るのだ、甘」
 苦笑する劉備に誰も返事をしないので、少し寂しそうに阿斗に「なあ?」と話しかけている。
「でも諸葛様は寂しくさせたくない、と奥様のことを案じておられますが、もしかしたら奥様は違うかもしれませんよ? 僅かな時間でも良いので、夫の傍に居たい、と思っているかもしれません」
「そうでしょうか」
「そうですとも」
 糜夫人の力説に、甘夫人も頷く。
「ただ、私の妻は少々変わっていまして。一般的な夫婦の関係と違うかもしれませんが」
 あら、そうなのですか、と二人とも興味津々の様子で身を乗り出してくる。
 それから諸葛亮が解放されたのは、すっかり阿斗が劉備の腕の中ですやすや眠り、釣られてか劉備も腰掛け石の上でこっくりこっくり舟をこぎ始めた、夕焼けも綺麗な時間だった。


 この間はすまなかった、と諸葛亮が劉備の執務室を訪れるや否や、苦笑混じりに謝られて、すぐに中庭での夫人たちの質問攻め――しかも巧みな波状攻撃と互いの援護射撃も交えた、相手が陥落するまで攻め続ける執拗な寄せ手のことだと分かった。
 劉備の向かいに座りながら同じく苦笑を浮かべたものの、いえ、と諸葛亮は首を横へ振った。
「好奇心旺盛らしくて、ああしてうちに入ってきた者に良く構っている。趙雲が入ってきたときも大変な騒ぎだった」
 なるほど、とあの二人の夫人に囲まれて弱っている趙雲の姿を想像して可笑しくなる。
「殿の奥方たちらしいではありませんか」
「長年連れ添うと、夫婦は似るというがな」
 劉備は真面目な顔で返す。
「私がこういうものだから、相当苦労はかけている。それでも愛想を尽かさずに付いてきてくれているのだ。頭は上がらんよ」
 そうでしょうね、と小さく笑う。先日の劉備と夫人たちのやり取りを初めて間近にして感じた。夫婦というよりは同じ道を同じ苦労をして歩んできた者同士の、仲間意識のほうが強い。もちろん、男女間に漂う慈しみもあるが、それよりは男女でありながらも優劣のない関係を感じ取れた。
「お前のことも、苦労をかけて妻とも離されて、心安らぐ時を与えてやっていないのだろう、と散々叱られてな」
「それはまた、私の家庭のことでしたのに、申し訳ありませんでした。申したように、私と妻は少々変わった関係ですから、あまり気になさることではありませんので」
「ふーむ……、それなら良いが。それにしても、お前の妻の話は初めて聞いた気がするな」
「あえて話題にすることでもなかったと思いまして」
「私がお前の家を訪ねたときには居なかったが」
「ええ、実家に帰っていたときでしたので」
「お前、浮気したのか」
「違いますよ。真面目に訊かないで下さい。妻の実家で法事があるというので、妻だけ帰ったのです」
「そうか。私もお前の奥方には会ってみたいものだ。会えずに寂しいと言ったのは本当か?」
「……」
「遠慮はするな」
「珍しい、と思われるかも知れませんが、私たち夫婦はお互いに顔を合わせて話をした結果、気が合って婚姻を結びましたので、会えずにいる日々は確かに寂しいです」
「……そうか」
 この時代、男女の婚姻は身分の低い者同士ならともかく、家を背負っている者ならば当然のように親やそれに順ずる者が決めて、結婚する男女がその前に会うなどということはないに等しかった。
「しかし寂しいからと言って、男の私を二度も抱くのは感心せぬぞ」
「――っ」
 さしもの諸葛亮も、言葉を失う。痛いところを衝かれたなどというものではない。
「も、申し訳ありません。しかしあれは別に妻と離れているせいというわけでは」
 嫌な汗が背中を伝い、珍しくもしどろもどろになる。そんな諸葛亮を見て、劉備はぶっと派手に吹き出した。
「冗談、冗談だ。本気にするな。第一、お前はあれをなかったことにしたいのだろう?」
 いくら勢いと仕置きのためとはいえ、主を二度も抱いてしまったのだ。実は内心では触れられて欲しくない話題だった。それをどうやら劉備も分かっているらしく、それでいて振ってくるのだから、当事者のくせに不貞不貞しい。思わず目付きが剣呑となる。
 セクハラ親父的発言です、と現代ならば諸葛亮はつっこんでいたことだろう。
「そう構えるな。ちょっと話が横道に逸れただけだ。つまり、お前の大切に想っている奥を、さらに遠ざけても大丈夫か、ということを言いたかったのだ」
 そういうことなら、さっさと言えばいいものを、と思いつつも劉備の気遣いに険しい目付きを和らげて、動揺した気持ちを落ち着かせた。
「お心遣い、感謝いたします。そのつもりで妻には文を出してありますゆえ、ご心配には及びません。殿こそ、奥方や阿斗様はよろしいのですか」
「あれはきっと傍に居る、と言い出す。私が幾度も放り出して逃げても付いてくることを選んだぐらいだからな」
 居心地悪そうに、しかしどこか誇らしげな劉備に、諸葛亮は微笑む。
 もうじき、曹操の南征が始まる。戦火に巻かれるであろう新野や周辺の村々を考えれば、親しい人の身を守っておきたい、と思うのは当然のことだ。諸葛亮の文は、妻や弟たちに少し隆中より離れておくように、という内容だった。
「それで、御用とは劉g殿との会談でしょうか?」
「そうだ。明日、劉g殿の私邸――といっても本当に個人的に建てられたものらしく、知っている者はほとんどいないらしい。そこで行うことにした」
「明日でしたら、まだ蔡(瑁)将軍も戻られておりませんでしょうし、良いでしょう」
 そうか、とほっとしたように劉備は頬を緩ませた。
「相談事には乗りませんよ」
 釘を刺す。ただでさえ曹操の対策で忙しいのに、厄介ごとが増えるのは御免である。
「分かった分かった」
 またこれだ。実に信用がならない劉備の返事である。疑いの眼(まなこ)で見つめるものの、どうした、とにっこり笑われると、なぜか動揺して目を伏せてしまった。
 ここ最近、特に劉備が黙って許都へ行ってしまい、それを諸葛亮が追いかけて連れ戻してから、どうもこういうことが多い。劉備自身は何とも思っていないようだが、気のせいか、諸葛亮に寄せられる信頼が前にも増して深くなったような気がしてならないのだ。
 そのせいなのか分からないが、諸葛亮を見つめ返す双眸に時々こうして落ち着かない気分にさせられてしまう。
「ところで孔明は、酒は飲めたよな?」
「はい。あまり好きではありませんが」
 諸葛亮の返事に劉備は首を傾げた。
「そうだったか? 結構飲んでいた覚えがあるが」
 恐らく、初めの諸葛亮歓迎会のことを指しているのだろうが、あれはあらかじめ水にすり替えておいたのを飲んでいただけで、その実、酒は初めの一献だけだ。あちこちから注がれる酒を巧みにかわして、自分の水が入った瓶から注いでもらえるように誤魔化し続けていた。
 諸葛亮はあまり酒が好きではなく、特に正体が分からなくなるまで酔い痴れる、という輩の気持ちがまったく理解できない。常に自己を保っていたいと考える諸葛亮は、酒に呑まれる経験をしたことがなかった。
「飲めないわけではないのだから、まあいいだろう」
 劉g殿が美味い酒を用意してくれるらしくてな、と諸葛亮と違って酒好きの劉備は目を細める。
「へえ〜、それは楽しみじゃねえか」
 嬉しそうに答えたのは、もちろん諸葛亮ではない。いつの間にか窓際から中を覗き込んでいた簡雍だった。
「簡雍殿、貴方はまたそんなところから」
 驚きつつも叱る諸葛亮に対して、簡雍の突拍子もない行動に免疫力がついている劉備は平然としたものだ。それどころか、にや〜っと笑って羨ましいだろう、と鼻高々といった様子だ。まるで童子が親に新しい玩具を買え与えてもらって、それを近所の友達に自慢でもしているかのようだ。
 諸葛亮より二十も年上の劉備だが、妙に童心が残っているところがあるが、簡雍が相手となるとさらに色濃く出てくるらしい。やはり二人が昔馴染みだからなのだろう。
「お前らだけで美味いもん食おうってのか。ずるいぞ」
 抗議しつつ簡雍は窓枠を越えて室内に不法侵入を果たす(警護兵はどうした)。
「当然、俺も連れて行ってくれるんだろうな」
 どかり、と座り込んだ簡雍は、諸葛亮と劉備の顔を交互に見やる。
「どうして貴方という人は、執務を頼みたいときは姿をくらまして、どうでもよい時には顔を勝手に出してくるのでしょうね」
 諸葛亮の厭味に、ちくりとも良心が痛まないらしい簡雍は、固いこと言うなって、とひらひら手を振った。
「連れて行きませんよ」
 諸葛亮としてはとっとと劉gとの会談などすませて帰ってきたい。簡雍など連れて行った日には会談が宴になり大宴会にまで発展し、いつの間にか一晩中騒いでいた、ということになりかねない。
「ケチだな」
 あからさまに不愉快そうに顔を歪ませた簡雍に、さらに説諭しようと口を開きかけて、不意に糜竺との会話が蘇った。
『いきなり主城を陥落させるのではなくて、周りの外堀を埋める、ないし城壁を崩すところから始めるべきじゃないのかな』
『簡雍だよ』
 じぃっと簡雍を見つめる。
「なんだよ」
 文句を言われる、と身構えていた簡雍だったが、予想に反して諸葛亮が黙り込んで見つめてくるものだから気味悪くなってきたらしい。胡坐を掻いた足を揺すり、落ち着かなさそうだ。
「劉g殿は簡雍殿がご一緒だと都合が悪いでしょうか」
 お、という感じで劉備が目を見開き、簡雍が身を乗り出してきた。
「いや、お互いに面識もあるし、以前に劉g殿は憲和の奴を面白い人ですね、と笑っていたので問題はないと思うが、連れて行くつもりか?」
「別に構わないでしょう。矛先が私から逸れるかもしれませんし」
 なるほど、と劉備は意外に思った諸葛亮の発言にちゃんと裏があることを悟って肩を竦めた。一方、簡雍は何のことだ、と顔に書きながらも美味い酒が飲めるとあってか目を輝かせている。もちろん、諸葛亮としてはそれ以外にも糜竺の勧めた簡雍を味方につける策の取っ掛かりになれば、という打算も働いていた。
 諸葛亮と劉備、簡雍という奇妙な取り合わせが襄陽のはずれにある劉gの私邸へ向かったのは、あくる日のことだった。



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