「言絡繰り・3」
諸葛亮、劉備に騙されて担ぎ出されるも 1
 諸葛亮×劉備


   『言(げん)』

 言葉を操ることは、己の専売特許である。
 自身の能力に疑いを持ったことはなかったが、最近、不思議に思うことがある。

 決して滑らかではない。
 とつとつと、考えながら語りかけてくる言葉がある。
 操る、というよりは操り切れずに絡まりそうになっている節すらある。

 しかし彼の言葉は胸に沁みる。
 沁みて、波紋を呼び起こす。
 広がる波紋は岸に届き、自身も気付かぬ『言』を生み出し、
 また、戻っていく。

 果たして、操っているのはどちらで、
 操られているのはどちらだろう。

 操っている、と思っていたのは驕りであろうか。
 操れる、と思っていないと進めなかったからだろうか。

 それでも縋るものがそれしかなかったから。
 己はひたすらにそれに縋り。

 しかし彼はそれだけではないと、教えているようで。
『言』が大事だと言う傍らで、彼の『言』はそれ以上の何かで。

 己の心に何かを呼びかけて……。

 波紋を生む。

 いつまでも、波打つ大海のごとく、ただひたすらに。

 呼びかける――



『言絡繰り・3〜諸葛亮、劉備に騙されて担ぎ出されるも〜』



   ***


「やまないね、雨」
 呟かれた言葉に、諸葛亮は書簡から目を上げて「ええ」と返した。煽り窓から覗ける鉛色の空からは透明な雫が数多と落ちている。屋根にぶつかる、ぱさぱさという音は雨の激しさを雄弁に物語っていた。
「殿は大丈夫だろうか」
 それはこの雨脚の中出かけていった主――劉玄徳に対するものか、それともその行き先に待ち受けている想像しうる危険のことだろうか。しばらく諸葛亮は考えて、微笑んだ。
「案じることはありません、糜竺(びじく)殿。殿は外が嵐になればむしろ喜んで飛び出すぐらいの幼稚……豪気な方ですし、それに見合う腕もお持ちです。気に病むことはありませんでしょう」
「それはそうかもしれないけどね」
 はあ、と大仰なため息を吐いた小柄な男を、小さな苦笑とともに見つめる。普段は人の良さそうなつぶらな双眸と微笑を湛えている男の横顔は、外の空模様と同じほどに憂えている。
 糜子仲(しちゅう)。元々は劉備が陶謙から譲り受けた徐州で名のある豪族であった彼は、陶謙が州牧に就いていたころから、別駕従事(べつがじゅうじ)として州牧を支える役目を担っていた。それは劉備が州牧を引き継いでからも変わることなく、むしろ劉備自身に大きく惹かれたらしく、甚大なる私財や人材を惜しみもなく与えてきた。
 その心根と彼の人柄の良さに、劉備陣内では一目置かれる存在でもあったが、何より特筆すべきは、劉備への傾倒ぶりだろう。
 劉備の奔放ぶりを今さらあれこれと並べ立てたくもないが(思い出すと諸葛亮の平穏が失せる)、そんな劉備を誰もが放任主義に切り替えつつ(開き直りとも言う)ある中で、彼だけが唯一、劉備の一挙手一投足に気を揉んでいた。
 先日も劉備が口裏合わせを頼んだ孫乾(そんけん)と、護衛に就いた趙雲だけでこっそりと許都へ出かけたときも、後から知った糜竺の顔ほど哀れなものはなかった。
 勝手に危険な都へ出かけた劉備に対しての怒りで赤くなり、もしかして起こったであろうことを想像して青くなり、果てに無事に戻ってきた劉備の姿を見て、へなへな、と座り込んでみたりと。このような危険なことはお止めください、と諌めて、劉備が明るく(それこそ反省しているのか、と思うほど朗らかに)「すまんすまん、許せ子仲」と笑ったときの鉛でも飲み込んだような顔といったら。
 諸葛亮は我が身も味わったこととはいえども、同情を禁じえなかった。もっとも、劉備にぶつけられなかった憤りと遣る瀬無さを、糜竺から八つ当たり気味にぶつけられた趙雲と孫乾こそ、同情の対象でもあったが。
 今、諸葛亮と糜竺の主である劉備は、孫乾、簡雍(かんよう)を連れて荊州を治める劉表(りゅうひょう)が住む、襄陽(じょうよう)を訪れている。州牧である劉表はここ最近体調を崩していて、すでに余命幾ばくもない、と宣告されている。
 諸葛亮は、跡目争いから勃発するであろう荊州の内情には神経を尖らせていたが、劉表自身には大した感慨を抱(いだ)いていなかった。だが、劉備にとっては世話になった人である。病状には一喜一憂し、話がある、と呼ばれれば新野からほど近い、といえどもせっせと通う。招かれなくとも、見舞いだと足しげく訪れていた。
 今日もそんな見舞いの一環で新野を空けているのだが、糜竺は心配らしい。何せ以前、劉備は劉表の腹心、蔡瑁(さいぼう)に命を狙われた経緯を持つ。失敗に終わった策をまた弄してくることはないだろうが、可能性がないわけではない。ただ、蔡瑁はしばらく水軍の演習で襄陽を出ている。
 案ずることはない、と諸葛亮は考え、劉備が見舞いに行くのを止めなかったのだ。
「糜竺殿は殿を心から慕っているのですね」
 気を病む要素が限りなく僅かでも落ち着かない糜竺に、諸葛亮は半分からかい混じりに言った。
「もちろんだよ。君は違うのかい、諸葛亮」
 しかし衒いなく言われた上に聞き返されて、思わず諸葛亮も素直に答えていた。
「はい、私も殿を敬愛しております」
「そうだろうとも」
 にこり、と微笑まれて、諸葛亮は自分で発した言葉ながら頬が熱くなった。劉備に対しては皮肉しか出てこない近頃の己の口だが、実直で裏表のない糜竺にかかると、あっさりと胸襟を開いてしまうようだ。
 敬愛という感情が自分の中に根付き始めていることに、口にしたことで意識するが、それでもどこか素直になれないのはなぜだろうか。劉備が手間のかかる不真面目な主であるせいかもしれないし、もしかしたら勢いといえども二回も抱いてしまったせいかもしれない。
 今度こそ、顔が赤くなった自覚がある。
 自責と劉備の艶姿を思い出したせいだが、急いで頭の隅に追いやり、目の前の書簡へと意識を戻す。
 諸葛亮と糜竺は新野や近郊に暮らす農民たちから、どの程度の徴兵が見込めるかの目算とそれによって発生する納税免除の調整と兵糧の確保を算していたところだ。
「それにしてもこの戸籍はどれも殿たちが新野についてから調べたものですね。これ以前の資料はどうなっていたのですか?」
「ああ、それはねぇ」
 苦笑して糜竺が説明する。
 劉備の前の新野領主というのは劉備以上にいい加減だったらしく、戸籍調査はもちろん、流通や納税に関することの記録がほぼなおざりだったらしい。仕方なしに、糜竺たちは赴任してすぐに大掛かりな調査に乗り出した。
「まあ、それ以外にも色々あったのだけど。それはまた次のときに話してあげよう。今は徴兵の数を把握するほうが先だろう?」
 促されて、諸葛亮は頷く。主に似ず、糜竺や孫乾は勤勉で有能なので、諸葛亮としても共に執務をしていて気持ちが良い。昔から文官として劉備に従っている中では糜竺と孫乾が古株になるので、あれこれと細かいことを訊くには打って付けであった。何より、新参者の諸葛亮に対して初めから笑顔で接してきてくれたのは糜竺と孫乾だけだ。諸葛亮としても心を許せる仲間、という意識が芽生えていた。
 未だにもって、諸葛亮の新野での立場はまだまだ肩身が狭い。政務は劉備から一任されているせいか、徐々にやり易くはなっているものの、軍事に関することとなると話は別だ。劉備の義弟たち、関羽、張飛に毛嫌いされているせいで、ほとんど関われないでいた。
「糜竺殿、どうしたら彼らに私は認めてもらえるのでしょう」
 切りが付いたところで、諸葛亮は糜竺に尋ねてみた。
「もうすぐ、曹操が南征を行うでしょう。こうして徴兵の調査は出来ても、実際の軍事面は関羽殿や張飛殿任せです。確かに私は今まで戦を経験したことはありません。その上で彼らには殿とのことで悪感情を抱かれてしまっています」
 しかし、彼らの武人としての面で見る戦と、諸葛亮から見る面とでは見えてくるものが違うはず。それは決して無駄にはならないのだが、聞く耳を持たない彼らに伝える術がない。
 尋ねられた糜竺はしばらく腕を組んで悩んでいた。
「私には関羽殿たちの気持ちも、君の気持ちも分かるだけにどちらの味方もし辛いけども」
 糜竺が関羽たちの気持ちに添えるのは、同じく劉備を慕っているからであり、諸葛亮の気持ちに添えるのは、劉備の寵愛を受けて関羽たちに疎まれたことがあるからだ、と説明した。
「聞きかじった兵法を君に聞かせるのは少々恥ずかしいけれど、やはりここはいきなり主城を陥落させるのではなくて、周りの外堀を埋める、ないし城壁を崩すところから始めるべきじゃないのかな」
「と言うと?」
「彼らが殿以外の言葉で耳を傾ける人間が、もう一人居るってことは知っているかい?」
「……趙雲殿でしょうか?」
「彼も当てはまるけども、趙雲はあの通り真っ直ぐな性格だから説得役となるとどうかな。それよりももっと容易く彼らを懐柔できる人物が居るんだよ」
 誰だと思う、と目を細めて楽しそうに尋ねられるが、諸葛亮は首を捻るばかりだ。
「簡雍だよ」
「簡雍殿ですか?」
 驚いて目を軽く見開く。劉備陣内でも古株中の古株、劉備がまだ義勇軍の長ですらなかったころから付き合いがある、悪友ともいえる存在、簡雍憲和(けんわ)の名が挙がり、諸葛亮は意外の念に駆られた。
「彼は一見して何の役にも立っていないように見えるけども、彼には彼の役割があってね。不思議と誰とでも親しくなれる、という特技があるんだ。君も思い当たるふしがあるだろう」
「私は彼に疎まれている、としか思えませんが」
「そうかな? じゃあ逆に君は簡雍をどう思っている?」
「殿の悪行の片棒を進んで担ぐだけでなく、執務脱走の手引きをしたり、一緒に馬鹿騒ぎしたりと、私にしてみると諸悪の根源です。口は悪いし態度は横柄ですし、酒に酔うと人に絡んでくる性質の悪い酔っ払い……でしょうか」
 あっはっはっ、と糜竺は諸葛亮の簡雍に対する酷評に口を開けて大笑いした。
「おおむね私も同意見だけども。なら、君はそんな簡雍を嫌いかい?」
「……いえ」
 言われて気付いた。これだけの悪評を下しておきながら(我ながら適評だと思う)、不思議と簡雍を嫌ってはいない。仕方のない男だ、と呆れてはいるが、それだけだ。憎いだとか疎ましいなどという悪感情はそこにない。
「それが、彼の最大にして唯一の美徳だよ。だからかな、彼を嫌う人間もいないかわりに、彼自身も人を嫌っていない。君が彼に疎まれている、と思っているのは彼の表現に慣れていないだけだ」
「そんな簡雍殿が味方になってくれたなら、必然的に関羽殿たちにも認めてもらえると」
「簡単にいくかどうか分からないけども、少なくとも風当たりは弱くなると思うよ」
 分かりました、と前途の希望が見えてきて、諸葛亮は悩みの種が一つ消えそうでほっとする。だが、糜竺が続けた言葉に身を正す。
「簡雍は殿と同じように勘が鋭いからねぇ。仲良く、とかあまりあからさまな態度はやめたほうがいい。不審がられるだけだ。諸葛亮は諸葛亮の良さがあるのだから、そのままの君で接すればきっと打ち解けられると思うから」
 はい、と神妙に頷く。
 少し晴れ晴れとした諸葛亮の思いが天にも通じたのか、激しかった雨はやみ、暖かな光が雲の切れ間から降り始めていた。



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