「言絡繰り・2」 劉備、視察に行き諸葛亮を怒らせるも 3 諸葛亮×劉備 |
あくる日―― 昨日と同じ場所で店を開いた劉備は、さっそく行列が出来たことに瞠目する。 並んだ客曰く、昨日の評判が人を呼んだ、ということらしい。噂の広がりの早さに、劉備は再び驚く。 押し合い圧し合いする客たちを、趙雲が冷静に列の整理に立つ。 「はい、隣の方に迷惑ですから、横から覗かないで下さい。順番は守ってください。そこ、押さないで」 テキパキと小気味良い。 そのおかげで、最初こそ混乱したが、順調に劉備は品を売り払っていく。 「……これなら、帰りにちょっと高級な酒を扱っている酒家に寄っていけるかもしれんぞ」 ふっと途切れた客足の隙を狙って、劉備は趙雲へ笑いかける。 「さすが旦那様の作られる筵ですね。新野だけでなく、都の人々ですら唸らせる」 「ははっ、むしろこの腕で天下を狙えるか?」 「そうかもしれませんね」 劉備の軽口に、趙雲も同意を示して可笑しそうにする。 「それは、とても興味深い天下の形ですね。それほどの物なら、ひとつ私にもいただけますか?」 毎度どうも、ととびっきりの笑顔で口を開きかけた劉備は、次の瞬間、数々の乱戦から生還を果たした、という伝説の逃げ足を見せ、趙雲すら追いかけるのを忘れるほどの、鮮やかな遁走を披露した。 ずざざぁっ、と建物と建物の隙間に飛び込んだ劉備は、泣きそうな顔になる。 「どどど、どうしてあやつがここにおるのだ。ありえん、今度はありえんだろう。奴は神仙の類か。それとも化物か」 「自分で乞うて仕官を頼み込んだ相手を化物呼ばわりとは、あまりの言い草ではありませんか、旦那様?」 劉備の生家は、それは貧乏で、冬は隙間風が激しく、雨が凌げる、ということ以外に外で寝ているのと変わりがないほどの厳しい寒さであった。 しかし後ろから聞こえた声は、それを軽くひとっ飛びするほどの極寒を、劉備に与えた。 ぎゃー、と見っとも無い悲鳴を上げながら、劉備はまた逃げ出す。 無我夢中で駆ける。 これほど必死で逃げたのは、呂布に小沛を襲われたときか、それとも曹操の来襲を受けたときか。 足がもつれてその場に倒れ込むまで劉備は走り続け、市の端まで辿り着いていた。 ぜえぜえ息を切らしながら、劉備は倒れた姿勢のうつ伏せのまま愚痴った。 このぐらいで息が切れるとは、私も歳を食ったのか? 認めたくない、と思いつつも、脾肉を嘆いたことも思い出し、ちょっと落ち込む。 「大丈夫ですか、旦那様?」 そこへ、頭上から涼しげな声が降ってきたものだから、劉備は半泣きになって、ちらり、と声の主を見上げる。 逆光になり、相手の表情が良く見えないのは、幸いというべきか、不幸というべきか。 「お……」 お前、どうしてこんなところに。 乱れる息でまともにしゃべれない劉備に代わり、頭の良い男は答えてくれる。 「私、以前ここには通ったことがありまして。抜け道には詳しいのですよ。先回りすることなど容易いことです」 陽光も暖かな昼間であるのに、まるで真冬の木枯らしに素っ裸で立っているような、冷え冷えとした声だ。 「そ……」 そうではなくて、どうして新野にいるはずのお前がここにいるのか、ということをだな。 「ああ、そちらでしたか。だから、私は何度も申し上げたでしょう。執務室は片付けてください、と」 重要な書簡もそうでない書簡も一緒くたに置かれている有様に、見るに見かねた男は、主の居ない間に整頓しておこうと思い立ったらしい。その最中、劉備がこの計画の一端を走り書きにしていた布きれをを見つけてしまった。 それを手にした男の姿に、後に簡雍がこう語っている。 『俺、悪鬼の類って、信じてなかったけど、いるかもしれねえ』と。 そこへ丁度戻ってきた孫乾から詳しい事情を聞いた。 「孫乾殿は可哀想に、貴方に脅されて仕方なく。ようやく逃げ出して、このことを私に伝えに来た、とおっしゃられ」 裏切りおったな、公祐〜〜。 にっこりと微笑む孫乾の顔を思い出す。昔から当たり障り無く、波風を立てない男だ。今回も意外とこういう結果を見越して、途中で帰ったのかも知れない。 「しかし私が間者であったなら、大喜びで主に報告に行っておりますよ。あのように重大なものを無造作に放置しておくなど、呆れて言葉も出ません」 「ほほ、ほら、木を隠すなら森の中、と言うではないか」 ようやく息が整い始めた劉備は、ささやかな反論を試みる。 「どう見ても、ただ置き忘れただけ、としか思えませんが」 見抜かれている。 「それにしても、お前までこっちに来ては、向こうは大丈夫か?」 「半月がかりで臣下たちを騙してこのようなところまで来られた方の言える言葉ですか」 冷え切った声が色まで失う。 本気で怒っておる。 背中を、全力疾走で掻いた汗以外のものが伝っていく。 がばっと、うつ伏せた格好から起き上がり、正座へと姿勢を正す。 「すまん、孔明!」 「謝るぐらいなら、最初からこのようなことをなさらないでくださいますか、旦那様?」 不意に燦々と陽光を注ぐ太陽が翳り、逆光となっていた男の顔を浮き彫りにさせる。 にこり、とそれは美しく微笑む諸葛亮の目が、ちっとも、それこそこれっぽっちも笑っていないのを目にしながら、劉備は静かに肩へ置かれた手に戦慄を覚えたのだった。 人々の楽しげな顔が行き交う中、この世の不幸を一身に背負った顔で、劉備はとぼとぼと歩く。もちろん、その横には、端麗な面容に笑みを描いた諸葛亮がいる。 逃げ出すことは諦めた劉備は、ひとまず店に戻ろうと、諸葛亮に提案した。 二人の間には、賑わう市の雰囲気を壊しかねないほどの、気まずい雰囲気が漂っている。それを何とか払拭しようと、劉備は朗らかに声を発する。 「それにしても、速かったではないか。お前の馬術も中々のものだな」 「試験的に導入しました、早馬の仕組みを使いましてね。まさか自分で実験する羽目になるとは思いませんでしたが」 答える諸葛亮は笑顔だ。これ以上ないほどの笑顔だ。なのに、なぜか劉備の心は一向に暖か味を増さない。 「はは、しかし新野は大丈夫なのか?」 「主がいなくとも勝手に回りますので、何の不都合もありません。糜竺殿と孫乾殿は頼りになりますし。今回はなぜか簡雍殿も積極的に協力を申し出てくださいました。出かける間際に伊籍殿も来られていましたから、今頃手伝ってくれているかもしれません」 「そ、そうか。それなら安心だな」 説明する諸葛亮の横顔をちらり、と見やり、劉備は頬が引き攣らないように気を付けながら、微笑み返した。 「店は大丈夫だろうか」 「趙雲殿が見ていてくださっていますでしょう。それに、どうせあのような筵や沓、盗まれても構いませんでしょう」 「それは言い過ぎではないか。あれは私が精魂込めて、せっせと編んだ……」 「政務をサボってですか」 「ここ最近はサボっていない! あれはちゃんと寝る前や執務の休憩がてらに」 「そうですか、それは大変でしたでしょうね」 先ほどから、諸葛亮はこちらをちらり、とも見ない。笑顔を能面のように貼り付けたまま、事務的に劉備へ返事をしているだけだ。 これは相当根に持っているな。 こんな態度はこの短い間の付き合いだけだが、見たことがない。 恨みの根は深くする前に、とっとと引っこ抜かせて終わりにさせた方が、後々のためだ、と劉備は人生経験から悟っている。 「あのな、孔明、我慢は体に良くは……」 「立派な市ですね。やはり新野とは比べ物にならない」 「そうだな」 何を言い出すのか分からないが、諸葛亮が話したいことを邪魔するのは危険かと思い、劉備は大人しく相槌を打つ。 「治める人間の心構えの違いでしょうか」 「……」 「隙がない、規律に満ちた政道が布かれている。それなのに、人々はそれを窮屈だとは感じていない。それどころか、その気さえあればどこまでも上を目指せる、人の才の可能性を育む風土が出来上がりつつある」 淡々と、許都の有様を評す諸葛亮に、ゆるり、とまた澱が降り積もった。 「ここでは誰もが希望に満ちている。活気がある。治めている者の懐の深さが量れる」 立ち止まった諸葛亮が、ようやく劉備を見やった。 笑みが刷かれていた口元が消え、澄んだ理知を宿している双眸は、今は劉備を映しているだけで、何の感情も読み取れない。 「貴方とはまるで違う」 貴方と曹操とでは、器が違う。貴方に天下など描き出せるのか。 そう言われたような気がした。 澱みが生まれる。積もりに積もった澱が、清流を堰き止めて澱ませる。 「だ……」 先ほどまで、諸葛亮を宥めようと必死だった状況を忘れて、黙れ、と声を荒げようとした矢先だった。 ふっと諸葛亮が何かに気を取られたのか視線を外して、劉備の頭越しに目線を飛ばした。劉備も釣られて後ろを振り返る。 二人はもう店の近くまで来ており、趙雲の姿が見える。劉備が諸葛亮から逃げ出す前までは行列が出来ていた店先が、今は二人の男がいるだけだ。なぜか、他の客たちは遠巻きに眺めているだけで、近寄ろうとしない。 二人の客は劉備からは横顔しか見えない。一人は背が随分と高い。その物腰からも、すぐに武人であることが分かる上に、眼帯をしている。 まさか……。 もう一人の男は、丁度眼帯の男の影になり姿が見えない。 「……から、これを作った男を出せ、と言っておる」 その姿の見えない男が、凄まじい剣幕で趙雲へ迫っている。どうやらそれが原因で、客が引いているらしい。 なぜ、ここに居るのだ。 劉備の掴んでいた情報では、今はギョウにいるはずの男だ。だからこそ、許都行きを決定した。 「ですから、これは私が仕入れた品でして、作った方のことは知りません」 突っぱねている趙雲の顔は困ったような笑みを浮かべている。しかしそれは演技で、絡んでくる男に対して警戒心を抱いているのが劉備には分かる。 「おい、もうやめておけ。こいつはただの行商人だろう」 眼帯の男が傍らの男の肩を掴んで止めようとしている。 その拍子に、もう一人の男の顔が見えた。 ぎりっと、知らずに噛み締めていた歯の隙間から、呪詛のように名がこぼれる。 「……曹操」 劉備の隣で、諸葛亮の体が強張った。 「あれが、あの男が?」 呟く諸葛亮の声が、劉備の耳を素通りしていく。 久しぶりに目にした男の姿は、己と同じく少し歳を取ったようだが、変わらず華があった。趙雲を声高に責める口調にも、眼帯の男――曹操の従弟である夏侯惇だ――の手を振り払う仕草にも、満ち満ちている覇者の風格は隠しようがない。 「そのようなはずがない。ここでこれを売っていたのは二人組だと聞いている。貴様ともう一人、耳のでかい男がいた。その男に会わせろと言っておる!」 苛烈な勢いで食い下がる男に、あながち演技とも言い切れないほど、趙雲は気圧されている。 曹操が劉備を探している。どこから劉備がここにいる、との情報を掴んだのか分からないが、最近しきりに曹操の間者が近辺をうろついている。それらの目を誤魔化すためにも、視察という名目で関係ない場所も訪れたのだ。 曹操は暗殺を企んでいる、というわけではなさそうだが、ここで見つかれば、あの剣幕からして身の危険は確実であろう。 どうする、と劉備の頭が目まぐるしく回転する。 趙雲を置いてこの場から逃げ出すのは容易い。ほとぼりが冷めてから、また戻ってくればいい。 だが、本当に逃げ切れるだろうか。ここは相手の腹の中も同然だ。あの男が本気になれば、許都の門はすぐにでも封鎖され、出られなくなる。よしんば上手く逃げおおせたとして、残した趙雲はどうなる。いや、趙雲のことだ。捕まるようなことはないだろうが、しかし万一ということもある。 「殿、お逃げください。この人ごみです。容易いでしょう」 小声で、諸葛亮が言った。 はっとして、傍の男を仰ぐ。笑みが浮かんでいる。そして、瞳に宿っているのは剣呑とした光だ。 「お前はどうするのだ」 「私は、殿が逃げ出すための時間稼ぎをいたしますから」 「わざわざ危険に近寄るような真似」 「しかし趙雲殿だけでは抗しきれませんでしょう。それに、少々私も曹操には逢ってみたかったので、丁度良いです」 さあ、早く。逃げるのはお得意でしょう。それに、人の中に紛れるのも。 軽口を叩き、諸葛亮は劉備が止める間もなく、曹操へと歩いていってしまう。 阿呆、思慮深いお前らしくないぞ! 罵るも、同時に諸葛亮が曹操に対して並々ならぬ感情を抱いていたことも思い出す。 第一、こうなっては逃げることなど出来るはずがないだろう。 近くの店先にあった外套をかっぱらって頭から被り(店の人間も騒ぎに気を取られて気付かなかった)、気配を殺す特技を発揮して諸葛亮たちへ近寄った。 「どなたか存じ上げませんが、人の店先で騒がれては迷惑ですね」 不意に割り込んできた諸葛亮に、人々の視線が集まる。 「他のお客様が怯えて、近寄れないではありませんか。営業妨害です」 「何だ、お主は」 ぎろり、と曹操が諸葛亮をねめつける。夏侯惇がさり気無く曹操と諸葛亮の間に立ち、庇う体勢を取った。それを押し退けて、曹操は諸葛亮と対峙する。 「この店の主です」 「お主が?」 不躾なほどに、曹操の視線がジロジロと諸葛亮を上から下まで眺める。そして、ふん、と鼻で笑う。 「嘘を申すな。聞いていた風体と随分違う。誰を庇っているのか知らぬが、隠し立てをするのは賢くないぞ」 「庇う。それこそ、誰をでしょうか。そもそも貴方は誰をお探しなのですか? 探す相手の名も告げずに、うちの人間を責めるのはやめていただきたい」 詰問されても、諸葛亮は不貞不貞しいまでに落ち着き払っている。それは曹操が素直に「曹孟徳だ」と名乗った後も、変わらなかった。 「ほお、貴方が。お噂どおり、小さ……」 咄嗟に、劉備は近くにあったジャガイモを諸葛亮の後頭部目がけて投げた。「――くっ」と諸葛亮は小さく悲鳴を漏らしたが、何事もなかったかのように話を続けたのは、さすがとしかいいようがない。 (本気で死にたいのか、あいつは。それは禁句だ) 食べ物(ジャガイモ)を投げたことに罪悪感を抱きつつ、冷や汗を流す。 不審そうな顔になる曹操は辺りを見回すが、諸葛亮が「その曹操殿が、どなたを?」と会話を続けて誤魔化す。 「昨日、わしのところの従者が沓を買ってきおった。それを見て、もしや、と思った。そしてこの店に並ぶ筵、草履を見て確信した。そいつを作ったのは間違いなく劉玄徳だ。それに従者の申す人相もあやつにそっくりだ。劉備は少なくとも昨日までここにいた」 昔、曹操の客将でいた時分、劉備は曹操に筵で生計を立てていたことを話したことがあった。それを聞いた曹操が、自分にもひとつ作れ、と要求してきたことがある。 渋々劉備は言われるままに作ったのだが(しかも生来の凝り性のせいか、手が込んだ力作だった)、まさか沓を見ただけで判別が付けられるほど、曹操に目利きがあるとは思わなかった。 「なるほど、劉玄徳。あの徳で名高い左将軍様でございますか。貴方は劉備殿を探して捕らえようと?」 「それをお主に説明するいわれはない」 「そうですか。ならば私も何も話すつもりはありません」 険悪な雰囲気が二人の間に走った。趙雲と夏侯惇は何かあれば飛び出せるように構えているが、お互いに相手を牽制しあっているせいでしばらくは動けないだろう。 「若造のくせに随分と肝の据わった男だ。そっちも従者のわりにその身のこなし、只者ではない」 急に、曹操の容貌が崩れた。にやり、と愉悦に満ちた表情を浮かべる。 「どうだ、お主たち。わしに仕官せぬか」 どうやら、曹操の一種悪い癖、人材収集の血が騒いだらしい。 『お断りします』 しかし諸葛亮と趙雲は同時に声を揃えて言う。二人はちらり、と視線を合わせて、小さく笑い合った。 「つまらんの」 「私にはもう仕えるべき方がおりますから」 「その者は、お主らのような男たちが仕えるに値しておるのか。新野の小城で幾年も燻っている男だ。奪おうと思えば枯れ木を折るほどに容易く手に入れられるはずの荊州を、つまらん仁や徳に縛られて指を咥えている男だぞ?」 曹操には、諸葛亮や趙雲の主が誰なのか、もう分かっているようだ。 「……」 「くだらぬと思わぬか。きっと、何度も進言した者もおろう。今頃なら、あの平和呆けした牧州は進んで譲ってくれるほどの信頼を得ている。無理矢理にでも、穏便にでも、どちらの方法でも奪える。それでも駄目なら、後を継ぐはずの息子の後ろ盾になり、操ればよい。そう誰かが必ず進言しておるはずだ。なのに、それをする気配は今のところ全くない」 馬鹿馬鹿しいと思わんのか。 「良策を聞き入れぬ主など、仕える意味があるのか」 外套の中で、拳が震える。 お前に何が分かる。お前に何が! 叫びたい気持ちを必死で抑え込む。 「では貴方なら、そうしていると?」 諸葛亮の静かな声に、劉備はどきり、とする。荊州を取るように、ともっとも強く進言していたのは、他でもない、諸葛亮だ。 「もちろんだ。このような世で、何を遠慮する必要がある。優れた者が治めることこそが、もっとも早く治世が作り出せる。それが万民の望むことであろう」 「そうかもしれません。それはきっと正しいのでしょう」 澱が、劉備の咽元すら詰まらせて、息苦しさを生む。諸葛亮の次の言葉に覚悟を決めたが、 「それでも、私の主はただ一人です」 という言葉に笑みが浮かび、肩の力は抜けて息苦しさを生んでいた澱が消えていく。 「なかなか頑固な男だ」 「貴方が左将軍様に会いたかったのは、それを伝えたかったのですか。捕らえたり、殺すことが目的ではない?」 「そうとも言えるし、違うとも言える。会って確かめたいことがあった。七年、大人しくしておった。もちろん、その間幾度か兵は差し向けて撃退はされたが、ただ身を守るためであったかもしれぬ。奴は牙の抜けた犬に成り下がったのか、そうでないのか、知りたかっただけだ」 「もし、ただの犬であったなら?」 「捨て置く。噛み付かれる心配などない」 「では、牙が変わらず磨かれていたのなら」 「殺す。だが、もしかしたら殺さずに見逃すかも知れぬ。犬がどこまで吼えていられるか、試すかも知れぬ。それはやはりあやつ次第であろうな」 「貴方は、左将軍様を憎んでいらっしゃるのですか。それとも……」 「それこそ、お主に言う必要のないことだ。わしとあやつ、劉備とのことだ。あやつにも聞いてみろ。同じことを言うだろう」 (曹操……) 口の中だけで呟かれたその名は、苦さと鋭い痛みを舌の上に招き、劉備の顔をしかめさせた。 「……長話が過ぎたな。もし、ここで売っていた男が本当に劉備であるなら、今頃はもう逃げ延びた後だろう。逃げ足だけは天下一の男だからな。時間稼ぎにまんまと乗せられた」 くくっと曹操はそれでも楽しげに笑う。 「乗せられてくださった、のではないのですか」 すっと、曹操の眼光が鋭さを増す。 「実にもったいない。お主のような男があやつの下にいるとは、信じられぬな。やはりお主の主は劉備ではないのか」 「ご想像にお任せいたします」 「まあいい。もしもあやつに会ったら伝えろ。くだらぬものに縛られておるうちは、わしの前に立つ資格はない、とな」 行くぞ、と曹操は夏侯惇へ声をかけて、店先から去っていく。その後ろ姿が消えるまで、趙雲も諸葛亮も、もちろん劉備も、そこから一歩も動かなかった。 |
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