「言絡繰り・2」
劉備、視察に行き諸葛亮を怒らせるも 2
 諸葛亮×劉備


 見渡す限りの人である。
 新野の市場など童のままごとのように見えてくる規模とその盛況ぶりに、劉備と趙雲は素直に声を上げる。
「凄いな、子龍!」
「ええ、本当に。久しぶりに来ましたが、ますます栄えているようです」
 感嘆とともに感想を漏らした趙雲だが、はっとした様子で渋面を作った。
「しかしこのような人の多いところです。早めに帰りましょう」
「まだ来たばかりで何を言い出すのだ。お前も楽しめ」
「いえ、私は殿の護衛ですから……っ」
 言いかけて、思い切り劉備に足を蹴られて言葉を切る。
「殿と言うな、と言っておいただろう。私とお前はただの商人と下男。呼ぶなら旦那だ」
「承知しました」
 蹴られた足は痛くはなかったが、劉備に怒られたことと、いくら主上命令とはいえ、新野の皆に黙って二人だけでこのようなところまで来てしまった罪悪感とで、趙雲の足取りは重かった。
 諸葛亮に近郊の村々へ視察に行くという名目で、二人が新野を出発してから幾日かが過ぎている。諸葛亮だけでなく、関羽や張飛、糜竺らにも視察という名目で新野を離れた。
 真相を知っているのは、隠ぺい工作を頼んだ孫乾だけだ。
 はじめこの話を聞かされたとき、趙雲は「はっ?」と聞き返した。
「関羽殿や張飛殿にも内緒で行かれるのですか?」
 うむ、と劉備が頷く。
 それはまた、と趙雲は目の前に立つ主をしげしげと見下ろした。趙雲の知る限り、劉備とその義弟たちの間に、隠し事など存在しないし、する必要もないほどの仲睦まじさだ。
「あいつら、たぶん行き先を告げたら絶対に行くな、と言うか、絶対に付いていく、と言い出すに決まっているからな。あの二人だと目立ちすぎる。だから今回は悪いが内緒だ」
 やはり弟たちに秘密にするのは気がひけるらしく、劉備は首を竦める。気が咎めるならやめればいいのに、と趙雲は思ったので、訊いてみた。
「そこまでして行かれたいのですか?」
「ああ」
「どうして?」
「どうしてもだ」
 理由は良く分からなかったが、劉備がこういう口調になったときは意思を変えることは出来ない、と承知している趙雲は、結局従者を引き受けることにした。
「孫乾殿はしかしどうして」
 劉備の傍らにいた男へ、趙雲は尋ねる。少なくとも趙雲が見立てる孫乾という男は、劉備の勝手をある程度は許していても、進んでこういう謀に手を貸す男ではなかったはずだ。
「むしろ簡雍殿でしょう」
「そうでしょうね」
 趙雲の言葉に、孫乾は可笑しそうにする。
 普段であれば、劉備のこういった、領主として褒められない行動をともにするのは、簡雍と相場が決まっている。
「ただの消去法です」
 それに対して、孫乾は微笑んだままよく読めない表情で答える。
 一部で、諸葛亮が「氷結の微笑」と呼ばれているのに対して、孫乾はいつでも笑みを浮かべているので「鋼鉄の微笑」と呼ばれている。
 その笑みは見るものを不思議に暖かい気持ちにさせる一方で、孫乾自身の心裏を隠す、という効果も持っている。
「簡雍殿では、こういった秘事になると、途端に弱いですから。片棒には向いていないのです」
「あいつは口が軽すぎる。子仲(糜竺)も違う意味で向いておらん」
 劉備は小さく笑った。
「そうでしょうね」
 孫乾、簡雍とともに長く劉備の臣を務めている糜竺は、気概があり芯の通った男であるが、基本は真面目というか、平たく言えば人が良い。隠し事をするのは苦手な部類に入る。
「というわけで、私に白羽の矢が立った、ということです」
「それに、なぜか孔明の奴、公祐をだいぶ慕っているようだしな」
 納得である。前述の通り、孫乾は隠し事をするにはもってこいの性格と姿をしている。それに良くは分からないが諸葛亮の信頼も厚いという。適任としか言いようがない。
「諸葛亮殿を騙すのは少々気がひけるのですが」
 さすがに孫乾、根は真面目らしく、眉を少々ひそめている。
「あまり白々しいことは言うなよ、公祐。お前も何か目的があって私の話に乗っているのだろう?」
「おや、お見通しですか。殿には敵いませんね」
 再び読めない微笑を浮かべた孫乾は、しかし目的は話すつもりがないらしく、では決行の日に、と別れた。
 予定通りに新野を発った三人は、荊州の北へ向かいながら視察を行った。劉備曰く「全て嘘、というのはバレやすい。だから、こうして真実を少し混ぜておくのがコツだな」ということなので、本来の目的地以外のところにも立ち寄ることにしたらしい。
 棘陽、博望、堵陽と北へ北へと進みながら、順調な旅を続けていた。
 次の日、いよいよ荊州を出て目的地である豫州へ入ろう、というとき、孫乾が帰城を申し立ててきた。
「殿の留守が長くなれば、政務の滞りも心配です。私はここで戻らせていただき、諸葛亮殿の手助けをしたいと思います」
「そうか、言われてみればそうかもしれん。一応、このために真面目に雑務を片付けていたのだから、すぐには問題にならんかもしれんが」
 言われて、趙雲はここ半月の劉備の勤勉な政務への姿勢を思い出す。
 半月もかけた策だというのだから、その念の入れようときたら、と少々呆れる。そんな趙雲の気持ちを察したのか、孫乾は「そういう方でしょう、この方は」と目で伝えてくる。孫乾たちも主の政務への骨身を惜しまない態度に押されて、だいぶ忙しかったようだ。
「お茶を啜る暇もありませんでしたからね。それでも政務というものは毎日行っていませんと滞るものです。それに、あまり視察が長引けば諸葛亮殿も不審に思われるでしょう。その辺りも誤魔化しておきますので」」
 そういって馬首をめぐらせて、孫乾は去っていく。
「頼りになる奴だ」
 うんうん、と満足げに見送る劉備の横で、趙雲は首を捻る。
「しかし殿、こうなると、孫乾殿の目的とは何だったのでしょうか」
 趙雲はてっきり旅先にあるもの、と思い込んでいたのだが、こうして帰ったところをみると、どうも違うらしい。
「そう、いちいち他人を詮索するものではないぞ、子龍。公祐には公祐の付き合いがある」
 元より深い興味があって尋ねたわけではないので、そこでその話は終わりになった。
 それよりは問題なのは、もっぱら現在である。
「よ〜し、ここだな。ほら、子龍、少し手伝え」
 市場へ入るための門をくぐる際に、役人から渡された符を確認した劉備は、嬉々とした様子で与えられた屋根が付いた簡易店舗に荷を下ろす。趙雲も背負わさせていた荷をほどくと、中から劉備手製の沓や草履、筵が大量に出てくる。
 この日のために、せっせと作ったという、いつにも増して力作ぞろいの、玄人が裸足で逃げ出すような出来栄えだ。
 いや、そもそも筵で生計を立てていたのだから、玄人なのか。
 特に新野に駐在するようになって、それなりに平穏な日々が続いているせいか、劉備は事あるごとに街へ繰り出して草履や筵を売って小遣い稼ぎをしている。腕は衰えるどころか磨かれる一方、ということだろう。
 こういった特技を持つ領主というのも、大陸広といえども劉備ぐらいのものだろう。おかげで商品を並べる手付きも周りの商売人と大差ない。
 なぜかちょっと涙が出てきそうになる趙雲だが、言われるままにてきぱきと店作りに励む。
「お前も、大概器用な奴だな」
 感心した劉備に、趙雲は至極当然として顔で、頷く。
「はい、慣れていますから」
 小遣い稼ぎと称して、極貧である劉備軍財政を潤すため、各人様々なことをしている。
 孫乾は城庭や自宅の庭を利用して、茶畑を開墾。茶を摘んでは売り捌いている。今では本物の茶葉と代わり映えしない出来の様だ。
 張飛は元々肉屋をやっていた、とかで、獲物を捕らえるところから始まり、屠殺し肉を捌いて売るところまでやっている。
 関羽は寺子屋を開いて、子供たちに学を教えている。あまり収入は見込めないようだが、代わりに親たちから野菜などの物資を提供してもらっている。
 ちなみに、趙雲はそれに付き合って、たまに学んでいる子供たちの弟や妹の面倒を見ている。その他にも薪割りからお使い、何でもこなして小金を稼いでいる。趙雲の場合、すぐに何でもこなせるようになるので、結構重宝されている。
 そして、劉備軍の財政を預かっている糜竺が、集まった小金を元に、こっそり質屋を営んでいる。徐州では豪族であり、財力も未だにある糜竺は、色々な物に目が肥えている。持ち込まれた品物の価値を見抜くには適任であった。
「そうだったなぁ」
 なぜか今度は劉備が涙を拭っている。
 別に彼ら、決して悲観的になっているわけでも、自身の境遇を哀れんでいるわけでもないのだが(むしろ楽しんでいる節すらあるが)、なぜか時折、目頭が熱くなるのである。
「それにしても、これだけ人が多いと、もしものときに殿を」
「旦那」
「……旦那様をお守りすることが難しいのですから、くれぐれも軽率な行動は慎んでください」
 趙雲は、何よりそれを懸念している。
「分かった分かった。とにかく、遥々許都まで来たのだ。帰りの荷を軽くするためにも、全部売り捌くぞ」
「はい」

 ――そう、二人は豫州、今は帝が住まわれているので、都の名が付いている、許都に来ていた。

 許都を訪れるのは八年ぶり、建安四(一九九)年来である。
 あの頃劉備は鬼神とも呼ばれた呂布を、曹操と共闘のもと倒し、そのまま客将という扱いで許都へ招かれていた。
 そのときにも、都の美しさ、そして何よりもここが大陸の中心である、という住人たちの自尊に寄る活気に気圧された。久しぶりに訪れた今も、それは変わらずに劉備を圧倒している。
(いや、むしろ前よりも増している)
 特に、ここ市場はそれが如実に現れており、新野は元より、襄陽の市場ですら比べ物にならない賑わいである。
 市は塀に囲まれた中で開かれているが、そこで店を開くには役所への登録と相応の代金、さらには荷の検収までされ、最後、市を出るときにはそこで売り上げた金額に見合う税を収めなくてはならなかった。
 しかしそれを、曹操は国の活性化を図るために規制を緩くし、もっと開けたものへと改変させた。
 それまで商人というものは絹の衣も着てはならない、子孫は官吏になれない、など規制が強く窮屈なものだった。それでも、商売を続ける者たちは後を絶たなかったが、曹操の政策でより力を発揮するようになった。
 曹操の政策は商人たちに支持され、商人はそのことを行商の先々で伝え広める。それが許都へ人を招き、訪れた人はまたそれを他の土地に住む人々へと伝えていく。
 この時代の市は、情報発信の場でもあったのだ。
 往来する人々の波は途切れることはなく、その顔は輝いている。
 笑顔で言葉を交わす人々を眺めていることは、劉備の幸せのひとつだ。なのに、なぜか心の片隅でゆるり、と溜まる澱がある。
「曹孟徳……」
 小さく口にしたその名に、劉備の澱がゆるり、とまた降り積もったような気がした。
「何かおっしゃいましたか、と……旦那様」
 殿、と言いかけた口を急いで言い直した趙雲が、劉備を見やった。その声に我に返った劉備は、笑顔になり、首を横へと振った。
「いや? ――さあ、やるぞ、子龍」
 袖を捲り上げ、劉備は気持ちを切り替えた。激しい往来をする人々の気を引くために、声を張り上げる。
「そこの旦那、洒落た沓を履いていらっしゃる! よほどの色男と見るよ。そんなあんたには、家でもきっと良いものを使っているんだろう」
 まず劉備が声をかけたのは、確かにちょっと目を引く渋めの中年男だ。連れ合いと共に市を楽しんでいるらしい。
「お連れの方も、さすがの美人だね。ところで家で履いている草履に、不満を持ったことはないかな。ちょっと歩きづらい、妙に疲れる。そんなことはないかい?」
「ああ、無くはない」
 そう男が答えたところで、劉備は己が編んだ草履を突きつける。
「これ、ちょっと履いてみてくれないか。きっとそんな悩みを吹っ飛ばせるよ」
 不審そうな顔をする男の前に、劉備はさあさあ、とにこりと笑って差し出す。警戒心を解かせる劉備の笑みに、男は言われるままに草履へ足を伸ばす。
「ほお、これは……」
 軽いし柔らかい。しかし通気性に優れていて夏は蒸れない。
 感嘆の声を上げた男へ、劉備はそっと耳打ちをする。
(足の指が痒い病も、これで治るよ)
 男の目がぱちくり、と瞬かれた後、ちらっと連れ合いに視線を走らせた。
(大丈夫、まだ奥さんは気付いていないよ。今のうちに治してしまいな)
 続けて囁けば、男は声を張り上げた。
「買った!」
「毎度!」
 すかさず劉備は趙雲へ草履を預け、包ませる。
「ありがとうございます」
 微笑む趙雲に、連れ合いの女が見惚れている。何かお買い上げになりますか? と趙雲が訊けば、同じものをください、と返る声。
『毎度!』
 劉備と趙雲の声が綺麗に揃った。
 それからも、劉備の話術と趙雲の男ぶりに誘われるように、店の前には人だかりが出来上がる。
「爺ちゃん、夜が眠れない? それはきっと布団の下が良くない。この筵を引いてみな。きっと違うはずだよ」
「お嬢さんは、こちらの色の沓が似合うと思いますよ?」
「大将は立派な体格しているから、沓もすぐに磨り減るだろう。え? その前に足がでかくて中々合う沓がない? それはお困りだろう。じゃあ待ってな。ちょっとこの沓を手直しして、あんたに合う大きさにしてしまうよ」
「お姉さんは流行り物に目が無いのですね。では、こちらは今、南方で流行っている沓です。ほら、ここのつま先の部分が。ええそうです。飾りが独特でしょう」
「はいはい、背が低いのが悩みのご主人がいる? それならこれが断然お勧めだ。はたから見ると普通の草履。だけど、実はほら、ね? 中が底上げされていてね。だからこれを履くと背が高く見えるよ」
 劉備と趙雲、それぞれに相手をしながら、どんどんと売り捌いていく。
 結局、劉備が持ち込んだ品々は、市が終わる時間を待たずに売切れてしまった。
「すいません、おしまいです。申し訳ありません。はい、また来ますから」
 趙雲が並んでいた人たちへ頭を下げる。それへ劉備も合わせながら、てきぱきと店を畳み始める。
 そこへ、声をかけてくる商人がいた。
「よお、相変わらずお前んとこの物は評判いいな!」
 小太りで人が良さそうな男が、親しげに劉備へ近寄ってくる。さりげなく趙雲が劉備と小太りの男の間に入って、盾になろうとする。
「大丈夫だ、子龍。知り合いだ」
 ぽんぽん、と背中を叩き警戒心を解かせると、黙って趙雲は下がり、劉備の代わりに店を片付け始めた。
「へえ、随分と腕が立ちそうだね。用心棒かい? しかしそれだけにしては色男だ。お前、昔っからこういうのに弱いね〜」
 ジロジロと、不躾な視線を趙雲に向けつつも、男は劉備へにやり、と笑ってみせる。
「昼間だけじゃなくて、夜も用心棒やらせてるんじゃないか?」
 ずべっと鈍い音が劉備の脇で起こる。もちろん、趙雲のコケた音だ。
「違う違う。お前、昔から話題をそっちへ持っていきたがるな。何度も言うが、私は好きこのんで男は抱かんし抱かれん。どうして男の硬い体がいいのか。絶対に女の柔らかい胸とか尻のほうがいいに決まって……」
「旦那様、はしたないです」
 苦言が趙雲から漏れるが、劉備は平然としたものだ。
「まあ、こういう頭の固い奴でな。用心棒は昼間だけしか務まらん」
「なるほど、確かに」
 男は納得したようで、ところで、と本来の用事を思い出したのか、話題を変える。
「今夜はこっちに泊まるつもりか?」
「そのつもりだ」
 品も二日に分けて売るつもりで、明日の分はまだ別に用意している。
「宿は?」
「これからだ」
「なら、俺んとこに泊まれよ。ここで商売させてもらって長いからさ、別宅造っちまったんだ」
「そうなのか? 何だ、結構儲けているのだな」
「まあな。何せ録尚書事様が俺たちに対して、随分と規制を緩めてくれたからな。ほんと、商売しやすくなったよ」
 録尚書事――曹操の現在の役職である。あまり聞き及ばない役職名であるが、その実は政務のほとんどを掌握している、最高位と言える官職であった。
 そうだろうな、と劉備は呟いた。
 許都へ向かう道すがらの人々の表情や、そして実際に許都へ入ってからの道行く人々の顔付きなど。それは政治を執り行う人間の器が如実に反映されるものだ。若い頃から様々な土地を放浪してきた劉備は、そこに住まう人々の雰囲気で、彼らを導いている人間の器が量れた。
 違うな。
 荊州の民、新野に住まう民と許都に住まう民とでは、纏っている空気からして全く違う。
 安穏とした、目の前に用意された平和を貪るだけの民と、自らが造り上げた平和を噛み締めながら味わう民とでは、これほどに違うのか。
 何が違うのだ。
 己と曹操と、何が違う。
 曹操を、自分と違える道を行く者、と見定めたときから問いかけ続けている疑問に、やはりいつも通り答える者はいない。
「旦那様?」
 店を片付け終わった趙雲が、身内に溜まった澱に気を取られた劉備に勘付いたのか、訝しんだ声音を漏らした。
「……ああ、すまん。そうだな、厄介になるとしよう」
「じゃあ、少し待っていてくれ。どの道、お互い荷の検収がある。東の門の外で落ち合おう」
 分かった、と返事をして、劉備と趙雲は門へと歩き出す。
「あの者は旦那様とどういった?」
 疑問はすぐに口に出す性質の趙雲らしく、劉備と男の関係を訊いてくる。
「昔からの仲間で、まだ私が侠に身を投じていた頃からの付き合いだ。筵を売りながら生計を立てるようになってからも、時々連絡を取り合っていた。ここの市へ出店出来るように根回しをしてくれたのも、奴だ」
「ではあの男は、旦那様の……」
 劉備の本来の身分を知っているのか、とさすがに趙雲はそこまでは口に出さない。うっかり誰が聞いているか分からない場所で、迂闊なことはしゃべれない。
「知ってはいるだろう。ただ、そのことに関して何か言われたことはない。まあ、口利きを頼んだら、物好きだな、と笑われはしたが」
 その説明で納得したらしく、趙雲はそれ以上は訊いてこなかった。元々劉備が信頼しているのだから、口出しするつもりはないだろうが、それでも最低限、信用に足るのか判断したかったようだ。劉備の身分や立場を知っていながら、変わらずに接している、という男の態度も気に入ったのかもしれない。
 頼れる武人は、劉備の隣を無造作に足を運びながらも、身のこなしは隙が無い。恐らく、殺気の一欠けらでも感じ取れば、俊敏にしなやかな肢体は反応する。そのくせ、一見無害そうな整った顔立ちが無駄に人目を惹いているのは、本人は無自覚であろう。
 おかげで、隣を歩く劉備に目を向けるものは誰もいない。もちろん、劉備自身の普段から人々の中に溶け込める、という妙な特技のせいもある。
 やはり子龍にして正解だったな。
 好奇の視線は自分を素通りして、趙雲にのみ集まっている。しかもそういった視線の意味にはとんと鈍い男は、気付いた様子もない。
 許都へ来るにあたり、懸念していたことは、万が一にも劉備を知る人間に出くわしそうになったときの対処である。
 それを、無駄に目立つ趙雲を、いうなれば避雷針にしよう、という妙計だ。
 趙雲が護衛ならば、と案の定孔明もあっさり許したしな。
 最大の難関である諸葛亮を出し抜くことが出来た劉備は、密やかに笑う。
 久しぶりに手ごたえのある奴が出てきたから、大いに鍛えねば。
 劉備の(執務)脱走癖は今に始まったことではない。
 これでも、初めて官職を手にしたときはそれは真面目に勤めたものだ。しかしそれも都の督郵の態度に腹を立てて辞したあたりから、馬鹿馬鹿しくなった。
 その後も幾度か官職を得たが、必要と思われること以外は手を付けなかった。それよりも、市井の中で人と交わることのほうが楽しいし、有意義であった。官舎に籠もっていては聞けないようなことばかりを、そこで知った。
 そんな劉備を、平原の相だった頃は、関羽が執務に戻るように何度も訴えてきたし、徐州の牧を譲り受けたときは、孫乾と糜竺が説得を試みた。しかし今ではすっかり諦めたのか開き直ったのか。誰も劉備に諫言してくることはなかった。
 自由を謳歌できる傍らで、手ごたえのない脱走に唇を尖らせていた。
 つまらん、これでは脱走ではなく、ただ散歩に行っているだけに過ぎん。
 かなり自分勝手なことを思っていた矢先に、新しい男を迎えた。
 少し前まで軍師をしてくれていた徐庶から教えられた臥龍の正体、諸葛孔明たる男を知ってから、劉備は絶対に迎え入れたい、と願っていた。
 荊州での六年は、長い放浪生活の果てに訪れたつかの間ともいえる平穏な時だった。しかし劉備は平穏の中でも己の気骨が萎えていないことに、諸葛孔明という男の存在を知ったときに自覚した。
 己の目指す天下の形を成すには、劉備軍の誰もが持ち得ていない智嚢が必要だ。それを切実に知っていた劉備は、男の力が欲しかった。熱意は見事に実を結び、臣に加えることに成功した。男の語る天の形、それを形作るには何が必要なのか、夢中で話し合った。それこそ、義弟たちから不平が漏れるほどに、男と同じときを過ごした。
 が、しかし悲しいかな、人間というのはそう簡単に変われる生き物ではなかったらしく、いざ、実務に移るとなると、理想と現実の格差にげんなりし始めた。
 煩雑なのだ。やることなすこと、全て。
 諸葛亮はやはりそういうことに向いているらしく、また糜竺や孫乾といった文官肌の人間たちはそのやり方にすぐに慣れ、随分と新野の庁舎は機能的になった。
 しかし、どうにも劉備はじっとしていること自体が苦手であるし、細かいことが増えてくる執務は面倒くさいしで、諸葛亮を迎えてから一回目の脱走を図るまでは、大して時間を必要とはしなかった。
 ところが、諸葛亮もさすが並の男ではなく、劉備の行動を読んで阻止すること数回。その攻防は徐々に熾烈を極めてきた。
 一度は胡床に縛り付けられたこともあった。全く、あのときはさすがに主を何とするのか、と怒ったものだ。
 幾度劉備が政務を放り出しても、懲りずに嗜めたり叱ったり、追いかけてきたりもする。そのときの諸葛亮ほど怖いものはないが、実は嬉しかったりもする。
 つまり劉備は、諸葛亮との攻防を楽しんでいるのだ。
 今回も許都へ行く、などと馬鹿正直に言えば、絶対に反対される。だからこそ一計を案じた。誠実に政務を全うし、油断を誘い、そこへ視察という正しい行動理由を提示する。
 半月がかりの計画に、まんまと諸葛亮は騙された。
 もちろん、純粋に劉備の執務態度に感動していた諸葛亮の顔を思い出すと、良心が痛まないわけでもないのだが、罪悪感よりもあの諸葛亮を出し抜いた、という優越感のほうが勝っていた。
「先ほどから、何やら楽しそうですね、旦那様」
 すっかり商人とその下男、という設定に馴染んだらしい趙雲が、自然な口調で旦那様、と口にする。
「そう見えるか?」
 そうか、と劉備は顎鬚をしきりに撫で付ける。
「ほら、そうやって。旦那様が顎鬚を撫でるのは、機嫌が良いときの証です」
 自分でも気付かなかった癖を指摘されて、劉備はちょっと目を見張る。周りの好奇の視線には気付かない、妙な鈍さがあるくせに、こと劉備に関することとなると、この趙雲は野性的なまでの鋭さがある。
「都に近付くにつれ、少しご様子が優れませんでしたけど、そうでもないのでしょうか」
 こうして、劉備が表に出そうとしなかった『澱』すら気付いてしまう。
「さすがだな、子龍は。そのどちらも当たりだよ」
 真っ直ぐな趙雲の言葉に、劉備も正直に答える。
「機嫌が良いのは、鬼軍師から解放されたせいだ」
「鬼……諸葛亮殿ですか? ひどい言われようですね。彼が鬼になるのは、旦那様のせいでしょうに。普段はあんなに穏やかなのに、旦那様が脱走されたときは、鬼気迫るものがありますから」
「そういえば、お前から孔明を悪く言う言葉は聞いたことがないな」
 関羽や張飛など、劉備が諸葛亮と一緒にいるだけで敵意を未だに剥き出しにしている。
「悪く、というか。かと言って好き、というわけでもありませんが。今のところはどちらでもありません。私は彼の平時での在りどころしか知りません。だから関羽殿や張飛殿がいうように、口だけの男なのか、それとも旦那様がおっしゃるように、実力が伴っているのか。それは私が実際に彼から感じ取らない限り、断言できるものはありませんから」
 趙雲らしい言葉に、劉備は小さく笑んだ。
 いつでも、この男は自分の立ち位置がずれない。真っ直ぐで、しかし決して堅くて折れる脆さはなく、しなやかである。
「では、お前に認められれば、孔明の実力は本物、ということか」
 すでに政務の面では糜竺、孫乾には認められている。簡雍だけは、きっちりとした諸葛亮のやり方が苦手らしく、嫌っているようだが、それも時間の問題だ。元々簡雍は人好きだ。口では文句ばかり言っているが、諸葛亮の良いところは認めている。
 軍事の面は、これからだろう。何せ義弟たちは劉備を盗られた、と感情論が先に立ってしまっている。趙雲も本物しか認めない男だ。
 さてさて、大変だぞ、孔明。
 くつくつと声を漏らす劉備に、趙雲が小首を傾げる。
「では、様子が優れなかった理由は……」
 と、さらに尋ねられるところへ、先ほど別れた旧友から声をかけられた。
「待たせたな、案内するぜ」
 ああ、と返事をすれば、趙雲からはそれ以上の話はなかった。
 旧友の邸(やかた)では、侍女たちがまずは趙雲を盛大に歓迎した。さすがに、主の嗜めで下世話な騒ぎにはならなかったが、ひそひそと趙雲に対する批評をしきりに囀(さえず)っている。
「これは、お前、夜大変な騒ぎになりそうだぞ」
 ニヤニヤしながら劉備は趙雲へ忠告するが、きょとんとした顔付きで聞き返したきた。
「どこかへ出かけられるのですか?」
「私じゃない。お前だ、お前」
「私はどこへも出かけませんよ。もちろん、旦那様がどこかへお出かけになられるのでしたら、従いますが」
「そうじゃなくて……って、お前まさか私とずっと一緒にいるつもりか」
「当然です。私が何のために従っていると思っているのです」
 護衛だ。確かにそれも兼ねている。兼ねているが……。
「前から淡白だ、と思っていたが、枯れているのか、お前は」
 呆れる劉備に、趙雲はようやく劉備が言わんとする意味を理解したらしく、頷いた。
「そういうわけではありません。ですけども、私のもっとも優先させるべきは旦那様の護衛です」
 真面目なのもここまで来ると賞賛である。
「安全な場所なのだから、そう心配することもあるまいが」
 呟く劉備に、しかし趙雲の説得は難しそうだ、と思い、女たちには悔しい思いをしてもらうことになるな、と肩を竦めた。
「明日は昼前から店を構える。そのつもりで支度してくれ」
「分かりました」
 にこり、と微笑んだ趙雲に、給仕の女が見惚れている。
 やれやれ、と劉備は苦笑した。



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