「言絡繰り・2」
劉備、視察に行き諸葛亮を怒らせるも 1
 諸葛亮×劉備


げん

 この迂闊さを、自分はいつも忘れがちだ。
 それで幾度か失敗しているはずなのに、忘れて過ちを犯す。

 手軽に鞘から抜けるそれは、人を傷つけることなど容易く、
 それどころか後々まで残る傷跡すら作ってしまう。

 後悔しても、一度鞘から走らせて相手に放たれたそれは決して引っ込まず、
 相手の胸を突き、切り裂き、深く抉ってしまう。

 取り返しはつかない。

 どうしてそれを自分は忘れてしまうのだろう。

 それでも自分は――いや、きっと人は捨てられないのだ。
 それが紡ぎ出す糸に自らが、そして大切な人すらも捉えて、
 傷つけてしまうものだとしても、決して捨てられない。

 体の温もりを分かち合うのは簡単だ。
 それでもまだ触れ合いを、それ以上の温もりを求めるのは、足りないからだ。

 心が、心と心が触れ合うその手段が欲しい、と思う。
 見えない、体の奥深くに仕舞い込まれている方寸を溶け合わせる手段は、

 ただひとつ。

 言葉だけだ。

 言という刃を、自分は上手く使いこなせない。
 この刃は人を傷つけるだけでないはずだと、知っているのに。
 いつも後悔をしている。

 だが、その後悔すら、改めるのはきっと言なのだ。

 だから、震える手で鞘から抜き取ろう。

 言という、その刃を――。



『言絡繰り・弐〜劉備、視察に行き、諸葛亮を怒らせるも〜』



   *****



 最近、いつになく諸葛亮は機嫌が良かった。
 どれくらい機嫌が良いかといえば、回廊を、梁父吟を鼻歌まじりに歌い上げ、すれ違った簡雍に聞こえよがしに「気持ち悪ぃ」と言われても、にっこり微笑み返したほど、機嫌が良かった。
 回廊を進み、諸葛亮の執務室と程近いところに、劉備の執務室、すなわちこの新野城主らしい、質素ながら頑強な部屋がある。
 衛兵が拱手して諸葛亮を通し、それへ軽く目礼などしつつ、部屋の中へと足を踏み入れる。
「殿、昨日採決を頼んでおいた議案のほうですが、目を通してくださいましたでしょうか」
「うむ、これだろう。問題はなさそうであったから、判を捺しておいた。すぐ公祐(孫乾)に頼んで施行させてくれ」
 打てば響くような返答が、書簡がうず高く積まれた文卓の向こうから聞こえる。そこからぬっと突き出た手に握られているのは、確かに諸葛亮が渡した白色の紐で結ばれた竹簡に違いない。
「殿……、よもや目を通すだけでなく、そこまで」
 不覚にも諸葛亮、目頭が熱くなって、衣の袖でそっと目尻を拭うほど。
「何を言っておる、このくらいこなさなくてはいかんだろう。臥龍と名高いお前を迎え入れたのだぞ。私も気持ちを入れ替えて、政務に身を入れるのがあるべき主君としての姿だ」
 ひょい、と書簡の山から顔を覗かせた劉備は、誇らしげに諸葛亮を見つめた後、にこり、と微笑んだ。
 その笑顔に諸葛亮は弾むような心持ちを覚え、それこそ辺り憚らず大声で梁父吟を高らかに歌い上げたくなった(もちろん、本当にやるはずはない)。
 これが、最近の諸葛亮の機嫌が良い理由であった。
 主君が執務室で真面目に政務を執り行っている。
 この、どこにでもある平凡な光景は、しかしここ新野に置いては奇怪な光景であった。
 少なくとも、諸葛亮が劉備に三顧の礼に報いて仕官し始めてから、ついぞ見ることの叶わなかった光景である。
 劉皇叔、左将軍、徳の将軍、豫(予)州牧、と様々な異名と経歴を持つ、諸葛亮の主である、劉備玄徳という男は、非常に執務を嫌う男であった。
 若い頃、侠客として暴れ回っていた血が騒ぐのか、それとも長すぎる放浪生活がそうさせたのか、はたまた生まれ持った性質であるのか(諸葛亮は一番最後だ、と睨んでいる)。とにかく落ち着きのない男で、一時として同じ場所に留まっていることを知らない。
 よくもまあ、これで私との根競べに勝てたものですね。
 その劉備の性質を知ってから、真っ先に諸葛亮が思ったのはそのことだった。
 劉備の器を量るために、三度、彼を試した。最後に試したのは劉備の誠意で、昼寝をする自分をいつまで待っていられるのか、待ちぼうけを喰らわせた。
 狸寝入りをする諸葛亮に対し、劉備はただひたすら待ち続けた。根負けして劉備を草庵へ招き入れたのは、諸葛亮のほうだった。
 立ち止まっていることが嫌いな男にしては、随分と不利な戦いだったはずだ。
 不思議な人だ、と諸葛亮が時折劉備が分からなくなるのは、こういうときである。
 話は逸れたが、つまりは新野の主がせっかくある執務室を使わずに書簡の倉庫としているのは、日常茶飯事であったのだ。それがどういうわけかここ半月ばかり、劉備は随分と熱心に政務に励んでいる。
 ようやく、私の説諭が功を成したか。それともこの間のことが効いているのか。
 小さく笑いながら、差し出された書簡を受け取り諸葛亮はあれ以来持つようになった羽扇を、ゆらっと扇ぐ。
 この間、とは、こうして劉備が執務を熱心に行うようになる少し前である。
 いつものように政務を放り出し、街へ悪友簡雍と繰り出した劉備に諫言をする最中、言い争いになり、主従の絆を断ち切ろうというところまでもつれた。
 しかし結果としては劉備を主として惚れ込んでいること、そして諸葛亮にとって己の行く末は、劉備と共にしかない、と自覚させられただけだった。劉備も己の政務に対する怠慢が諸葛亮を怒らせたことはさすがに反省したらしく、互いに謝って事は収まった。
 ただ……。
 倉庫と化していた執務室も劉備が真面目に執務をしたおかげで、少しは人が腰を据えられる空間ができ、貴重な隙間に諸葛亮は座る。
「それで、何の用だ、孔明」
 議案の是非の確認だけではない、と察したらしい劉備は、二人の間に居座っている書簡の山を、無造作に左右に切り分ける。
 きちんと現れた劉備の顔を改めて見つめ、諸葛亮は扇いでいた羽扇で顔の下半分を隠す。
 顔が少々赤くなっている、と自覚があったからだ。
 あれはただの気の迷いです。
 幾度も言い聞かせた言葉をまた自分自身へ向けて、諸葛亮は羽扇を膝の上へと下ろした。
 ただ……、互いの存在の大切さを認め合うところまでは良かったのだが、その後どうもおかしな方向へ話は転がり、諸葛亮と劉備は身体を繋げる羽目になった。
 ちょっとした仕置きと反省の促し、劉備の傍に居られる、という安堵感がもたらした戯れだったはずなのだが、気が付くと引き返せないところまできていた。
 今でも、どうして劉備に欲情してしまったのか、諸葛亮の頭脳を持ってしても理解不能である。劉備も不問にする、と言ってくれたので、特に問題にはなっていない。ただし、どうしてもこうして何かの拍子に思い出すと、意識をしてしまって顔に出そうになるのは、困ったものだった。
 諸葛亮はそのような状態だが、劉備が全く態度を変えないのがそれを助長させない抑止力となっている。
 ここまで数多の苦渋を舐めてきている劉備のことだ。あのくらいのことは騒ぎ立てたり意識するほどのことではないのだろう。
 気の迷い気の迷い。
 また言い聞かせてから、背筋を伸ばした。
「先日申し上げた献策、いかがか、と思いまして」
 途端、窓の外に流れている暖かい風のようだった劉備の笑みが、浮雲で寒気を漂わせたように、翳った。
 その表情でまたしても退けられることは察したが、諸葛亮は続ける。
「劉表殿に代わってこの荊州を治める。それのどこに不満があるとおっしゃるのですか」
 諸葛亮が劉備へ献言した内容は、老いた劉表に取って代わり、この荊州を治めることだ。
 劉備が提言している漢王朝復興には、何はさておいて確かな足がかりが必要だ。今、帝を戴き中原を握っているのは曹孟徳である。かの男に対抗するためにも寄って立つ地というのは必要不可欠だ。
 それには、食糧も流通も人材も肥沃の土地である荊州は、奪い取ってでも手中に収めたい地である。
 もちろん、本当に奪ってしまったのなら反発や軋轢は激しいであろう。しかしそれを恐れていては、この先劉備が死ぬまで、願いを叶えることは不可能になる。
「劉表殿には嫡子がおられる。それをいくら同じ劉姓といえど、押し退けて関係のない私が継ぐなど出来ぬ」
「では、嫡子を取り込み、実質の政権は殿が握ればよろしい。幸いに長子である劉g殿は貴方を慕っておいでです」
「……そういうのは嫌いだ」
 またこれだ。
 今度は諸葛亮のほうが眉を曇らせる。
 好きとか嫌いとか。童子の食い物の話ではないのだ。理で説き伏せようとする諸葛亮とは反対に、劉備はいつも情で返す。時に子供のような感情論でしかないが、困ったことにそこに惹かれる者たちで、劉備軍という集団は成り立っている。
「嫌なものは嫌だ。それ以外で方法を考える」
「では、何かお考えが?」
 冷ややかに返せば、劉備はなぜか胸を張って答える。
「そんな方法があれば、新野で何年も過ごしておらん」
 えばれることですか、このワガママ親父が。
 胸中で主には聞かせられない悪態を吐いて、諸葛亮はふぅ、と長い息を吐く。
「とにかく、殿の目指す天下に近付くためには、この荊州は必須です。私が申し上げた天下三分の計も、まずは寄って立つ足場がなくては始まらないことを、よくよくお考えになられてください」
「分かった分かった。……ところで、孔明」
 この『分かった分かった』が曲者だ、と最近諸葛亮が学習したことの一つだ。
 絶対に分かっていませんね、この人。
 今回もやはり退けられたか、とやや徒労感を覚えつつも、なんでしょうか、と答えた。
「急ぎの案件はこれで大体済んだのか?」
「ええ、殿がこのところ勤勉に政務に取り組んでくれたおかげです。前からこうですと、この部屋もこれほど悲惨なことにはならなかったと思うのですが」
 献策を退けられた口惜しさを皮肉に変える。
「そう言うな。これでもだいぶ片付いただろう」
「そうかもしれませんが……」
 なおも言い募ろうとしたが、劉備がひょいっと文卓を跨いで、諸葛亮の前へしゃがみ込んだ。突然に縮まった劉備との距離に、反射的に仰け反る諸葛亮の眉間へ劉備が指を伸ばす。
「皺が出来ているぞ。せっかくの好い男が台無しだ」
 眉間に出来ていたらしい皺をぐいっと指で伸ばされる。
「誤魔化さないでください」
「ははっ、ほら笑顔笑顔」
 にっと劉備は笑顔を作り、諸葛亮の口角をも両方の人差し指を使って釣り上げた。
「殿っ」
 その悪ふざけに、あまり気分の良くなかった諸葛亮は両手を掴んで阻止する。それから、言われたとおりに笑みを描く。
 ただし、「氷結」と呼ばれる、見たものを凍りつかせるような笑みである。
「私を怒らせますとどうなるか、この間お教えしたつもりですが、まだお分かりになられないようでしたら、僭越ながらここでまたご教授いたしますが?」
 この間のことを仄めかすと、途端にぱっと劉備は手を振り払った。その顔がやや青褪めている。
「ややや、やはりお前、そういう性向か!」
 この反応はどうだ。まるで道端で馬糞でも踏んでしまったかのような顔をして、劉備は諸葛亮から距離を取る。
 ここで顔を赤らめられても大いに困るが、こうあからさまに避けられるのも少々傷付く。
 いや、それも当然ですか。
 男に、しかも臣である男に(途中から合意だったとはいえ)犯されたのだ。むしろ今まで平然としていた劉備が普通ではない。器が大きいのか鈍感なのかはさて置いて、諸葛亮は思わぬほど効果を発揮した脅迫に、もうこの手は止めようと誓った。
「それは冗談ですが」
 なんだ、と劉備はほっとしたように胡坐を掻いて座り込んだ。
「部屋はもう少し片付けていただきたいですね」
「分かった分かった、それは後でやっておく。そうではなくて、私が言いたかったのは、急ぎの案件がなくなったのなら、明日公祐と近郊の村へ視察に行きたい、と思ってな。それを断っておきたかった」
 劉備の提案に、諸葛亮は首を傾げる。
「孫乾殿と? どういった視察ですか」
 これが劉備とともにサボりの常習犯簡雍と、というなら神速で却下するところであるが、諸葛亮の見立てでは一番常識人と思われる孫乾が供というなら、それ相応の視察だろう。
 しかし、相応の視察ならば内容ぐらいは知っておきたい。何せこの頃の視察といえば、劉備の供は諸葛亮、と決まっていた。今さらどうして孫乾なのだ。
「畑の実り具合と、先日決まった今年の納税が釣り合っているかの確認だ」
「それなら、すでに糜竺殿が確認済みだと思われますが」
「それは知っておる。もちろん、それだけではない。北が不穏であろう。いざというときの備えや北にある村々の状態をこの目で見ておきたいのだ」
「ご存知でしたか」
 軽い驚きを表す諸葛亮に、劉備が小さく苦笑した。
「これでも、お前の報告書にはちゃんと目を通しておるのだぞ。他に、自分でも調べておる。それに、もうあやつが動き出しても良いころだ」
 あやつ――曹孟徳のことだ。劉備が口にした北の不穏、というのも曹操の動きのことを指す。
 諸葛亮が劉備の臣になって真っ先にしたことは、曹操の動きを調べることだった。
 この肥沃の土地である荊州を、当然曹操は狙っている。曹操がいつ南征を仕掛けてくるか。それによって施策の優先順位も変わる。
 諸葛亮が間者を放ち集めた情報によれば、やはり徐々に南征への機運は高まっているようで、そのせいかここ頻繁に曹操側からの間者も多く確認されていた。
「そういえば、殿は曹操の下へ客将として留まったことがおありでしたよね」
「まあな。もうだいぶ昔の話だが」
「どういう男でしたか、曹操は」
「どうしたのだ、突然」
 訝しげに尋ねる劉備へ、諸葛亮は羽扇の柄を手の中でくるり、と回した。
「これから攻めて来るであろう相手のことを、少しでも知っておくことは大事かと思いまして」
 諸葛亮にとって、曹操とは劉備の天下を阻むものであり、最大の障壁である。それ以外にも、曹操には諸葛家の離散のきっかけを作った、諸葛亮の叔父である諸葛玄の死を招いた男、という認識もある。さらには、徐州大虐殺と呼ばれる、曹操の作った地獄絵図も幼い脳裏に焼き付けられている。
 どうにも好きになれるはずもない男であった。
 だが、いずれは相対すべき敵であるなら、嫌悪している相手だろうと深く探求する必要がある。それで、劉備から曹操の話題が出たので訊いてみよう、という気になったのだ。
「曹操か……」
 男の名を呟いた劉備の表情は複雑そうだった。
 己の道を阻む者、相対すべき巨大な敵。
 そういった敵愾心だけではない、他の感情も混じり合っているような面容を浮かべた。
 諸葛亮としても、二人の関係、というのは不思議でならない。
 劉備からすれば敵対する相手である。だから劉備が曹操を意識しているのは理解できる。
 不思議なのは曹操のほうだ。昔から、劉備を意識して意図的なほどに関わりを持とうとしているように見える。常に二人の力関係は曹操が勝っているにも関わらず、劉備という存在に注意を払っているのだ。
 今も、南征を行うのに懸念としているのは、恐らくは劉備の存在だ。
 曹操にとって、劉表やその子息など、取るに足らぬ存在だろう。嵐の中の枯葉のごとく、吹けば飛ぶような相手だ。
 警戒すべきは、民という烏合でありながら敵に回すともっとも恐ろしい存在を取り込んでいる、劉玄徳という男である。
 そう曹操の中で認識されているようであった。
「あの男は……」
 しばらく視線を彷徨わせて言葉を選んでいたらしい劉備は、ぽつり、と言う。
「派手な男だ。何をするにも大袈裟で、華があって、人を惹きつける。人の恨みも大いに買うが、それ以上にあの男の存在に夢中にさせられる人間が多い」
 人を魅了する。それは主として必要な素質であろう。
 しかし人徳は劉備も兼ね備えているものだ。決して曹操だけが持つものではない。それは実際にこうして劉備という男に惹かれて臣になることを選んだ諸葛亮自身がよく分かっている。
 劉備と曹操、なにが違うのか。
 同じ人間的魅力に溢れているのなら、同じような立場を築けるはずだ。時勢などはあるにせよ、寄るべき土地と人材さえ確保できれば、目の前の男も曹操と肩を並べられるはず。
「納得できぬか?」
 少し可笑しそうに、劉備が諸葛亮の顔を覗き込んだ。
「そのような顔をしておりましたか?」
「いや、何だか私が曹操のことを語るのが面白くない、という面(つら)をしておった」
 鋭い、と内心で舌を巻く。劉備の洞察力は時折諸葛亮でも敵わない。
「私にとって、曹操とは憎むべき相手でありますから。それがただの評であっても、あまり気分は良くありません」
 正直に答えた。
「そうか、そういえばお前は嫌いなのだったな。それは悪かった」
「いえ、訊いたのは私ですから」
「曹操を嫌う気持ちも分かるが、ただお前ならどうだろうな。もしあやつに直接会うようなことがあったら、それが少し変わるかも知れぬぞ?」
 なぜそう劉備が思うのか、諸葛亮には理解できなかったが、猛烈に不快になる。
 私があの男に嫌悪以外の感情を抱くことなどありえません。
 何より、曹操への仕官より劉備を選んだ自分の気持ちを疑われたような気がして悔しかった。
「それ以上の戯れはお止めください」
 強い口調で、まだ続きそうな劉備の言葉を拒絶した。
 劉備も思っていたよりも諸葛亮の嫌曹操感情が強いことを察したらしく、すまん、と謝った。
 少々気まずい空気が流れそうになるのを、劉備が「で、どうなのだ、視察の件は?」と尋ねて断ち切った。それに合わせ、諸葛亮も気持ちを切り替える。
「……視察の内容がそういったことでしたら、むしろ私と。それに危険でしょうから誰か護衛の者を付けませんと」
「いや、それでは目立つ。間者にそれと察せられるのも困る。それに今回は少々日数をかけて回りたい。となるとお前までも長い間ここを離れることになる。そうすれば政務が滞ってしまうだろう。護衛も一人で十分だ」
「誰が護衛に」
「子龍に頼んである」
「趙雲殿ですか」
 それなら、そちらは安心していいだろう。彼の武技は、音に聞こえた劉備の義弟たちが認めている。下手な護衛を百人付けるより安全だ。
「しかし、何も殿がご自分で行かれなくとも」
 渋る諸葛亮へ、劉備は真剣な顔付きで説く。
「私が直接行かねばならぬのだ。もしかしたら北の村は戦火に焼かれるかも知れぬ。そのときに、いかに被害を最小にするか。考えておく必要がある」
 深く澄んだ双眸の奥に、止むを得ない、と思いつつもその最悪を想像して悲しんでいる色が浮かんでいる。
 そっと諸葛亮は膝上の羽扇を取り上げて、その裏でため息を吐く。
「仕方ありませんね。そもそも、私には反対する意見は述べられても、止める権限はありませんし」
 いくら劉備が諸葛亮へ政務や軍事に権限をほぼ預ける形になっていても、最終決断や施行の許可は、当然劉備を通さねば出来ない。それでも、まだ臣となって日も浅い若輩に対しては最上ともいえる待遇である。
 だから劉備が視察に行く、と言い出しても、異見を唱えることは出来ても止めることは実質は不可能だ。それでも、こうして諸葛亮の言葉は聞くし、なるべく気持ちは汲み取ろうとしてくれる。
「すまんな。お前が心配するであろうことは分かっているのだが」
 困ったように笑う劉備に、諸葛亮はいいえ、と首を横に振る。
「嬉しいです。殿の今までを拝見していますと、私に黙って息抜きと称して視察に行きかねませんのに、こうして話してくださいましたから」
「はは、まあなぁ」
 本当に、諸葛亮は純粋に嬉しかった。劉備に本当に信頼されているのだと喜んでいた。元々上機嫌だった諸葛亮は、むしろ舞い上がっていたのだろう。
 そうでなかったなら、当に気付いたはずだ。
 人が急に態度を改めることも、ましてや今まで政務を真面目にしてこなかった人間が、突然真剣に取り組むことも、しょっちゅう無断外出していた主が、近隣の村へ行くぐらいを、わざわざ断ってから出かけるなどと。
 あるはずがない、ということを……。



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