「言絡繰り・1」
諸葛亮、劉備を主と認めるも 2
 諸葛亮×劉備


「どういうことか、ご説明いただけますね、劉備殿」
「どういう、と言われてもだな。お前の見た通りだ」
 胸を張って答えられ、諸葛亮はまた眉間を揉まなくてはならなかった。
 開き直りましたね、このオヤジ。
 こうなると話が進まなくなるのは、この短い付き合いの中でも嫌というほど思い知らされている。
 市場から場所を移して、いったん新野城の劉備の執務室に戻ってきた二人だったが、この部屋も諸葛亮の執務室と同じほどに散らかっていた。
 しかも、諸葛亮の部屋が目的ごとに分けられて散らかっていたのと違い、劉備は未決済や決済、果ては資料までもがごちゃまぜに置かれているようで、まさに無法地帯と化していた。
「あれほどに整理をしておいてください、と頼みましたのに」
 自身の能力に疑いを抱いた覚えのない諸葛亮だが、この部屋に入ると己の無力感をひしひしと覚える。自然、機嫌は悪くなる一方だ。
 愚痴る諸葛亮へ、分かった分かった、そのうちな、と幾度聞いたとも知れない台詞を吐きながら、劉備は手際よく(邪魔なものを隅に追いやるだけだが)、二人分の座る場所を確保した。
 そして、ここへ来るまでの間にすっかり自分を取り戻したらしい劉備は、胸を張って答えたのだった。
「昔取った杵柄は、時折磨いてやらんと錆びるのだ」
 劉備がまだ義勇軍を立ち上げる前、筵織りで生計を立てていたことは知っている。そのせいか、細かい作業や修繕を得意としていることも知っていた。
「私が言いたいのはそのことではありません。民と交わるために町へ出るのも結構でしょう。筵を織ることも結構。それで民を相手に商売をするのもまだ許しましょう。しかし、それが本当に貴方のやるべきことなのですか」
 他にも、賭博をしていたり、山賊退治に義弟たちと黙って出かけたり、とても一角の土地を治める主の行動とは思えないことを幾度もしている劉備だ。その都度、諸葛亮は咎めてきた。
「貴方が今すべき大事なことは何ですか」
 と。
「決して見誤ってはなりません」
 幾度説諭をしたか。
 穏やかに諭し、時には実力行使に出たこともあったが(椅子に縛り付けた)、どれも長続きはしなかった。
「分かっておる。先を見据え、国を構えたときに困らぬよう、お前が政を整え、私もそれを把握できる力を付けなくてはならぬ、そういう時期だ」
「分かっておいでなら」
 いつも返される、的確な答えに、諸葛亮は声を尖らせる。
「それとこれとは別だ」
「何が別なのですか!」
「まあ、聞け」
 声を荒げた諸葛亮を、宥めるように両手が諸葛亮の肩を押さえる仕草をした。
「私は、民が好きなのだ。懸命に生きているあの姿が好きだ。それはたぶん、言葉で説明できるものではない。お前が息をするのはどうしてだ。それをどうやり、なぜするのか、と問われたらどうする」
「生きているから、生きたいからです」
 渋々と答えれば、劉備は我得たり、という顔をして頷く。
「同じなのだよ。私が民を愛するのは、自分が生きるために必要なのだ。それは自分が民であったし、今も民であるからだし、それを忘れぬためでもある」
 分かるだろう、お前なら。
 真っ直ぐに射抜いてくる瞳は、初めて目を合わせたあの庵より何も変わっていない。
 いつも繰り返される問答に、いつものように諸葛亮は折れそうになる。
「今日中に仕上げなくてはならない書簡はやっておく。お前が自ら迎えに来るほど切羽詰っていたのだからな。すまなかった」
 素直に頭を下げる劉備に、反論できない己が悔しい。
 臥龍と呼ばれて当然、と自負していた。学び、吸収した知識は相当のもの、と自信を持っていた。
 その築き上げた自信や誇りは、この男の前に立つと脆く崩れるような気がするのだ。
 己のままに、己の信じていることを決して疑わない、劉玄徳という男の器に、自分が飲み込まれそうになる。疑いかけた自分の能力が、眩暈を起こした。
「魚には水も必要だが、同時に息が出来る環境も必要だ。知っておるか。魚は水だけでは生きられぬ。狭い生け簀に囲っておると死ぬのだよ」
 必死で耐えてきた何かに、眩暈が勝った。
「……では、それは。私は必要ではないということですか。水は貴方を死に至らしめる毒であると、そういうわけですか」
「何を言うのだ、孔明。誰もそのようなことは言ってはいない。今の言葉がそう聞こえたのなら謝る。私にはお前が必要だ」
 目を見開いて、劉備は諸葛亮の突然の言葉に驚きを露わにした。
「それならば、どうして私の言葉を深刻なものと捉えてくださらないのですか。幾度も政務を放り出し、大事と理解しているはずの事柄すら滞っている。そんな状態で言葉を重ねられても、何を信じたら良いのか分かりません」
「だから言っておるだろう。民は私にとって生きる活力であり、かけがいのない存在だ。だからこそ……」
「しかし政務が滞れば、その貴方の大切な民が困ることになるのですよ。それはどうするおつもりですか」
「そこまでは放ってはおかぬ。それに今まではそれでやってこられた。今さら少しぐらい……」
「ほら、やはりそうではありませんか。分かっていらっしゃらない。私が示し、貴方が目指す世を作るのなら、この日々の過程が大事であるのに、貴方は一向に改めない。それは理解していないのと同じことであり、そして同時に私の存在も必要ではない、ということです」
「飛躍しすぎだ。孔明、お前らしくもない。何をそうムキになっているのだ」
「ムキになどなっておりません。貴方こそいい加減になさってください。民を相手に商売までして。小銭を稼いで酒所さけどころで一杯やろうなどと、領主として恥ずかしくないのですか」
「あれは目的があってだな」
「そんな主ですから、臣下たちも緊張感がないのでしょうね。主を諌めることもせず、共に町へ繰り出す。そうかと思えば、頼んだ書簡も届けずに、高級である茶葉を使って休憩を取っている者がいる。この新野の財政からすればとんでもない贅沢です」
「茶葉……? もしかして(孫乾)公祐こうゆうのことか? あれは違うぞ」
「言い訳などもう聞きたくもありません。主が主なら臣下も臣下です。所詮は目先のことしか考えられない矮小な頭であるからあのような贅沢が……」
「孔明!」
 鋭い叱責に、憤っていたはずの胸中が一瞬だけ冷える。
「公祐は私の大事な臣だ。それを愚弄することなど、同じ仲間であるお前とて許されぬことだ。口を慎め」
 しがみ付いていた最後の何かが、あっさりと崩れていった。
 劉備に買われているという自負があった。
 自分は劉備に請われ、臣になった。義弟たちの嫉妬すらも、劉備は『孔明は私にとって、水だ。今、私は水を得た魚なのだ』と言って、諭した。
 特別だと信じていた。
 だが、劉備は一向に諸葛亮の思うようには動いてはくれない。それはまさに大海を泳ぐ魚のごとく、決して捕まえることなど出来ないし、水である自分は見ていることしか出来ないものだった。
「……もう結構です。劉備殿のお考えは良く分かりました。どうやら私は貴方の臣には相応しくないようです。せっかく請われて従いましたが、少し身の振りかたを考えさせてもらいます」
 今度こそ、劉備の瞳はこぼれ落ちそうなぐらいに見開かれた。
「な……、何を言っておるのだ、孔明! 頭を冷やせ。なぜそのようなことを。勢いや言葉の綾であるなら、私は全く気にせぬ。とにかく一度冷静になって」
 劉備の言葉を最後まで聞く気にはなれず、諸葛亮は立ち上がり部屋を去ろうとする。
「孔明、話を聞け!」
 同じように立ち上がった劉備が、腕を掴んでくる。
 無言で振り払おうとして、思った以上に劉備の力が強いことに驚く。考えてみれば当然のことだ。体躯も年齢わかさも諸葛亮が勝っているとしても、劉備はこの歳まで戦に明け暮れていたのだ。近年は戦とは無縁だったが、鍛えることをやめてはいない。
 それに比べて諸葛亮は、慰み程度に武具や馬は操れるが、もっぱら頭を使う日々だ。
 惨めだと、諸葛亮は久しぶりに己の無力さを思い知らされていた。
 自分の周りで苦しみ、死んでいく人々へ、何の手助けも出来なかったあの幼い日々。
 惨めさを骨の髄まで味わわされ、己の力のなさに地べたをのた打ち回って悔しがったあの頃。
 あのような惨めな思いを二度としたくないがために、夢中で学を身に付け、自身の力を蓄えてきたはずだった。
 必死で堪えてきた熱い塊が、あっと思う間もなく目からこぼれ落ちた。
「――っ」
 咄嗟に片手で拭ったが、どうやら遅かったらしく、はっとした様子で、腕を掴んでいた劉備の力が弱まった。
 今度こそ振り払い、部屋を飛び出した。後ろから劉備が追いかけてくる気配はなく、そして一度こぼれ落ちた涙は、頬に幾筋も跡をつけるまで止まらなかった。

          ※

 ぼんやりと、牀の中から窓の外を見上げる。
 今日も良い天気だった。
 相変わらず切り取られた青空しか見えないが、その清々しさは伝わってくる。
 劉備の部屋を飛び出してから、丸一日が経っていた。
 本来なら登城し、執政を行わなくてはならない。しかしその気力も起こらず、ただダラダラと牀の中で過ごしていた。
 逃げるように自分の家へ戻り、寝具に潜り込んだ。いつもは澄み渡っている頭の中も、暴れ回る魚に掻き混ぜられ、泥で濁り切っていた。
 気が付けば朝になり、登城する時間が迫っていたが、窓を開けて憎々しいほどに晴れ渡った青空を見た途端、気力を失った。
 食事も取らずにまた牀に戻り、ただぼんやりと何を考えるでもなく過ごした。
 これほどのんびりしたのはいつ以来か。
 村で暮らしていた頃でさえ、晴れたら畑に出て、暇さえあれば諸国の様子や新しい知識の探求に勤しんでいた。雨が降ったなら一日中書物と睨めっこだ。
 空が青かったことなど、忘れていた。
 劉備に仕えるようになってからは、さらに忙しく、それこそ晴れでも雨でも関係なしだった。
 とにかくやることは大量にあった。劉備たちは放浪の時期が長かったせいか、腰を据えて政務を行う手段が雑であった。
 戸籍や物流の把握も適当であったし、そもそも資料や書簡の管理さえも正しく行われていないのだ。恐らくは突然の事態にも対応できるよう、必要最小限の形でしか根を張ろうとしていなかったのだろう。
 それはここまでの劉備たちの生き方なのだから、文句をつけても仕方がないし、これまではそれが正しかったのだろう。
 しかしこれからはそれだけでは無理だ。劉備が目指す世を作るならば、根を大きく張るやり方をしなくてはならない。
 小さくしか根を張らないのなら、それ相応の木しか生えないのだから。
 忙しいのは嫌いではない。むしろ何から何まで執り仕切り、ほぼ一から作り上げていく過程はやりがいがあったし、夢中になれる日々だった。
 苦労は多いが、苦痛ではなかった。
 劉備たちのやり方も、逆を言えば無駄がない、非常に洗練された政だ。個々の能力も決して低くはない。歯車が噛み合えば、上手く動いてくれるはずだった。
 例えば孫乾殿なら、あの人当たりの良さを生かし、交渉術に長けた者たちを組織的に作り上げることも可能です。簡雍殿は民に近い感覚を決して失いませんし、民の声を拾い上げる重要な橋渡し役になるでしょう。糜竺殿でしたら……。
 気が付くと政務のことを考えていた自分に小さく苦笑した。
 充実していた。
 よほど、鬱屈した気持ちを抱えて過ごしていたあの庵での日々に比べれば、まさに生きる場所だと実感できた。
 昨日はどうかしていたのだ、と思えるが、さりとて劉備に不満があったのも事実だ。
 私がいないことでどれだけ大変か、思い知ればよいのです。少しは反省してくれると、嬉しいのですけどね。
 そんな思いもあるせいで、諸葛亮は家でダラダラと過ごしているわけだ。
 もちろん、ああいう別れ方をした手前、顔を合わせづらい、というのが大半の理由を占めていたのだが。
 自分でも、なぜあそこまで取り乱したのかよく分からない。ただ悔しくて、自己否定されたような悲しみがあり、冷静ではいられなくなった。
 と、家の扉を叩く音がした。
「諸葛亮殿、おられますか?」
 それは孫乾の声で、いつでも変わらない、人をほっとさせる寂声だった。
 劉備の使いできたのだろうか。
 不審に思い返答が遅れる。それを見越したかのように、声は続いた。
「殿には内緒で来ました。おられるなら開けてもらえませんか? 食事もお持ちしました」
 最後の「食事」という言葉に、若い諸葛亮の体は正直に反応を示す。
 すなわち、ぐぅ〜、という腹の虫が騒ぎ立てたのだった。

「口に合うか分かりませんが。何せ私の作ったものですからね」
 相変わらずの微笑を、諸葛亮は驚きを込めて見つめる。
「ご自分で?」
 食卓に並べられた、中々に種類が多い、手の込んだものがある料理に、てっきり炊夫の作ったものを持ってきたとばかり思っていた。
「自分で作ったほうが経済的でして」
 とにかくどうぞ、と勧められ、諸葛亮は箸を取る。
 口に運んでみると、これが美味い。素朴な味わいだが、村の質素な食事に慣れていた諸葛亮にとっては充分だ。一口食べれば、体は食事を欲していたことを思い出したようで、後は黙々と皿を空にしていった。
 あらかた食べ終わり、我に返ると、ニコニコと嬉しそうにこちらを見ている孫乾と目が合い、気恥ずかしくなる。
「昨日の夜から何も食べていなかったもので。見っとも無く食べ散らかし、申し訳ありません」
「いえ、見ていて清々しかったです。さすが若い方は違いますね」
 孫乾の眼差しに込められた暖か味に、遠い昔に忘れてしまった何かを思い出させた。
「湯を沸かさせてください」
 立ち上がった孫乾は、用意してきた道具を火にかけた。
「それで、孫乾殿は何ゆえに拙宅へ?」
 武人でもない人間にしてはやや長身の背に、薄々と理由は察せたが、改めて尋ねた。
「諸葛亮殿は、殿の器を疑っておいでですか」
 前置きもなくずばり、と切り込んできた孫乾に、さすがの諸葛亮も言葉を失くす。
「そうですか。それも無理はないかもしれませんね」
 図星をついたことを分かっているらしい孫乾は、諸葛亮の前に座り直し、微笑みながらも困ったように首を傾けた。
「あの人は欲張りです。何もかもを手に入れようとする。治世も、国も、人心も、臣下の敬愛も。そのようなこと出来るはずもないのに、目指して、傷付いて、それでも諦めない。そしてこの人ならもしかしたら出来るのかもしれない、と周りに思わせる」
 笑った孫乾の目は、深い皺に隠れそうであったが、奥底で光を放っていた。
「それが出来ない人間から見れば、どれだけ自尊心を傷付けられるか。そしてその器の広さと懐の深さに惑わされるのか」
 湯が沸騰している音が、沈黙する部屋で唯一の空気を震わせる存在となっていた。
「お茶を、飲みませんか?」
 持ち込まれた道具はお茶を点てる道具だったらしく、孫乾は手慣れた様子で香り立つお茶を諸葛亮の前に用意した。
「このような贅沢なものを、戴くわけにはいきません」
 ささくれ立っていない心でも、質素に慣れている諸葛亮は頑固に突っぱねる。すると孫乾は声を立てて笑った。
「違いますよ、諸葛亮殿。これは、お茶はお茶でも偽物です。何せ城庭の片隅で私が育てたものですから。もっとも、限りなく本物に近い味や色にしようと、色々工夫はしましたが」
 説明されて、まじまじと湯飲みを覗き込んだが、一見した限りは本物のように見える。諸葛亮は、恐る恐るそれを口に含んだ。
 諸葛亮もお茶は一、二度口にしたことがあるだけだ。それも思いっきり安いものだ。それでも、その独特の香りと味は忘れがたいものがあった。
「美味しいです」
 しかし今飲んだ『それ』は、それらにも劣らない風味があった。
「それは良かった。何せまだ一回目ですから。中々味わえませんよ」
 普段は、一度濾した茶葉を日干しにして、何度も何度も使う。それで究極に薄くなったら、今度は新しい葉を少しだけ足して、また味を濃くする。
 そうやって、少しの葉で何回となく茶を楽しむのだ。
「貧乏くさい、と思うでしょう? しかし贅沢は出来ない身ですから。ですが、お陰で菜園に詳しくなれました。悪いことばかりではありません」
「なぜ、そうまでしてお茶を?」
 深みのあるお茶の味が、疑問を口にする素直さを諸葛亮に与える。そして孫乾は窓の外、空よりも高い場所を見ているかのように、目を細めた。
「お茶を飲める、ということは平和である、ということです。たとえこの穏やかさが仮初めで、一時の間だとしても、平和である、ということを実感できる瞬間です。言ってしまえば自戒なのです。平穏であることの有り難味を忘れない、という」
 何気なく話していた昨日の孫乾と伊籍との会話が蘇る。

『暖かな陽射しの中、お茶を啜る午後のひと時、幸せを噛み締め、それを深めるのに手は抜けません。今が乱世だからこそ、大事にしたい、と考える私は浅はかでしょうか』
『いえ、私もそう思います。毎日の平穏な積み重ね。これが万民の望んでいることです。それが叶えられれば、さらにこのお茶も美味くなるのでしょうに』

 それを諸葛亮は平和に慢心し、贅沢に慣れた人間の言う、ただの痴れ言だと思い込んだ。
 深い意味などあるはずがない、と頭から決め付けていた己のほうこそ、よほど矮小であるといえないか。
「それに、お茶は殿がお好きなのです。そのくせ、贅沢は嫌う人です。それなので、これが苦肉の策なのです」
 我が侭な主で困ります、と孫乾は茶目っ気たっぷりに言い、お茶を一口含んで澄ましている。
「劉備殿が時折筵を織って、市場で売っているのは?」
 孫乾のお茶と同じように、意味があるものだとしたら?
 尋ねる諸葛亮に、孫乾は微笑んだまま首を横へ振った。
「自らの口で訊(たず)ね、自らの耳で聴かれると良いでしょう。貴方が登城しないので、殿は困っておいででしたよ」
 手早く茶具を片付けながら、孫乾は初めて照れくさそうにした。
「歳を取ると、ついついお節介を焼きたくなるようです。迷惑だったらいつでもおっしゃってください、諸葛亮殿」
 深い皺に刻まれた人柄と柔らかな双眸に、諸葛亮は遥か昔の記憶を呼び覚まされる。
「……父上のようですね」
 忘れかけていた父親の面影を、孫乾の自分を見つめる眼差しに見出していた。
「よして下さい。私には諸葛亮殿ほどの俊英な子供を持った覚えはありません」
「俊英など。私は人より少し学があることで自惚れていた愚物です。人としてはまだまだ未熟。それを思い知らされる毎日です」
 素直な言葉が溢れてくる。
 本当は決して自信家でも何でもない。才能がある、自分なら出来ると、そう思い込んでいないと、生きていけなかった。
 弱いものは切り捨てられる。強いものしか生き残れない。そういう世であるから、仕方がないのだ。
「そう気付けただけ、今、貴方は僅かに成長できたのですよ。自分を認められる、それも嫌な部分を認められることは誰にも出来ることではありません」
 はい、と頷き、それでもまだ迷いが残る。
「劉備殿は、私をまだ望んでおられるでしょうか。このような未熟な私をまだ必要としてくれているでしょうか」
 まるで幼い頃に戻ったかのように、難しいことを父親に尋ねる心境で、諸葛亮は訊く。
 椅子に座ったままだった諸葛亮へ、帰り支度を済ませて立っていた孫乾は、
「諸葛亮殿、悩むのはそのときでよろしい。殿を信じられないのなら、臣下として失格です。何より、午後までゴロゴロと寝ているなど、健全なる人間のやることではありません」
 まさに父親が幼子を戒める口調そのもので、背を乱暴に叩いてきた。
「本当に、父親に叱られているようです」
 思わず苦笑し、それでも諸葛亮は、登城するための着衣に着替えるため、急いで部屋へ駆けていった。



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