「言絡繰り・1」
諸葛亮、劉備を主と認めるも 1
 諸葛亮×劉備


げん

 人の咽と舌が作り出す、人と人を結ぶもの。
 時に人を傷付け、逆に慰めもする、
 あらゆる可能性を含むもの。

 言は発することにより、ものに名を付け、
 形なきものを形ありしものへと変化させる。

 それは人を惑わし、人を踊らせ、そして人を縛る。
 何より言は人を人たらしめる力であった。

 それはまるで言の糸。操り糸のよう。

 だが時は乱世。
 言を尽くしても避けられぬ、血が大地を染めるそんな時代。
 その乱世に身を置き、その強い言を操ることを生業とする、
 それが軍師。

 しかし彼らすら、言の強すぎる力に惑わされることもある。

 そんな言絡繰ことからくりによって生み出された、一つの話があった。



『言絡繰り〜諸葛亮、劉備を主と認めるも〜』



   *****



 迷っていた。
 彼の全てを認めたわけではなかった。
 それでも、惹かれるものを覚えた。
 だから胸の内に秘めていた言葉を世に解き放ったのだ。

『天を三つに分けます。その一つを貴方に』

 まだ迷っていた。しかし後悔だけはしたくなかった。
 だから口にしたのだ。

『貴方に仕えます』

 言葉は力を持ち、相手を笑顔にさせた。
 後悔は仕えたあとでも出来るだろう。
 少なくともその笑顔は、己の迷いや、あるかもしれない悔いを消し去るには充分だった……。

 だったはずなのですけどね。
 少なくとも今、彼――諸葛孔明は非常に後悔している。
 私は、自身の慧眼を過信していた気がします。
 軽い眩暈と頭痛を覚えながら、諸葛亮はその日、何度目ともしれないため息をついた。
 どうしてこのような有様でやって来られたのか、全く理解に苦しむ。
 これまた、朝から何度磨ったかもしれない墨を、またしても神経質な仕草で磨りながら、諸葛亮は胸の内で愚痴をこぼす。
 誇りっぽい室内を慮り、侍女が気を利かせて開けてくれた窓から、ぽかぽかと暖かい陽射しが降り注いでいる。諸葛亮の座った位置からだと、窓枠に切り取られた細長い青空しか見えないが、外へ出ればきっと深呼吸したくなるほどの爽やかな晴天なのだろう。
 しかして、この部屋にあるのはそんな屋外とは無縁の、重苦しい空気と、黒々とした墨の香りが充満している。
 憎々しげに切り取られた青空を睨んでから室内に目を戻せば、朝から減った気配の見えない未決済の書類や未整理の書棚、果てには書き散らかした覚え書の竹簡が目に映る。
 どうしてこう片付かないのでしょうかね、ここは!
 さらに眩暈を覚えた視界を取り戻すように、軽く指で眉間を揉みながら、諸葛亮はそれでも傍らに置いた筆を取り上げ、気を取り直すように墨を筆先に含ませた。
 一度ゆっくりと瞼を下ろし、心を落ち着けてからゆっくりとまた持ち上げる。
 途中だった書簡の内容は、ここ頻繁に目撃されている曹操よりの間者の対応策だった。
 冷静になるべき部分です。とにかくここは平常心で。この澄み渡った湖のごとく頭脳なら、曹操ごとき策略、さして恐ろしくもありません。むしろ逆に利用して……。
 本来の自分を取り戻して、「ふっふっふっ」と一人含み笑いをこぼす諸葛亮は、静かに筆を持ち上げて、いつものごとく流れるような仕草で書簡に字を書き入れようとした。
 そのときだ。

『お〜〜い、憲和〜〜! 一緒に市場に出かけんか〜〜?』

 世にも能天気な、この晴れ渡った青空に相応しい声が窓の外から聞こえてきて、諸葛亮の滑らかに踊るはずの筆をつまづかせた。
 途端、たっぷりと含まれた墨は筆先から「そぉれっ」と言わんばかりに身を乗り出して、ぽちゃん、と書簡の上に大きな黒い水溜りを作り上げた。
 その後も、なぜかプルプルと震える筆先によって、書簡の上はあまり可愛らしくない、黒い水玉模様が出来上がる。

「あんの、お気楽能天気オヤジが〜〜っっ」

 呟かれた声は幸い、誰にも聞かれることはなかったが、哀れその怒りをまともに浴びた筆は、勢いよく文卓に叩きつけられた。体を真っ二つに折られた筆は、その短い生涯(正味ひと月)を終えたのだった。

          ※

「今日も良い天気ですね」
「ええ、本当に」
 庭先が望めるよう、大きく開かれた戸の脇で、のんびりと茶を啜っている人物が二人いる。
 一人は劉備に古くから従っている孫乾であり、もう一人は今、劉備が客将として身を置かせてもらっている劉表の幕客、伊籍である。
「……あ、今日のお茶はいつもより美味いですね」
 茶を一口飲んだ伊籍は、驚きのままにこり、と微笑み、手元の湯飲みを覗き込む。
「さすが伊籍殿、お分かりになられましたか。実は、まだ三回目なのです」
 それを受けて、孫乾が微笑み返した。
「三回目! 道理で」
「まだ後十数回はいけますからね」
「しかし、今回のお茶はなかなか美味しいですよ。良くお見つけになりましたね」
「実は、そこの庭で栽培してみたものでして」
「では、元手はただっ? さすが孫乾殿、大したものですね」
「いえ、それほどではありませんよ」
 照れ臭そうに、孫乾は目元の笑い皺を深くする。
「暖かな陽射しの中、お茶を啜る午後のひと時、幸せを噛み締め、それを深めるのに手は抜けません。今が乱世だからこそ、大事にしたい、と考える私は浅はかでしょうか」
 その皺の促すまま、ゆっくりと目を細めて、孫乾は青空を仰ぐ。
「いえ、私もそう思います。毎日の平穏な積み重ね。これが万民の望んでいることです。それが叶えられれば、さらにこのお茶も美味くなるのでしょうに」
 同じように目を細めて青空を見上げた伊籍がしみじみと言ったときだ。二人の背後から「ほぉ……」という感嘆の声のわりに、なぜか冷え冷えとした声が聞こえた。
 普通なら、その冷たさに背筋を冷やすぐらいのことはするのだろうが、二人は相変わらずのんびりした様子で、ゆっくりと背後の人物を見やった。
「おや、諸葛亮殿、どうかされましたか」
「お邪魔しております」
 微笑む二人に気勢をそがれたのか、諸葛亮は一瞬ばかり押し黙る。
「……孫乾殿、先ほど頼んでおいた資料のほうはまとまりましたか?」
 それでも何とか自分を取り戻して、尋ねた。
「ええ、そちらの卓上に乗っています」
「出来ているのなら、持ってきていただかないと」
 ため息を吐きそうになるのをなんとか堪えながら、諸葛亮は注文をつける。
「お茶を飲んだら持っていこうかと思いまして。お急ぎでしたか?」
 こちらのピリピリした雰囲気を察しているのか察していないのか。孫乾は『鋼鉄の微笑』と名高い穏やかな笑みを崩さない。
「そういうわけではありませんが」
「そうですか、それならば良かった。どうです、お暇でしたら一緒にお茶でも?」
「いえ、せっかくですが、私はこれから劉備殿を探しに行かなくてはなりませんから」
「おや、また町へ行かれましたか」
「あのお方も好きですねえ」
 孫乾が小さく笑うと、伊籍も同じように声を立てて笑う。
「笑い事ではありません! そのように貴方たちが劉備殿を甘やかすから、あの人は反省もせず、つけ上がるのでしょう」
 先ほどまで諸葛亮を支配していた苛立ちが、また沸々と湧き上がる。
 するとなぜか二人はきょとん、として顔を見合わせた。
「甘やかしておられるのですか?」
「いえ、そのようなつもりはありませんけど?」
 伊籍の問いに孫乾は小首を傾げる。
 無自覚ですか!
 心の中でつっこみを入れつつ、また眩暈を感じたため眉間を指で揉みながら、諸葛亮は「ともかく」と続けた。
「迎えに行ってきますので、後のことをお願いします。急ぎのものはないはずですので」
 諸葛亮の苛立ちを抑え込んだ口調に、やはり気付いているのかいないのか、孫乾は小首を傾げる。
「わざわざ探されるのですか? 勝手に帰ってきますよ、あの方は」
「勝手に帰ってこようとこまいとも、やるべき政務を投げ出して市場に悪友と出かける主を放っておけるはずがありません」
 剣呑として告げると、ようやく孫乾の表情が動く。
「若いですね〜、諸葛亮殿は」
 苦笑されて言われた言葉に、諸葛亮はむっとなるが、孫乾と言い争っても埒が明かないことは、ここまでの会話で察した。早々に切り上げることにして、二人に背を向けた。
 長身が生かされた速さで去っていく若い軍師の姿を見送り、残された二人はくすり、と笑い合う。
「どうですか、賭けますか?」
 にこり、と伊籍が不敵な笑みを浮かべると、孫乾はゆるり、と首を横に振る。
「金銭のやり取りはしませんよ」
「もちろんですよ。賭けるのは、このお茶になっている葉、一束でどうですか?」
「それならば乗りましょう。ところで、私が勝ったなら?」
「そうですね……」
 しばらく、伊籍は宙に目を彷徨わせていたが、そっと孫乾にだけ聞こえる声で囁いた。
「……で、どうでしょうか」
 孫乾の目が大きく見開かれ、それから伊籍を見やった。
「本気ですか?」
「貴方が勝てば、ですが」
「では、是が非でも勝たせていただきます」
 鋼鉄の微笑が口元で怪しく弧を刷いて、頷いた。
「私はあとひと月」
 伊籍が言い、
「三日です」
 と、孫乾が言う。
「それはまた」
 目を瞬かせる伊籍に、孫乾は澄ましている。
「勝つためには、時に大胆にならなくてはなりません」
「なるほど、それもまた一理です」
 では、と微笑み合った二人は、また揃って湯飲みに口を付けたのだった。

          ※

 降雨量の少ないこの地だが、土壌は水気を含み豊かである。さらには荊州という交易の盛んな土地だ。劉表などがいる州都からは離れているものの、その活気は新野も例外ではない。
 午後、市場は活気に満ち溢れていた。
 人が往来する通りは、気を付けて歩かなければぶつかり合うほどだ。
 道端の左右には軒を並べた店々が、肩を寄せ合うようにひしめいて、その活気を盛り上げている。
 呼び声も勇ましい肉屋の若い男。
 笑顔を絶やすことの無い野菜売りの老婆。
 キビキビとした動作で応対している薬味売りの娘。
 気難しそうな顔をしているが、並べられている魚はどれも新鮮そのものの漁夫。
 他にも旅人相手の食事どころ、宿屋、家畜の売買人など、声高に呼び込みをしている。
 この町は良い顔をしている。
 人込みをすり抜けながら、諸葛亮はつぶさにそれらを観察していた。
 今、世は乱れている。戦は絶えることなく続き、いつ兵役に駆り出されるか分からない。人々は疲れ果て、いつ終わるともしれない日々にすでに憤ることも忘れているほどだ。
 小さな村では男衆がいなくなり、女子供だけで村を守っているところもある。そして守りきれずに死に絶えることも珍しくない。
 かといって町に出れば楽かと思いきや、重税を強いられ、腐食した役人たちに苦しめられ、安住の地とはほど遠い。
 もちろん、治世が布かれている町もある。
 今なら真っ先に名が挙がるのが曹操の治める中原一帯。
 または孫権が統治している江東の地。
 もしかしたら、西の地、劉璋が守る益州も名が挙がるかもしれない。
 そして間違いなく、劉表が牧をしているこの荊州も含まれるだろう。
 江東の地や益州へはまだ足を運んだことはないが、曹操の都、許昌は実際に訪ねてみたことがあった。
 急激に発展しているその都は、誰もが懸命に、精一杯に生きている、とても勢いのある都であった。
 しかし、ここはまた違った雰囲気だ。
 劉備に請われ、住み慣れた村から新野へ来たときも感じた思いをまた、諸葛亮は感じていた。
 とても穏やかな雰囲気だ。
 人々が生き生きとしているところは許都と変わらないが、あくせくした空気が流れていない。いたって穏やかに日々の生活を過ごしている、平穏さがある。
 それは長年戦禍に巻き込まれなかったせいなのだろう、と諸葛亮は推察していた。
 しかしそんな今の有様が長く続くとは思えない。いつかはここも戦火に焼かれ、人々が苦しむことになる。今の世が平穏を許さない。
 早く政道を整え、経世しなくてはなりません。そのためにも。
「あの道楽オヤジを見つけなくてはなりませんね」
 喧騒によって誰にも聞き取れなかっただろうが、諸葛亮の声は気の弱いものなら泣きそうになるほど低かった。
 しかしそうは言うものの、この人出である。
 いくらこの辺りを治めている領主であろうとも、目立つような真似をして、衆目を集めるはずがないだろう。お忍びでどこぞの酒家しゅかにでも遊びに行っているに違いない。
 こうして直接、劉備を探しに来るのは初めてだが、大体想像がつく。聞き及ぶに劉備は、若い頃は血気盛んなものたち――侠と呼ばれる漢たちに身を投じていたらしい。その頃の血が領地を任され、歳を重ねた今も騒ぐようだ。
 大人しく政務に付いていることなど稀で、事あるごとに町へ繰り出しては、民と交わって騒いでいる。
 それを臣下が誰も諫めないのだから、始末が悪い。劉備が侠であった頃からの悪友である簡雍など、今日のように共に出かけてしまうほどだ。
 結局、請われて臣になったはずの諸葛亮が、なぜか一番熱心に政務を行っている、というおかしな状況になっている。
 これでは眩暈の一つも起ころうというもの。
 今日こそはきっちりと反省をしてもらいます。それでも聞かないようでしたら、さて、どうしてくれますかね。
 仕える主に対し、敬意の欠片も窺えないことへ思考を巡らす。
 正直、諸葛亮は劉備の器に対して、未だ確信を抱いていない。
 確かに、自らの足で三度も自分の下を訪れてくれた誠意には感服したが、それほどに劉備が軍事や政事について不安を抱いていた、という裏返しでもある。
 劉備の選択肢が諸葛亮しかなく、是が非でも、という打算があったことは否定できないだろう。
 だがそれは諸葛亮も同じことだ。
 鬱屈していた。
 晴耕雨読の生活を楽しんではいたが、いつも心の隅ではこの世の有様を憂えていた。いや、憂えていたのではなく、恐らくはもっと端的な、自分の力がこの世でどれほどの力を持っているのか、試したかったのだ。
 乱れた世を糾せるほどの力を持っているのか、力試しをしたかった。だが、時は少しばかり遅かった。
 諸葛亮が力をつけ始めた頃には、曹操の台頭が目覚しく、そして何より諸葛亮は曹操という男が嫌いであった。
 家族を離散させられ、あの徐州大虐殺を行った男を好くことは出来なかった。
 残った行き先は江東、孫家だったが、生憎と兄、諸葛謹が仕えた後であった。身内の力の及ぶところでは意味がない。独力で試すことに意味がある。
 そして他の勢力では己の力を存分に引き出してくれそうにない。結局は振り上げた拳の行き先に困っていた。
 だから、劉備が訪ねてきたと聞いて、これだ、と直感した。恐らくは最後の機会であろう、と。ここを逃せば、大陸は曹操に飲み込まれる。それほどに、曹操という男は力があるのだ。
 それでも諸葛亮は焦らなかった。
 自分が仕えるに相応しい人物か、噂を鵜呑みにすることなく、自身の目で確かめなくてはならなかった。
 一度目、劉備が村を訪れたとき、偶然にも諸葛亮は傍にいた。幸い、誰にも見つかっていなかったので、劉備の様子を窺うことが出来た。
 印象は悪くなかった。
 村人と話す様子は気さくで、飾ったところが全くない。自分の身分を明らかにして権威を振りかざそうともしなかった。
 二度目は諸葛均を言い含めておき、居留守を使った。
 自分宛の手紙を真摯に書き綴っている横顔は、一度目の、村人と交わっていた素朴な男の顔とは違い、固い意志が込められた顔だった。
 三度目。
 わざと昼寝をして、男がどういう態度を取るか計った。
 黙って男は待ち続け、根負けしたのは諸葛亮だった。
 牀から起き上がり、真っ直ぐに劉備を見つめたとき、返ってきたものは穏やかな笑みだった。

『お初にお目にかかります、諸葛先生。このように幾度も訪ねてきて、申し訳ない』

 誠実な言葉と暖かな眼差しに、騙し続けたような小さな罪悪感があったが、諸葛亮は何食わぬ顔で劉備を招き入れた。
 それから様々なことを話し合った。
 世の中のこと。民の不遇。政治のあり方。
 諸葛亮の質問に、素朴で簡素ながらも、的を射た答えが返ることに素直に驚いた。
 話は劉備のこれまでのこと。これからのことにも及び、話は尽きなかった。
 そして決意した。
 この人しかいまい、と。
 慧眼を信じた。

 しかし……。
 一際賑わっている市場の一角で、諸葛亮はついに激しい眩暈を覚えてしゃがみ込んだ。
 黒山の人だかりとはこのこと、といわんばかりの集客力に、何を売っているのだ、と近寄った諸葛亮の耳に、飛び込んできた声がある。
「お! お姉さんはどうやら目が肥えていらっしゃるようで。そうそう、その沓は特殊な麻で編んでいて、千里歩いても壊れない沓だ。あの赤兎馬に因んでクン色(深い赤)に染めてみた自信作だよ。良かったら履いてみてくれ」
「そっちのお客さんが手にしている筵は新作だ。どうだい、普段よりもざっくりした編み込みにして、手触りを柔らかくしてみたんだ。使い心地は保証するよ」
 普段の、どこか領主然とした口調が砕けてはいるが、どっからどう聞いても、諸葛亮の探している劉玄徳の声だった。
「うわあぁあぁ〜〜」
 これにはさしもの諸葛亮も唸りだか悲鳴だか分からぬものを上げながら脱力するしかなかった。
「あぁっと、爺さん。お釣りお釣り。ボケるにはまだ早いぜ。この劉印の草鞋を履いて、足腰頭を丈夫にしておきな。爺さんはお得意様だし、また安くしておくからよ」
 さらにとどめの声は簡雍で、しっかり金銭のやり取りが成立していることを確信させられる。
 土地を治める主が、民を相手に商売……。やはり私は自分の慧眼を過信しすぎていたようです。
 道端の隅で蹲る男には目もくれず、劉備の売る筵や沓は好評らしく、あれよあれよという間に売れたようだ。
「はい、ごめんよ〜。今日はここまで。完売だよ〜」
 簡雍の嬉しそうな声が響き渡り、買えなかったらしい客たちからため息がこぼれた。
「すまない。また作るから来てくれ」
「申し訳ない」
 劉備の、客たちに謝る声が続き、
「楽しみにしてるよ」
「頼みますね」
 と、残念がりながらも次を所望する人々の声がして、次第に人だかりは引いていった。
「今日も売れたな、玄徳」
「これで次のいちまで酒には困らんな」
「じゃあ、さっそくこれから繰り出すか?」
「もちろんだ」
 妙に手慣れた様子で店を畳みながら、二人は目を輝かせている。
「ふふっ……。ふふふっ……」
 そこへ地を這うような不気味な笑い声が忍び寄り、びくっと二人の手が止まった。しかし、ぎこちないながらも再び荷をまとめながら今の『現象』について語り合う。
「最近、耳が遠くなったような気がするが、お前はどうだ、憲和?」
「いや〜、俺も実は最近ちょっと」
「ならば、今のは空耳か」
 うんうん、と激しく同意を示して、簡雍は売上金の入った袋の口をしっかりと締める。しかし劉備は、空耳、と決め付けたわりになぜか恐る恐る声のした方を見ようとするので、簡雍は慌てて止めた。
「やめとけって。絶対に後悔するぞ」
「しかしだな、ここで振り返らなくとも後悔する気がせぬか?」
「それはそうかもしれんが……」
 出来るなら嫌なことは先に延ばしたい、という簡雍の言葉を聞き入れず、劉備は後ろを見やった。
『…………』
 長い沈黙が訪れて、劉備と『彼』はしばらく見つめ合ったまま動かなかった。時が凍りついたかのように、そこだけ市場の喧騒から取り残されている。
「お、おぉ。孔明か。どうした?」
 凍てついた空気を壊したのは劉備が先だったが、その声は寒さに凍えているかのように震えていた。そして声をかけられた方は、にっこりと微笑みかけた。
 孫乾の鋼鉄の微笑と並ぶ一級品、『氷結の微笑』と名高い、見るもの全てを凍えさせる、それはそれは壮絶な笑みを浮かべて、諸葛亮はそこに立っていた。
「儲かっておいでですか、劉備殿」
 あくまでもにこやかな口振りがなおも恐怖を煽る。
 反射的に悪友の袖を握ろうとして、あるはずの方向へ腕を伸ばすが、なぜか虚しく宙を彷徨う。物音を捉えることの出来る利きの良い耳は、簡雍の逃げ去っていく足音をしっかりと聞き、そして売上金の貨幣がぶつかり合う音も拾っていた。
「け〜ん〜わ〜……」
 裏切り者〜、という声はしっかりと諸葛亮に腕を握られて、発せられることはなかった。



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