「長江の川面 3」 諸葛亮×劉備 |
「それにしても、殿が私の残した書物をしっかり身につけておられるようで、嬉しゅうございます」 「あ、ああ」 内心ぎくり、としながらも頷く。 周瑜の指揮する呉の水軍は、諸葛亮の予想通り、見事な大勝利を収めた。それを見届けた劉備と諸葛亮は、夏口の城に戻っていた。 次は劉備軍が鬨の声を上げる番だった。諸葛亮からの指示を受けた各隊は、すでに潜伏を開始し、曹操軍を今か今かと待ち望んでいることだろう。 「後ほど、他の書物も了知しているのか、忌憚ながら私が確認させていただきます」 「ああ、そうだな」 劉備は何とか返事をしたが、内心は冷や汗が滝のように流れていた。 不味い、大して読んでいないことがばれてしまう……。 この、時折不真面目な徳の人は、どうやって諸葛亮の追及から逃れようかと、忙しなく目を瞬かせた。そんな主の様子に、敏いはずの軍師はなぜか目を細めただけで、何も言わなかった。 何とか劉備があの手この手で諸葛亮の伝習を巧みにかわしつつ時を過ごしうち、城に第一報がもたらされた。 趙雲の隊からだった。戦果は思った以上に良かったらしい。その後も次々と朗報が飛び込んみ、夏口は勝利の凱歌に酔いしれた。 趙雲がにこやかな笑顔で戻り、張飛が胸を張り帰還してくる中、一人、浮かない顔をして戻ってきた将がいた。 「雲長、戻ったか」 弟の浮かない表情に、幾ばくかの不安と、薄々の確信を込めて、字を呼んだ。 「関羽殿、お戻りになられましたか。どうぞ、功をお聞かせ願えませぬか」 柔和な笑顔で、劉備と共に謁見の間にいた諸葛亮が声を掛ける。 「……」 しかし、関羽は押し黙っている。そして小さく息を吐くと、深く拱手した。 「拙者は功を報告しに戻ったのではありませぬ。罪を背負うがために帰還いたしました。どうぞ、軍師殿。軍法に乗っ取り、拙者を罰してくだされ」 「罪を負うため、ですか。なぜですか。もしや曹操は華容へは逃げてこなかったのでしょうか」 「いえ、軍師殿の言われた通り、確かに曹操軍は華容へ来ました。ですが、拙者の腕が未熟ゆえ、打ち損じました」 謁見の室内には張飛と趙雲、糜兄弟もいたが、関羽の言葉に顔を見合わせた。 「打ち漏らした、と。あの赤壁から敗走し、疲労困ぱいの兵が、関羽殿が鍛え上げられた隊と果敢に戦ったと言われますか?」 ふわり、と軍師の右手にある羽扇が持ち上がり、その口元を隠してしまう。空気が張り詰めた気がし、劉備は固唾を呑む。 「そうでは、ありませぬ。ただ、つい取り逃がし……」 歯切れの悪い弟を、兄は眉をひそめて見つめる。 「ならば、曹操は討たずとも、その配下や名のある武将はどうなさいましたか」 「それも一人も討つことは叶いませんでした」 「挙げたる首もないとおっしゃるのですね」 「さよう」 追求の手が緩まない諸葛亮に対し、関羽は苦渋の色を滲ませた声で答える。 「そうですか」 劉備の横に立っていた諸葛亮は、ゆっくりと関羽の目の前まで歩いていった。そして、静かだが芯の通った声音で、告げた。 「関羽殿、貴方はまだ、曹操に受けた恩をお忘れになっていないようですね。この度の失態は、失態ではなく、故意のものですね。貴方は曹操をわざと見逃した」 劉備を除く全員が、息を呑んだ。 「兄者」 張飛が辛そうに顔を歪めた。 「今さら何を言うつもりもありませぬ。潔く罪に服しまする」 長く美しい髯の下で、関羽の口元が一文字に結ばれた。覚悟を見せる関羽であったが、諸葛亮は、すっと目を細めた。 「それで全てが済むと思われているのですか」 いつもと同じ静かな物言いなのだが、劉備は背筋が凍るような気がした。冴え冴えとした諸葛亮の横顔が、見も知らぬ人間のように思えた。 「こたびの戦、一つ間違えば呉だけでなく我々も滅ぶ戦でした。このような大事のときに私情を挟み、任務を果たせないとはあるまじきこと」 羽扇が関羽に伸ばされた。 「今度は何も起こることはありませんでした。しかし、私情を挟んだがために、もし戦況が覆るようなことになればどうなりますか」 味方の被害はいかばかりか。 劉備は胸のうちで、続く言葉を呟く。 「この関羽殿が行った罪、死罪に値します」 深くうな垂れる関羽は、死罪と告げられても微動だしなかった。そこへ諸葛亮は容赦なく言い放った。 「関羽殿の首を刎ねます」 抑揚のない声で放たれた言葉は、張飛の形相を変え、趙雲の拳を固めさせ、糜兄弟の顔を青ざめさせるには充分な威力があった。 「臥龍よ、待ってくれ」 劉備はその二つ名を口にし、なるべく、皆を刺激しないよう、静かに声を掛けた。 臥龍と呼ばれる男は、自分を起こした人間をひたと見つめた。眼差しは静かだが、劉備を強く射抜く。双眸に含まれる強い信念に一瞬だけ呑まれかけるが、意を決し、言葉を紡いだ。 「私と雲長、そして翼徳は、この乱世を鎮め、漢王朝を復興せんがため、義兄弟の契りを結んだ。生まれた時は違えども、死する時は同じ年、同じ月、同じ日、と」 諸葛亮は眼差しを揺るがせないまま、見つめている。 「すなわち、雲長の死は私の死に他ならない。今日の罪は確かに許しがたいものがある。だが、私に免じて、雲長の罰をしばらく預けてはくれないだろうか」 深く頭を垂れた。 「この通りだ」 重苦しい沈黙が場を占めていた。誰も身じろぎ一つしない。ただ、臥している龍の動静を見守っていた。 下げた頭を持ち上げて、今度は劉備が諸葛亮の目を射抜いた。 「必ず、この罪を償うに値する、いや、それ以上の手柄を雲長に取らせる。だから、頼む」 何かを言いたそうに、関羽の口元が戦慄いた。 兄者、と聞こえた気がした。 「許すことは出来ません。軍紀は軍紀です」 ぞわっと、謁見室に殺気が満ちた。張飛の放った殺気だった。隣に立つ趙雲が反射的に身構えるほどの本物の氣に、一触即発の気配が漂う。 関羽が「やめぬか、翼徳」と諌めるが、張飛の虎鬚は震えている。 今度はゆるり、と劉備が首を横に振り、殺気を鎮めるように促す。悔しそうに顔を歪める末弟を、長兄はもう一度首を振って、矛を収めよ、と宥める。 不意に、殺気をぶつけられても顔色を変えなかった龍の口が、弧を描いた。 「しかし、殿のお言葉です。責任を持って殿がお預かりする、とおっしゃられるのなら、この件は収めましょう。殿にお預けいたします」 劉備は大きく頷いた。 「雲長、聞いた通りだ。今までになく武の腕を磨き、汚名返上の機を待つのだ」 微笑みを浮かべ、責任感の強い弟へ声をかければ、弟は瞳に深い感謝を湛え、短く答えた。 「はっ」 ようやく、室内に安堵の空気が流れた。 祝賀会が開かれていた。曹操を討てなかったとはいえ、完璧に近い勝利だった。喜びに沸き立つ城は、夜の帳が下りきってもなお、治まることを知らなかった。 浮かれる宴の席から離れ、酒に酔った体を覚ますために、劉備は中庭にいた。冬の夜風は身に染みるが、酒に酔った体には丁度よかった。 一人佇む劉備だったが、声をかけられた。 「殿」 「諸葛亮か」 闇から姿を現したのは、軍師だった。頬を綻ばす劉備に対し、諸葛亮は不服そうな顔だ。 「あまりお一人でこのような人気のない場所におられませんようにしてください。危のうございます」 「相変わらず口うるさいな、そなたは」 だいぶ聞き飽きてきた台詞に顔をしかめる。 「殿が何度申し上げても改めないからです」 あっさりと切り返されて、劉備は押し黙る。だが、昼間の出来事を思い出し、閉じた口を開いた。 「なあ、諸葛亮。そなたは雲長が曹操を討てぬことは知っていたのだろう?」 「ええ」 突然の主の質問にも、戸惑うことなく軍師は答えた。 「承知で任につけたのに、死罪とは少々酷ではないか?」 「だけども、殿がお止めになられました」 にっこりと笑ったのが、僅かに届く宴の明かりに透けて見えた。 「殿が止めなければ張飛殿が。張飛殿が止めなければ他の者が必ず止めに入ったでしょう」 首を傾げる。 「問題はこれからなのです。関羽殿であろうが、張飛殿であろうが、趙雲殿であろうが、軍紀を守らない者は罰す、という姿勢を皆に知らしめねばなりません」 言葉を切り、諸葛亮は微笑んだまま劉備の顔を覗き込んできた。 「どうしてだか、お分かりですか?」 「――っ」 またしも急に振られ言葉に詰まる。 「それは、だな……」 「それは?」 瞳を覗き込まれ、うろたえる。 「私が残した書物の三冊目に記されていたはずですが?」 まだ、諸葛亮の顔は笑っている。 読んだ。確かに読んだ覚えはある。だが、思い出せぬー。 と、思ってしまったのが不味かったのか、顔に出てしまったようだ。不意に諸葛亮の目が細められる。 「お読みになられていないのですか?」 いや、と答えるが、では、と促され、思い出せぬだけだ、とぼそり、と答えてしまう。 「それは理解をなさっていない、と同じことではありませんか?」 静かな問い掛けに、劉備は抗し切れなかった。首がかくん、と上から下へ落ちた。 「ほお、それは問題ですね。そうですか……」 何やら含みのある物言いに、劉備の背中に冷や汗が流れる。 怖い、何だか分からぬが、怖い。 本能的に危機を察した劉備は、じりっと後退るが、背中を木にぶつけて立ち止まる。 「殿、どちらへ?」 訊かれて、目を泳がせながら口籠もる。 「あ、いや、別にどこも行かぬが」 「そうですよね、まだお話が済んでいませんから。殿は呉軍で私が殿に申し上げたことは覚えておいでですか?」 「もし、私が理解できていない時は、そなたが直々に筆をとって教える、というやつか?」 今度は必死で思い出し、答える。 「はい、よく覚えておいででしたね。では、僭越ながら直々にただいまよりはじめさせていただきます」 諸葛亮の細かった目が、さらに細くなる。まるで獲物を狙う龍のようだ。 龍が捕食動物なのか、ということはこの際置いておき、怖い、何か怖いぞ、諸葛亮〜。 心の中で悲鳴を上げる劉備だったが、蛇に睨まれた蛙状態で、そこから一歩も動けないでいた。 「目をお瞑り下さい」 疑問が頭を駆け巡ったが、逆らうともっと恐ろしい目に合いそうな気がして、劉備は素直に目を瞑る。すると、呉軍の陣を訪れたときと同じように、小さく笑う声がした。 「本当に、殿は素直でいらっしゃる。ですから、戯れをしたくなるのですよ」 耳朶を震わすように、諸葛亮が囁いた。それに答えようとしたとき、唇が柔らかいものに塞がれた。それはそのまま軽く上唇を啄ばみ、離れた。 「諸葛亮?」 何をされたのか、今度は何となく分かったが、咄嗟に理解するには及ばず、聞き返した。 「今は、孔明、とお呼び下さい」 また、耳元で囁かれ、耳に響く声と息にくすぐったさを感じ、小さく体を震わした。 「孔明?」 劉備が恐る恐る呼び掛けると、嬉しそうに、何でしょうか、と答えた。 「そなた、何を教えてくれるのだ?」 「もちろん、軍紀とは何か、軍紀を守ることによって何が生まれるのか、ということですが?」 さも当たり前のように言われ、劉備はそうか、と頷くが、はて、と首を捻った。 「ならば、今そなたがしたことは何だ?」 「口付けですが」 これも当然のように答えられて、危うく劉備はそうか、と頷くところだった。 「何?」 「ですので、口付けです。唇と唇を合わせることを言います」 「それは知っているが、どうしてそれを私とそなたがしなくてはならないのだ」 「殿は集中して物事を学ばれるには向いていないお方のようです。ですから、体に少しずつ教えていくことに致しました。直々に」 「はあ……」 自分でも間が抜けた返事だったが、劉備は諸葛亮の言っている意味をよく理解できていなかった。たぶん、酔いのせいもあったのかもしれない。 「体、とはどのようにだ?」 真顔で聞き返したのに、なぜか諸葛亮は小さく、それは大人しくささやかにではあったが、吹き出した。 「本当に貴方はこの乱世を渡って来られた方なのですかねえ。あの周瑜殿と互角に渡り合っていたのを見ていた私でさえ、信じられなくなります」 楽しそうに笑う諸葛亮だが、劉備は首を捻るばかりだ。 「孔明、意味が分からぬのだが、どういうことだ?」 「大丈夫ですよ。私がこれから一つ一つお教えいたしますから。色々、と」 最後の『色々』に、どうしてか言い知れぬ不安を覚える劉備だが、それは割合すぐに正体が知れることになる。 「では、まずはこれから参りましょうか」 言うなり、諸葛亮は劉備の唇と自分の唇を重ねてしまう。 「……っん、ん?」 また口付けられたことに驚き、抵抗しようとする。しかし、細身の体のどこに力が秘められているのか、劉備を幹に押さえつけた諸葛亮の体は、力を込めても一向に押し返せない。 顎を捉えられて、顔も動かせなくなる。ただひたすら諸葛亮の口付けを受け止めるよりなくなった。そのうちに、唇を割り湿った物が口腔に侵入してきた。それは諸葛亮の舌だとすぐに分かる。驚いた劉備は身じろぎするが、やはりびくともしない。 舌は縮こまっている劉備の舌を捕らえようとする。逃げようとしたが執拗に追いかけられ、絡み付かれた。掬われるようにして舌裏をなぞられ、舌先をこすられると、舌が蕩けそうに甘く思えてきた。 「ふぅ……んっ」 鼻から抜ける息が微かに濡れた。それに羞恥を感じる暇もなく、諸葛亮の舌が上顎をなぞり上げ、淡い刺激を送り込んできた。体が震えたところを見計らうかのように、舌が強く吸われた。そのまま咥えられるままに引っ張られ、音を立てて外された。 闇に響く派手な音に、劉備は急に自分が何をしているのか把握した。把握した途端、体が熱くなった。 「孔明、どういうことだ?」 尋ねた声が掠れそうになり、劉備はうろたえる。しかし、いつでも明快な答えを差し出す軍師は、今回は答えてくれなかった。 「ここは冷えますね。どうでしょうか。私の部屋は暖めてあるので、よろしければそちらで続きをやりませんか?」 吐息と共に囁かれる誘いに、劉備は頷けなかった。 「続き、とは、今の続きか?」 酒の酔い以外の熱が、劉備の体に籠もっている。しかし、なぜ自分が諸葛亮とこのようなことをしなくてはいけないのか、全く呑み込めなかった。 「ええ。まだ軍紀の話すらしておりませんから」 にこやかに笑う軍師は、いつもと変わらない。 「それとも、お止めになりますか? しかし、殿は関羽殿の一件をその身に貰い受けたわけですから、話を聞く責任はあると思いますが?」 どうも、こじつけ臭い気がしたが、劉備は首を縦に振っていた。どうやら、酔いの冷め切っていない頭が判断を鈍らせているようだ。 後から考えるとそう思えるが、今の劉備にそんなことは分かりはしない。宴の席に戻り、退席することを張飛に告げた。 「ああ、いいぜ。……軍師も一緒か?」 何気ない口調で聞かれ、肯定する。 「ふ〜ん。まあいいけどさ。程々にしとけよ」 その言葉に含まれる意味と、張飛のにやっとした笑みに気付くのは、やっぱり後のことなので、そのときの劉備は首を捻っただけだった。 |
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