「長江の川面 2」
 諸葛亮×劉備


 周瑜は、噂通りの美しい男だった。どこか諸葛亮を彷彿させる柔和な笑みを湛え、劉備を出迎えた。
「ようこそおいで下さいました、劉備殿。どうですか、呉が誇る水軍の様子は」
「ええ、とても素晴らしいです。これならば魏軍の水軍など、容易くあしらえることでしょう」
「遠路はるばるお越しいただき、この周公瑾、感に堪えません。軍幕で簡素になってしまいますが、どうぞごゆるりとお寛ぎください」
「いえ、戦の最中です。お心遣いを頂けるだけで、劉玄徳、感銘を覚えます。こたびの大儀に英断を下されただけでも、いたく感服しておりましたのに」
 微笑み合う二人は、一見して和やかだ。しかし、差し障りの無い社交辞令を交わしつつも、互いの目は相手の腹を探ろうと鋭く見つめ合っていた。
 周瑜は自分の幕舎に劉備を案内した。そこには質素だが、贅を凝らした食事が用意されていた。
 互いに杯を酌み交わし、当たり障りのない会話を幾刻か続けた後、周瑜がおもむろに切り出した。
「ところで、劉備殿の軍備はいかがお進みですか? やはり手を結んだからには、少しお伺いしておきたいのですが」
 劉備の後ろに立つ関羽が、僅かに身じろぎした。もちろん、傍にいる劉備にしか分からない僅かな動きだ。それに対して、大丈夫だ、とばかりに小さく頷いて見せる。
「そうですね、なにぶん私もまだまだ勉励中の身。特に軍事に関しては我が軍師に頼っておりますゆえ。諸葛亮にお尋ねになった方が、確かな答えが期待できると存じます」
 杯を卓へ置いた劉備は、微笑みを崩さないまま続けた。
「ところで、その我が軍師はいずこにいるのでしょうか」
「諸葛亮殿とは、私も戦術の講釈などを交わし、ご鞭撻を賜っております。それ以外にも何かと多忙のようでして。どうでしょう。このような簡略的な席ではなく、正式な祝賀会を開きます。その時にでもお会いになられれば。諸葛亮殿もきっとお喜びになられますよ」
 形の良い唇を綻ばせ、周瑜は提案した。
 私に諸葛亮を会わせないつもりか。やはりこれは何かあると見ていいな。
 慎重に相手の言葉を咀嚼した劉備は結論付ける。
「では、私も改めてその席を楽しみたいと思います。この度の席も大分長居をしてしまいました」
 不意に会談の終わりを切り出した劉備に驚いたのか、周瑜が慌てて立ち上がった。
「そのようなことは。もう少しごゆっくりなされてもよろしいのですよ?」
 周瑜の誘いを、劉備はさながらとても心苦しく立ち去り難い風体を装い、断った。
「いえ。周瑜殿もお忙しい身でしょう。大事な戦も控えておいでだ。私などにお構いせず、満身で魏軍と刃を交えてください」
 徳の人、という衣を被った劉備はその衣を汚すことなく、翻した。さしもの美周朗も仁徳の裾を掴みきることは出来なかったようだ。
 見送りましょう、と言う申し出もやんわりと断った劉備は、自分を守り続けている関羽に目配せをして促した
 普段は誠実そうにしか見えない劉備も、乱世を渡っている人間だ。このようなやり取りは手馴れたものだった。ただ、心残りは一向に姿が見えない軍師だった。
 収穫のなかった畑を後にする農夫のような気持ちで、一行は船着場へ足を進めていた。と、劉備の耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。
 足を止めてその声の主を探す。
「殿、こちらです」
 河の畔で別れ、どれくらいの日が流れただろう。気を揉みすぎて日数を数えるのもうんざりしていた。久しく目にした笑顔は、別れたときと少しも変わってはいなかった。
「諸葛亮!」
 思わず大声で男を呼んでしまい、慌てて辺りを見回す。しかし周りには劉備の兵しか居なく、聞かれる心配はなかったようだ。
 諸葛亮は身を隠していた小船の中に劉備と関羽を招き入れた。
「諸葛亮、無事であったか」
 感激の余り涙が零れそうになりつつ、劉備は諸葛亮の手を握った。細い指の感触も、別れたときのままだった。
「殿こそ、ご無事で何よりです」
 力強く握り返され、劉備は堪えていた涙を溢れさせてしまう。
「殿……」
 困ったように諸葛亮は笑い、袖で涙を拭ってくれる。
「やはり罠であったのか」
 照れ臭くなり、急いで諸葛亮の言葉の意味を汲み取る。
「はい」
 恐らく周瑜は、行く行くは呉の障害になるであろう諸葛亮や劉備を亡き者にしようとしていたに違いない。
「関羽殿も、貴方が傍に居たからこそ、殿はご無事でおられました」
 静かに佇む関羽にも、諸葛亮は声を掛けた。
「それが拙者の役目ですから」
 言葉少なに答えるが、関羽も軍師の健在を確かめられて嬉しそうだった。
「しかし、このように危険なことはお止めください。殿のお姿を見掛けたときは、少々寿命が縮む思いがいたしました」
 眉をひそめる諸葛亮に、劉備は首を横へ振る。
「そなたが心配だったのだ。それで軽率かとは思ったのだが」
「有り難いお言葉です。この諸葛亮、光栄です。しかし、私は大丈夫です。東南の風が吹く日、帰る予定でおりました」
 軽く頭を下げ、礼を述べた後、顔を上げた諸葛亮は軍師の顔だった。
「東南の風」
 諸葛亮の言葉を反芻する。
「はい。ですのでその日が近くなったとき、張飛殿を迎えに寄越していただければ」
「帰ってくるのだな」
「もちろんです。私も殿が心配でしたから」
 穏やかに微笑む諸葛亮に、同じ想いであったか、と頬を緩ます。しかし、続く言葉に緩まった頬が強張った。
「私の残しておいた雑務や書物など、ちゃんと殿がこなしていらっしゃるのか。この諸葛亮、日々案じておりました」
「諸葛亮〜?」
 非難の声を上げる劉備の後ろで、関羽が小さく吹き出した。それを睨み付けて黙らせ、劉備は諸葛亮に向き直る。
「それだけか? そなたは私のことをそれだけしか心配していないのか?」
 必死に訴えると、右手に持った羽扇を扇ぎながら、小首を傾げてみせる。
「ご想像にお任せいたします。では、頼みましたよ、殿」
 劉備に甘くないところも変わらない諸葛亮は、主が泣きそうになっているのにどこか楽しそうだ。
「分かった。必ず張飛を迎えにやらす」
 肩を落とし、それでも劉備は約束を確認する。関羽が小船の外へ出て、辺りの安全を確認しに行った。船内に残った劉備は、恨めしく諸葛亮を見つめた。
「本当にそれだけか?」
 しつこくも訊いてしまう自分をなぜだ、と思うが、訊かずにはいられない。劉備の視線を受け止めた諸葛亮は、薄かった笑みを深くした。
「知りたいですか?」
 急いで首を縦に振った。
「では、お目を瞑って頂いても?」
 不思議に思ったが、言う通りに瞼を下ろす。
 微かに笑った声が聞こえた気がした。その意味を問う前に、唇に暖かく柔らかいものが触れた。何だ、と考える前に、それはすぐに離れてしまった。
「このぐらいは胸を痛めておりました」
 諸葛亮の声が耳元で聞こえ、瞼を持ち上げた。驚くほど近くに諸葛亮の顔があり、動揺した。
「今、何をした?」
 さあ? と笑う諸葛亮はやはり楽しそうで、耳元に口を近付け、囁いた。
「帰ったら、殿が私の残した書簡を理解していただいたか確認させていただきます。もし、ご理解が出来ていないようでしたら、私が直々に筆を取り、お教えいたしますから」
 うっ、と言葉に詰まる。実は諸葛亮のことが気になって、全然はかどっていなかったことを思い出す。書簡は劉備の卓上に埃すら被る勢いで放置されている。
「兄者、大丈夫のようです。今のうちに」
「分かった」
 顔を覗かせた関羽が、劉備を促した。それに返事をし、振り返った。諸葛亮はゆっくりと頷いた。
「さあ、私は大丈夫です。お行きください。必ず、戻ります」
 臥龍が劉備の目を射抜いた。龍を従えた主は、その瞳に頷きを返し、呉軍を後にした。

 長江の川面が陽の光を反射させ、自然の造形美を生み出している。しかし、その鮮麗さに心打たれることなく、劉備は呟いた。
「そろそろのはずだが」
「まだ、見えてこないようです」
 隣で、同じように自然の美しさに心を動かされないらしい張飛が目を眇め、河の先を望む。
「しかし、どうして軍師殿はこうして先のことが分かってしまうのでしょうか?」
 同じく目を細めて、諸葛亮を乗せた船が戻るはずの方角を眺める劉備は、確かにな、と同意する。
 約束の日が近付き、劉備は諸葛亮の指示した通り、張飛を迎えに出させた。東南の風が吹いたのはそのすぐ後だ。東南の風が吹けば、呉に有利な風となり、火攻めが行える。そう、諸葛亮は言っていた。
「……あれでしょうか?」
 劉備よりも遥かに目が良い趙雲が、声を上げる。言われて劉備もしばし河先を眺めるうち、確かに見覚えのある船影が見えてきた。
 逸る心を落ち着かせながら、集まっている人々に声を掛けた。
「さあ、みなで軍師を迎えよう」
 そう言う劉備が真っ先に船着場へ向かう。
 船は滑るように桟橋へ付けられた。中から張飛が身軽に飛び降りる。
「兄者。無事、軍師を連れて帰ってやったぜ」
 張飛に劉備は労いの言葉を掛ける。そして、待ち望んでいた人が姿を現した。手を差し伸べる張飛を微笑で断りを入れ、自らの足で桟橋に降りた。
「殿、わざわざのお出迎え、この諸葛孔明、光栄の極みでございます」
 臣下の礼を取る軍師に、主は首を柔らかく横に振る。
「何を言う。そなたが居たからこそ呉と同盟を結ぶことが出来たではないか。皆で出迎えることなど、当たり前のこと」
 二人を囲む主だった人々も大きく頷く。
「もったいないお言葉です」
「ところで、曹操と呉の動きだが、どうなのだ?」
「はい。この風で総力戦となります。そして恐らくは呉が勝利するでしょう。我々も遅れを取らず、この機に乗じましょう」
 口角を上げていた諸葛亮は、すっとそれを下げる。すると臥龍と呼ばれる男の顔が覗く。それを頼もしく思いつつ、劉備は説明した。
「いつでも出陣できるよう、手筈は整っている。指揮はそなたに任せる」
「はっ。では、趙雲殿」
 軍師は、傍に立つ当代屈指の槍を使う将の名を呼んだ。
「貴方は兵を三千連れ、江を渡り烏林の小道に潜伏してください。曹操が逃れてくるはずです。そうしたら先陣をやり過ごし、真ん中を攻めてください。全てを討たなくとも結構です。中核を打つのが役目です」
「はい。ですが、烏林には二つの道があります。曹操はどちらを行くのでしょうか」
「曹操は南郡へ向かおうとするはず。そちらへ通ずる道を抑えてください」
「はっ、心得ました」
 これから戦に出向く人間とは思えないほど、趙雲は爽やかに笑って見せた。
「張飛殿」
 劉備の傍にいた、豪傑の将が呼ばれた。
「おうよ」
 気軽な調子で答えた張飛だが、軍師の指示を一言も漏らさぬように真剣な顔になる。
「貴方は同じく三千を連れ、江を渡り、夷陵の葫ロ谷に兵を忍ばせ、曹操が逃げてくるのを待っていてください。曹操は必ず通ります。そして雨が降った後、晴れ、曹操は休息を取るはずです。そこを突いてください」
 ふむふむ、と頷いていたが、怪訝な顔になり、聞き返す。
「雨が上がった後、そこで食をするっていうのか?」
「ええ」
 迷いなく返事があり、張飛は顎鬚を掻きつつ首を捻る。
「分かった。軍師が言うんだ。大丈夫だろ。任せときな。油断している曹操の鼻をへし折ってやるぜ」
 それでも最後には肩を回しながら、豪快に笑った。
「糜竺殿、孫乾殿は船を集めていただきます。そして江岸を巡りつつ、魏軍が混乱に落ちたところを見計らい、兵糧を全て奪ってください」
 諸葛亮の民政での右腕達は短く返事をした。
「糜芳殿、劉g殿には武昌を守っていただきます。必要に応じ、投降兵を味方に引き入れるお役目を担っていただきます」
 少し病弱な、荊州の跡継ぎだった男は、静かに頷いた。
「殿は私と樊口の山頂から、周瑜殿の指揮する見事な水軍の活躍を見物いたしましょう」
「ああ、そうしよう」
 次々と示される布陣に、劉備は心底感心しつつ答えたが、
「軍師殿」
 低い、けれども苛立ちを含んだ直弟の声に、長兄ははっとなる。
「何か、関羽殿?」
 静かに問う軍師とは裏腹に、義と情に厚い男が憤っていた。
「先ほどから他の者には次々と策を下されたが、拙者には何も下されてはおりませぬ。今までの戦では、拙者を重宝したというのに、何ゆえこたびは何の策も授けないのか」
 非難する関羽に、諸葛亮は顔を曇らした。
「私も貴方を用いたいのは山々なのですが」
「何か拙者に問題があるのですか」
 含みのある諸葛亮の言い方に、関羽は聞き返した。
「貴方は昔、曹操に寵愛を受けています。今でもそのときの恩を忘れずにいるはずです」
「その恩は、拙者は白馬で返し、報いたつもりです」
 反論する関羽に、諸葛亮は羽扇で口元を隠し、微かに俯く。
「そうは言っても情に篤い貴方のことです。戦に破れ、凄惨な姿を晒すことになる曹操を目の前にしたとき、果たしてその刃が曇らぬかどうか」
 ぎりっと奥歯を噛み締める音が劉備の耳まで届いた。
「斬れまする。万に一つ、拙者が恩義に心動かされることあらば、潔く軍法に服そう」
 張飛は関羽を冷静だ、と言うが、劉備はそうは思っていない。今、関羽の胸のうちは燃え盛る炎が宿っているはずだ。信頼してくれぬ軍師に対し、怒りがあろう。
 見かねて、劉備は口を挟んだ。
「諸葛亮。雲長ともあろう剛の者が遊軍なのは、やはり世にも軍内にもよろしくないのではないか?」
 劉備の言葉に、諸葛亮はしばらく思案したようで、おもむろに切り出した。
「ならば、その万に一つが起こりしとき、いかなる罰にも服すべし、という誓紙を出していただけますか」
「分かり申した。したためましょう」
 身内を駆ける感情を抑え込んだような声音で、関羽はその提案を呑んだ。部下に用意させた筆と布を使い、誓紙を差し出した。それを受け取った諸葛亮は小さく頷いた。
「承知いたしました。では、華容山に隠れ、峠に煙を上げてください。そして曹操を待つのです」
 その指示に、関羽は不審な顔つきになる。
「峠に火煙を起こせば、逃げてきた曹操は別の道を選んでしまうのでは」
「いえ、兵法には裏表が存在します。常に虚実が入り混じっているのです。曹操はその虚実に詳しい。ならばその煙を見てどう考えるか」
 穏やかな笑みで、諸葛亮は劉備を見た。
「殿はお分かりですか?」
 不意に振られ、劉備は目を大きく瞬く。咄嗟に、諸葛亮の残した書物の中の一説を思い出した。
「これは敵が、人が居るように見せかけた罠だ。すなわちそこに人はいない。そう考えるはずだ」
「お見事。どうやら私の書物は読まれておられるようですね」
 ふう、と内心で額の汗を拭う劉備だった。実は昨日読んだばかりの部分だった。嬉しそうに笑う諸葛亮を見て、答えられなかったら、あの笑顔はないな、と思った。
「敵を謀るには敵の手腕を省みる。これが何よりも大事です。お分かりいただけたなら、すぐに準備をお願いいたします」
「承知した」
 関羽は拱手し、今までにないほどの気迫を漲らせ、去っていった。
 弟の後ろ姿が消えるまで見送った後、劉備は小さく溜め息をついた。
「なあ、諸葛亮。やはり少し不安になってきた。雲長は感情が表に出にくく理解し辛いところがある。だが、外見とは裏腹に情が篤く、恩を大事とし、義を重んじる。ああは言ったが、もしかしたら、その場になれば曹操を仕損じるかもしれぬ」
 次兄をよく知る兄としては、不安を覚える。それに対し、軍師もあっさりと肯定する。
「討てないでしょう」
「何?」
 思わず声を上げた。
「私が天文を見て、人相を見るに、未だ曹操の星は落ちそうにありません。ならば、関羽殿がまだ受けた恩を忘れずにいるのならば、この戦で報いさせ、尽くさせれば良いと。そのほうが関羽殿のためにもよいかと思います」
 半ば茫然としつつ、諸葛亮の言葉を聞いていた劉備は、ぽつり、と感想を漏らした。
「臥龍、そなたはそこまで……」
 稀代の軍師は、長江の川面のように、ただ静かに微笑んでいた。



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