「長江の川面 1」 諸葛亮×劉備 |
「では、行ってまいります、殿」 普段と変わりのない柔和な笑顔を携えて、諸葛亮は劉備に一礼した。 「うむ、では頼んだぞ、諸葛亮」 劉備は別れを惜しみ、しっかりと諸葛亮の両手を握れば、細く長い指も力強く、握り返してきた。 「兄者、もうそのぐらいでいいんじゃねえの」 やや呆れた声音で口を挟んだ張飛が、諸葛亮の旅路を促した。 実はこのやりとり、もう五回も繰り返されていた。 劉備と共に諸葛亮を見送りに来ていた張飛は退屈そうに欠伸をし、趙雲は笑いを噛み殺している。 「ああ、そうだな」 さすがに決まりが悪くなり、劉備は諸葛亮の手を離して一歩下がった。 「軍師殿、お頼み申した」 ようやく船に乗り込んだ軍師に向かって、趙雲が一同を代表するように拱手した。 「もちろんですとも。この呉への長途。必ず殿の光明への道標にいたしましょう」 穏やかな物言いではあったが、確固たる決意を秘めながら、不世出の軍師は頷いた。 曹操の南征を辛くも逃れた劉備たちは、江夏に身を寄せた。近年まれに見る危機を乗り切ったものの、未だ気の休まるときはない。 劉備を江夏に押し込め、荊州をほぼ平定しつつある曹操が次に狙うのは呉だ。そしてもし呉が魏との開戦ではなく、協定を結んでしまえば、矛先はまた、仕留めそこなった劉備に向けられる。 それは火を見るよりも明らかであった。 その最悪の事態を避けるために、諸葛亮は呉を開戦へと導くための使者として出向くことになった。 今日はその日だった。 「では、行きましょうか、諸葛亮殿」 船の中から声をかけたのは、呉の使者である魯粛だ。諸葛亮が頷き返せば、船はゆっくりと動き出した。 一路、柴桑を目指して。 「行ってしまったな」 船影が消えるまで長江の畔に佇んでいた劉備は、溜め息混じりに呟いた。 「なーに、優男に見えても軍師は頭がいい。必ず曹操の奴と孫権の奴を喧嘩するように仕向けてくれるさ」 気楽な調子で張飛が劉備の肩を叩いてくれる。 張飛らしい言い回しに少し慰められ、劉備はようやく強張っていた頬を緩めた。 「我々もやるべきことをなし、軍師殿の朗報を待ちましょう。何せ軍師殿が留守にされ、残務が山積みです。殿にはそれを片付けていただかないといけません」 「趙雲、お前、諸葛亮と同じようなことを言うのだな」 「殿がしっかりと執政を行うように見守ること。これも諸葛亮殿に託された私たちの仕事ですから」 屈託のない趙雲の笑顔に、劉備は肩を落とす。 すでに青年のと呼ばれる齢ではない趙雲だが、未だに好青年という印象を見るものに与えている。だが、やはり老練さを兼ね備えつつあり、締めるところは締めてくる。 「俺も頼まれたぜ。なにせ、兄者は目を離すとすぐにサボるからなあ」 頭の後ろで手を組んで、張飛が楽しそうにしている。 「軍師殿も留守。関羽殿も夏口に行ってしまわれている今、私と張飛殿でしっかりと殿を監視しなくてはいけません」 「おう、頑張ろうぜ、趙雲」 がっしりと手を取り合う二人の武人を横目に、その主君はまた、船の消えた方角を眺め、深い溜め息をつく。 長江の川面が、そんな劉備を笑うかのように、煌めいた。 つまらんのお。 執務机に高々と乗せられた書簡を横目に見つつ、劉備は筆の柄をガジガジと噛んでいた。 執務は次から次へと舞い込んでくる。 よくもこんなに残務を用意しておいた、と言わんばかりの量だ。それを劉備に押し付けた諸葛亮は、今は遠く離れた場所にいる。 今ごろはどの辺りだろうか。そろそろ柴桑に着いたころだろうか。 劉備は最近、諸葛亮のことばかり考えている。 もちろん、彼のことが心配だというのが大半だったが、残りは目の前のやってもやっても終わらない執務からの逃避である。 「はあ……」 大きな溜め息をついたところで、糜竺が竹簡を抱えて入ってきた。 「殿、まだそれをおやりになっていたのですか? ちっとも進んでいないではないですか」 すっかり劉備との付き合いも長くなった文官は、遠慮を知らずにズケズケと物を言う。 「しかしな、糜竺。この、軍規の法を正しく浸透させるには……の件がどうも理解に苦しむのだ。これは諸葛亮が書き残したものだろう?」 「そうですが。それがいかがなされましたか」 竹簡を容赦なく書簡の横に積み上げつつ、糜竺は劉備の指し示す文に視線を走らした。 「ここまでする必要があるのだろうか。それを思うと書き写す筆も鈍るのだ」 「そうなのですか? 私にはただ殿が倦んでおられるようにしか見えませんでしたが」 さらっと図星を指してくる文官に、劉備は筆を卓上に放った。 「分かっているのなら、少しは気分転換をさせてくれ」 諸葛亮が呉に旅立ってから、劉備はずっと執務室に籠もりっきりだった。いい加減に飽き飽きしていた。 「またそういうことをおっしゃって。諸葛亮殿が聞いたら嘆かれますよ。殿のためを思って残された書物もあるのですから」 「それはよく理解しておる。民政や軍事、法に関することなど、これから私にとっては血となり肉となるべきものだ。しかし、それとこれとは別だ」 それらを書き写しつつ学んでいるが、どうにも身が入らないのだから仕方がない。 「殿」 糜竺が首を軽く横に振りつつ、説得のために口を開きかけるのを、手を上げて制止する。 「説教はもうたくさんだ。分かっている」 「分かっているのなら筆を少しでもお進めしておいてください。今持ってきたものは今日中に目を通していただかないといけないものですから、お願いしますよ」 これ以上は水掛け論になることを察している文官は、釘だけ刺して部屋を出ていった。 「これをか?」 置かれた竹簡の束を突付きながら、劉備は眉間を狭くした。 それでも、渋々ながら竹簡を手に取り目を通し始める。 内容は、新しく軍に加わった江夏の兵の編成や、夏口にいる関羽からの近況報告などだった。 「兄者、いるか?」 大きな体を身軽そうに運ばせながら、張飛が執務室にやってきた。 「どうした、翼徳」 劉備は首を傾げて義弟を迎えた。 「なに、そろそろ兄者が根を上げる頃かと思ってな。調練に参加しないか、と思って誘いに来たんだ」 「さすが翼徳、私のことがよく分かっているな」 その誘いに嬉々として乗り、劉備は立ち上がった。 「糜竺には悪いが、ちょっとは息抜きも必要だろ?」 まるで悪戯をしようとする餓鬼大将のような顔で笑う弟に、兄も口元を緩ませた。 竹簡は帰ってから読んでも大丈夫なくらいには減らし、自由奔放な義兄弟は軽やかな足取りで、揃って城から抜け出したのだった。 もちろん、様子を見に来た糜竺が怒りの雄たけびを上げたことなど知りもしない。 そんな糜竺の心労を溜めるようなことが何回か繰り返されつつ、日々が過ぎていった。 劉備たちは江夏から夏口にと居所を変えていた。 「それにしても、諸葛亮が呉に旅立ってからだいぶ経つが、未だに音沙汰がないな」 定期的に開かれている合議で、劉備が顔を曇らせながら言った。 合議に参加しているのは関羽、張飛、趙雲、糜兄弟に孫乾たちだ。 「何か連絡できねえ不味い状態になってんじゃねえのか?」 何気ない口調で張飛が言ったが、関羽に小突かれて、慌てて弁解した。 「いや、でも、軍師は俺と違って頭も良いしよ、何か考えがあるんだぜ。そうに決まってるって」 張飛の『不味いこと』という言葉に、青白くなった自分の顔を両手で覆う。 「兄者、心配は要りませぬ。軍師殿の深いお考えあってのこと。あまり心を痛めませぬように」 落ち着いた関羽の声に、ようやく劉備は笑顔を取り戻す。 「そうであろうか」 「そうですとも。兄者が何よりも軍師殿を信頼しているのではありませぬか」 いつもあまり表情を動かさない次兄だが、長兄のためには安心させるような笑みを浮かべてくれる。 それに励まされ、他の面々を見ると、関羽に同意するように返してくれた。 「雲長の言う通りだな。少し気弱になっていたようだ。すまぬ。……では、議題を糜竺から」 劉備がいつもの自分を取り戻し、皆を見回したとき、一人の兵士が駆け込んできた。 「合議中、失礼します」 拱手し、兵士は続けた。 「ただいま斥候のものから連絡が入りました。呉の船団が河をさかのぼり始めたそうです」 「なに? すると呉は魏との決戦に踏み切ったということか」 思わず胡床(椅子)から立ち上がり、喜色を滲ませた。 「どうやらそのようです」 おおっ、と朝議に集まった面々から歓声が上がる。 「曹操の軍も水軍陸軍を合わせて、八十万が南を目指して進軍中、との報告も入っています。これは間違いなく戦になるでしょう」 糜竺が言った。 「へへ、さすが諸葛亮だぜ。きちんと孫権を焚きつけたらしいな」 鼻の頭を指でこすりながら、張飛が笑った。 「うむ、そのようだな。兄者」 力強く頷いた関羽が、劉備に微笑んだ。 吉報と皆の笑顔に胸を撫で下ろした劉備だったが、同時にまたも不安に駆られた。 「しかし、呉が決戦を決意し、行動を起こしたのなら諸葛亮から連絡が入ってもいいはずだ。だが、未だ何もない」 旅立つときの柔和な笑顔を思い出す。握り返された手の感触が薄れつつあった。 まるで浮雲のように、風に流され消えてしまうような、簡単に人の命が奪われる世だ。久しく姿を見ていない軍師の身を案じると、劉備は堪らないほどの焦燥感を覚えてしまう。 主の不安が伝わるのだろう。皆の顔も曇りがちだ。そんな中で、糜竺が口を開いた。 「ならば、私が呉に行き様子を窺って参りましょう。もしかしたら諸葛亮殿の身に何か起こっているのやも知れませぬし。確かめて参ります」 毎日、諸葛亮の身を案じ執務が手に付かなくなりつつあった劉備を、もっとも身近で見てきた糜竺は、居ても立ってもいられなくなったのだろう。 「糜竺」 優秀で、口うるさくも主を大事にし、志を同じくしてくれている文官の名を、劉備は呼んだ。 「お願いする。陣中見舞いという名目で様子を窺ってきてくれ。頼む」 「はい。畏まりました」 口元を引き締めながら、頼もしく拱手した。 「兄者、分かるけどさ、よーく分かるけどさ。まだ帰ってこないだろ? 幾らなんだって」 ぼりぼり、と顎鬚を掻きながら、張飛が顔を覗き込んでくる。それはそうなのだが、と口籠もりながら、顔を逸らす。 「だから、いい加減にここに居ないで、城に戻ろうぜ」 供を申し出た張飛だが、いい加減に河の畔から動こうとしない劉備を、催促し始めた。 「すまぬ。付き合わせてしまって」 気落ちする劉備に、張飛は困った顔でまた顎鬚を掻く。 「兄者は、本当に諸葛亮が好きなんだな」 何気なく呟かれた言葉に、劉備は狼狽する。 「好き、と言うのは、人として、と言う意味であろう?」 なぜ、わざわざ確認するように訊いてしまったのか、自分でもよく分からなかった。 「もちろんだけどよ。俺も軍師は好きだぜ。初めはあの頭でっかちが、一体何が出来るって言うんだ、とか思ってたけどよ。意外に気骨がある、つうか、図太い、つうか。今だって単身敵の巣窟に乗り込んでいるわけだしよ。凄えなあって感心してるぜ」 「翼徳……」 弟の口から聞く、軍師への賞賛の言葉に、劉備は感動を覚える。反発していた頃が嘘のようだった。 「兄者があれだけ諸葛亮、諸葛亮、と言っていたのも今ならよく理解出来るしよ」 少し照れ臭そうに鼻の頭を擦る弟の仕草を見て、劉備は微笑んだ。 「糜竺も今頃は呉とやり合っているんだろうぜ。あいつも腹の据わった奴だからよ。ちゃんと成果を上げて帰ってくるだろうさ」 ぶるぶる、と首を震わした馬のタテガミを撫でながら、張飛は自信満々に語る。 「そうであった。私が、あやつらを信じなくてどうすると言うのだろうな。翼徳、私は弱い人間だ。そんな私を慕い、兄と呼んでくれるお前や雲長の存在を有り難く思うぞ」 しみじみして、弟を見上げて目を細めた。 「何だよ、改めて。水臭いぜ、兄者。俺たちの間でそういうのはなしだぜ」 少し顔を赤らめて、ぶっきら棒に答える張飛に、そうであったな、と劉備は笑みを深くした。 糜竺が帰還すると、無念そうに報告した。 「諸葛亮殿には会わせていただけませんでした。ですが、恙無く居ることだけは何とか」 「そうか。して、呉の様子は?」 落胆の色を押し隠し、劉備は尋ねた。 「はい。呉軍の指揮は、呉水軍提督で周瑜公瑾、という男が執っております。美周朗と呼ばれいて風雅な雰囲気を纏っておりますが、中々食えそうにありません。その彼が、ぜひ殿と会談を行いたい、と申し出てきました」 糜竺の報告を聞くために集まった面々は顔を見合わせた。この場に居るのは、劉備を始め、関羽、張飛、趙雲、孫乾だ。 「……会談の件は、快く受けよう」 僅かに押し黙った後、劉備は開口し、告げた。 「しかし、殿。それは少々」 孫乾が真っ先に反対の声を上げると、趙雲も続いた。 「会談など。書簡などで済ませてよいのではないでしょうか」 「わざわざ敵の懐に入りに行くのはいかがかと。私に諸葛亮殿を会わせなかったことを考えると、少し慎重になられた方がよろしいのでは」 難色を示す文官達と趙雲に、劉備は諭す。 「呉はすでに我々の友軍となったのだ。訪れるのに二の足を踏む姿を見せれば、せっかく諸葛亮が繋いだ希望の糸が切れかねん。ここは表面だけでも友好的な態度を取り、関係の潤滑を図るべきかと思う」 一斉に唸り声を上げる臣下達を、主は口元を綻ばせつつも、目に力を込めて見回した。唸り声は半分が納得のいかないせい。もう半分は劉備の意見に賛同するしかない、という諦めだった。 「兄者は諸葛亮が絡むとどうも無茶をしたくなるらしいなあ。仕方ねえ。雲長の兄者、兄者を守ってくれよ。俺じゃあちょっと癪に障るようなことがあったら暴れちまいそうだしよ。その点、兄貴なら冷静だし睨みは効くし、打ってつけじゃねえか?」 肩を竦めて提案したのは張飛だった。 「翼徳、お前」 思わぬ味方に驚く。兄を心配する弟達は、真っ先に反対の声を上げてもおかしくはない。 「俺は趙雲と城を守ってるからさ。早く軍師殿の顔を見てこいよ。それが一番の目的なんだろ?」 図星を指されて返す言葉をなくした劉備に、張飛はへへっと笑う。 「皆の者、良いか?」 確認を取るように、劉備は恐る恐る意見を聞こうとする。そんな主を見て、近臣達は苦笑を交えつつも頷いた。 「仕方ありません。私が諸葛亮殿と会えなかったせいもあります」 「殿のおっしゃることも理を得ていますしね」 文官達が頷き、趙雲も唇を引き締めた。 「張飛殿とこの城を守っております。殿は安心して行ってきてください」 「雲長」 一番、長兄を気遣うはずの直弟の名を呼ぶと、長い顎鬚を撫でていた関羽は手を下ろし、深く頭を垂れた。 「それが兄者のご意志ならば、この関雲長、身命を賭して兄者をお守りいたします」 「礼を言う」 頼もしい肩に手を置き、劉備は心から告げた。 出立の準備が慌ただしく行われた。 |
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