「白羽扇の下 2」
 諸葛亮×劉備


 劉備の暗殺騒動から五日ほど経った。
 相変わらず、諸葛亮は忙しかった。腕の傷はまだ癒えてはいない。それどころか、本来ならば安静にしていなくてはならない状態だ。
 しかし、諸葛亮が休めばそれだけ蜀の統治が遅れる。それは何としても避けなくてはいけなかった。
「諸葛殿、こちらが昨日までの市場の流通具合と、こちらが人口分布図です」
 馬良が抱えていた書簡を卓上に並べる。
「ええ、分かりました。今目を通しますので、少し待っていてください」
 諸葛亮は目を通していた竹簡を脇に置き、馬良の持ってきた資料を手に取る。
「あの、諸葛殿」
 その様子を眺めていた馬良は、彼の最大の特徴でもある白い眉を憂いに染めながら、遠慮がちに口を開いた。
「何です?」
 書簡から目を上げずに、それに答える。
「いえ、無理は承知の上ですが、少しお休みになられたほうがよろしいかと思うのですが」
 静かに首を横に振った。
「貴方が一番分かっているはずです。今、私が執務から離れたらどうなるか、ということは」
「それはそうなのですが。……まだお怪我の方も治っていませんし、あまりお眠りにもなられていないようですし。他の方々も心配されていましたよ」
 食い下がる馬良に、諸葛亮は穏やかに微笑んで見せた。
「自分の体の具合は自分が一番理解しています。……それより、引き続き調査の方をお願いします。更に詳しい人口の分布と、滞った流通がないかどうか、西の方がまだ不明瞭です。それと、豪族の不穏な動き、馬超殿から直接聞きたいのですが。呼んでおいてもらっていいですか?」
「……畏まりました」
 馬良は狭くなった眉間を開かないまま、足早に出て行った。
 自分の身を案じてくれている友の頼るべき背中を見送り、諸葛亮は両のこめかみを人差し指と親指で強く押した。
「分かっていますよ、自分の体なのですから」
 小さく呟く。
 さすがにこう激務が続くと、人並み外れた集中力を持つ諸葛亮も、だいぶ疲労が溜まっていた。
 腕の傷も、当初よりは痛みも引いて楽にはなっているが、休んでいないのだ。治ろうとする力は全て執務に継ぎ込んでいる。油断をすると激痛が走り、脂汗が浮かぶ。
 医者は呆れて、今日は何も言わずに傷口に布を巻いただけだった。
 幸い、利き腕ではなかったので筆を取るには不自由はしていない。
「軍師殿、入るぞ」
 諸葛亮が途中だった竹簡に目を通し始めて幾ばくか経った頃、馬超がやってきた。
「どうぞ、馬超殿」
 声をかけると、劉備の蜀入りを決定付けた男、馬超が入ってきた。調練の途中だったのか、いつもの錦馬超と呼ばれる所以でもある、豪奢な鎧を身にまとっていた。
「わざわざお呼び立てしてしまい、申し訳ありません。調練中でしたか?」
「いや、平気だ。今日の調練は馬岱に任せてある。俺は張飛と打ち稽古だ」
「そうでしたか」
 馬超と張飛は敵対していたときに一対一の対決をして以来、互いを類まれなる武将として認め合い、今では親友のようになっている。
「それで、頼んでいた件ですが、どうでしたか?」
「ああ。劉備殿の命を狙っていたのは、やはり軍師殿の睨んだ豪族で間違いない。裏も取れた」
 馬超に頼んだのは、彼がこの辺りに顔が利くこと。それと一族の長であった馬超ならば、一族の長――劉備を狙ったものをどうすべきか、言わずとも理解しているからだった。
「そうですか。……では、お願いしてもよろしいですか?」
「もちろんだ。コソコソと陰から劉備殿の命を狙うとは、俺が許せん。やらせてもらう」
 頼もしく笑う馬超に、諸葛亮も笑い返そうとして、腕に走った痛みに顔を歪めた。
「……っ」
「大丈夫か、軍師殿?」
 馬超が心配そうに手を伸ばしてくるが、痛みに歪んだ顔を、咄嗟に膝元に置いてある白羽扇で覆う。
「……ええ、少し痛んだだけですから」
「そうか? そうは見えないがな。あんた、ちゃんと休んでるのか? さっきすれ違った馬良が暗い顔して溜め息ついてたぜ」
「彼は心配性なのですよ。それより、殿はどうしていますか?」
 これ以上触れられたくないので、諸葛亮は話題を変える。
「劉備殿は、執務に専念されている。こんなにやる気になった殿を見るのは久しぶりだ、とか文官の奴らは騒いでいたな」
 覆った白羽扇の下で、思わず口元を緩ませる。
 どうやら、怪我の功名、というやつですね。おそらく、反省しているのでしょう。執務を抜け出した挙句に、私に怪我まで負わせてしまって。
 責任感、と言う名の鞭が、劉備の尻を叩いているのだ。
「そうですか。それは結構なことですね。では、頼みましたよ、馬超殿」
「ああ、承知した」
 それ以上の追求を免れようと、諸葛亮は口早に言うと、馬超は大人しく略礼して下がっていった。
 これで、一つ憂いが消える。
 諸葛亮は軽くなった荷を背負いなおし、また竹簡に目を通し始める。
 馬超に頼んだのは、劉備の暗殺を謀った豪族の皆殺しだ。劉備の命を狙ったのだ。相応の対処が必要だ。
 見せしめも兼ねて。
 それでも、まだまだ諸葛亮のやるべきことは残っている。時間は幾らあっても足りることはなかった。
 矢継ぎ早に部屋に文官を呼んでは指示を出し、持ち込まれた資料に目を通し、更に詳しい指示を出す。
 気付いたときには、侍女が部屋に明かりを入れに来ていた。
「お食事は、いつも通りでよろしいですか?」
 侍女の言葉に、諸葛亮は頷いた。
 忙しいときの諸葛亮は、食事を執務室でとる。それも、資料に目を通しながら、休むことはしない。
 今日も、そのつもりだった……のだが。
「諸葛亮!」
 それは難しそうな予感、いや、確信をさせられる声が廊下から響いた。
 眉をひそめる。
 誰か、殿に教えましたね。
 廊下から響く声は、劉備に他ならなかった。
 部屋の主の返答を待たずに、劉備が部屋に押し入っていた。
「そなた、なぜこのようなところにおるのだ! 安静にしているように医者に言われたであろう!」
 珍しく、語気も荒く眉を吊り上げて劉備は諸葛亮の前まで駆け寄り、卓上を叩いた。
「誰から聞いたのです」
 ひそめた眉を隠し、柔和な笑顔で聞き返す。
 諸葛亮が怪我を圧してまで執務をしていることは、劉備の耳に入れないように言い渡してあったはずだ。
 耳に入れば、こうして止めに来るのが火を見るよりも明らかだったからだ。
「そのようなことはどうでも良い! そなたは怪我人なのだぞ。それをこうして動き回っているなぞ。しかも聞くところに寄れば、寝てもいないそうではないか」
 馬良か、と薄々見当はつく。
 諸葛亮は友の白い眉を思い出しながら、心の中で溜め息をついた。
 私の身を案じてくれているのは分かりますが、この策は失策です。
「諸葛亮!」
 白羽扇で表情を読まれないようにしながら、諸葛亮は詰問する劉備を窺う。
 相当お怒りのようですね。
「寝ていますよ。私も人の子ですから」
 そう言うと、劉備が疑うような視線で諸葛亮の目を覗き込んできた。
 劉備の怒りの籠もった真実を照らそうと強く光る目と、諸葛亮の穏やかな霧で真実を隠した瞳がぶつかる。
「嘘だ」
 きっぱりと言い切る劉備に、諸葛亮は心外だ、という具合に眉をひそめてみせる。
「なぜですか」
「私には分かる。そなたのことは誰よりも近くで見てきた。そなたの体のことぐらい、見抜けないと思ったか」
 自信に満ちた物言いに、諸葛亮は目を細めた。
 昔、諸葛亮の不透明な力に疑いを持った義兄弟たちに、劉備はこう言ったらしい。
『私は諸葛亮を迎えることによって、水を得た魚のようになった。息すらまともにできなかった魚が、大海を得たのだ』
 魚は、自分の身が置かれた水が濁れば、すぐに気付くのだろう。
「ではどうしろとおっしゃるのです。私が休んでしまえば、執務は滞ります。どうなさるおつもりですか。解決策がない限り、容易く休め、などと口になさらないでください」
 劉備の言いそうなことを、先に釘を刺しておく。
 案の定、劉備は言葉に詰まった。
「……しかしだな。そなたが無理をして倒れたら、それこそ蜀は成り立たなくなってしまうのだぞ。そなたこそ分かっておるのか?」
「ですから、そうならないように体を庇いながらやっているのです。自分の体は自分が良く理解しています」
 馬良に言ったことを、そっくり劉備にも使う。
 しかし、そこで諦めてしまった馬良と違い、劉備はまだ食い下がってきた。
「何を言う。こんな白い顔をしてどうしてそなたは嘘ばかりつくのだ」
 劉備は卓上を叩いた手を伸ばし、諸葛亮の頬を撫でた。驚いたのは諸葛亮で、反射的に仰け反って、拍子に呻いた。
「……っく」
 今度は、表情を取り繕うことは出来なかった。
 はっとして劉備は手を離した。急に動いたために、傷口に響いてしまったのだ。
「あ、ああ。……すまない、驚かせてしまったのだな」
 顔を歪めて俯く諸葛亮に、劉備が慌てて謝り、頬に添えた手を反対側の手で押さえた。
 さっきまでの勢いはどこへ行ったのか、急に大人しくなり体を縮込ませる。
「いえ、少々過剰に反応してしまっただけですから。それに怪我のことはあまりお気になされませぬよう。私は臣下として当然の行動を取ったまでです。この怪我は名誉の負傷、というもの」
「いや、しかし。私のせいでそなたが負わなくともよい怪我を負ったのだ」
 眦を下げ、また泣きそうな顔付きになる劉備に、諸葛亮は少々酷か、とも思ったが、いい機会なので釘を刺すことにした。
「少しでもそうお考えいただいたのでしたら、どうか一人歩きはやめていただいて、執務に専念してください。そうすればこのようなことは防げるのですから」
「そうだな、確かに諸葛亮の言うとおりだ」
 肩を落としてうな垂れる劉備は、まるで母に叱られた子のように、拠り所を失った儚さが漂った。それどころか、卓上にぽつり、と雫まで落とした。
 泣いているのだ。
 さすがに胸が痛んだ。
 そもそも、諸葛亮は劉備の涙に弱い。
 諸葛亮が劉備に仕えることを決めた決定打は、余り認めたくはないが、劉備が流した涙のせいだ。
 劉備の、国を憂う心に打たれたのも事実だが、その感極まって流された涙こそに、もっとも心を揺さぶられたのだ。
 今、このように純粋に涙を流せる男がいるだろうか。
 諸葛亮は、その透明な雫に自分を賭けてみたくなったのだ。
「そなたまで、ホウ統のように私のせいでいなくなってしまうところだったのだ。もう、あのようなことは二度としない、と自分自身に誓ったはずなのに」
 そうだった。劉備はホウ統のことを引きずっていた。
 劉備の傷心を失念し、傷口を広げるような真似をした自分を、さすがに迂闊だったと呪った。
「申し訳ありません。私も出過ぎた諫言でした。お許しください」
 頭を下げる諸葛亮に対し、劉備は首を横に振った。
「よいのだ。そなたは正しいことを言った。私が不注意だったのだ」
 涙に濡れた目で、劉備は諸葛亮の目を捉えた。
 双眸はこの荒れ狂う世にあって、どこまでも澄み渡っていて、思わず引き込まれるほど美しかった。
「だから、な。諸葛亮」
「何です?」
 諸葛亮はその瞳でとても穏やかな気持ちになっていた。
 だから、油断をしたのだ。
「そなたを大事に思っておる。だから、休め」
「はい、殿」
 と、思わず返事をしてしまったのだ。
 はっと気付き慌てたが、劉備の瞳は弧を描いていた。
「そうか、良かった。そなたも男だ。二言はあるまいな。約束したぞ」
「殿!」
 今度は、諸葛亮が珍しくも声を荒げた。
「貴方、私をはめましたね」
「何のことだ?」
 とぼけようとするが、満面の笑みがその言葉を力強く否定している。
「貴方という方は……」
 しかし、劉備の涙に油断した自分も自分だったが。
 それに、劉備の涙は本物だった。
 脱力してうな垂れるが、ここで引き下がるようでは、臥龍と呼ばれた二つ名が泣く。
「では、殿。私の悩みを聞いてもらえますか?」
「何だ?」
 どうしてもここで執務を休むわけにはいかなかった。策には策をぶつけるしかない。
「実は、私が休まない理由が、執務の滞りを案じている他に、もう一つ理由があるのです。その問題が解決しないと、とても眠れそうにないのです」
 劉備は諸葛亮の真摯な声音を沈痛そうな表情で受け、先を促してくる。
「『氣』が張っているのです。その『氣』が解けないと、眠ることなど到底出来はしません」
「『氣』か……。どうすればその氣は解けるのだ?」
 心底心配そうに身を乗り出してくる劉備に、諸葛亮は釣竿に魚がかかったことを確認し、おもむろに引き寄せていく。
「その……あまり大きな声では言えないので、お耳を借りてもよろしいでしょうか」
 部屋には今のところ二人きりだが、外には兵が控えているし、人の出入りの激しい部屋だ。いつ何時、内密な話が聞かれるか知れない。
 疑いもなく耳を差し出してくる主に、稀代の軍師は人より大きな耳に囁いた。
「男を抱けば、おそらく緩むと思うのです。昔から、私は氣が張ってくると、男を抱きたくなる奇癖がありまして。近年は治まっていましたが、どうもこのところの激務で再発したようなのです」
 もっともらしく諸葛亮が説明すると、劉備の差し出された耳が微かに赤くなる。
「そなた、それは真の話か?」
「おや、お疑いになられるのですか? 私が恥を忍んで今まで誰にも打ち明けたことのない悩みを話したと言うのに」
 悲しそうに眉間に皺を寄せれば、劉備はいや、とかぶりを振った。
「そんなことはないが、あまりに突飛な話なので、つい」
 それはそうだろう。諸葛亮が今作り上げた話なのだから、当然だ。しかし、そこは軍師の腕の見せ所だ。抑揚と表情、話術で相手を信じ込ませにかかる。
「もちろん、自分でも初めは信じられませんでした。気付いた当時は辛いものがありました。やはり同性と、となれば相手も限られますし、何より奇異な目で見られるのは必至。ですが、認めざるを得なかったのです。もちろん、今でも人に知られるのを恐れ、ひた隠しにしております。しかし、殿にだけは隠しておけない、と思い、こうして恥を忍んで告白した次第です」
 同性同士が禁忌とされていなくとも、いつの世でも少数派の人間は虐げられるものだ。
「そうか。悩んでおったのだな」
 人の良い劉備は、臥龍の相手ではなく、すっかり信じ込んでしまったようだ。
「その上でご相談なのですが。今夜、私が休むためにも、殿にご協力をお願いしたいのです」
「協力とは?」
 不思議そうな顔になる劉備に、諸葛亮は吹き出しそうになるのを、急いで白羽扇で隠し、囁き続けた。
「殿にこんなことを頼むのは恐れ多いのですが、貴方様しか頼れないのです」
 切、とした哀願を込めて、じっと羽扇の隙間から劉備を見やった。諸葛亮の演技をすっかり信じ込んでいる劉備は、同じように悲しそうに瞳を潤ませながら見返してきた。
 完全に針に魚がかかったことを確信して、諸葛亮は願いを口にした。
「……どうか私の房事のお相手を頼みたいのです」
 とたん、劉備の目がこぼれんばかりに大きく見開かれ、諸葛亮と距離を取った。
「何を……っ」
 それきり、劉備は絶句してしまう。
「そうですよね。このようなことを殿に頼むのは大変失礼ですよね。……いえ、大丈夫です。もうしばらくすれば少しは落ち着きます。自分で何とかしますので、気になさらないでください」
 相手の良心に付け込んだあと、急いで拒絶をしつつも哀れさを醸し出すことを忘れない。
「……」
 劉備は黙りこくったまま立ち尽くしている。
 もちろん、諸葛亮の策のうちである。
 こんな無茶な頼みを聞く人間などいない。さしもの劉備も受けはしないことを見越しての提案だ。
 こう言っておけば、私が休まずにいても何も言えなくなるでしょう。
 劉備は微かに頬を赤らめたまま、唇を引き結んでいる。それは怒っているようにも見える、難しい顔だった。
「……分かった。相手をしよう。今夜、そなたの寝所へ行く。待っておれ」
 我が耳を疑った。
 一瞬、自分は幻聴を聞いたのだと思った。
「殿?」
 思わず聞き返すと、諸葛亮の主君は顔を赤くしたまま、それでもはっきりと言った。
「二度も言わすでない。相手をする、と言ったのだ。それでそなたが休めるならば、私も協力する」
 そうだった。この人はこういう人だった。
 自分の言葉に照れたのか、劉備は急いで部屋を出て行ってしまい、部屋に一人残された諸葛亮は、思わぬ展開に茫然とした後。
 またしても自分の迂闊さを呪ったのだった。



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