「白羽扇の下 1」
 諸葛亮×劉備


「またですか」
 馬良の報告を受けた諸葛亮は、あきれて天井を仰ぎ見た。
「いかがなさいますか?」
 馬良が白い眉を眉間に寄せた。
 諸葛亮は右手から左手に持ち替えた白羽扇を静かに扇ぎながら、小さく息をついた。
「見当はついています。私が迎えにいきますので馬の用意を」
 馬良が従者に指示を出した。
 困ったお人だ。
 諸葛亮は心の中で呟いた。



 諸葛亮の主である劉備が、執務室からいなくなった。
 成都を制圧した。それは蜀が劉備のものになったということだ。そして、諸葛亮の描いた天下三分の計が成しえた、ということでもある。
 もちろん、これで終わりではない。むしろようやく曹操や孫権と肩を並べられた、ということに過ぎない。しかし、今まで放浪を続けてきた劉備が、一つの国を持ったのだ。それは大きな意味を持つことだった。
 なのに、あの方は。
 馬を走らせながら、諸葛亮はまた小さく息をついた。
 後ろから供の護衛が五人ほどついてきている。ついこの間までは諸葛亮は一人で出歩いていたが、今はそうはいかない立場になっている。
 それは殿も同じのはずなのですが……。まだ放浪していたときの感覚が抜けていませんね。
 劉備は供も連れずにどこかへ出かけてしまう。成都に入るまでは、諸葛亮が口うるさく言ったせいか、そういうことがなくなりつつあった。しかし、また最近になってふらり、と出かけることが多くなった。
 原因は分かっていた。
 入蜀を間近にして命を落とした、諸葛亮と軍師の片翼を担っていたホウ統のことを引きずっているのだ。
 自分が成都を攻めること、劉璋を攻めることに対してためらったがために、ホウ統を死なせてしまった、と思っている。
 だが、違うのだ。ホウ統が死んだ。確かに彼は戦によって命を落としはした。だが、落命したのは誰のせいでもない。ホウ統の天命がそれまでだったのだ。それが乱世であり、戦に挑んだ者が持つべき宿星なのだ。
 もちろん、劉備も分かってはいるはずだ。だが、そう割り切れない所が人間であり、何より、劉備玄徳という男なのだ。
 だから、諸葛亮は劉備を慕い、この人のために働こう、自分の一生を捧げ、志を共にしようと誓えたのだ。
 案の定、劉備は成都からほど遠くない街郭の外れで、馬をそばに置き、一人ぼんやりしていた。
 小高い丘の上で、夏草が風に身を揺らしている。その中で劉備は座り込んで、綿竹めんちくの方角を眺めている。その方向には、ホウ統の死んだ落鳳坡があった。
 諸葛亮はついてきた供のものに、少し離れて待つように告げると、一人で劉備の元へ歩いていった。
「殿」
 諸葛亮は静かにその背中へ声をかけた。
「諸葛亮か。またそなたがわざわざ迎えに来たのか?」
 振り返りもせず、劉備が言う。
 足音と小さな呼びかけだけで自分だと分かってくれた劉備に小さく笑みを浮かび、
「私が迎えに来なくては、帰る気はなかったのでしょう?」
 と、答えた。
「まあな」
 劉備の微かに笑いの含んだ返答に、諸葛亮は笑みを苦笑いに変える。同時に、こそばゆい感覚になる。
 最近、こうやって劉備は諸葛亮に甘えてくるようになった。
 諸葛亮にとっては意外なことで、劉備が甘える相手は、関羽か張飛のどちらかであったのが今までだ。甘える相手を選んでいることを諸葛亮はよく知っていたし、特に三人には他人が踏み込めない絆があるのも理解していた。
 しかし今は、関羽は荊州に駐留しているし、張飛は新しく加わった蜀軍の鍛錬に忙しい。
 劉備が諸葛亮に甘えるような言動を取るのは成り行きであったが、たとえ、会えないでいる義兄弟の代わりだとしても、諸葛亮は嬉しかった。
「気分転換はお済みになったのでしょう? 執務の方が滞っております。戻りましょう」
 もっとも、劉備の無心の甘えに気を許すほど、諸葛亮は甘い男ではなかった。
 それとこれとでは話が違う。
 振り返って、あからさまに嫌そうな顔を見せる主に、諸葛亮はにっこりと微笑んだ。
 よく劉備に、臥龍の笑いだ、と言われる笑顔だ。
「そもそもですね、護衛の兵も付けずに出歩くのはお止め下さい、とあれほど申し上げていましょう。警護の兵がまた青ざめていましたよ」
「私がいなくなったことに気付かぬようでは、警護失格だと思うが……」
 珍しく人を非難する劉備に、諸葛亮はほお、と小さく感嘆の声を漏らす。
 もちろん、皮肉の意味でだ。
 ひくっ、と劉備の頬が引きつった。
 諸葛亮は目を細めて、未だに草の上に座り込んでいる主を見つめた。
「彼らは常識ある警護兵ですから。まさか自分たちの守っている主が執務室の窓から抜け出すなど露ほども考えませんからね。そんな非常識な主は聞いたことがありませんし」
 つらつらと真実を述べる諸葛亮は、劉備の頬に一筋の汗が流れたのを見逃さなかった。
「ましてや、昨日抜け出したばかりの人が、続けて抜け出すなどと、そのようなこと小指の先ほども思わないでしょうし。ねえ、殿」
 手にした白羽扇をはたり、と扇ぐ。
 劉備の目が、追い詰められた小動物のような目になる。
「すまない」
 がっくりとうな垂れる劉備を見て、諸葛亮はふう、と溜め息をついた。
「仕方のない方だ。いくらホウ統が亡くなったことを気に病んでおられたとしても、もう少し一人で出歩くことは自重していただかないと。貴方はすでに蜀という一つの国を背負っているのですから。昔のように気軽に出歩いてもらっては困ります」
「そなたは私の考えていることが分かるのか」
 驚いて目を丸くする劉備に、諸葛亮は思わず吹き出してしまうのを白羽扇で隠して、ごまかした。
 劉備は隠し事があまりうまくない。警戒心を抱いている相手や、ここぞと言うときは表情を繕うことはできるが、気を許している相手だと、そうはいかない。
 それを本人はいまいち理解していないようだ。
「ええ、殿の考えていることは恐れ多くも良く存知上げていますよ」
 それとは対照的に、諸葛亮は腹の中を隠すのはうまい。そうでなくては他国の文官や将と論戦などで勝ち抜けはしない。
「そんなに私はホウ統のことで気落ちしているように見えるのか?」
「ええ、そうですね。私だけでなく、黄忠殿や馬超殿も気付いておいででしたし」
 自軍に加わり日も浅い二人の優秀な将軍の名を上げると、劉備は顔を曇らした。
「なんと、黄忠や馬超にもか。……それは心配をかけているな。これでは主君として面目が立たぬな」
 何やらひどく落ち込んでしまった劉備に、少々慌てて諸葛亮は慰める。
「いえ、そもそもあのお二人は良く殿を見ていますし、人心の機微には聡いほうですから。誰とは言わずに気が付くのですよ。あまり深くお考えになられる必要はありません」
「そうか?」
 少し顔を明るくして、しかし困ったように小首を傾げてみせる劉備に、迂闊にも諸葛亮は堪えきれずに吹き出してしまった。
 あまりにも、素直な反応と仕草が、乱世を渡り歩いてきた強者には見えなかったからだ。
 何と愛らしいお方だ、と微笑ましく思い、笑ってしまったのだが、劉備はそうは捉えなかったようだ。
「何かおかしなことを言ったか? やはり、皆気にしているのだろうか」
 あくまで心を痛めているようで、辛そうに眉を寄せて見せるので、諸葛亮はますますおかしくなってしまう。
 しかし、今度は表情を取り繕うことに成功する。
 生真面目で、いたって誠実な態度を見せ劉備の視線まで膝折る。
「大丈夫でございます、殿。皆、殿を心より慕っていますし、それ故に気にかけておいでなのです。少し、過保護なのかもしれませんね」
 自分も含めて。
 と、これは心中で付け足す。
 二十も年上で、しかも自分の主でもある男に抱く感情ではないことは分かっている。だが、諸葛亮は劉備を見ていると、どうして庇護欲を掻き立てられるのだ。
 もちろん、劉備はそう弱い男でないことは百も承知だ。この乱世を確かな後ろ盾もないまま、ここまで歩んできた男なのだ。その武技も心根も、容易く折れるものではないことも理解している。
 だが、それでも劉備という男は、人に放っておけない、この人のために力になりたい。そう思わせる何かが備わっているのだ。
 劉備玄徳、という人徳なのでしょうね。
 諸葛亮が、安心させるための柔和な笑顔を浮かべると、劉備はようやく安堵したらしい。立ち上がり、服に付いた草を払った。
「あまり皆に心配もかけておられんな。戻るとする。……怖い軍師もおるし」
 それでも、執務に戻ることは不服なのか、劉備の口調に厭味という名の香辛料がかかる。
「ええ、お願いしますね。私がここまで来たことで、執務がだいぶ滞りましたし。しかし、やる気になられた殿がいらっしゃれば、すぐにはかどりますよ。私もお傍でその仕事振りを拝見していますから」
 その香辛料ごと飲み込み、諸葛亮は皮肉の香辛料をかけた胃のもたれそうな料理を並べてみせる。
 その料理に一瞬、それこそ胃がもたれたようなうんざりした表情をするが、劉備は諦めたように首を横に振った。
「そなた、私を見張るつもりか?」
「いいえ。殿の仕事振りを拝見させていただくだけです」
 穏やかな料理長の仮面を被り続ける諸葛亮に、劉備は今度こそげんなりとした顔になった。
 劉備が、近くで草を食んでいた的盧を呼んだ。
 それで、諸葛亮もようやく安心する。離れたところにいた供のものに声をかけようと、劉備から目を離した。
 不意に、馬の高い嘶きが響いた。
 的盧だ。
 諸葛亮の頭に僅かな疑問が走った。
 はて、的盧はあんな鳴き方をしたか、と。
「諸葛亮!」
 鋭い、劉備の声がした。
 その声に混ざる警戒の色に、諸葛亮の身体が強張る。
 咄嗟に振り返ろうとしたとき、強い力で誰かに草むらに引き倒された。
 頭の上を矢が唸って通り抜けた。
 暗殺者!?
 頭を過ぎったのはその単語だった。
 劉備は入蜀してまだ間もない。幾ら徳が高いことで名を馳せているとは言え、まったく恨みも買わずに来たわけではない。ましてや、蜀は奪った形になっている。
 まだ、蜀に根付く豪族たちは完全には劉備に従ってはいない。劉備を亡き者にしようと、暗殺者が送り込まれる可能性は高いのだ。
 だから、一人歩きは危険だと申し上げていたのに!
 今思っても仕方のないことが、諸葛亮の頭の片隅を掠めたのも、止むを得なかった。
「諸葛亮、大丈夫か?」
 諸葛亮を草むらに引き倒したのは、劉備だ。
 やはり、いざと言うときの動きは軍師の自分よりも、剣を握っている時間が長かった劉備のほうが優る。
 頭の上をまた何本か矢が走った。
 異変に気付いた警護兵が、二人の方へ駆けてくるのが見える。だがいかんせん、距離がある。
 そのうえ、警護兵の行く手を阻むかのように、五、六人の男たちが立ちはだかった。
「不味いな。私たちで何とかしたほうが良さそうだ」
 劉備に躊躇いはなかった。
 矢が飛び交う隙を狙い、身を隠していた草むらから飛び出した。
「と、殿!」
 さすがにその行動は読めなかった諸葛亮は、目を剥いた。
 狼狽する諸葛亮には目もくれず、劉備は矢がかけられている丘の麓近くにある林まで駆けていく。
 そうなると、諸葛亮も黙って見ていられない。劉備の後を追う。
 曲者は林の中から矢を放っている。そこに劉備は矢をかわしながら飛び込んだ。すぐに悲鳴が上がる。
 諸葛亮が駆け付けたときには、すでに幾人か地面を寝床へと変えていた。
 普段はあれだけ穏やかに見える劉備も、やはり戦乱の世を駆け抜けているだけあって、強い。追い詰められた不逞の輩は、残り数人になっていた。
「素直に退けば、その命、無意味に取ることはせぬ。どうする?」
 劉備が剣先を残った男たちに向ける。
 性根が争いを好まぬ人間だ。自分の命を狙う男たちに甘い言葉をかける劉備に、諸葛亮は非難する。
「いけません」
 男たちは幸いとばかりに逃げ去っていく。
「あやつらは貴方のお命を狙ったのですよ? それを助けるなど」
「心配するな、諸葛亮。彼らを操っている人間はそこに転がっている人間に聞けば分かる。無益な殺生はないに越したことはない」
「しかし……」
 甘い。
 時々、諸葛亮は不安になる。この人の甘さはいつか災いになってしまうのでは、という不安に駆られるのだ。同時に、その甘さが心地良い、と感じている自分にも、また苦笑いをしてしまうのだが。
「諸葛亮。もう良い」
 強い口調で遮られれば、諦めて頷いてしまう自分がいる。
 もっとも、身を引いたのはあくまで『フリ』で、後で手を回しておくことはするつもりだ。
 劉備の命を狙った者がどうなるか。
 それは確実に浸透させておかなくていけないことだった。ただ、汚く辛い重荷は自分が背負えばいい。劉備は輝かしい表の道を歩いてほしい。
「行きましょう。もう、これに懲りて一人で出歩くことをお控えくださるでしょうし」
 諸葛亮は劉備の怪我の有無や衣の乱れを確かめながら、少し厭味を口にする。
 寿命を縮められたのだから、このぐらいは許してもらいたい。
「すまない」
 さすがに反省しているらしい。先程より従順な劉備に、諸葛亮はあえて難しい顔をやめなかった。
 警護の兵も曲者を倒してこちらにやってきている。諸葛亮は事後処理を指示しながら、劉備を目で追う。
 劉備は危機を知らせてくれた的盧の轡を取りに行っている。的盧に優しく何かを語りかけながら、劉備は首を撫でてやっている。
 不意に、視界の隅に光るものが映った。
 劉備は背を向けていて気付かない。
 警告の声を上げる前に、体が動いていた。
 今度は、諸葛亮の方が早い。
 劉備を庇うように抱きかかえて、諸葛亮は光に背を向けた。
 左腕に鋭い痛みが走った。
「諸葛亮!」
 劉備の悲痛に似た声が上がるのと、警護の兵が矢を放った暗殺者の生き残りを切り捨てたのは同時だった。
 自分の左腕に矢が刺さっているのが見て取れた。
 諸葛亮が目にした光は、おそらく矢じりが太陽に反射したものだったのだろう。
「諸葛殿!」
 警護兵が慌てて駆け寄ってくる。
「早く、城に連れ帰り処置を。急げ!」
 どこか泣きそうで、それでいて怒った面容で兵に指示する劉備に、諸葛亮は微笑みかけた。
「大丈夫です。大したことはありませんから」
 矢が刺さった衝撃で腕は痺れているし、痛みもあるが、骨は通らず肉を裂いただけのようだ。大事にはならない。
 劉備に支えられるように草の上に跪き、諸葛亮は冷静に傷を窺った。
「よほど、貴方の方が怪我をされたみたいですよ」
「からかうな!」
 諸葛亮の安心させるための言葉も、今の劉備にとっては逆効果のようだ。
 心の底から腹を立てているようで、顔を歪ませている。軽口を叩きすぎたか、と反省しようとしたが、どうやら違ったようで、
「私のせいだ。私があやつらに情けをかけたから……」
 唇を噛み締める劉備は、後悔の色を滲ませた瞳で、俯いた。諸葛亮を責めていたわけではなく、自分自身に憤っていたらしい。
「そのようなこと。貴方はご自分が正しい、と思われたことをしたまでのことです。気に病まれないでください」
 悔恨が浮かぶ瞳は暗闇に侵されそうで、諸葛亮は穏やかに説いた。
 貴方には光が溢れた道がお似合いなのですから、暗い瞳をお見せにならないでください。
「諸葛亮……」
 劉備の瞳から、涙がこぼれていった。



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