「玉磨かざれば 光なし 3」
関羽×劉備


 強行軍のあとの復路だ。自然、どうしても歩みは遅く、先を急ぐように叱咤しても、不満すら上がらないほど全員が疲れきっていた。いつもは頼まれなくとも無駄口ばかり叩いている簡雍も、ずっと無言である。
 そんな中で劉備だけは焦燥が足を逸らせ、知らず、馬の尻を叩いていた。
「長兄」
 後ろから、関羽だけが追いかけてきた。張飛は進まない軍の面倒を見るために残っているらしい。
「気持ちは分かりますが、一人で行かれても何も出来はしませぬ」
「そりゃそうかもしれないけども!」
 二人きりの気兼ねのなさが、劉備の口調を緩ませ、同時に苛立ちも噴出させた。
「あの男の――曹孟徳の言葉を気にしておいでか」
「……それと、ここへ来てようやく『嫌な予感』がお出ましになってきた」
「それは」
 だから、焦るのだ。
 師の身に何か起こっている。
「分かり申した。少しお待ちください」
 言って、関羽は馬の首をめぐらせて来た道を引き返していった。何だ、と思いつつも劉備はその場で待つことにした。
 今は一歩でも遠くへ。寸刻でも早く先へ。と逸るのだが、劉備の体にも疲労は圧し掛かっている。それは立ち止まるとじわじわと足元から這い寄る見えない影のようで、気を抜けば馬の背で寝てしまいそうになる。
「行きましょう、長兄」
 気付けば、関羽が隣へ戻ってきていた。
「行くって」
 どうやら一瞬ばかり意識が飛んでいたらしい。関羽が何を言っているのか理解できなかった。関羽が苦笑したのが視界に入っていたのは僅かの間で、次の瞬間には抱えられるようにして、劉備は関羽の馬の上に移っていた。
「雲長?」
 大の男二人が一頭の馬に乗っているのだ。狭いことこの上ない。背後に密着している関羽へ訝しんで尋ねる。
「疲れておられるのでしょう。少し寝るとよろしい。寝ている間に、拙者が運んで差し上げる」
 腕を伸ばして、背が空になった劉備の馬の手綱を引き寄せながら、関羽は説明した。
「だが、皆は……」
「翼徳と簡雍に託してきました。急がずとも、一度休んでから追いかけてくるように、と命じてあります。我らだけで先に行きましょう」
 関羽の足が馬の腹を締めたらしい。すでに息の合った愛馬となっている関羽の馬は、地面を蹴って駆け出した。手綱を繋いだ劉備の馬も、後を追うように走り出した。
「しかしお前は、俺だけで先に言っても、と」
「それでも、行きたいのでしょう」
「……」
 小さく、顎を引いた。雲長、すまん、と呟いた。
「俺は、やっぱり向いてないんじゃないか」
「何がです」
「長兄として、みんなを引っ張っていく役として、さ」
 どこか安心が生まれていた。焦った心が消えたわけではないのだが、背後にもたれても受け止めてくれる支えがあり、疑問や不安をぶつけても包み込む声がある。知らず、瞼にも疲労が忍び寄ってきたらしい。
 とろとろと瞼を落としながら、劉備は言う。
「我が侭ばっかり言ってる」
「ですが、その我が侭を拙者たちは叶えたい、と思ってしまうのですから、やはり長兄は相応しいのですぞ」
「そうか?」
「然様(さよう)」
「そういうもんか……」
 その後も、関羽が何か劉備へ向かって説くように話して聞かせてくれたのだが、睡魔に襲われていた劉備の耳には届かず、落ちるように眠りの淵へと身を投げた。


 長兄、と関羽の自分を起こす声と、鼻が嫌な臭いを嗅いでくん、と動いたのは同時だった。身を起こしかけて、馬上であることを思い出し、関羽が支えてくれたせいもあり、落馬は免れた。
 あれを、と劉備を支える腕を残し、関羽は馬を進める先を指さした。
 土煙を上げ、軍と呼ぶには小さい塊が、何かを守るようにして進んでいる。劉備の嗅覚が「あれだ」と警告していた。劉備たちへ向かうように進む小隊へ、馬から飛び降りた劉備は長い両手を振り回して止まるように願い出た。
 なんだなんだ、とばかりに迷惑そうに止まったのは、やはり官軍の兵のようで、守るようにされていた中心にある物は、囚人用の檻を乗せた荷車であった。
「なんだ貴様らは!」
 什長(じゅうちょう)らしき男が道を塞いだ劉備へ誰何の声を上げた。劉備はそれを無視して、荷車へ駆け寄り、檻の中を覗いた。
「先生!」
 予感どおりの人がそこに居て、分かっていたはずだが驚きのまま呼んだ。
「おお、玄徳ではないか。どうした、まだ潁川へは行っておらなんだか」
「もう行きました。向こうは片付いたので、先生の方が危ないのでは、と皇甫将軍らに言われ、戻ってくる途中です」
 檻の中で囚われていたのは、驚くべきことに劉備の師、盧植その人であった。劉備の呼びかけに立ち上がり、檻の柵の近くまで寄ってきた。
「それよりも、これはどういうことですか。どうして先生が捕まっているのですか」
 劉備の後ろでは、什長が「囚人に近付くな!」と怒鳴っているが、関羽が取り成している。周りの兵たちははっきりと命令が下らないせいか、動かなかった。
「いやな、わしの張角めを追い詰めるやり方が手緩い、と思われたらしい。左豊(さよう)という宦官がわしの働きぶりを視察に訪れた」
 囚われている、とは思えないほど、盧植は堂々と、それこそ昔教鞭を振るっていたときと同じように、儒学を説くかのような口調で説明を始めた。
「わしは戦の状況をこと細かく説明し、いま現在、このような状況で、恐らくあとこの位で張角を捕らえられるでしょう、と申し上げた。ところがだ、左豊殿はまったく身を入れて聞いてくれず、さてこれは、と察するところがあったものの、無視を決め込んだ」
 お互いに、分かっていながら口に出さない、我慢比べのような日が数日ほど続き、結局痺れを切らしたのは左豊のほうだった。
『降格だぞ』
 男根を切除されたがために、妙に甲高い声となっている左豊は、ついにそう切り出した。
『はて、なんの話ですか』
『金だ。あるのであろう? 中郎将ともなり、その前は金を取って門下生を多数抱えていたそうじゃないか。それを私に寄越さねば、そちを職務怠慢として都に報告し、降格してもらうぞ』
 そこで盧植は体を揺すって大笑いするものだから、檻はもちろん、乗せている荷車までぎしぎしと大きく揺れた。
「笑えないか、玄徳よ。このわしに、あの宦官めは賄賂を堂々と要求したのだぞ? いや、まったく笑える話だ」
 その先が、劉備には容易く想像がつく。
 恐らく、腹の底から出した大音声で、この師は宦官へ吼えたのだ。
『馬鹿者がー!!』と。
 劉備が初めて師に好感を抱いたのは、とある官吏が教鞭を執っている盧植の下へやって来て、左豊のように賄賂を要求したときの態度を目にしたときからだ。その時も、官吏は左豊と同じことを考えたのだろう。
 ここで門下生を招いて学び舎を開くには、許可が必要である。許可には幾ら幾らかかる、と劉備たち門下生たちが居る前でせびったのだ。そこで、盧植は一喝だ。
『貴様らにやる金など一欠けらもあるものか! 真摯に勉学を修めに来ておる若者の前でつまらんことを申すな!』
 そのときも、屋敷中が震えるような大声だった。耳が痛くなるのと同時に、痛快でもあった。何せあまりの盧植の大声に、官吏はその場で気を失ったのだ。しばらく、門下生の中で語り草となったものだ。
 その時の官吏は、のちにどこかへ左遷させられた、と聞いた。地方の官吏が盧植の権威に勝てるはずがない。だが、今回は相手が悪かったらしい。
「では、先生は」
「どうやらふざけた話だが、陛下の命に背き、賊の討伐を怠っていた、ということで投獄らしい」
「そんなふざけた話がありますか! 先生は誰よりも果敢に黄巾賊を討伐し、役目を果たされていたでしょう!」
 理不尽さに、怒りがふつふつと湧き上がる。
「だから言ったであろう。ふざけた話だ、と」
「先生は大人しく捕まったのですか」
「仕方あるまい。向こうは陛下の名を出してきたのだ。従わなければそれこそ逆賊だ」
「しかし!」
「そう悲観するものでもない。洛陽へ行き、陛下に直接申し立てることが出来たのならば、濡れ衣は晴れるであろう」
「そのような楽観的なこと……」
 先生らしくない、と柵を握り締めながら首を横へ振った。賄賂を求める官吏の存在で、朝廷の腐敗を嘆いていたのは他でもない、盧植自身だ。被った罪を覆してくれるような耳を帝が持っているのなら、この世の中はかように荒れはしなかったはずだ。
 それを口が酸っぱくなるほど説いていたのも、盧植だった。
「先生、そこから少し離れてください。私が、いまこの牢を破って先生を」
 腰に佩いている二本の剣を抜こうと、手をかけた。さすがに周りの兵たちが慌てて駆け寄ろうとし、関羽に阻まれている什長が「止めさせろ!」と声を上げようとした瞬間だった。
「馬鹿者がーーー!!」
 わんわんと、大地すら揺れたのではないか、と思うほどの怒声が辺りに響き渡った。
「――!」
 抜きかけた剣を取り落とし、劉備はヨロヨロと後ずさった。目の前で、盧植の声を受けたのだ。耳の奥が痛くて何も聞こえない。どん、と背中が何かにぶつかった。振り返れば、関羽が険しい顔で劉備を見下ろしている。
「……りま……ん、……けい」
 まだ耳が痛くて聞き取れない。え、と聞き返すのだが、関羽は劉備の腕を取り、落とした剣を拾い上げた。
「なりません、長兄」
 今度は何とか聞こえた。
 どうしてだ、と言う。どうして止める、雲長、と叫んだ。
「先生もです! このまま連れて行かれれば、もう!」
「馬鹿者が」
 今度は、低く押し殺したような声だった。劉備の背後に立つ関羽へ、盧植は言う。
「関羽、玄徳を連れて行ってくれ」
「承知」
「おい、雲長、何を言っている! 先生を助けるんだ、離せ!」
「長兄、ここでそのような真似をしたら捕まります。貴方はこれからのお人。まず我が身のことを考えてくだされ」
「ふざけるなよ、雲長。離せ、と俺は言った。俺が言ったら離せ。それが弟のお前がすることだ」
 低く、唸るように命じる。怒りと焦りで自分の口走っている意味の半分も分かっていない。困ったらしく、関羽が長兄、と呼び、掴んでいる手の力を緩めた。
「玄徳……」
 頭に、大きな温かいものが乗った。
「やめぬか、玄徳。よい、もうよい。弟を困らせるな」
 すぅ、と驚くほどあっさりと怒りがその温かいものに吸い取られた。劉備の頭をそっと撫でた盧植は、微笑んでいた。
「礼を言うぞ、玄徳。あの不出来な弟子(こども)が、師(おや)のために己の身も省みずに助けようとする儒の心を持った男に育ったこと、誇りだぞ。もうそれだけで十分だ」
「盧先生……」
「玄徳を、頼んだぞ、関羽」
 頷く気配が背中から伝わった。緩んだ力が戻り、荷物のように劉備の体は関羽の肩に担ぎ上げられた。盧植の手が、頭から離れる。途端に、怒りと焦燥が舞い戻ってきた。
「雲長! 雲長!! 駄目だ、戻れ!」
 手足を振り、肩の上で暴れるが、桑の根っこのように絡みついた腕は外れそうにない。遠くなる師の姿に、劉備は叫ぶ。
「先生ーー!!」
 だがもう、「玄徳」と答える声も、「阿備よ」とからかう声も、劉備の耳に届くことはなかった――


 無言で二人は、盧植を運んでいく小隊を見送っていた。関羽の手は劉備の腕を掴んで未だに離さないでいる。用心深い、と言えばそうだが、正しい、といえばその通りだ。
 劉備はまだ諦めきれず、盧植が消えた方角を睨んでいた。
「長兄、この先に小さな町があります。翼徳たちも恐らくそこを通るはず。合流しましょう」
「……」
 平静な、いつも通りの関羽の声に怒りが湧く。苛立って、抑えきれずに、掴まれていない腕を振り上げて、頬を叩いた。鋭い音が響く。睨み付けた。まるで関羽の顔にこそ、盧植が囚われており、関羽こそが捕らえた張本人であるかのように、恨みがましくねめつけた。
「どうして、どうして止めた。俺は離せ、と言ったはずだ。先生を助ける機会をみすみす逃(のが)した。お前のせいだ。お前のせいだ、雲長!」
 叩いた頬が、じんわり、と赤味を帯びていった。元からの赤ら顔のせいでさほど目立ちはしないが、叩いた強さを十分に物語っている。
「盧先生は、俺にとって大事な人だった! その人を目の前で、見捨てたんだ! お前が止めて台無しにした!」
 肩口を、拳で叩いた。鍛え上げられた体躯は、拳を使っても揺るがないが、同じ場所を何度も何度も殴りつけた。
「お前は何だ! 俺の弟だろう! 俺の我が侭を叶えたいのだろう!! ならどうして邪魔をした!!」
 叩いていた拳を、空いた手で止めることも出来るだろうに、関羽は劉備に殴られるままだ。怒りと、叫びながら殴ることで、忘れていた疲労も滲み出て、劉備は息を切らして、ずるずるとその場にしゃがみ込む。
「少し、休みましょう、長兄」
 抱えられる。今度は荷物のようにではなく、横抱きだ。労わるように扱う関羽の腕が憎らしくて、己の大事な人が守れなかった非力さに腸が煮えくり返る。
 怒りと悲しみで胸がはち切れそうだった。
 叫んだ。獣のように叫んでいる間、関羽は身じろぎ一つせず、劉備を抱えたまま立っていた。



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