「玉磨かざれば 光なし 2」
関羽×劉備



   * * *

 劉備が盧子幹――盧植(ろしょく)の下へ駆けつけたことを告げると、わざわざ向こうから出迎えてくれた。
 大柄で堂々とした立ち振る舞いは、教鞭を執っている姿よりも、こうして戦装束を身に纏(まと)っているほうが様になる。
「……おお! おお、おお!! 本当に阿備(あび)がやってきたのか!!」
「盧先生、お久しぶりです」
 相変わらずの大鐘が割れたような大音声で、劉備は歓迎を受けた。うるせえ爺さんだ、と自分の声の大きさは棚に上げて、張飛が後ろで文句を付けて、関羽に叱られている。
「なんだなんだ阿備よ、ますます大きくなったではないか、耳が」
「耳だけではないですよ。それにもう阿備は……」
 困って笑う。
 闊達で気さくで、見た目に反しての軽口の多さなども相変わらずだ。
 門下生として、劉備はまったく褒められた生徒ではなかった。まともに教授を受けたのは何回だろうか。小さな自分の村から、初めて大きな町へ来たことで浮かれていたせいもあり、世の中の広さに胸を躍らせていた。
 まだようやく字(あざな)を与えられたばかりの少年だ。そのような有様で、いくら大儒者と呼ばれていた盧植の教えだろうと、身を入れて聞いていられるはずもない。勉学の時間であろうとも関係なく、そこで知り合った男伊達(おとこだて)たちと遊びに耽(ふけ)ってばかりいた。
 当然、盧植には叱られることも多く、そのときに良く字ではなく『阿備』と幼名を呼ばれていたのだ。
「わしにとっては、阿備は阿備であるが。と言いたいところだが、なるほど。義勇軍を立ち上げたのか」
 目を細めて、劉備の後ろに立つ関羽や張飛、麾下の面々を眺めて細く伸びた鬚を扱いた。そうかそうか、と頷く口元は綻んでいる。
「立ち話もなんだ。ここまで随分急いで来てくれたようであるし、少々休んで行け。玄徳、さすがにわしの話に付き合うぐらいには落ち着いてくれたのであろう?」
 茶目っ気を含んだ物言いに、劉備は「敵わないな」と肩をすぼめて、小さく笑う。
「ええ、もちろんですよ、先生」
「あの兄者が大人しいなんて、この爺さんすげえな」
「こら、翼徳」
 また、後ろで関羽が張飛を叱っている。
 盧植が率いる軍は、黄巾賊の頭首、張角の率いる軍と対峙していた。幕舎に、義弟たち二人とともに招かれた劉備は、勧められるままに胡床(こしょう)に腰を下ろし、状況を尋ねた。
「それでは、特に今すぐ戦況は動かないわけですか」
「そうだ。少なくとも、お前に心配される事態にはなっておらんぞ?」
「いえ、先生の手腕を疑って訪ねたわけではありませんから」
「ほお、では昔日の己の不真面目さを謝りに来たのか。それは殊勝なことだ」
「先生、あまり苛めないでください。弟たちに示しがつきません。兄の権威を失墜させてしまったら何としますか」
 はっはっはっ、これはすまん、と大きな声で笑いながら、体を揺らす。
「いやいやだがな。まあ大丈夫であろう? お前のそういういい加減なところも心得ていて、玄徳と義兄弟になってくれたのだろう、案ずるな」
「そうそう。兄者は緩いからさあ。それにあんまり強くないくせに、すぐに一番危ないところへ飛び出そうとするし。目が離せないんだよな」
 翼徳、と何度目かも分からない誡めを関羽が口にするが、盧植の楽しそうな笑い声に誘われて、ぼそり、と言う。
「人に、放っておけない、という気持ちにさせるのは確かだ」
「雲長まで何を」
 振り返り、軽く睨むと、関羽は目を瞑って視線から逃げた。
「変わらぬな、玄徳よ。背も高くなり、顔もすっかり大人びたというに、中身だけはあの頃のままだ」
 盧植の言葉に、まだからかうのか、と視線を戻せば、存外真剣な顔付きの師が居て、文句を付けるはずの舌が止まった。
「弱きを助け、強きを挫く。お前が侠の精神に惹かれた理由はともかくとして、若年であるお前があの界隈で早々と中心に据えられるほど、人心を把握する魅力を備えていたことは確かだ」
 お前の兄弟子の伯珪(はくけい)(公孫?(こうそんさん)の字(あざな))も含めな、と師は微かに笑う。
「度々、侠者に囲まれている玄徳を見ては、この男(こ)はいつかわしの前に立派な姿となり現れるのではないか、という予感があった。わしの眼はどうやら曇ってはおらなんだ、といま実感しておるわ」
「……先生」
 あまり良い生徒ではなかった。師から教わったことなどあまり無かった。どちらかといえば、小言ばかりが記憶に残っているが、劉備は盧植を慕っていた。
 最後、遊んでばかりいた劉備に呆れた従父が、学費を打ち切る、と言い渡し、門下を離れなくてはならなくなった時、挨拶をしに行った。
『そうか、それは残念だ』
 沈痛そうに眉根を寄せた盧植に、劉備は意外な念を抱いて訊いた。
『どうしてです、先生。俺はあんまり良い生徒じゃなかったでしょう。別に先生にとって居ても居なくても変わらないですよ』
『馬鹿者が!』
 怒鳴られた。あの大声で、真正面からだ。耳の奥から脳天まで衝撃が突き抜けて、劉備はぐらぐらと眩暈を起こした。
『一度、わしの弟子となった者であるぞ。優劣などあるか。ましてやお前は手のかかる弟子だった。何度叱っても己の行いを改めようとしない頑固者だ。だが、玄徳が金持ちのいけ好かん役人から金を盗み出し、貧しい者たちへ分け与えたことも、商人を困らせていた山賊を退治したことも、胸がすいた。教授する側から見れば間違いなく不出来な弟子であるが、父としては誇れる子を持った、と思っている』
 大きな手が、優しく頭を撫でた。
 教師とは師父である。生徒とは弟子である。
 盧植と劉備は父子である、とその時の師は言い切ったのだ。
 劉備は物心つくかつかないかの頃に父親の劉弘(りゅうこう)を亡くしている。父親、という存在を意識したことはないが、この人が父さんだと嬉しいな、と思えた。
 矜持が高く、器量も頭も良い兄弟子、公孫?が、盧植のことだけは手放しで慕っていた。だからこそ劉備も嫌ってなどいなかったが、この日、この時に、ようやくこの人の下で、もっときちんと筆を握っていれば良かった、と後悔した。
「太平道(たいへいどう)、という民の幸せを願うような道を示しながらも、事実やっていることは苦しんでいる民と民を戦わせているだけ。このような張角の行いに、玄徳ならば動き出すであろう、と思うておった」
 腕が伸びた。
 頭をそっと撫でられた。
 童子ではないのですから、と払うには、その大きな手は温かい。
「よう来たな、玄徳」
 はい、と答える声が震えそうになり、劉備は照れ臭くなって笑った。


 劉備たちは慌ただしく出立の準備を始めていた。簡雍などは「えー、着いたばっかりじゃん」とぶつぶつ文句を付けているが、一応手は動いている。
 結局、一晩休んだところで、盧植が「申し訳ないが」と切り出したのは、潁川(えいせん)へ行ってくれないか、という依頼だった。
「わしのほうは膠着しておるし、持久戦ともなればこちらに分がある。それよりは、潁川にいる張角の弟たちと対峙しておる皇甫(こうほ)(嵩(すう))将軍と朱(しゅ)(儁(しゅん))将軍が心配じゃ。お二方とも有能ではあるが、相手は怪しげな術も使う。万が一のことがあり破れれば、張梁(ちょうりょう)、張宝(ちょうほう)はこちらに合流してくるであろう。そうなればさすがに持ち堪えられん。どうか助力してやってくれ」
 師の直々の頼みだ。断る理由があるはずもなく、二つ返事で引き受けた。
「……雲長はどうした」
 荷造りなどあっという間だ。出立する、という段階になり、劉備は二弟の姿がないことに気付く。張飛は「さあ?」と首を傾げたが、簡雍がすかさず答えた。
「なんか、さっきお師匠様に声を掛けられてたぜ」
「先生に? 雲長に何の用なんだ」
「さあ、そこまでは分からねえけど」
 と、言っている間に、関羽は盧植とともに現れた。
「先生、雲長がどうかしましたか」
「いや、この歳でこのような髯を生やしている者などそうはおらんだろう? 少々眺めさせてもらっていた」
 はっはっ、と大笑する師の横で、弟はしかし晴れやかな顔で佇んでいる。盧植の気さくに、関羽も絆されたのだろう。劉備の好いた師を、弟も好いてくれたことが嬉しかった。
「では、玄徳、頼んだぞ」
「はい、お任せください」
 拱手してみせると、あの阿備が、とからかう言葉を口にするので、やめてください、と劉備は何度目かも分からない文句を付ける羽目になった。


 昼夜、ほとんど休まず行軍したおかげで、潁川には予定よりだいぶ早めに着いたのだが、斥候代わりに先へ行かせた簡雍が、首を振り振り戻ってきた。
「あー、もう俺たちの出番、なさそうだぜ?」
 どういうことだ、と聞き返す前に、張飛が鼻を鳴らした。
「焦げ臭ぇな」
「火攻めをした後、でしょうか」
 関羽も言う。
 そういうことだ、と簡雍が指差したほうへ目を転じれば、白い煙が幾本も筋になって空へ登っていた。
 戦が終結していたとはいえ、このまま帰っては子どもの使いである。劉備は盧植から借り受けた兵を連れながら、簡雍の案内のまま、官軍が集まる野営地へ向かった。
「幽州よりの義勇の士、劉玄徳が率いる友軍が、盧中郎将の願いで馳せ参じた。こちらの軍の指揮官殿に会わせてはくれないか」
 劉備が声を張ると、近くに居た兵士が急ぎ足で野営地の奥へと消えた。しばらく待っていると、赤い戦袍を身に纏った男が馬に乗り脇を通り過ぎようとした。だが、何か気になったのか、手綱を引いて足を止めた。
 しげ、と遠慮を知らない眼差しが馬上から劉備へ向けて降り注いだものだから、関羽が立ちはだかるように偃月刀を劉備とその男の前に翳(かざ)し、張飛は「なんだよ」と凄んだ。
 途端、「ああ」と自らの非礼に気付いたのか、身軽な様子で馬から降りた。降りて分かったが、男は随分と小柄だ。馬上の人であるうちは、胸を張った様からそうは感じなかった。今も、小柄ではあるが強い意志の灯った両眼が劉備を見上げており、小ささはあまり覚えない。
「私は、曹孟徳と申す。騎都尉(きとい)である」
 短いが礼を損なわない誠意が籠められている。軍礼した姿も洗練されていた。
「幽州?(たく)郡(ぐん)、劉玄徳と申します。義勇軍の長をしております」
「ああ、幽州では義勇の士を募った、と聞いている。では君はその中の一人であるのか」
「はい。微力ながらも朝廷の力に、と思いまして、討伐の戦をしています」
 なぜだろうか。昔から外れたことのない、肝(はら)の底が熱くなるような感覚をこの男から感じた。
 たとえば、関羽と張飛と初めて出会ったときも、こんな感じだった。
 長く付き合えるような、きっと心許しあえる仲間(とも)となろう、と確信めいたものだった。
 その感覚に非常に良く似ているのだが、もう一つ、首筋の後ろをざわざわと無遠慮に撫で回されるような不快な感覚も同時に感じていた。
 この男とは気が合わない。恐らく一生をともにしようとも、分かり合えることはないだろう、と思える何かがある。
「そうか。しかし無駄足であったな。梁、宝の兄弟はすでに逃げ、この辺りの賊は討伐済みだ」
「そうでしたか。ですが盧中郎将から直々に頼まれた身。おいそれと引き返すわけには参りませぬゆえ」
「中郎将殿から? ……君は、どのような関係だ」
「昔、師事しておりました」
「なるほど。だが、それならばなおのこと。このようなところへおらん方が良いと思うがな」
「それはどういった……」
 聞き返そうとしたときに、野営地の奥へ向かった兵が戻ってきた。
「劉玄徳殿、皇甫将軍がお呼びである」
「それでは、玄徳殿」
 話を切り上げ、男は再び馬上の人となった。今の言葉の意味を確かめようと劉備は急いで声を掛けた。
「曹騎都尉!」
「お互い、朝廷に歯向かう逆賊を討ち果たすため、尽力しようではないか」
 だが男は激励をし、今度こそ劉備の脇を駆け抜けていった。
 案内の兵に促されて、後ろ姿を見送ることも出来ないまま、劉備は歩き出す。
「どう思う、雲長」
「……それはあの男の言葉の意味ですか、それとも男自身について」
「両方だ」
 義兄弟の契りを結んだときより、当然、言の重さは長兄である劉備に比重がある。だが、その前までは劉備にとっての相談相手は関羽だった。劉備と違い、関羽は学ぶことに対しては熱心で、知識も豊富だ。今よりも若い頃から各地を放浪していたらしく、経験も積んでいる。
 兄弟の順列についても、一度は揉めたのだ。年齢的なことを言えば、劉備が長兄で良いのかもしれないが、年齢に相応しくないほどの風貌と落ち着きを備えた関羽のほうが、この先何かと箔が付く。そう思い、劉備はお前が長兄だ、と勧めたのだ。
 ところが、関羽は固辞した。
『玄徳が長兄で良い』
『なんでだよ』
『人の上に立つべき器を持つ人間がなるべきであろう?』
『お前は違うのか』
『俺よりも、玄徳が相応しい、というだけに過ぎない』
『俺が人の上にか?』
『誰もが、自分の中の器は見えぬものだ』
 言い切り、そのまま関羽は強引に話を進めてしまった。
 そのような経緯があり、劉備が長兄として立ったものの、関羽との関係性が大きく変わったわけでない。相変わらず、劉備が迷ったとき、悩んだときの相談相手は関羽であった。
「言葉の意味は分かりかねますな。恐らくあの男しか知らない、盧中郎将の何かを知っているのでしょう。長兄こそ、何も感じぬのですか」
「今のところは」
 人と相対したときに覚える気が合う合わないの勘もだが、己の身に降りかかる災厄なども、本能的に嗅ぎ分けられるのが、劉備の特性だ。おかげで、戦に対する退(ひ)き際を見誤ったことはない。
「そうですか。しかしあの男がでたらめなことを吹聴するとも思えませなんだ。長兄とはまったく違った器の形が見えました」
「大きいのか」
「大きかったですな」
 今は騎都尉(騎兵隊長)に留まっているが、出世する、ということだろうか。
「劉玄徳殿を連れて参りました」
 案内の兵士が一際大きな幕舎へ声をかける。中から許可が下りた。関羽と張飛とともに劉備は幕内へ入る。
「この軍を預かっておる皇甫嵩だ。こちらは朱将軍」
 幕内には指揮官らしき男が二人と、いく人かの配下がいた。皇甫嵩と名乗った男が、脇のもう一人の指揮官を紹介すると、朱儁だ、と短く答えた。どちらも先ほどの曹騎都尉と比べて格段に高位であることが分かる。
 だが、ただの義勇軍である劉備に対してあからさまに見下した態度を取ることもなかった。おそらくは盧植の名が効いているのだろうが、まだ気骨のある士が朝廷にも残っている、ということだ。
「姓は劉、名は備、と申します。広宗におられる盧中郎将から、将軍たちの様子をお伺いしてこい、と命じられました。また、仮に助力できることがあれば、惜しむな、とも命じられております」
「そうか、それは足労であった。盧植殿もご自分のことだけでなく、我々のことまで気にかけておられたとは」
 盧植に対する敬意が、皇甫嵩の口調に滲んでいて、劉備は、やはり、盧先生は好かれている、と嬉しくなる。
「しかし、こうしてお前たちが参じてくれたのだが、生憎と無駄足であった。つい先ほど、梁、宝の兄弟率いる軍を壊滅させたばかりだ」
 朱儁が言った。やはりか、と劉備はここまで急いで進軍した疲労が、ぐん、と足元に溜まったような気がした。
「時に、赤い戦袍を纏った小柄な男を見なかったか」
「はい、先ほどこの陣営に入ったところで。曹孟徳、と名乗っておりましたが」
 皇甫嵩の質問に、劉備は答える。
「ああ、やはりもう進軍してしまったのか。せっかちな男だ」
「遊軍である、という意識が強いのでしょう。我々と足並みを揃える気がまったくありませんな」
 嘆く皇甫嵩に、朱儁が苦虫を噛み潰したような顔で言う。
「曹騎都尉は何を?」
「我らが火攻めにて追い詰めた張兄弟の退路にどこからともなく現れて、殲滅させたのだ」
「巧い汁だけ吸いに来ただけでしょう」
 朱儁の説明に、配下の一人が不服そうに言葉を添えた。
「敗走する張兄弟を追おうとしているところだが、騎都尉は先に行く、と言って聞かなかったが。……本当に行ってしまうとは」
 困った男だ、と皇甫嵩は首を振る。
「では我ら義勇軍も張兄弟の後を追う役目を」
 言い出すが、皇甫嵩がいや、と止めた。
「お前たちには盧植殿の下へ戻ってもらいたい」
 えー、と思わず張飛が不満そうな声を上げたのを、関羽が小突いて黙らせる。
「恐らく、張兄弟は兄である張角のところへ逃げ込むはずだ。そうなれば、盧植殿の広宗が危うくなるやもしれぬ。我々は大軍だ。進軍し、後を追うにも時間がかかる。身軽なお前たちのほうが早く着けるはずだろう」
「分かりました。今すぐに広宗へ戻ります」
「うむ、頼んだぞ」
 拱手し、劉備は幕舎を後にした。
「まさか再び戻ることになるとは」
 さすがに関羽もうんざりした口調を隠そうとしない。劉備も気持ちは同じだが、相手は盧植だ。師の身が心配で、戻る手間は惜しみたくなかった。
 野営地の外で座り込んでいる皆を立たせるときには、相応の文句を浴びることを覚悟しつつも、劉備は足を早めていた。



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