「玉磨かざれば 光なし 1」
関羽×劉備


 喊声(かんせい)が辺りを轟かせ、黄色の布を巻いた男たちを怯ませる。だが敵方も怯えを見せたのはほんの僅かだ。同じく威嚇の声を張り上げ、対抗した。
 劉備が右手に構えた剣先を頭上へと掲げ、後ろへ続く仲間たちへ「もっと声を上げろ」と指示を出す。その先で、同じように鄒靖(すうせい)も指揮棒を振りかざして兵たちを鼓舞させた。
 大地を揺るがすほどの喊声を響かせながら、鄒靖と劉備が率いる軍は、黄巾(こうきん)を巻く男たちへ突撃していった。
 切り結んだのは一瞬だ。劉備の舞うように凪ぐ二本の剣は、あっさりと肉を斬り裂く。どう、と倒れたときには、すでに次の敵へと駆けている。決して華やかな容姿をしているわけではないが、土煙と血溜まりの中で煌めく二本の剣筋は美しく、感嘆を招く。
 周りを固める男たちの腕が格段に劣るわけではないのだが、劉備の流れるような動きに付いていける者はなく、深く斬り込む軍長は一人だ。だが、それを案じている様子もまたなく、彼の腕を信頼しているのか、それぞれ目の前の敵を倒すことに集中していた。
 相変わらず良い腕よ、と鄒靖は感心した。うっかり見惚(みほ)れている自分に気付き、義勇軍に負けてはいられぬ、と剣を握りなおし、手近な敵を斬って捨てた。
 だいぶ、兵たちの意気が劉備たちに集中し、不揃いな武具に身を包んだ義勇軍と、官軍であるがために整った出で立ちの鄒靖たちの軍勢に、黄色い布を巻いた男たち――黄巾賊と呼ばれる兵たちが入り混じり始めた。
 そろそろ頃合か、と鄒靖が思った瞬間、
「鄒靖殿、合図を」
 いつの間に傍へ参じていたのか、頬に飛び散った血、恐らく自分のものでない返り血を乱暴に手のひらで拭った劉備が、促した。
「分かっている」
 驚きを隠すために思わずぶっきら棒に返すが、劉備は気に留めなかったらしい。再び右手の剣を頭上へ掲げた。すでに幾人もの血を浴びたはずの刀身は、どこかで拭ったのだろうか。未だに輝きを失わず、陽光の中で煌めいた。
『退却ー!』
 鄒靖と劉備の声が揃う。
 心得た二人の麾下たちが、切り結んでいた敵を倒すと、朝もやが晴れるがごとく、さあっとその場から退いていく。黄巾賊たちは、突如退却を始めた敵軍に、一瞬呆然としたが、指揮を執る男の声が上がるや否や、我に返った。
「逃がすな、追えー!」
 背を向けて退(しりぞ)く劉備たちを、良い標的だ、と勘違いしたのだろうか。嬉々とした表情すら浮かべて追ってくる。
 すぐに追いつかれ、背中から斬られる者も出てくるが、振り返り応戦しつつも、逃げていく態勢は崩れない。時に立ち止まり、黄巾賊の勢いを留めようとするが、長く続けず、すぐにまた退却していく。
 軍の半ばで全体を見渡していた鄒靖は、劉備の姿を視界の片隅で追う。途中までは隣に居たはずが、また気付けば姿を消していた。
 あの男、どこに居る。無事か。
「――!」
 居た。
 信じられないことに、殿(しんがり)だ。舌打ちする。
 自分が軍長であり、要(かなめ)であること、理解しているのか。
 先日、初めて組まされるまでは見も知らぬ他人であったはずの男を、鄒靖は思わず案じていた。
 黄巾賊たちの攻勢を受け流しては逃げ、と上手く立ち回ってはいるが、危険なことこの上ない。あのような自分の身を危険に晒すことをしている、と劉備の弟たちが知れば、責められるのはわしだぞ、と強面の男二人の顔を思い出し、ぶるり、と震えた。
 だが鉦を鳴らすのはまだ早い。
 じりじりとした気持ちで両軍が目的の場所まで辿り着くのを待つ。
 開けた山野で衝突していたが、鄒靖たちが後退していくにつれ、左右を山に挟まれた狭い道へと地形は変化していた。
 ようやく到達したときには、安堵のあまり必要以上に大声で命じていた。
「鉦を鳴らせー!!」
 鉦役が決められた合図に従い、長く三回、鉦を響かせた。
 じゃーーん。じゃーーん。じゃーーん。
 右の山から、旗が現れる。
 うおぉおおーー!
 まるで長い間、檻の中にでも閉じ込められていた獣が野に解き放たれたかのような咆哮を響かせて、髯も這え揃わないが体躯だけは一人前の大男が、蛇のようにうねった矛を掲げて飛び出した。その後ろには、戟を構えた兵たちが五百人ほど従っている。
 伏兵の存在に、追ってきたはずの黄巾賊は一気に浮き足立つ。それでも幾らかは迎撃態勢を整えようと、大男のほうへ向き直ったが、そこへ今度は左の山から旗が現れた。
「劉玄徳が義弟にして、二弟。関雲長、参る!」
 初めに現れた男と比較しても劣らない巨躯を晒しながらも、目を惹くのはたっぷりと蓄えられた頬髯だ。堂々たる名乗りと、振り回された偃月刀の風圧で、髯は靡(なび)く。やはりその後ろには五百ほどの兵を従えている。
 どちらも旗印は『劉』だ。
「同じく、燕人(えんひと)張飛とは、俺様のことだー!」
 遅れて、右の山から飛び出した男も吼えながら名乗る。
 挟撃に遭った黄巾賊の命運は、この瞬間に潰えたのだった。


 官軍の快勝に、鄒靖と劉備率いる義勇軍とともに城を守りきった青州(せいしゅう)太守(たいしゅ)も胸を撫で下ろして安堵している。
 大将らしからぬ綱渡りを見せて、肝を冷やされたものの、労いの言葉をかけようと劉備へ歩みよる。劉備は義兄弟の契りを結んだ、と紹介した二人の豪傑に囲まれていた。
「長兄、貴方はどうしてあのような真似をなさる」
「おめぇはあんまり強くねえんだから、やめろってえーの!」
 案の定、殿(しんがり)を務めていたことを、弟二人から責められていた。劉備自身、決して小柄なほうではないのだが、大男二人に挟まれていると小さく見えた。だが、萎縮した様子もなく、むしろ「うるさいなあ」と言わんばかりに人より大きな耳たぶを撫でて不貞腐れていた。
「劉備殿、わしもあれは少々いかん、と思うが」
 労うつもりが、あの冷えた肝の感覚を思い出してしまい、弟二人の味方をするようなことを口にした。
「鄒靖殿までですか。あー、やだやだ。俺の味方はどっこにも居ないんだー」
 普段は「私」で通している自称が、腹が立ったのか面倒くさくなったのか、これが男の素なのか、ざっくばらんな口調で長い腕を振り回して叫んだ。
「大将って自覚、こいつにねえからな」
 脇から口を挟んできたのは、同村出身だ、という簡雍(かんよう)とかいう男だ。あぁん、と劉備に睨まれて、へらへら笑いながら「おっかねえおっかねえ」とまったく怖がっている様子もなく、後片付けに走っていった。
 はあ、と二弟に当たる関羽が、大仰なため息を吐いた。鄒靖から見ても惚れ惚れするほどの長髯を撫で付けながら、厳(いか)めしい顔をさらに険しくさせて言う。
「良いか、長兄。貴方は軍長なのだ。長が皆の手本たらしめることは大事であるが、時と場合による。貴方の代わりなどないのだ。そのこと、肝に銘じてもらわんと困る」
「それは分かってるけども」
「分かっているなら、どうしてあのような真似をした」
「だって、あそこが一番重要な場面だろ? だから俺が行った。それだけだ」
『……』
 関羽は押し黙り、鄒靖も今度は口添えできない。劉備の言うことが正しいからだ。考えて殿(しんがり)へ向かったのか、戦に対する嗅覚が鋭いのか良く分からないが、こういう男は殺そうとしてもそう簡単に死にそうにもないな、とだけ思った。
「だけどよー、それで玄徳の兄者が死んじまったら、俺たちの誓いはどうなるんだよ」
 反論は三弟、張飛から上がった。同じ年頃に見える劉備と関羽とは違い、強面ながらもヒゲすら整わない少年のような顔をした男は、拗ねたような口調で訴えた。
「俺たち、この国を住みやすいところにするまで、ずっと三人で生きていくって誓ったんだろう。弱いおめぇが気張ってくれねぇと、誓いが守れねえだろうが」
 誓わされたんです、と劉備が出陣前に漏らしていた。
 雲長と翼徳に、と義弟二人の字(あざな)を口にして、劉備は可笑しそうに説明した。
『我ら、生まれたときは違えども、願うは、死するときは同年同月同日であることを。この誓い、世が糾されんそのときまで、破られんことを』
 だったかな、とすでに危うい口調ながらも、誓いの内容を口ずさんだ。
『だから私は、そう簡単に死ねないのですよ』
 と微笑んだ顔を鄒靖は思い出していた。
「……悪かった。気を付ける」
 張飛の言葉には自省を促すものを感じたらしく、劉備は素直に謝った。
 やれやれ、と関羽も険しかった眉間の皺を解いて、微かに笑う。
 なるほど、この三兄弟はこういう具合で上手くまとまっているのだな、と鄒靖は納得する。一段落ついたところで、鄒靖は今度こそ労いの言葉をかけようとしたが、それよりも早く簡雍が駆けてきた。
「おい、玄徳玄徳。さっきそこで太守様が受けてた報告小耳に挟んだんだけどよ、盧(ろ)中郎将(ちゅうろうしょう)の盧氏って、お前のお師匠さんじゃねえのか」
 またお前は人様の話を勝手に、と叱る関羽の言葉など、簡雍は右の耳から左の耳へ華麗に流し、鄒靖に尋ねた。
「将軍様、ご存知かい?」
「……お、おお。盧中郎将であるか? 広宗(こうそう)で一軍を任されているお方であるなら、盧子幹(ろしかん)殿のことであろうな」
 男の気安い口調につられ、鄒靖は答える。どうだ、と簡雍は劉備を見やる。劉備は頷いた。
「間違いない、盧先生だ。そうか、広宗で指揮を執っているのか」
「劉備殿の師であると?」
「そうです。もう十年ほど前になります。従父(じゅうふ)の厚意で盧先生に師事する機会がありまして、だいぶ世話になったのです」
「全然勉強せずに、遊び惚(ほう)けていたから、迷惑かけっぱなしで世話になったってことだろう?」
 憲和(けんわ)、と簡雍の字(あざな)を呼びつけ、後ろ頭をはたいた劉備は、鄒靖へ言った。
「師のことが少々気にかかります。太守殿の城も無事守りきることが出来たようですし、我らは広宗へ向かいたいと思います」
「そ、そうか。急な話だが、そうだな、命(めい)は果たしている」
 そもそも鄒靖が劉備と青州の太守の領地へ友軍として駆けつけたのは、幽州(ゆうしゅう)太守からの命令あってのことだ。その後は特に決まっていない上に、鄒靖に劉備率いる義勇軍の進退を制限できる権限は持ち合わせていなかった。
「では、我らはこれで」
 拱手した劉備は、義弟たちや簡雍、周りの配下たちへ声をかける。すぐに支度しろ、広宗へ向かう、との促しに、応(おう)、と返す声は明るい。劉備が皆に慕われている証拠だろう。
 かく言う自分さえも、そうか、もう行くのか、と寂しさを覚えてしまう。
 ほんの僅かの付き合いで、すでに劉備という男が気に入っていたことに気付き、鄒靖は自分自身に驚く。
 不思議な男だ、と人影に紛れていく男の背中を見送りながら、呟いた。



目次 次へ