「天下の 蒼天航路 関羽×劉備 |
【結】 誘ったのは、劉備からだった。 関羽が曹操のところから戻って以来、何に誘ってもなしのつぶてであったが、今夜は答えてくれそうな気がしたからだ。 「天下三分」の策を聞きたがる劉表の強引な誘いと、諸葛亮の動向が読めないこともあって、劉備たち三人はそのまま襄陽に留まっていた。兄弟それぞれ別々の部屋を与えられていたが、劉備は関羽の部屋へ顔を出し、外を指した。 「関さん、久しぶりに飲みに行かねえか」 「このような夜更け、もう開いている店はないが?」 「大丈夫、台所で酒を一瓶ちょろまかしてきた。景色の良いところ知ってっから、そこで飲もうぜ」 「劉備玄徳は変わった、と思ったが、存外いつも通りだな」 笑みがこぼれた。 どうやら劉備の勘どおり、誘いに乗ってくれるようだ。 襄陽も通って長く、新野にもらった城ほどに勝手が分かるようになってしまった。衛兵たちに挨拶しながら、人気の無い城郭へ登る。春先の、少しばかり冷たい夜気が鼻先をくすぐった。 通った道すがら、誰も使っていそうにない机と椅子を拝借し、開(ひら)けた楼閣へ並べれば、簡素な酒家の出来上がりだ。机を挟んで向かい合い、互いの盃へと酒を注ぐ。 「なるほど、中々の景色だ」 満月に近い月が頭上に輝けば、明かりがなくとも困りはしない。楼閣から見渡せば、城内に焚かれた篝火や、遠くに見える街に所々灯されている明かりが望めた。 関羽が気に入ってくれたので、劉備も口元にくつり、と笑みを灯した。 しばらく、諸葛亮の奇怪さや劉表の邪さを酒の肴に話していたが、劉備は、ふ、と感じた。今なら、ずっと訊けずにいたことを口にできる気がした。諸葛亮のところで勢いで口にした愚痴ではなく、疑問として投げかけることができると思った。 それでも、正面切って訊くの憚(はばか)れたので、椅子から立ち上がり、盃を片手に景色を眺めるふりをして、楼閣の縁(へり)にもたれ掛かった。 「……なあ、関さん。どうしておいらのところへ戻ってきたんだい?」 途端、背中で不穏な気配が膨れたので、手を振って慌てて弁明しなくてはならなくなった。 「ちげえよ、ちげえ! あんたを責めてるとか曹操ん所へ行っちまえばいいじゃねえかとか、そういう意味じゃなくってさ」 朱色の相貌に怒りが滲んでいる。くだらぬことを訊くな、と詰(なじ)られているような気がして、劉備は自分の思いから話すことにした。 「以前のおいらだったら、関さんが戻ってきたことに単純に喜んで、もう大丈夫だ、もうこれでおいらたちは安泰だ、と馬鹿みたいに騒いだだろうけどさ。それってやっぱり違うんだなって思った」 切れ長の目が劉備を見やった。すでに怒りは鎮火していたので、安堵して体を外に広がる景色へと戻した。 「 と、劉備は自分の胸の辺りを拳でとん、と叩く。 「関さんのことで一杯になっちまった。どうしておいらを置いていったんだ。どうして戻ってきてくれねえんだ。どうして曹操に降っちまったんだって。悔しくて悲しくって、怒りもあったかなあ。だけど、一番でかかったのは、おいらがおいらであったのは、関さんが居たからなんだって思い知ったからだ」 少しだけ照れ臭くなって、頬を掻く。 「それってどうなんだよって思ったよ。母ちゃんの乳がないと生きてけねえ赤ん坊じゃあるまいし、そんな自分が厭で厭で仕方がなかった。そのくせ、でもやっぱり関さんが居ないと駄目だってばっかり考えて。抜け出せなくなっちまった」 目を覚まさせてくれたのは趙雲だった。 劉備玄徳は自分の思いだけで、勝手に覇業をやめることはできない。劉備玄徳という徳に直接触れた者も、そうでない者も、劉備の嚢に飛び込んだ以上は、そこが彼らの生き場になる。 だから、劉備玄徳は戦い続けなくてはならない。 ここに居る、と示し続けなくてはならない。 それが、天下に名乗りを挙げた者の 言い切った趙雲の言葉に、酒浸けだった体から大地へと、一気に酒気が抜けていく。 おいらという名前を知って、おいらに思いを託した。子どもから爺さん婆さんまで、そういう色んな奴らの思いを、おいらの器は受け入れないといけねえのか。 おいらの器は、おいらの存在意義は、そしておいらの覇業ってやつは、そういうものだってえのか。 趙雲の満面の笑顔がすべての答えを示している。 「関さんへの思いだけで、関さんに対する『おいら』の思いで一杯にしちまっちゃなんねえんだってようやく気付けた。あんたで溢れていた嚢の中身を、一回ぶちまけられた」 「それで、あんたのところへ戻ってきたとき、冷静だったのか」 「まあな。……なんだ、自惚れてたんかい? おいらが泣きながらあんたにむしゃぶりついて喜ぶ、とでも思っていたのか?」 「……そうなるか、と」 へへ、と可笑しくなって笑う。 自惚れても、いいところだけどなあ、と思うがそれはあまりにも照れ臭かったので、口にしなかった。 俺とて、似たようなものだ、と関羽が口を開いたので、振り返った。 「長年分からなかった――いや、避けていた一つの『答え』にも辿り着いた」 なんだい、と座ったままの関羽の顔を見下ろす。いつもと同じ、感情の読みにくい面容だ。 「以前、長兄を犯したことがあったであろう」 「……あ、ああ、あれか」 一瞬、何の話か分からなかった。関羽の言葉と記憶が噛み合うまで、ふた呼吸以上は開いただろうか。それだけ、劉備にとっては過去の話であったし、行き過ぎた喧嘩の一種であった、と結論づけていた。 今さら蒸し返されるとは思わなかった。 「俺も時々、あんたの器に入っている自分が厭になっていた。あれは、あんたの器に収まっている自分に苛立ち、その苛立ちを浅ましくも器であるあんた自身に向けた結果だ」 そういうことかい、と頷く。 改めて言われると、時々関羽から覚えていた異様な威圧感は、その苛立ちから来るものだったのだろう。 「しかし、どうやらそれだけではない、ということに気付いた」 「……?」 元々関羽には自信があった。劉備の中身に収まっているのは、男の器を量るためで、本来なら誰よりも民を真摯に案じ、国を思っているのは己だ、という自信だ。 ましてや、曹操という男を知ってからはなおさらだった。 曹操よりも大きな「もの」である己を容れているというのに、どうして劉備は不遇であるのか。曹操に己は勝っている、と自負があった関羽は、曹操に負けっぱなしである劉備に苛立つばかりだった。 しかしそれは、関羽が曹操に敵わない、と悟った瞬間に、変化した。 己を収めてくれている器は、どうやら関羽が思っていた以上に大きい、ということにはっきりと気付けたのだ。 劉備は、曹操と同じく、天下への思い(かたち)を持っている男だった。 関羽は、己の大きさを正しく知り、ようやく理解する。 「あんたの器に入っている自分を初めて認めることができた。許すことができた、と言い換えたほうがいいか。そしてどうやら俺は自分が思っている以上に、あんたのことを好いていた」 思わぬ告白だった、と言うべきか。 「関さん」という呼称にも現れている通り、劉備にとって関羽は対等に近い。それは恐らく、「長兄」と呼んでくれてはいるが、関羽の中でも同じだろう。 それがいま、はっきりと器に居る、と認め、そして何よりも劉備そのものを好いている、と口にした。 関羽は、何かに負けたような、それでいて清々しさを覚える眼差しで劉備を射抜いた。 「俺も似たようなものだ。あんたの器に収まっている自分が厭になり、劉備玄徳を、曹操孟徳を超える人間になる、と息巻き為政者の道を進もうとした。そのくせ、結局辿り着いたのは『劉備玄徳とともに天下へ行きたい』という答えだった」 「そうかい」 気恥ずかしさが止まらない。 今なら素直に言ってもいいだろうか。 嬉しいぜ、と。 だがやはり恥ずかしさが先走り、口にできそうにない。ただ、締りのない笑みだけが口元から溢れ、二人の間に漂う空気を穏やかなものにする。 飛び跳ねたい。楼閣の縁に飛び乗って、見える景色に住む人々へ思い切り叫びたい。 無性に嬉しいこの思いを、外へ向かって吐き出したい。 俯き、急いで外へ顔を向けた。 駄目だあ、顔が崩れっちまうぜ。みっともねえじゃねえか。 「長兄?」 不審そうな声が背中で聞こえる。顔を片手で覆い、もう片手の手のひらを関羽へ見せて、留める。 「待った待った、来んじゃねえって。こんなみっともねえ ところが、伸ばした腕を掴まれて、強引に体を捻られる。顔から手を外されて、両脇へ付けられて、関羽は容赦なく顔を覗き込んできた。 「関さん!」 冗談まじりの悲鳴を上げる。 ああ、まったく。嬉しさのあまりの締りがない顔なんぞ、どうして見たがるんだ。 文句の一つも付けて、悪態で誤魔化さないと居た堪れない、と口を開くが、何かに塞がれた。目の前に、関羽の赤ら顔があるではないか。なんだ、と思って疑問を口にしようにも、塞がった口から言葉を発せられるはずもない。 背中に、壁の硬い感触が当たって、背が反れて中天を見上げるほどに体が押し付けられた。目を瞬いた。関羽の頬の向こうに星が見えて、綺麗だなあ、と何となく思った。 口を塞がれて息苦しさを覚えたが、窒息する前に楽になった。 「間の抜けた顔だ」 声が降ってきたほうを見やると、いつもの関羽の顔がある。 「なにが?」 「そういうところもあんたらしい」 首を傾げて意味を訊こうとするが、再び口が何かに塞がれてしまった。温かい、というよりは、熱いに近い何かが劉備の口を覆い、言葉を奪うのだ。身じろぎして振り払おうとするが、びくともしない。手を振り上げようにも、関羽に掴まれたままだった。 ちょっと手を離してくれねえか、と訴えようと開かない口をもごもごと動かせば、ぬるり、と同じく熱い塊が口の中に入ってきた。なんだ、と身構える前に舌を掬われた。 びくり、と身体が弾んだ。掬われた舌に纏わりつくように、熱いそれはぬるぬると劉備の舌へ絡みつく。 力が抜ける。 うっとりと瞼を半分ほど落として、熱いものが動き回るのに任せると、間近にある関羽の目が弧を描いた。その笑みの意味を考える前に、顎を掴まれてさらに上向かされた。ぬるりとした熱いものがこぼしたのだろうか。液体が口内に溜まり、思わず嚥下する。 くちくちと口中の音が耳の奥で聞こえる。舌に絡まる熱さは劉備から思考する力を奪い、心地よさだけを与えてくれた。 「……あんたは、娼婦か」 いつの間にか、関羽の顔が離れて、分かりづらいなりに苦笑らしきものを浮かべて劉備を見ていた。 「娼婦って、なんでだ?」 心地よさから抜け出せず、ぼおっとした口調で聞き返せば、劉備の肩を掴んでいた幹のような関羽の腕が腰に回された。 「俺に口を吸われても嫌がりもせず、このように淫らな顔をしてみせる。それが娼婦でなくて、なんだと?」 「へえ、おいら、いま関さんに口吸われて……た……んだぁああっ?」 目玉がこぼれ落ちるぐらい目を見開いた。驚いて仰け反ったが、関羽の腕が支えて上半身が反っただけで終わった。 「どどど、どういうことだよ、なんであんた、おいらに」 急いで袖で口の周りをごしごしと拭く。 なんかまた、あんたを怒らせるようなことしたのかよ。 それでまた関羽が劉備の器を壊すような真似をしようとしているのか、と考えたが、関羽は短く答える。 「したいからだ」 「し、したいって、やっぱりなんか怒らせるようなことしたからか?」 先ほど、関羽自身が思い出させてくれたせいで、関羽の怒りはすなわち劉備の器を壊す衝動で結ばれている。衝動は不条理な行為に摩り替わり、劉備を陵辱する、という形を成す、と知ったばかりだ。結びつけるのは当然だったが、関羽は否定した。 「違う。言っただろう。好いている、と」 「好いているって……だからそれは、おいらに惚れてるってことで」 「そうだ」 「いや、だからその惚れたってのは侠の……そういうことじゃねえのかっ?」 むしろそうあって欲しい、という意味を込めて叫ぶ。 侠の社会では男が男に惚れる、というのは珍しいことではない。しかしそれはあくまで人柄、人物に惚れる、ということで、性的な意味は一切絡んでこない。 「ちょ、ちょっと待った、待っただ、関さんよぉ」 先ほどと同じように、手のひらをびたり、と関羽に向けて、制止をかける。 「するってえとなんだ。関さんは、おいらをどうしたいんだ」 「抱く」 いつもの通り、淀みなく真っ直ぐに劉備の問いに答えてくれる関羽そのままで答えられてしまった。 |
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