「天下の(うつわ) 4」
 蒼天航路
関羽×劉備


【転】

 関羽が許都へ戻ってきたのは、それからいく日か後のことだった。曹操と荀ケが出迎えた。
「己が才を認めるのに、百日も悩まなくてはならなかった。不思議な男だ」
 呆れ顔の曹操を前にして、関羽はすでに揺らがなかった。それは荀ケが、人質の必要はないだろう、と公徳を連れて来たときも変わらなかった。
「どういうことなのですか、関羽殿」
 泣きそうな顔で少年は尋ねてくる。あの男の血を引く息子を前にしても風のない湖のごとく、凪一つ起こらない関羽の湖面は、笑みさえ浮かべて言い放つ。
「誰を見捨て、誰に仕えるでもない。ここは都だ。世がこの関羽に為政者としての才を求めるならば、私はそれに応じるために都にとどまる。それだけだ」
 もう、戻ってきてはくれないのか、という少年の悲痛な呼びかけに、
「君の成長とともに、劉備殿の健勝を祈る」
 と別れの言葉を送るだけだった。少年たちが乗った馬車が門をくぐったのち、曹操が言った。
「誰にも仕えぬと? この都にいながら曹操の命には従わぬと?」
「人を統べる才とは、何人(なんびと)かに仕えて発揮できる力ではないはずですな」
「為政者として俺を凌ぎ、天下を動かす。関羽! それが百日の果てに選んだ道か」
「貴公が焚き付けた結果でござろう」
「そういう気概こそ従える価値がある」
「やれるものならやってみろと?」
 ん、と小さく頷いて笑った曹操の顔は、不敵であった。従えるはずだった相手の思わぬ叛旗を目の前にしても、むしろ楽しそうであるのは、この男の器であろうか。
 以前の関羽ならば、負けぬ、と勝気が頭をもたげただろうが、今は違う。
 参内し、帝へ堂々と宣言する。
 己の中で培われている、関羽を関羽たらしめる。すなわち侠者(きょうしゃ)として、政(まつりごと)を行いたい。
 曹操は曹操のやり方で政を行い、戦に身を投じている。
 また、袂を別つことになった劉備とて、再び決起し戦に飛び込んでいった、と聞こえてきた。
 天下を動かすのはこの二人のどちらかだ、と長いこと関羽は考えていたが、己とて彼らを凌駕する器を備えている。
 だからこそ、劉備の嚢に収まっている自分が厭になったのだ。己は劉備の器に収まりきらぬ、とそもそも感じていたことを、曹操の言葉ではっきりと認識した。
 都に呼び集めた闇の中で生きる者たち、光の中を突き進む曹操や劉備には一生かかっても集めることのできない雄で、広間は一杯になっている。
 酒を酌み交わし、自由に己の考えを述べよ、と宣言すれば、ぽつりぽつり、と前に進み出る男たちがいる。触発され、それは次第に熱を持ち、あとからあとから湧いてくる。
 侠客はもちろん、道教を掲げるもの、浮屠(ぶっだ)の教えを広めるもの、漢民族ではないもの、様々な人間が自由に意見を交わして、広間は延々と喧騒が止みそうにない。
 しかし、それらを一斉に黙らせる存在が姿を現す。
「闇であろうと異端であろうと、人は人である限り政を語ってよい。しかし!」
 恐らく、この喧騒を楽しげにどこかから眺めていた曹操である。出てきたか、と関羽は思った。袁紹と覇権を奪い合う戦の最中であるというのに、この男は宰相としての仕事もこなし、こうして関羽の動向を見にくる余裕すらある。
 劉備が「おっかなくてでっかくて、厭んなるねえ」と呟いたのが良く分かる。
 しかし今は、憎らしく思うでもなく、悔しく思うでもなく、男にもまた、自由に語る権利があるのだ、と酒を酌んだ杯を渡して場を譲る。
「貴様らには広大無辺な大地を見渡す目と、億の民を食わせる気概が足りぬ! ふたたび関羽の呼びかけに応じるならば、命をはった言葉で天下を語りに来い!」
 大地をも揺るがす曹操の一喝に、しん、と広間は静まり返るが、奥のほうから震える声が届いた。
「い、いいのか? きたのはてのちいさなぶぞくのおれが。こ、このちゅうかのことを、このてんかのことをかんがえても、ほんとうにいいのか?」
 北、と名乗ったように、まだ青年である男の言葉は北方なまりが強く、中華の言葉すらたどたどしかったが、頭一つ分、群集から飛び出しているせいもあり、誰の耳にもはっきりと聞こえた。
 関羽、と曹操が答えを譲った。
「若者よ! おまえが人の営みの壮大さを想像できる者ならば、地に万里の長城という境もなければ、人に漢民族という境もない! 中華という枠すらないぞ!」
 強き者、弱き者など関係ない。政を語るに力の強さは関係ない。ましてや部族などなんの垣根であろうか。
『俺はね、自分が楽しく生きたいんだ』
 関羽が劉備という男の存在を初めて知ったとき、従えようとした。侠の心をもって世を糾す、この志に従え、と言った。ところが劉備は、従わない、と反発した。
 劉備が口にした、自分が楽しむだけの生き方など、侠の風上にも置けない。酒池肉林に身を委ね、権力を貪るための楽しみか、と問い質し、その心根侠者にあらず、叩き切るまで、と偃月刀を振りかざした。最後の情け、とばかりに尋ねた。
『お前の楽しみとはなんだ!』
『天下の民の笑顔を見ること』
 人の幸せ、民という弱き者の笑顔が己の楽しみだ、と言い切った男の首をじ、と見つめた。青臭い、と斬り捨てるには、なぜか偃月刀を握る手は動かなかった。
 天下の民。
 それには、北の辺境に住む者とて『天下の民』であろう。
 あの『嚢』に、境などない。どれほどの民であろうと、強者であろうと入れてしまえる、劉備玄徳の嚢に無縁のものだ。
 俺の描く天下とて、同じこと。
「あんたのたましいはうけとった! おれはそれをこきょうのだいちにまく!」
 関羽の言葉に心を揺さぶられた青年は、力強く大地を蹴って跳躍した。
「わがなはあおいきば! わがぶぞくはもんごる!」
 己の志が青年を動かし、北の果ての営みすら豊かにするであろう可能性を、あおいきばの宣言で目の当たりする。
 涙が、関羽の目から弾けた。


 それからも、関羽は闇に属する様々な者たちと言葉を交わし、膝を付き合わせ、酒を飲みながら腹を割って天下の有り様を語った。曹操は官渡での戦が本格的になってきたのか、あれ以来気配を感じない。
 荀ケの言葉を信じるのならば、袁紹との最終決戦のために軍旅についた、ということだ。その荀ケが、宮殿ですれ違ったおり、声をかけてきた。
 荀ケも初めのころは関羽の為すことを面白がって、向こうから首を突っ込んできたものだが、今は多忙のせいもあり姿を見せない。
 今日は久しぶりに顔を合わせた。
「冴えないな、関羽」
「……」
「自覚ありだな?」
 小柄な体を精一杯伸ばし、大柄な関羽を仰ぎ見る荀ケは、にぃっと笑う。
「その理由、当ててみせようか?」
「結構だ」
 つまらないな、という顔を荀ケがする。心晴れやかではない理由(わけ)など、自分が一番理解している。他人に、ましてや曹操の片腕と称される男に(かい)されるなど、まったくもって腹立たしい。
 まだ関羽と話したそうにしていた荀ケだが、部下に呼ばれてか足早に去っていった。
 曹操が用意した屋敷へ戻り、壁に掛けている偃月刀を手にする。ずしり、と手に馴染む感覚は変化がなく、軽く振り回す。
 振り回しづらい、と感じたのは、着慣れた、と思っていた朝服のせいだ。長年、繰り返すことで習性と化した毎日の鍛錬であるが、今日はやけに服が邪魔に思える。
『これほど朝服が似合わぬ男が参内するのを見たことがない』
『いやが応にもじきに見慣れてもらう』
 曹操と言い交わした言葉に偽りなどなかったはずだ。その自信が関羽にはあった。劉備の器に収まっていることに苛立っている己に気付き、別れを決意した。そして、自身の歩むべき道は為政者、天下を目指す者である、と百日にも渡る煩悶の日々で悟った。
『関さんは、朝服似合わねえなぁ』とからかう男も、かはっと笑い飛ばす義弟も居ないことが、無性に寂しい。
 今さら何に迷うことがある。
 偃月刀が唸りを上げて空を切り裂くが、関羽の仄かに宿った迷盲(めいもう)を断つには至らない。
『貴様らには広大無辺な大地を見渡す目と、億の民を食わせる気概が足りぬ! ふたたび関羽の呼びかけに応じるならば、命をはった言葉で天下を語りに来い!』
 あの、曹操の一喝、天下を我が身として、良く知っているからこそ発せられる言葉だった。政は語ってもよいが、天下は容易く語るな、という怒りの声が、何度も関羽の中で蘇る。
 関羽が集めた者々へ言い放ったように聞こえるが、その実、関羽に対しても突きつけていたのではないだろうか。
『お前はどうだ、関羽。天下をどう思っている』
 俺の、天下――
 侠の心をもって力を集め、世を糾す。
 劉備と初めて出会ったときに、そう言った。
 天下の民の笑顔を見ること、と告げた男を生かしてみたい、と思い刃を引いた。そして、こうも訊いた。
『もうひとつ聞く。おまえはどのように天下を獲るつもりだ』
 しばらく劉備は考えたあと、あっさりと答えた。
『わからん』
 横で唖然とする張飛をよそに、劉備は続けた。
『わかっているのは、俺が天下の器であることだ』
 劉備の中で、天下とは獲るものではなく、「容(い)れる」ものなのかもしれない。
 二人二通りの天下への思い(かたち)がある中で、俺の天下とは、天下への思いとは何であろうか。
 政と天下を分けて考えるものである、というのならば、関羽の義憤は「政」に対してだ。「天下」に対してではない。
 政は天下の先にあることだ。
 曹操は恐らくすべて一人で成してしまう。
 天下を手中にすれば、おのずとその先にある政さえ、曹操は一人でやってのけるだろう。そこに関羽の居場所などあろうはずがない。
 かと言って、関羽に曹操のように天下に対する痛烈な想いは存在しない。
 負けたのだ。
 認める。
 曹操に、関羽は負けたのだ。
 そして、曹操だけではない。関羽は劉備にも負けたのだ。
 しかし、鬱屈した気分にはならなかった。いっそ清々しい。
 分かったことがある。
 曹操に負けたことは悔しいが、同じように、己の天下のかたちを持っている劉備には、悔しさを覚えない。器に収まっていることに苛立ちを覚えていたのは、そうではなかったのだ。
 思い違いをしていることに、関羽は開眼した気すらした。生まれて初めて、「己」の中(ふくろ)を覗いたような気がした。
 そうだ、だから俺は劉備玄徳とともに天下へ行きたい。
 行きたい!!
 俺に役目があるとするならば、劉備玄徳が向かう天下への道を駆けることで、そして天下の先で待つものに尽力することだ。
 腹を括った。
 あとは早かった。
 折りしも曹操が袁紹をついに破った、という知らせが都中を駆け巡った。
 凱旋を果たした曹操へ、関羽は別れを告げにいった。
「旗揚げより十年。まさに破格の覇業。残るは荊州、楊州。天下まではあと五年というところですか」
「関羽、覇業は人の心と同じだ。残り、というものがない。戦に勝つ度にやらねばならぬことにやりたいことが加わり、心はどんどん自由になっていくぞ」
「自由にっ?」
「ああ、俺の心は今、すさまじい勢いで膨らんでいる」
 喜悦に満ちて語る男の顔に、関羽はかつてない戦慄を覚えた。
 劉備の言葉が突き刺さる。
 おっかなくて、でかいんだ。
 劉備は、この男と天下を競わねばならないのだ。
「おまえも自由になれ、関羽」
 曹操は言った。
「劉備の器に収まっていれば、おまえらしさを失うぞ」
「あんたは劉備玄徳を見くびっている。俺一人が暴れたぐらいでは、あの(ふくろ)は破れはせん」
「そうか」
 曹操が袁紹に勝ったことで、情勢は大きく変わった。
 曹操にはああ言ったが、長兄があの男に勝るために、より確固たる力が必要不可欠だ。それを見つけるのは恐らく、己の役割であろう。
 劉備玄徳とともに駆ける、と決意した己に課せられた役割と悟る。
 劉備の元へ戻った関羽は、張飛に散々罵倒され、当の劉備にさえやや疎まれつつあることを知りながらも、関羽が辿り着いた答えは打ち開けなかった。
 まだ、時期ではない、と関羽の中であった。いま、話してしまったのなら、劉備は関羽に甘えてしまうだろう。
 いや、もしかしたら今の劉備ならば大丈夫かもしれない。
 再会した劉備は、以前と比べて少しばかり大きく見えた。戻った関羽の姿を見ても、驚きはしたが取り乱しはしなかった。
 拍子抜けしたことはしたが、同時に逞しさも覚えた。
 徳が薄くなったのではない。
 もっと、己の嚢の大きさ、大切さを熟知した。
 関羽は久しぶりに再会した劉備から、そう感じ取っていた。
 しかし、結局告げることなく月日は流れていった、ある日のことだ。
「関羽殿! このままでは父上は本当に駄目になってしまいます!」
 練兵中の関羽へ訴えたのは、少年から青年へとすっかり成長した公徳だ。
 くだらない劉表の宴に、嘆くばかりで腑抜けていく兄の姿に、時間の無駄だと見切りを付けた。張飛が怒るのも分からないでもないが、しょせん弟も己の武の持って行き場を失くして鬱屈しているに過ぎない。
 我らが天下へ行くために足りないもの。
 それを関羽は、劉備の元へ戻ってからひたすら探し続けてきた。今となっては、劉備の意志が萎えるのが先か、関羽が天下への道筋を見つけ出すのが先か、という時との戦いになってきていた。
 遥か昔となってしまった、劉備と出会ったときに交わした約束を思い出す。
『あんたを俺の器に入れたい。もしあんたが俺の器に収まりきらなかったら、壊して出て行ってくれていい』
 劉備は言った。
「みずから器を砕く、というのなら、中身の私に何ができよう。無様な破片を残さぬよう、粉々にして掃き消してやるぐらいしかあるまい」
 青褪めた公徳は、関羽殿、と呼びかける。
「父上の覇業……いや、劉備玄徳の天下の目は、もう残ってないのですか?」
「……」
 答えは、まだ関羽の中にも出ておらず、沈む夕陽が関羽の心に闇を落としていった。


 孔明、とは。
 孔(はなはだ)明(あかるい)とは言ったものだ。
 徐庶という男から、諸葛亮孔明の名を聞き、闇に覆われかけていた関羽の心に光が差した。
 あの曹操と袁紹の戦を「美しすぎて戦ではない」と表現した、奇怪な男の(はか)れなさに、光明を見出したのだ。もちろん、その光の先が天下への道なのかどうなのか、そこから先は関羽が量るところではない。
 劉備の役目だ。
 異形の才をこうだ、と決め付けることなどできはしない。容れる器も持たない。ましてや天下への(みち)なのかは、劉備にしか見えないだろう。
 関羽は己を正確に知り抜いた。曹操での幾月かの日々は決して無駄ではなかった。
 決め付けることをせず、恐らく異形さえも飲み込むであろう劉備ならば、武侠の魂を持つ張飛を動かし(負かし)、関羽の理で量れない男をどう捉えるだろう。
「益徳! 青龍刀を持てい!」
 命じる言葉に、何年かぶりに関羽へ向けて口角を釣り上げた張飛の面容が生まれ、ふん、と小さく笑った。
 腑抜け、女に溺れることで己を苛むすべてのものから背を向けようとしている長兄へ、関羽は愛刀を振り下ろす。
「萎えた志をみずからたたむ前に、劉備玄徳の器でしか量れぬものを量ってもらおう」


 これで最後だ、という言葉が効いたのか、劉備の重い腰は持ち上がり、諸葛亮を知る徐庶とともに、兄弟全員で諸葛亮の住処へと向かった。
 すでに残された命運はわずかで、巨大となった曹操に勝る機会はあるかなしか。そういう瀬戸際に関羽たちは立たされていた。その中で、腐らずに天下を狙える気概を持ち続けることなど、どれほど強固な精神の持ち主とて困難だ。
 放り出そうとしている劉備を責めることは、すなわち己を責めるにも等しい。
 無理な願いを押し付けている、と関羽とて自覚はある。それでも、その理(ことわり)もなければ、道理もない、無茶無謀の極みといえども、成し遂げてしまうのではないか。そういう甘い期待を抱かせる「何か」が劉備にはあるのだ。
 それゆえに、張飛も趙雲も、劉備から離れない。天下に夢を抱き続けている。
 だから、諸葛亮と言葉を交わす前に逃げ出した劉備を引き止めた。
「益徳とて、あんたを通して天下を考えている人間だ。その益徳が初めて見つけてきた人物ならば、あんたはそれをしかと見定めねばならん」
 襟首を掴み、へたり込む劉備を見下ろす。
「も、もう充分だぜ、あんな奴ァ」
「あんたはあの男をまだ何も量ってはおらんぞ」
 言えば、先ほどの不愉快な光景でも思い出したのか、関羽に詰め寄られていることに緊張を強いられているのか、劉備は汗を滲ませながらも言い返した。
「いいか、ありゃあな、量る以前の代物(しろもん)だ。たとえどんな凄(すげ)え才があろうとな、あの汚らわしさはおいらの器にゃ容れたくねえんだよ!」
 ばん、と器のありどころである胸を叩き、叫ぶ。
 あんたの嚢はその程度のものではないだろう。
 関羽の下腹が煮えたぎった。久しく忘れていた感覚だ。あえて、劉備がもっとも嫌がる言葉を口にした。
「曹操ならば、どんな汚穢(おわい)であろうと、妖魔であろうと、才あらばそれを用い、喰いつくす」
 瞬間、劉備の顔が青褪め、次に真っ赤に染まった。襟首を掴んでいた手を払われた。しかし、劉備に怒りの面容が浮かんだのはその一瞬だけだった。
「関さんよお、あんたなあ、そんなに曹操のことが好きなら曹操ん所に行きゃあいいじゃねえかよ。だいたい、なんで戻ってきたんだよ。頼んでもいねえのによ」
 あとは涙ぐみ、関羽を責める言葉に、下腹の奥に潜む熱は温度を上げる。
「まだわからんのか」
 胸倉を掴んで引きずり起こし、目の前に無理矢理立たせる。
 関羽を関羽たらしめている男が、自ら関羽を否定することが悔しかった。
「俺はな、あんたと一緒に天下に行きたいのだ」
 驚いた顔をした劉備に、いっそ腹が立った。それでも、関羽に脅されるように、諸葛亮のところへ戻っていった劉備は、今度こそ諸葛亮と言葉を交わした。
 曹操に勝つ方法はあるのか。劉備が天下を獲る策はあるのか。
 異形の才が返した策は、意外なものだった。
「曹操に天下をくれてやりなさい。ついでに孫家の後継ぎに南の天下を与えてやりましょう。あなたは残ったところを天下だとおっしゃればよい」
 その途端だ。
 関羽の劉備を侮辱する言葉にさえ怒りは一瞬で鎮火したというのに、声を聞くことも姿を目にすることすら嫌がっていた男へ肉薄し、劉備は吼えた。
「諸葛亮。天下を気安く饅頭みたいに分けんじゃねえぞ。おめえのいう天下にゃ血が通ってねえ! 人が生きちゃいねえんだ! 人はな、天の下で泣いて笑って怒り、のたうちまわって生きてんだよ。どんな天下人であろうと酷薄で暴虐な奸物であろうと、地べたに足をはりつけ、血の出るようなもがきの中で天下のことを考えてんだぜ」
 ああ、これだ。
 劉備の怒声を間近で聞き、関羽の総身に鳥肌が立った。
 曹操と同じくする、天下への想いが、劉備にある。天下をまるで己の身として、嘆き、怒ることができる。
「おめえがこんな桃源郷で戯れに考えている天下は、生身の天下とは別物(べつもん)だ!」
 天下への一喝に、諸葛亮は気を失い、劉備は庵に背を向けた。そのあとを追いながら、やはりこの男だ、と密かに喜びを噛み締めていた。
 俺が選んだ男に、間違いはない。
 今度は止めないのか、と尋ねられたが、いいや、と答える。
 諸葛亮の存在を気に入ったのか、とも訊かれたが、充分不快だ、と答えた。
 劉備の天下への想いを甘い恋心などと言い放った男に、不快さを覚えないはずがない。それはすなわち、関羽たちの想いも同じだ、ということなのだ。
 だがそれでも、と関羽は考える。
 だからこそ、諸葛亮孔明は必要ではないか、と。
 まるで関羽の考えを読み取ったかのように、劉備は何を思ったのか「もう一度行ってくる」と元来た道を歩き出した。
 一人で行く、という劉備を見送り、関羽は張飛と庵へと続く洞窟の入り口で待つことにした。
 先に帰れ、と言われたものの、置いていけるはずもなく、なおかつ洞窟の外では雨が降っていた。
 壁に身を預け、降りしきる雨を耳にしながら、目を瞑る。
 張飛と諸葛亮に関して意見を交わす。こうして義弟とまともな話をするのも久しぶりだ。この雨が何年かお互いに凝り固まっていた鬱屈を洗い流すかのようだった。
「あれ、ほんとか」
「何がだ」
「さっきのあれだよ」
 片目を開いて、張飛を見やる。ちらり、と張飛と視線が合う。
「あいつと、兄ィ、天下へ行きたいから戻ってきたってやつ」
「嘘を言ってどうする」
「そう思ってんなら、どうしてとっとと戻ってこなかったんだってーことよ」
「……負けることで、己を知ることもあろう」
 今の張飛には、それで充分だったようだ。そうかい、とだけ言って話題を変えた。
 庵から戻ってきた劉備は、ぼんやりと気の抜けた顔をしていたが、劉表の元で見せていた縮まった魂のありようは見えなくなっていた。
 まるで化かされたようだ、と言いながら襄陽へと戻ってきた三人に、諸葛亮と庵で出会った怪しげな童子や老人、女たちが出迎えた。あっという間に城内で非難の的となった諸葛亮たちに、劉表だけは凄い人物を迎えられた、と喜色満面だ。
 どのような策を授けられ、劉備がどう変わったのか。
 しきりに知りたがった劉表を、劉備は何を思ったのか言った。
「ああ、あの策はなあ。天地をひっくり返すかもしんねえなあ」
 食いつく劉表を「よくわかんねえんだ」と言いながら上手くかわした劉備は、どことなく、やはり今までの劉備と違うように見えた。
 広間から出て、張飛に「ふかしたな」とからわれながら、淡々としている劉備へ、関羽は訊きたくなった。
「劉備玄徳は変わったか? あんたは虚言を使って人の腹を探るような男ではなかったはずだ」
 一見して人当たりよく、好々爺のごとき相貌で劉備の言動を拾い上げては褒め称える劉表の、その裏に潜む天下への邪な思いに、関羽はもちろん、劉備も気付いていないはずがない。
 それを、諸葛亮の「天下三分」という容(かたち)の見えない物をこれみよがしに名器だ、と振りかざして相手の動向を探るなど、劉備の性格(これまで)からしてありえないことだ。
「なあ、関さん。こういうおいらは気に入らねえかい」
 それでも、そんな自身を誇るでもなく蔑むでもなく、ただ関羽に聞き返した劉備の顔を見て、安心した。
 変わったのかもしれない。変わっていないのかもしれない。
 それでも、劉備玄徳はそこにいて、関羽の下腹に熱は生まれない。
 充分だ。
 ふん、と関羽は曹操のところから戻って以来、初めて劉備へ笑みを晒した。



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