「天下の(うつわ) 3」
 蒼天航路
関羽×劉備


【承】

 まず、劉備は必死で張飛の体を羽交い絞めにすることに体力を使う羽目になった。趙雲もともになって押さえてくれなくては、怒り狂う張飛を留めることは出来なかっただろう。
 羽交い絞めを趙雲へまかせ、背中で張飛を押さえながら関羽と向き合った。
「関さん……」
「戻りました、長兄」
 いつもと変わらない赤ら顔がそこにある。佇み、拱手する姿は出会った頃と微塵もぶれない。だが、何かが違う。
「……曹操に、降ったんじゃねえのか?」
 人質が居たから、という理由は通じない。すでに人質であった息子は戻ってきていた。関羽を曹操の元へ縛り付けるものは何も無かったはずだ。それにも関わらず帰ってくる気配がなかったのは、つまりそういうことだろう、と劉備は半ば以上諦めていた。
 曹操の元より解放された息子の公徳は何も話そうとしなかったが、関羽を慕っていた息子だ。真っ青な顔で、戻りました、とだけ言ったあとは、張飛がどれだけ関羽のことを尋ねても口を開かなかった。
 それで劉備の中で答えは出ていた。
 関羽は劉備を見限り、戻ってはこない、そういうことだ、と。
 しかし、こうして関羽は帰ってきた。戻りました、と挨拶をした。
 趙雲に会う前の劉備であったなら、喜んで泣きながら鼻水を垂らして関羽に抱きついていたに違いない。
『関さん、お帰りー、お帰りーー!!』
 だが、そうではない。
 関羽を失った痛手を噛み締めながらも、それでもこの世にあり続けなくてはならない覚悟が生まれていた。だから、こうして冷静に対峙できていた。
「答えが、出たゆえ」
「答え?」
「俺たちを裏切った答えか、あぁあっ?」
 背中で張飛が怒鳴る。関羽の目は張飛を見やることなく、劉備にだけ注がれている。気圧されそうだった。後ずさりたくなるが、背中には張飛がいた。
「もう、曹操のところは飽きたんか。都暮らしはもういいってことだ」
 結局、普段と同じ軽口を叩いて、関羽の真意を量ろうとする。
「俺は根っからの侠者ゆえ、華やかな都は肌には合わなかった」
「へへ、そうかあ」
 軽口に軽口が返り、ふっと空気は緩んだ。背中にかぶり付いている張飛も僅かだが大人しくなった。
「関さん、朝服似合いそうにねえもんな」
 確かにその瞬間、関羽の口元は小さく綻んだ。
「あんたもな」
「違いねえや」
 関羽殿ー、とそのとき、公徳が泣きながら駆け込んできた。涙でぐしゃぐしゃになった汚い顔で、関羽に抱きついてきた。肩を抱き、関羽は言う。
「恙無いか」
「はい、関羽殿も」
 うむ、と頷く関羽は、劉備よりもよほど親のようだった。事実、この二人は徐州で劉備がすべてを捨てて逃げ出したあと、絆を強めたらしい。劉備に懐いていなかったわけではなかったが、よほど関羽のほうが頼りがいのある親らしさが備わっているのだろう。
 否定はしねえよ。
 劉備とて、義弟としているが、張飛のようにあざなで呼ぶ気にはなれず、いつまでも「関さん」と呼んでいる。
 だから、あんたがおいらの嚢から出ていっちまったときには、情けねえぐらいになんにも見えなくなっちまった。
 ひとしきり公徳とお互いの無事を確かめ合った関羽は、劉備に向き直った。
「俺はあんたに約束した」
 覚えているか、と促された。首を捻る。どの約束だ。
「もし、俺を収めるほどの器ならば、おまえが生きている間、決しておまえの許(もと)を離れないでいよう」
 関羽と、そして張飛と初めて出会った夜のことだ。劉備は自分が天下の器だ、と言い、関羽を自分の器に容れたい、と願った。そこまでの険悪な雰囲気から一転、関羽は了承した。そして、今言ったことを口にして、劉備に付いたのだ。
 忘れるはずがない。それ以来、劉備の嚢の中には、いつでも関羽と張飛がいるようになった。居て当たり前で、嚢の中を時々覗き込んでは安心していた。
 まだ、益徳が。関さんが。おいらの中にいるうちは、何とかならあ。
 それが、苦難にぶつかるたびに、いくども劉備を励ました。
「……覚えてる。てか、あんたがその約束を覚えていたほうが驚きだぜ」
「それをおめえは守るために、戻ってきたってえのか」
 関羽の姿を見たときに激怒していた張飛は、今は不機嫌そうな口調だけに収まっている。
「あんな大昔にした約束を、後生大事に!」
 けえっと唾を吐き出した張飛は、くるり、と背を向けた。
「関羽らしいこった!」
 釈然としていないのは、荒々しい足音でたやすく察せたが、どうやら張飛の怒りはひとまず鎮火したらしい。
「いけないか」
 部屋に残されたのは劉備と、趙雲、公徳の三人だ。しかし関羽の目は先ほど公徳と話すときに向けられた以外は、常に劉備へと刺さっている。まるで、器の大きさを量るかのような眼差しではないか。
 曹操のところから戻ってきた。
 それはすなわち、関羽は曹操の器を肌で感じ、量ってきたということだ。
 劉備の器は曹操と比べてどうなのか。
 試されているのだろうか。
 関羽が収まっているに相応しいかどうか、もしもそぐわない、というのなら、もう一つの約束を関羽は果たそうとするに違いない。
 刺さる瞳を受け止めて、劉備は見返す。臍の下に熱いものがどくり、と蠢(うごめ)いた。
 今は、汝南(じょなん)郡でともに戦っていた劉辟(りゅうへき)は殺され、頼っていた袁紹も居ない。同姓である劉表へ身を寄せるだけの、相も変わらずの根無し草だ。
 だけども、そうさ。
 相変わらずってえことは、またこれからも挽回できるってこった。趙さんが言ったように、おいらが勝手に覇業をやめることはできねえんだからさあ。
 関羽の瞳の奥底を、こちらからも射抜くと、はじめに覚えた違和感が頭をもたげる。
 関羽らしいこった、と張飛は言ったし、劉備もそう思う。
 だが、それだけだろうか。
「関さん、曹操んところでなに見てきたんだ?」
「……」
 沈黙が返ってきた。
 そうだ、あの威圧感が無くなっている。
 呂布に負け、もういいや、と小沛でうらぶれていたときや。曹操の下、許都でうだつの上がらない日々を過ごしていたときや。もっと言えば、まだ関羽と知り合って間もないころなど、ほぼ四六時中感じていた。
 肌に刺すような、まるでとって喰らおうとしている獰猛な獣のような気配が、すっぽり抜け落ちている。今の関羽からは毒気が感じ取れない。
 なにかあったんかい。
 曹操に何かを言われた、だけではこの男はこうまで変わりはするまい。
 何か劇的な、己の中身を全部ひっくり返された挙句に、お前の中身はこうなのだ、と示されでもしない限り、関羽という男をこうまで変化させまい。
 言ってしまえば、恐らく「何かに負けた」のだ。
 関羽を負けさせる相手がこの世に居るとは思えなかったが、強いて例えるなら、関羽から覚える違和感は、敗者が纏う雰囲気そのものだ。それでいて、妙な清々しさすらある。
 憑き物でも落ちたかのような様子は、全力で挑んだが堂々と力負けしてしまったような、潔い勝負のあとだ。
 関さんを負かす相手か……知りたいような、知りたくないような。
 恐怖も覚えたため、劉備は追求しないことにする。
 お互いに、義兄弟になってからこれほど離れたのは初めてだろう。お互いがお互いの存在を見直すのには十分な時間だ。
「おいらは、おいらの中身をちょっとだけ知った」
「そうか」
 関羽の目が細くなった。
「あんたは?」
「俺も、同じだ」
「なんだ、真似すんなよ」
「真似ではない」
「ふ〜ん」
 まあいいか、と呟いてから、手を差し出した。すぐに握り返された。
「お帰り、関さん」
 脇で、公徳が滝のような涙を流して喜んでいた。


 関羽が戻ってきてからも、特に劇的に劉備の身辺が変化することはなかった。世話になっている劉表の招きに応じ、劉備の徳と劉表の人脈で荊州へ集ってくる士は後を絶たない。
 毎日、どこそこの豪族、どこそこの学者と会い、言葉を交わす。時々乞われて領内で暴れまわる賊徒の退治に出かけたりして、あっという間に月日は流れていった。
 しかし不思議と、関羽との距離が時の流れと同じくして、離れていく感覚を味わっていた。それは同じ義弟の張飛も同じらしく、関羽が帰ってきてしばらくは怒りを表すこともなかったが、苛立ちだけは募らせていた。
 決定的になったのは、いつもと同じように劉表の開いた宴に兄弟そろって参じたときのことだった。
 州牧である劉表が、劉備のおかげで人が集まる、と褒め称えていたときだ。
「非力ながらもあの曹操にたて突く男がいる。それが大事なのだ。あんたの姿に大義を見たんだよ」
 人の良さそうな福福しい顔付きながら、劉表の目の奥は薄暗く光っている。しばらく付き合って分かったことだ。
 劉表どんは劉表どんのやり方で天下を狙ってるってわけだ。
「のう、関羽将軍。あんたもそうなんじゃろ?」
 曹操へ降った関羽が劉備のところへ戻ってきた。これも劉表の中では、荊州に人が集まる要因の一つである、と考えているらしく、あまり招きに乗り気ではない関羽を、必ず呼び立てるのだ。
「けなげな非力で情を集めて行ける天下がどこにある」
 いつもは黙って酌を受けるだけの関羽だったが、今日は違った。劉表の言葉すべてを、そして荊州での劉備の存在意義をばっさりと斬り捨てる一言を放った。一同が唖然とする中、これから二十人の軍師と会わねばならん、先に失礼する、と関羽は立ち上がる。
 真っ先に反応したのは、関羽が曹操へ降って以来、ずっと腹の中で燻らせていた火種を抱えていた張飛だ。
「おう! おう!! おう!!」
 張飛は関羽へ怒鳴る。
「酒を誘っても博打を誘っても振り向きもせず、くる日もくる日も軍師を試問かっ? 練兵かっ? 文書とにらめっこかっ?」
 弟の呼びかけにも、背を向けた関羽は反応しない。
「待ちやがれ! 何とか言ったらどうだ!」
「やめな、益徳」
 張飛を制したものの、関羽へのそういった不満は、劉備とて抱えていた。距離が開いた、と感じるのは関羽の以前と変わってしまった態度に対してだ。
 変わっちまった。曹操のところから帰ってきた関さんは、どこかおかしい。
 それを言葉にしないまま、本人にぶつけないまま幾年も過ごした。いつかは張飛が突っかかるのではないか、と危惧していた。なぜだか劉備は、それを関羽に問い詰めてはいけないような気がしたのだ。
「それとも何か! 曹操のところで偉くなっちまったんで、俺たちとは口もきけねえってえのか!」
 劉備の戒めにも耳を貸さず、張飛は言い募る。
 関羽が振り返った。鋭い光が目に宿り、張飛を威圧した。どきり、と劉備は自分に向けられたわけではないのに、関羽が発した氣に肝を冷やした。久々にあの喰われそうな感覚を味わわされた。
 しかし、張飛にとっては火に油を注ぐ結果となった。
「あん? なんだその目は。目だけで兄貴ヅラしようってえのか。上等じゃねえか! おめえ何様だってんだあ――」
 振るった拳は、関羽の鼻面を痛烈に叩いた。劉備が咄嗟に張飛の足を抱えていなければ、関羽といえども踏みとどまることはできなかったかもしれない。
 張飛が発した拳の風圧に、劉表をはじめとする広間の面々は声も出せずにいる。黙って見ていた趙雲でさえ、冷や汗を浮かべていた。
 抱えた足の上で、ぐすり、と鼻を啜る音がした。
 泣いていた。
「俺ァよお、まだおめえを赦しちゃいねえんだぜ〜〜」
 弟の悔し涙に、関羽は口の中の血を乱暴に吐いただけだ。
「その程度の膂力で、この関羽と口をきこうてか」
 なんでそんな張飛を挑発するような――いや、傷付けるようなことを言うのだ。
 張飛はただ、劉備を侮辱されたことが悔しかったのだ。しかも侮辱したのが、慕っていたはずの、何を考えているのか分からなくなってしまった義兄だ、という事実。それに加えて、己の不遇に対する腹立たしさだ。
 俺とおまえは違うのだ。
 宣言するかのような物言いに、劉備も叫んでいた。
「やめろ、関さん! さっさとここから出て行ってくれー!」
「こことはどこだ」
 静かな声が頭上から降ってくる。
 ああ、おいらはこの問いを聞きたくなかったから、言わなかったんじゃねえのか。関さんと言い争えば、再び関さんは出て行く、と言い出すんじゃねえのか。
 おいらはそれを案じていたんじゃねえのかよ。
 だが、もう発してしまい、そして返ってきてしまった。
「この席か? それともあんたのもとということか?」
 もういいや、と劉備の心に諦めが浮かんだ。
「訊くなあ! あんたの好きにすりゃいいだろが!」
 決別を込めての叫びに、関羽の答えはあっさりしていた。
「当然だ」
 未練を一筋も感じさせることなく、関羽は挨拶なく広間を辞していった。
 張飛の怒鳴り声と、劉備の嘆きだけが取り残される。
 また、関さんが嚢の中から出ていっちまった。でもなあ、もういいんだ。あれが入ってねえ、これが入ってねえって言って嘆くのは、もう散々しちまった。むしろ邪魔だ、邪魔なんだ。
 余計なもんでおいらの嚢を一杯にしちまったら、もうおいらには何が残るってんだ。
「ああ邪魔くせえ! ちっぽけな義や絆なんぞは迷惑だ!! 益徳! おまえらとはもう縁切りだ。みんな好きな所へ行っちまいな」
 天下が遠い。
 最近、ようやく身に染みてきた。
 一向にうだつの上がらない劉備へ、あてつけがましく人材を集めたり、練兵をこなしたりする男も、自慢の武を振るう場所を見つけられずに慕っている義兄に八つ当たりする男を見るのも、情けない自分を呆れもせずに従ってくれる男の端整な顔を見るのも、厭だった。
 こんなすげえ男たちがおいらの傍に居るってえのに、おいらの天下は遠すぎる。
 涙は勝手に出てきた――
 曹操のように冷酷に、従ってくれるのならどこまでも使おうと、割り切れるわけでもなく。
 慕ってくれる男たちの存在を喜び、その人生を無駄にさせていることに気付かない鈍い袁紹にもなれない。
 もう劉備には、どうしたら一番いいのか、分からなくなっていたのだ。
 ――なあ、どうしておいらのところへ戻ってきたんだい、関さん?
 戻ってこなければ、余計な希望など持たずにすんだのに。



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