「天下の(うつわ) 2」
 蒼天航路
関羽×劉備


【起】

 身を起こした。延津(えんしん)での戦のあと、こうして野山で寝起きを繰り返していたが、夢を見たのは初めてだ。
 しかも、あの時の「悪夢」だ。
 義兄の劉備を犯した過去を、久しぶりに夢に見た。
 ――関さん、なんで。
 今なら分かるような気がする。劉備の問いかけに答えられるだろう。しかし、すでに「あの時」のことは二人の間で無かったことにした過去である。今さら蒸し返すことを、関羽はもちろん、劉備とてしないだろう。
 頑丈さが取柄の劉備だったが、さすがにあの後丸一日身動きが取れなかった。
『関さんがおいらのことこうしたんだから、面倒みやがれ!』
 と喚いたことで、引きずることなくそれきりの話になった。それでも、張飛はしばらく胡乱な目付きで二人を見ていたし、劉備も関羽へ対する態度はぎごちなかった。張本人の関羽だけが、あの衝動も忘れて淡々と過ごしていた。
 ただそれは忘れただけで、時たま関羽を襲ってきた。
 しかし、再び劉備を犯す、という行為まで発展することはなく、辛うじて内側に抑え込み、やり過ごしていた。そうするうちに、衝動は日々の一環であるように循環し、関羽の中に当たり前のように存在する気性となった。
 だからだろう。関羽もあえてあの時の答えを見つけよう、という気にはならなかった。
 ところが、ひょんなことから答えは思わぬ人間から投げ付けられ、掲示されることになる。
 曹操だ。
 徐州を曹操より奪い取った劉備は遁走し、残された関羽は曹操に降った。劉備の息子、公徳(こうとく)を人質にとられ、止むを得ない決断だった。
 好きなように使え、と啖呵をきった。それゆえに、袁紹との戦に指揮官として召しだされたときも粛々と従った。
 しかし。
「劉備を殺せ」
 大器だ、と関羽が捉える劉備にさえ、「曹操どんはでっかくてさぁ」と言わしめる男が、次に劉備が戦場に現れたなら、亡き者にせよ、と命じた。
 俺に長兄を弑(しい)せよ、と言うたか。
「私があなたの命に従うのは、公徳殿という人質がいるせいだ。劉備を殺せとは、人質を超えた命であろう」
 出来ぬことだ、と反論したが、曹操は馬を操りながら講じる。
「お前の器量を超えてはおるまい!」
 視線は一瞥たりとも関羽に向けられないが、強い威圧を曹操は立ち上らせていた。
「お前は、劉備より上だ」
「――!」
 忘れていた「あの衝動」が関羽の下腹に生まれた。
「俺は関羽雲長という男のために、ふたつの装束を用意した。そのひとつが敵を一瞬にして恐怖に陥れるあの鬼面の将であり、もうひとつが、万民に恐れ敬われる厳格なる為政者の装束だ」
 衝動が火にくべた栗のように弾けそうだった。
「関羽! 将としての才を絞り尽くし、乱世を一刻でも早く鎮めてしまえ! その後は政(まつりごと)だ!」
 楽しそうに語る曹操の背を見つめながら、猛る衝動に息が荒ぶる。
 為政者だとっ? この関羽の中に人を統べる才を見いだしたとでもいうのか! あえりえぬことだ! 曹操孟徳、佞言を(ろう)すか!
 衝動は曹操への怒りに摩り替わった。追いかけてくる文醜の軍へ怒りのままに切りかかった。幾度も軍を細切れにし、文醜を試すかのように惑わす。そのうちの一隊を率いた関羽は、追い縋ってきた兵たちをひたすら斬った。
 斬って斬って斬り捨て、不意に「答え」が目の前に転がってきた。
 途端に湧き起こった感情に、刃先は正直に答えた。
 それは恐怖であった。
 ただ命を奪う行為に変わり、叩き潰し、捻り潰し、殺した。敵も味方も関係ない。殺戮だった。
 そうやって、幾里駆けたであろうか。
 そのような才は一顧だにしなかったというのに、関羽の中で今は鋭くきらめき、大きくゆらぐ。
 人を統べる才、そして見つけることをしなかった答えが一致する。
 腹が減り、食えるものを探して食べる。眠くなったら寝る。
 生きるためだけの行為が辛かった、苦しかった。
 ひたすら歩ませていたせいか、馬は疲れ果て、倒れた。偃月刀を振るい、命を啜った。
 草の上で寝転がり、雨が降り、雷が鳴る中で、ただ大地に身を預けていた。
 そして、夢を見た。
 もう認めるべきであろう。
 夢を見た、ということはきっとそういうことだ。
 ――劉備より上だ。
 言い切った曹操の言葉をまともに受け取ることなどできないが、答えは半ば肯定している。
 俺は、長兄の――劉備の嚢に収まっていることが厭だった。
 それが苛立ちになり現われ、衝動となり、嚢である劉備を犯し、壊そうとした。
 目の前に転がってきた答えは、いとも簡単なものであった。
 小刻みに身体が震えていた。
 恐いのだ。
 劉備と、世を変えるのはこういう男であろう、と義を結んだ。それを裏切る、ということは、関羽の芯である侠者としての核を含め、すべて否定することになる。兵をいくら斬っても消えることのなかった恐怖が、再び関羽を包む。
 だがそれは同時に、新しい世に生まれることのできる武者震いでもあった。
 赤子は母の胎内より産まれしとき泣くのは、苦しい世に産み出されたことを悲しむからだ、と言う者がいる。いや違う、嬉しいから泣くのだ、ともちろん反論する者もいる。
 今の関羽ならば、両方だ、と答える。
 吼えた。
 世に生まれたことを大声で知らしめる赤子のように、関羽は立ち上がり、空へと咆哮した。
 びりびりと大気は震え、声は近くの邑々(むらむら)まで聞こえ、人々を怯えさせたという。



目次 次へ 戻る