「琥珀と橙の賭け 5」
 無双5準拠
関羽×劉備(曹操×劉備含む)



 劉備と別れて時が流れていた。袁術討伐に出陣し、そのまま曹操の(恐らく劉備の存在を快く思わない臣下の誰かの)罠にはまり、劉備は曹操と袂を分かつことになった。戻ってこられなくなった兄の身を関羽は案じていたが、張飛が共に居る、ということだけが救いだった。
 本来ならすぐにでも劉備を探しに行きたかったが、許都には劉備の家族も残している。一緒に連れながら行方も分からない人間を探す、というのは無謀である。また、曹操に世話になりながら恩を返していない。ただ離れることなど出来なかった。何より、曹操から劉備の行方が知れたら出て行くと良い、と初めから許可はもらっている。関羽は逸る心を抑えながら日々を過ごしていた。
 そして今、曹操は大敵袁紹との戦を控えていた。
 戦が近付き、都全体がざわざわと落ち着かない雰囲気を醸し出している。関羽は曹操に誘われて、行軍の準備に追われている軍勢が見渡せる楼閣へ足を運んでいた。
 しばらくは袁紹の人柄や諸侯の動き、戦を想定した模擬軍議で議論を交わしていたが、曹操はふと、賭けをしないか、と言い出した。
「賭け、ですか」
「そうじゃ」
「どういった」
「儂と袁紹、どちらが勝つかだ」
「それは賭けになりませぬな。曹操殿はご自分が負けるほうへかけるはずがございませぬし、拙者も己が参戦する戦を負け戦にするつもりは毛頭ござらぬ」
「頼もしい答えじゃが、ならば成立する」
「……?」
「儂は儂の負ける方へ賭ける」
「……自信がないと?」
 確かに今回の戦、曹操側は寡兵だ。激戦を潜り抜けた曹操軍は精強であるが、相手は名家である袁紹だ。多勢に無勢。戦の戦況は単純に数の優劣ではないが、圧倒的な戦力差はそれだけで脅威だ。
「それもある。だがな、どうも儂は昔から少々捻くれておるところがあるのだ。勝てない賭けをしてみたくなるのも、それじゃの」
 賭け、という単語を聞くと、関羽の封じたはずの胸裏がきしきしと音を立てる。
「実は劉備とも賭けをしたことがあってな」
「……それは初耳です」
「そうだろう。少々人に言いづらいことを賭けておったから、当然だ」
 関羽はさり気無く興味をそそられたふりをした。
「兄者はあれで賭け事など得意な方でしたが、曹操殿もお強そうだ。内容と結果が気になりますな」
 関羽が乗ってきたことに嬉しそうにしながら、曹操は軽く肩を竦めた。
「我ながら内容は中々趣味の悪いものだ」
 じっ、と窺うような曹操の視線が関羽の顔色を観察する。
「……劉備の心が儂とお主、どちらに傾くか、そういう賭けだった」
「……それはまた」
 目を見開いた。詳しい内容には言及せず、結果をせがんだ。曹操も内容についてはそれ以上言いたくなかったらしく、話を続けた。
「賭けというか実験も兼ねておったのだが、あの賭けは、そもそもにして勝てる賭けではなかった。実験にしても、すでに結果の分かりきったものだった。儂は端から劉備に惹かれていたし、劉備は儂に惹かれていて……」
 砂塵の舞う大平原へ曹操の目は流れている。
「お主は劉備に惹かれていて、劉備はお主に惹かれていて。最後にあやつが誰を選ぶかなど、儂には見えていた結果だったのじゃ」
「……」
 黙って、関羽は曹操の言葉に耳を傾けていた。
「儂は儂自身の慧眼を大事とし、乱れた世を渡り、先の道を拓くにも必要な力だ、と自負している。それでも時に、このような才に恵まれることなく、ただ盲目的に、目の前のことにがむしゃらに立ち向かっていく力だけでも良かったかも知れぬ、と思うこともある。お主のように、ひたすら唯一人の男を信じ、身魂を捧げる一生も捨てがたい、と突き上げるような渇望に苛むこともある」
 細めた視界の先で、「曹」の旗が大量にはためいている。
 これだけの大勢の臣下に囲まれ、心より忠義を誓ってくれる者たちに慕われていても、曹操は孤独なのだ。埋めることの出来ない虚無がいつも心の真ん中にあり、砂塵が吹き抜けている。
「だが、儂は儂の才能を知っておるし、知ってしまったからには活用せずに生きていくことなど許されない。使われるべき才を惜しみなく使い切ることこそが、この世に生まれた者の宿命なのだ。理(ことわり)なのだ」
 誇らしげに、だのに悲しげに曹操は言う。
「人というのはある時、悟る。己が生まれたこの世で何をするべきなのか、何をしなくてはならないのか。もしくはそれを探し続けるのかもしれないが、気付くのだ。お主は自分がどれだけ恵まれているか、気付いているか?」
「存じているつもりです」
 早くに出逢えた。この人だと気付けた。幸せだった。ただ一つのことを除いては。
 雲長、と呼ぶ声が今、無性に聞きたい。
 己はあの人のために生きている。
 あの人も、この男のように孤独を感じているのだろうか。小さい集団といえども上に立つ者だ。身魂を捧げて支えているが、同じように虚無を抱えているのだろうか。
 あの人とこの男は、その虚無を互いの中に見出して、歩み寄ったのだろうか。己の知らないあの人の顔をこの男に見せて、言葉を交わしたのだろうか。
 咄嗟に目を瞑った。
 砂塵が、目に痛かった。
「のお、関羽」
 呼びかけられた。深い、劉備とは趣を違える、しかし同じように逆らいがたい思慕の念が湧くような、心服を抱かせる声音だ。
「儂の下には留まれぬか、関羽よ」
 曹操のところへ身を寄せるようになって、何度耳にした言葉であろうか。いつもはただ短く否、と答えるだけであったが、今日はそれだけではすまないだろう。
「曹操殿がなさんとする道は理(り)。確かにそこには大義があろう。しかしこの関雲長の義は、道ではなく、道を往く人と共にある」
 はっきりと、己と男の道が違うものである、と示した。己の道はずっと、迷いなくあの人と共にあった。
 それはきっと類まれなく幸福なことだ。
「あくまでも人の生を往くか」
「共に歩まんと誓った兄弟たちの絆のため、曹操殿のご厚誼は官渡の戦にて報いさせていただく」
 これ以上の問答は必要ない、と切り上げた。踵を返して関羽は楼閣より去る。一人残った曹操は小さく、苦い笑いを浮かべる。
「我が理に収まらぬのも、大器ゆえか。ままならぬものよ……」
 砂塵が一陣、曹操の外套を巻き上げ、空へと登っていく。
「最後の、賭けをしようかの」
 関羽は見事に恩義を戦で返し去っていくだろう。自分は止めない代わりに言葉を預けよう。この言葉を聞いて劉備がどう反応するのか、薄々と想像が付く。
「また勝てない賭けをしようとしておるか」
 だが面白い。袁紹との戦も、関羽との賭けも、劉備との実験も、がむしゃらに立ち向かうからこそ楽しいのだ。
「それでこそ、人の生きる道じゃ」
 曹操は一人、静かに笑った。



 関羽が戻ってきた。曹操のところへ置いてきた関羽を案じない日はなかったが、曹操が関羽に危害を加える可能性だけはない、と信じていられた。
 劉備にとっては大きな救いだった。
 戻った関羽を皆は歓迎し、劉備は涙ぐんで迎えた。ただいま戻りました、と拱手する関羽の目にも、うっすらと涙が浮かんでいた。ひとしきり関羽を迎える祝宴が済むと、身の落ち着き先を求めて、荊州(けいしゅう)州牧である劉表(りゅうひょう)へ使いを出した。
 返答を待つ間、体が鈍っていないか、と関羽を誘い、河の畔で久々に組み手をすることにした。辺りは午後の陽射しが深くなりつつある空が広がっている。
「雲長、訊かせてほしい。お前の目から見て、曹操とはどのような漢であった」
 互いに礼を取り、拳を交える。交えながら、長く曹操の下にいた関羽があの男をどう捉えたか訊いてみた。
「大きく、聡く、強い。天の理を語る、およそ英雄と呼ぶに相応しき御仁でござった」
 踏み込んで鋭い攻撃を繰り出した関羽の威力を削ぐために、後方へととんぼを切って劉備はかわす。
「――っ」
 足が石畳を捉え損ねて、体が泳ぐ。腕を関羽が掴んで支えてくれた。
「人の才は大いに尊ぶ。しかし、情では動かぬ。ゆえに仁を戴かず」
「仁を戴かず……か。そのような者と共には天を戴けぬ。ありがとう、雲長。良く帰ってきてくれた」
 改めて、礼を口にする。
 愛しい男であると同時に、大切な男だ。男の才を活かし切れていない、と罵られようとも関羽を手放すことなど考えられない。離れていたときが強く実感を生んだ。
「関雲長が武を振るうのは道を往く仁のため。参ろうぞ、兄者。道に迷う者を導くために」
 ああ、もちろんだ、と笑う。
「公祐(こうゆう)(孫乾)と子仲(しちゅう)(糜竺)が色好い返事を持ってこられると良いが」
 劉表へ使者として使わせた二人に思いを馳せ、そして反対の空、未だに袁紹と戦っているであろう曹操の居る方角へと眼差しを向ける。
「曹操は、私を放っておかないだろうからな」
 情では動かない、その通りだろう。例え、あれほどに劉備を好いている、と訴えた男だろうとも、もしも己の道を阻む、となるならば何としても討伐しようと兵を差し向けるはずだ。
「兄者は、曹操殿と歩む道を選ばれるおつもりはないのですか」
 唐突に関羽が尋ねた。劉備はきっぱりと、ないよ、と答えた。さっき、そう言っただろう、と何が弟を不安にさせたのか分からないが、払拭させるためにも強く否定した。しかし関羽は珍しくも眉を曇らせたまま、何かに迷っている風だった。
「雲長? どうした」
「我ら義兄弟、絆に関わるようなことに隠し事はない、と信じております」
 劉備の促しに関羽の重そうな口が開いた。
「だからあえて伝えるまでもない、と思ったのですが……。曹操殿は別れ際、拙者に兄者への言伝を頼んできました」
 心臓が高鳴る。別れて久しい男だが、今でも月を見上げるたびに綺麗な琥珀色を思い出し、身体の奥が甘く、切なく疼く。
 劉備の些細な変化を見逃さない、とばかりに関羽の双眸が見下ろしてくる。
「曹操殿は言った。曹操殿のところへ兄者が戻れば、曹操殿を選んだ、ということ。あくまで拙者たちと歩むというのであれば、拙者が選ばれた、ということ。あいつに、兄者に選ばせろ、と」
 賭けだ、と曹操は笑ったという。きっと、あの人懐こい笑顔で口にしたのだろう。懐かしささえ覚えて、そうか、と答えた自分の口元は綻んだ。しかし続く言葉に強張った。
「曹操殿は兄者がまだ曹操殿のことを好いていたのなら、連れて戻って来い、と言いました。兄者と拙者、共に引き受けると笑って言いました。兄者は……どうなのですか」
「聞いたのか」
 私が曹操を好きだ、ということを聞いたのか、お前は。
 これでお前に隠すことは何も無くなってしまったな。唯一、お前への気持ちだけを残して、隠し事はなくなった。
 いっそ、劉備は清々しい気分になった。正直に、今の気持ちを口にした。
「曹操のことは、好きだ……今でも好きだと思う」
 一呼吸、置いた。
「……肌も重ねた」
 まだ腕を掴んでいた関羽の手に力が篭もり、痛みが走ったが、構わず続けた。
「だからこそ、分かった事もあった。私と曹操は道を違える者同士なのだ」
 曹操からも関羽からも離れた時間が、劉備に決意を促し、自分の進むべき道を見つけさせた。考える時間はたくさんあった。曹操も居なく、関羽も居なく、張飛たちは黙って劉備が決断するのを待っていてくれた。
 関羽から見た曹操という男の評を聞いて、なお固まった。
「心も体も交わることが出来たとしても、志だけは無理だった。雲長、お前とは……志を重ねられる。私はお前と共に歩む道を選ぶ」
 例え、心も体も重ならない人生だろうとも、私はお前を選ぶ。
「それが、それだけが拙者を選んだご理由か」
「駄目か」
 劉備にはそれ以上の理由など示せない。何を関羽が望んでいるのか解らず、戸惑う。
「曹操殿とは、なぜ寝ることがお出来になったのです」
「……好きだからだ」
 もう、充分ではないのか。お前に向かってこんなことを言わせるな。
 劉備は顔を歪ませる。掴まれた腕から伝わる関羽の手の感触が熱く、痛い。
「では、拙者の事はどうお思いですか」
 意味が分からなかった。無言のまま関羽を見上げる。
「どうして、あの時、拙者に相談してくださらなかった。どうして、曹操殿の言うままに抱かれたのですか。賭けや実験などという名で口実を作っていたぐらいなら、迷われていたはずです。拙者におっしゃってくだされば、貴方を曹操殿に渡しはしなかったのに」



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