「姑の、天下三分の計 3」
 関羽×劉備



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 諸葛亮の実家がある隆中は、新野城のある南陽郡から郡境を越え南西に五十キロほど行ったところに存在している。隆中の村自体は小さく、諸葛亮が暮らしていた草庵はその小さな村のさらに外れにひっそりと佇んでいた。
 久しぶりの変わらぬ我が家の姿に、心を病み始めていた諸葛亮は目頭が熱くなる。
 歩み寄れば、簡素な囲いの向こうで畑を耕している青年がいる。
「均」
 呼ぶと、青年は顔を上げて諸葛亮を見とめ、驚きで目を丸くした。
「亮兄さん!」
 鍬を放り出して、諸葛亮の実弟である諸葛均が駆け寄ってきた。まだまだ少年のようなあどけなさが抜けないが、兄の諸葛亮に良く似た顔立ちをしている。もっとも、諸葛亮が理知的な雰囲気を漂わせているのと違い、彼は素朴で平凡な空気を纏っている。
「どうしたのです? 確か帰られる、という文もなかったと思いますけど」
「ええ、ちょっと月英と均の顔を見たくなりまして」
「そうですかぁ。そうだ、義姉(ねえ)さん、義姉さーん、亮兄さんが帰ってきたよー!」
 バタバタと駆け出して、家の中へと声をかける。すると、中から落ち着いた足音が聞こえてきて、玄関から顔を出した。諸葛均と違い少しだけ驚いた顔をしたあと、彼女は微笑んで丁寧にお辞儀をした。
「孔明様、お帰りなさいませ」
 聡明さを感じさせる澄んだ声に、微笑を浮かべた頬の白さや唇の赤味が女の美しさを彩っている。ふわり、となびいた燃えるような赤い髪が印象的だが、諸葛亮を見つめる柔らかな眼差しが何よりも綺麗だ。
 妻の変わらない姿に、硬くしこっていた心が解きほぐれるようで、諸葛亮は久しぶりに心から笑みを浮かべた。
「ただいま帰りました、月英。留守中、何か変わったことはありませんでしたか」
「ええ、特には。あ、でも一つだけ」
「おや、なんでしょう?」
 しかし、月英はふふっ、と笑ってちらり、となぜか諸葛均に視線を走らせただけで、先を話そうとしない。一方、月英からの意味深な視線を受けて、諸葛均は顔を赤らめている。
「新野からここまで、歩き通しでお疲れでしょう? さあ、いつまでも立ち話など無粋ですもの。どうぞ寛いでください」
 促されて、屋奥へと導かれる。玄関をくぐった先で鼻腔をくすぐった木材や薬香の匂いに、我が家に戻ってきた、という実感を覚えた。

 三人が居間に揃っての夕餉は終始穏やかで、無駄にいちゃこらする義兄弟も、酒を強要してくる乱暴者も、無意味に煽って騒ぎを大きくする男もいなかった。もちろん、爽やかな風を吹かす武人や、苦労性の財政係も笑顔担当の外交係もいないのは少しだけ寂しかったが、諸葛亮にとっては三人だけの食卓は懐かしく、すっかり寛いでいた。
「そうですか、習氏の娘さんが均の嫁に」
「ええ。孔明様を通して、というのが筋だったのですが、父と?徳おじ様がすっかり乗り気になってお二人で話を勝手に進められてしまって」
 少し困ったように笑っている月英に、相変わらずお二人は元気なようですね、と諸葛亮も笑う。
 月英の父、黄承彦(しょうげん)は荊州南郡の名士で、同じく襄陽の豪族、?徳と仲が良い。二人とも乱世である世に抗い、気ままな隠遁生活を送っている。しかし、やはり元来から元気の有り余っている人たちなものだから、周りの迷惑など省みず、騒動を起こしてくれる。
 今回は、諸葛家のことに首を突っ込み、諸葛均の縁談を勝手に結ぶ、ということを仕出かしたようだ。
「丁度、私もそろそろ均の縁組を、と考えていましたし、構いません。お二人が選んだのでしたら、良縁なのでしょう?」
「はい。先日、当人同士も顔を合せたところです」
「とても、素敵な方でした!」
 聞かれもしないのに、諸葛均が主張した。頬が紅潮していて興奮気味だ。どちらかといえば大人しい性格をしている弟の珍しい表情に、おやおや、と諸葛亮は微笑ましい思いを抱く。
「これは相当な美人だったようだ」
「違いますよ、彼女は心が美しいのです!」
「そうなのですか? 均様は彼女を一目見たときからお気に召したようだったので、私はてっきり美しさに心を奪われたものと思いましたのに」
 月英がくすくす、と笑う。慌てて、諸葛均は否定してくる。
「何をおっしゃるのです、義姉さん。……いえ、確かに彼女の外見にも魅力を覚えましたが、それは彼女の内面が滲み出ていたからで、決してそれだけでは」
「分かっておりますが、そんなにムキになられては、肯定しているようですけども」
 月英にからかわれて、諸葛均は勝ち目がない、と諦めたらしい。そそくさと自分と諸葛亮、月英の食器を片付け始める。
「今日は僕が片付けますから。あとはお二人でごゆっくり」
 どうやら、気を利かせたせいもあるらしい。諸葛均の言葉に甘え、二人は食後の白湯をのんびり啜っていたが、諸葛均が台所で洗い物を始めた音が聞こえると、月英がことり、と脇に湯飲みを置いた。
「それで、孔明様はいつまでこちらに?」
「まだ帰ってきたばかりだというのに、もう戻らせるつもりですか? 私が邪魔でしょうか」
「誤魔化さなくて結構です。連絡もなしに孔明様が戻られるなど……劉備様と何かございましたか」
 才知を宿した妻の瞳に見つめられ、諸葛亮は肩の力が抜ける。
「そうでしたね、貴女に隠し事など無意味でした」
 月英や諸葛均が諸葛亮のいない間のことを楽しげに話すのに対し、諸葛亮は自分の境遇や状況を口にしなかった。その不自然さに聡い妻ならばすぐに察したことだろう。
「もちろん、無理にお話になられることはありません。話したくなったら私はいつでも聞きますので、おっしゃってください」
 やはり、私には過ぎた妻ですね。
「ありがとうございます、月英。分かりました、そうします。少なくとも、もう二、三日は居ることになりますけど、よろしいでしょうか」
 すると、月英は可笑しそうに笑い声を立てた。
「ここは孔明様の家ですよ。誰に許可を取る必要もありません」
 そうでした、と諸葛亮も笑う。
 それからは、月英の発明した品物を見せてもらったり、逆に諸葛亮は新野で得た薬学や法学を伝授したりと、実に夫婦らしい(あくまで彼らが基準だ)時間を過ごした。
 久々に、心から寛げる時間に、諸葛亮は平和を噛み締めていた。

 次の日はいつも通りの早い時間に目を覚まし、村の人間へと挨拶をしに行った。諸葛亮の智慧を頼りにしていた村人たちは、男の帰りを喜んでくれ、さっそく相談事を持ちかけてきた。
 それらに一つ一つ答えを導き与え、代わりに食べ物や生活に必要な品々をもらう。世の中、ギブ・アンド・テイクである。一人、自給自足率百%、金がなくとも生きていける、意外にサバイバルに強い男、諸葛孔明は、芋や大根で一杯の籠を背負い、ひぃひぃ言いながら家に戻ってきた。
 前言撤回、筆や書簡しか持てない男が、生き残れるはずがなかった。それに、畑を耕し自給自足しているのは、弟だ。
 お帰りなさい、と月英が迎え出て、諸葛亮が息を切らしながら運んできた籠を預かり、難なく持ち上げて台所へ置きに行く。家事は重労働なのである。
 そして午後からは薬草を採りに裏山へ出かけたり、こっそり新野城の書庫から借りパクしてきた書物を読んだりと、のんびり過ごす。
 やはり晴耕雨読(類語に自宅警備員、ぷー、ニートがある)の生活は癖になる、と夕暮れに赤く染まり始めている庭を眺めてしみじみする。働き者の弟がいて、聡く気の利く妻がいる。幸せはここにあり、とすっかり爺むさくなっている二八の若者である。
 と、何やら玄関先が賑やかになる。そういえば、先ほど馬の蹄の音を聞いたような気がした。
 今、諸葛均は薪割りのために家の裏手。月英は趣味の発明品の開発のために、離れへ行っている。客人が来たら対応は諸葛亮がしなくてはならないが、月英が何か言っていたような気がした。
『孔明様がのんびりお過ごしになられるよう、お客様が来たときのために、セコムしておきますから。気兼ねなくお好きなことに没頭してください』
「セコム?」
 何やら嫌な予感がした。
 腰を浮かした諸葛亮の耳に、鳴子の音が届く。なんだ、と慌てる声がして、続いてカラカラと歯車の回る音と、鈍い何かが転がる音、続けてどすんどすん、と重い物が落ちる音が響き渡る。最後にざばぁ、と水のような物がぶちまけられる音がした。
 ぎゃー、とかうわー、とか見っとも無い悲鳴が次々と上がる。
 青褪めた。
 非常に聞き覚えのある声だ。
 急いで庭先から玄関へと回り込めば、想像以上の惨事が広がっていた。
 頭を押さえて蹲る耳の大きな男と、なぜか全身濡れ鼠の髯もじゃがいて、辺りには石ころが散乱し、バケツが転がっている。
「ピダタゴラスイッチ並の仕掛けだったぞ、諸葛亮」
 涙目になりながら、それでも笑って言った男へ、諸葛亮は慌てて拱手した。
「申し訳ありません、殿」
 頭上から降ってきた石に頭を直撃されたらしい劉備と、バケツ一杯に汲まれた水を被った関羽が、そこに居た。



 迎えに来た、と劉備は言った。
 鳴子の音で飛んできた月英は自分が設置したセコムのせいで、夫の上司たちが酷い目にあったにも関わらず、平然としていた。むしろ、正しく仕掛けが働いたことに満足しているようだ。
 我妻ながら恐ろしい、と思いつつも、劉備が気にしていない、と言い、むしろ仕掛けを作り上げた手腕に感心していたのが唯一の救いだ。
 月英は今、濡れてしまった関羽のために、粗末だが湯殿があるので案内している。
「しかし、随分と大仰な仕掛けを作ったものだな。何か以前、狙われたことでもあったのか?」
 幸い、劉備の頭もコブが出来ただけ、大したことはなかった。ただ痛むのか、時々頭を撫でていた。諸葛亮は「粗茶ですが」と劉備の前に茶を差し出しつつ(白湯と変わらない色をしているので、本気で粗茶だ)、ああ、と頷いた。
「以前、強面の虎髯をした短気な男に、危うく火をつけられそうになったことを話したら、セコムが必要ですね、とは言っていたのですが」
 ごほ、と茶を口にした劉備が咽(むせ)た。
「すまん」
 律儀に末弟の放火未遂を謝る劉備に、諸葛亮は苦笑した。
「冗談ですよ。あの仕掛けは半ば、妻の趣味です」
 ところで、殿はどうしてこちらに、と分かり切っていることを尋ねた。居間には諸葛亮と劉備の二人だけだ。
「迎えに来た」
 玄関先で言った言葉を、劉備はもう一度口にした。
「そなたが私と雲長とのことで悩んでいたこと、病んでいたことを憲和(簡雍)や子仲(糜竺)に聞いて初めて知った。あれほどに乞い願った軍師であるのに、私はそなた自身のことは何一つ顧みていなかった」
 すまなかった。
 正座し、頭を下げる劉備に、諸葛亮はそっと手を差し伸べる。
「殿が謝られることはありません。殿は悪くありませんから。悪いのは髯……」
 髯もじゃ、と口にしようとして言い直す。
「関羽殿です。全てを承知の上で貴方との仲を見せつけ、あまつさえ私に危害を加えようとまでする。何より腹立たしいのは、誰もが貴方と関羽殿の仲など羨望していても裂こうとする者など居ないのに、恐れて過剰な反応を示す。そういう弱さが気に入らないのです。これから先、貴方の望む天を築くには関羽殿の存在が要となります。なのに、あの調子ではとても殿の片腕として認められません」
「諸葛亮、そなたは雲長のことをただ嫌っているわけではなかったのか」
「当たり前です。殿をここまで支えてこられた方です。武人としての誇りや気高さ、貴方を想う気持ちは尊敬しております。だからこそ、もう一歩の前進を望んでいるのです」
「そなた……」
 うる、と劉備の瞳が濡れてくる。
「そこまで私と雲長のことを」
「殿の望まれる天を一緒に作り上げると、ここでそうお約束いたしました。私の道筋はそのときに決まっているのです」
「孔明!」
 突然に字で呼ばれて、ひしっと抱き締められたものだから、諸葛亮は大いに慌てる。
 はわわ、ご主人様?
 危うくパラレルワールドだ。
「殿、突然どうされたのです」
 ひとまず受け止めたものの、間近に迫った劉備の頬は赤味を帯び、双眸は先ほどより潤んでいる。
「ありがとう孔明。私は本当にお前と出会えて良かった」
 どうやら劉備は感激のあまり興奮状態らしいが、諸葛亮はそれどころではない。抱き付く劉備の体温に心拍数が上昇中なのだ。
 ちょっと待て、亮よ。この話は関劉だっちゅうーの。
 呪文のように言い聞かせても、体が勝手に動こうとする。孔明、と呼ぶ劉備の唇を思い切り塞ぎたい誘惑が湧き起こる。
 いやいやいや!
 もう心中、絶叫である。
 しかしすでに口は劉備のそれへと下りようとしている。
「我が君……」
 なんか呟いているし!
「誰が貴殿の所有物か」
 そこへ頭上から殺意を孕んだ声が降り、一気に諸葛亮の目は覚める。
「おわああーー!」
 急いで劉備の体を突き放し(臣下にあるまじき行為)、諸葛亮は叫ぶ。同時に、助かった、とも思った。
 危なかった、危なかった……。
 諸葛亮の内心の葛藤など知る由もないだろう劉備が、諸葛亮の背後に立つ関羽へ笑いかけた。
「聞いてくれ、雲長! 孔明はな、お前のことを案じてあのように厳しいことを言っていただけだったのだぞ」
「ほお……孔明ですか。いつの間に字で呼ぶような仲にお成りに?」
「あ、そうか。すまん、駄目だったか、孔明?」
 いや、別にそれは構わないけど、後ろの殺意が膨らむことに気付いてもらいたいなぁ、なんて。
 ねえ、殿?
「あー、えー、そうですね。殿が呼びたいのなら別に私は構いませんが」
『殿』のところの語調を強め、劉備が呼んでいるだけだ、と主張してみせるものの、果たしてどの程度の効果があるか。
「そうそう、そういえば均の姿が見えないので、探して参りますから、お二人はゆっくり寛いで」
 ここは時間を置いて、関羽の怒りが収まるのを待つのが得策、というもの。
「先ほど見た光景、奥方に報告しても良いのだが」
 立ち上がろうとした諸葛亮は、すとん、と腰を下ろす羽目になる。
「妻は?」
「夕餉の仕度をする、と台所へ行かれた。貴殿にはもったいない、良い奥方であるな」
 そうですか、と言いながら、劉備の隣へ座った関羽とようやく視線を合わせた。
 エンディングノート、書いておくべきだった、と心底思う。
 殺される。劉備がいなかったら、殺される。
「お茶を淹れますね」
 湯飲みを差し出す手が震えなかったのは、根性としか言いようがない。
「で、先ほどの拙者を案じて、というところを詳しく聞きたいですな」
 鬼の目か、悪魔の目か、という目でこちらを見やる関羽だが、劉備に話しかける声は穏やかだ。
 こいつこそ、二重人格だ。



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