「姑の、天下三分の計 2」
 関羽×劉備


「この時代の職場環境劣悪さを訴えるには、どこへ申し出たら良いのだろう」
 真剣に呟きつつ、諸葛亮は回廊を歩いていた。
 何とか趙雲の特訓から逃れることに成功したものの(『殿が呼んでいましたよ』の一言であっさり終わった)、結局趙雲からの誘いはこれ以降も続き、逃げ回る間に諸葛亮のレベルが上がり、戦場で自ら戦える軍師に育つのは、また別の話である。
 すでに午後の職務時間となり、官舎から離れた回廊に人気はなかった。唯一、掃除をしている女官がひとり、せっせと働いているだけだ。
 悩み多き青年は一人で沈思し歩いていたものだから、角で大きなもふっとしたものにぶつかったとき、それが何だか分からなかった。
 黒いフワフワしたもので、さらりとした肌触りがアジアンビューティーなそれに、うっかり和みかけたもののはた、と気付いて顔を上げた。
「げぇー、関羽!」
 急いで後退った。
 諸葛亮が顔を突っ込んだのは、美髯と呼ばれる髯の中だった。思わず口走った言葉に相手への非礼があったが、さすがは諸葛亮で、何事もなかったかのようににこり、と微笑を浮かべて挨拶をした。
「これは関羽殿、大変失礼いたしました。少々考え事をしていたもので。お怪我はありませんでしたか」
「貴殿のような優男にぶつかられて、拙者が怪我を負うとでも?」
 こちらは趙雲よりもさらに高い位置に視線があり、見下ろされる、という表現がぴったりだ。ただでさえ威圧感があるのに、この喧嘩腰の態度。初めの頃など怯えていた諸葛亮だったが、今ではむしろ怒りが込み上げるほどだ。
 この髯め。
 顔色ひとつ変えずに、おっしゃるとおりですね、と微笑めたのは奇跡だ。
「頭脳明晰なために、少々人より体が弱い私などに、こうも簡単にぶつかられるのですから、もしかしたら関羽殿のお体の具合が悪いのでは、と案じたのですが、杞憂でした」
 そっちが鈍いからぶつかったんだよ、と暗に含ませつつ答えると、切れ長の関羽の目がすっと細くなった。剣呑とした殺気が光を放っている。
 しまったぁあ〜、と心の中で絶叫するが、後の祭りである。ここ最近のストレスで荒れた心がぽろり、と厭味を口にさせてしまった。
「確かに、軍師殿はこのように華奢な体躯をしておいでですしな」
 素早く回れ右、をしようと思ったが関羽に手首を掴まれ、傍の壁に体ごと押し付けられた。
 あいたたっ。
 悲鳴を上げなかったのは、本日二度目の奇跡である。
 関羽の鍬のようにでかい手に、あっという間に両手首を絡げられて頭上でひと括りにされる。みしみしっと音が立つほどに力を込められて、諸葛亮は脂汗を滲ませる。
「簡単に折れそうだ」
 ぼそり、と呟いた言葉に戦慄を覚える。
 臥龍、ピ〜ンチ。
 って、ふざけている場合か!
 ノリツッコミをするぐらい、動揺している。
 上背はもちろん、横幅も諸葛亮の倍ぐらい違う関羽だ。間近に見据えることになった面容は射殺さんばかりに諸葛亮を見つめ、整った厚めの唇は奇妙な形に歪んでいる。
 脂汗とともに冷や汗も吹き出る。
「本気ですか」
 声が掠れる。聞かずとも、本気なのは殺意を向けられている諸葛亮自身が嫌でも理解しているが、言わずにはいられない。
「私の身に何かあれば、殿が悲しみますよ」
 双眸に宿った光がさらに強まったが、捕らえられた手首はあっさりと解放された。短い間ですっかり痺れてしまった手首をそっと撫でると、掴まれた痕がしっかり赤く浮き上がっている。
「貴殿の、そういうところが気に入らん」
「申し訳ありません。これが私の役目ですから」
 人心の機微を読み、もっとも弱いところをつく。卑怯とも罵られようが大事な軍師としての素質だ。
「どうせ、そのような口先だけ、甘言を弄して兄者に取り入ったのであろう」
「それは聞き捨てなりません。貴方ともあろう方が殿を愚弄なさるおつもりですか」
「何だと?」
 再び関羽の殺気が膨れ上がるが、今度は諸葛亮も怯まない。何せ先ほどかけた言葉がストッパーになって、実害はない。今まで遠慮して言えなかったことを、ここぞとばかりに言い放つ。
「そうでしょう。貴方は殿が甘言に簡単に踊らされるようなつまらない人間だと、そう言ったも同然」
 初めて、関羽が怯んだ表情を見せた。
「私のような若輩者の言葉を鵜呑みにし、容易く懐へ招く愚かさを貴方は詰(なじ)ったのでしょう」
「そこまでは……」
「おっしゃっていないと? 殿は私を信頼してくださった。それはすなわち私は殿に認められた存在、ということです。その私を否定し愚弄する、ということは殿を愚弄するも同じ。違いますか」
 咽奥で、盛大な唸り声が聞こえた。元々の赤ら顔がはっきりと朱に染まる。
 諸葛亮に舌論で勝てるものなどいるはずがない。
 無言で関羽は背を向けて、回廊を歩いていった。
 関羽の大きな背中が去るまで諸葛亮はじっと見送っていたが、視界から消えると同時に、壁伝いにずるずるとしゃがみ込んだ。
「死ぬかと思った」
 正直な感想を漏らし、本日三度目の奇跡を噛み締めている諸葛亮の近くで、掃除をしていた手を止めて成り行きを見守っていた影が一つ。
「関諸(関羽×諸葛亮)かぁ。それもまたありね。鬼畜系かしら。メモメモ」
 どこの時代も、女たちは元気である。



 やはり職場環境改善のためには、上司の理解と協力が不可欠だろう。
 ようやく諸葛亮は決意して、自分の執務を綺麗に片付け終わった夕刻、上司――劉備の執務室を訪れることにした。
 なぜ今まで劉備に直訴しなかったかといえば、他でもない。問題があまりにもデリケートすぎるのと、出来たなら気付かないふり、というか、関わると厄介なことになりそうな雰囲気がぷんぷんしたからだ。
 それは、昨日の張飛や簡雍、今日の糜竺や孫乾の態度でも伝わってきた。誰しも見てみぬふりをしている現状(若干一名、まったく気付いていない人間もいるが)、あえて首を突っ込みたくなかったものの、仕方がない。
 諸葛亮の場合、直接身に降りかかってくるのだ。持病の神経性胃炎も心配だ。
 劉備の執務室の前に辿り着く。衛兵の姿が見当たらないのが気にかかったが、人に聞かれたくない話をこれからするのだ。都合がいい。
「殿、諸葛孔明でございます。少々お話したいことがあります。よろしいでしょうか」
「……しょ、諸葛亮か? ちょ、ちょっと待っていろ」
 返事まで間があり、それから妙に慌てた劉備の声がした。
 誰かと言い争うような声が扉の隙間から聞こえる。
「もう……こら、離せ……って」
「このようなところで止められて、兄者とて……」
「いいからっ……」
 いや〜な予感……というより確信を持ちつつも、諸葛亮は大人しく中の騒ぎが収まるのを待つ。
「……いいぞ」
 ようやく許可が下りて、諸葛亮が失礼します、と部屋に入れば、予想通り、不機嫌さを全身で表した関羽と、にっこりと笑いながら諸葛亮を迎える劉備の二人の姿があった。
「関羽殿とお話中でありましたか。お邪魔でしたら出直しますが」
 内心では、毒を食らわば皿まで、むしろ好都合、と思いつつも建前を口にする。
「本当に邪魔だ。あと少しで兄者を……」
 何かを言いかけている関羽を「雲長」と劉備が慌てて黙らせた。
「大丈夫だ、どうした。何かまた、妙案でも思いついたか」
 取り繕うような口調はいい訳じみていたが、諸葛亮に向かって微笑んだ顔は本物で、諸葛亮が心より追従を願った劉備玄徳の顔だった。
「いえ、申し訳ないのですが本日はそういった楽しいお話ではないのです。どちらかといえば、苦言を申し上げに参りました」
 勧められるままに劉備と執務机を挟んで向かい合う。関羽は劉備の後ろに控えるように、ぴたり、と寄り添っている。そりゃあもう、不自然なほどに。
「苦言か。そなたの言葉だ。私はどのような耳に痛い言葉でも受け止めるぞ」
 微笑んでいた顔が真摯なものへと変化し、姿勢を正した劉備に、諸葛亮はこれから発するべき内容も忘れて嬉しくなる。
 諸葛亮と劉備は歳(よわい)、二十も離れている親子ほどの差だ。普通だったら年下の若造の言葉など聞く気にもならないだろうに、劉備はこうして身を入れてくれる。政事や軍事に関する提案はもちろん、諫言や苦言の類だとしても同じだ。良いと思えば任せてくれるし、自分に非があると思えば正してくれる。
 率直な態度はある意味で君主らしくないのかもしれないが、諸葛亮はそんな劉備の姿勢が好ましかった。
「お言葉に甘えまして、述べさせていただきます。丁度、関羽殿もおられますし、お二人にまず確認させていただきたいことがあります」
 不思議そうに首を傾げる劉備に、諸葛亮は淡々と続ける。
「お二人は男女の仲のように、好きあっている、という認識でよろしいのでしょうか」
「――っい、いやややや、いやぁ? 違うぞ、なあ雲長?」
 そのときの劉備といえば、曹操に『今の世で英雄と呼べるのは君と余だ』と言われたときよりも動転していたのではないだろうか。曹操以外に比較できる人間がいないのが惜しいところだ。
「その通りだ」
「おぃいい、雲長っ?」
 必死で誤魔化そうとしたらしい劉備に対し、関羽はあっさりと肯定した。
「別に今さら隠す必要もないでしょう、兄者。誰もが認知しております」
「そそそ、そうなのかぁっ?」
 驚きすぎである。声を裏返して驚いている劉備に対して、関羽は冷静そのものだ。一方、諸葛亮はいつまでもこの問題が解決されずに放置されていた原因を悟った。
 本人が無自覚だったからか。
 はあ、と思わず大きなため息が口から逃げた。
 途端、うっ、と劉備が傷付いた顔をして涙を浮かべ始めたので慌てた。
「と、殿?」
「そうだよな、やはり義弟とはいえ弟と寝ている主など、失望するよな。いや、分かる。そうか、そういうことか。ならば私は去ろうとするそなたを引き止められない。しかし、やはり私にはそなたが必要なのだ。こんな主は嫌悪するかもしれないが、どうか私に智慧を……」
 涙をぼろぼろ流しながら勝手に話を進める劉備に、諸葛亮は急いで声を張り上げて制止した。
「ストップ、ストップです、殿。勝手に話を飛躍させないでください。誰が貴方に失望して、辞職を願い出ましたか」
「違うのか?」
 きょとん、として目を瞬く劉備に、もう涙は流れていない。人間蛇口か。
 劉備の涙に動揺した自分に少々後悔しつつ、説明する。
「今のはただの確認です。関羽殿がおっしゃるとおり、周知の沙汰なのですから、今さら貴方を嫌いにはなりませんし、そのために貴方の下を去るなどということはしません」
 もっとも、これからの話の流れでは分からないが。
「何だ、そうか。……それにしても皆に知られていたとは、驚きだ。隠していたつもりだったのだがなぁ。中々難しいものだ」
 諸葛亮の気持ちを聞けて安心したのか、劉備は途端にニコニコし出すが、皆に隠し事がばれていることに仰天しているらしい。
 あれで隠しているつもりだったんかい。
 ちらり、と関羽に視線を走らせると、仕方がありませんね、兄者は、と何だか暖かい目で義兄を見守っている視線を送っている。
 ブラコンめ。
「自覚が出たところで本筋に戻ります」
 うむ、と劉備が頷いた。
「苦言、というのはそのことについてです。自重をお願いいたしたいのです」
「自重?」
「関羽殿との睦まじさを公然と行っていることの自覚を持ち、そして自重していただきたい、と申し上げております」
「公然と? いや、さっきも言ったが、隠しているのだから、そんなことはないぞ」
 だーかーらー、と諸葛亮は鉄壁の忍耐力で苛立ちを抑え込みながら、普段の二人の状況を平静に説く。
「毎度毎度、夕餉のさいにおかずの取替えっこ、時折箸で相手の口に物を運ぶという行為を謹んで。朝、会うたびに関羽殿の髯の状態で健康状態や機嫌を図ってデレデレするのはやめる。赤兎に乗って二人で遠乗りに行くのは禁止。てか、執務さぼってまで行かないでください。事あるごとに雲長、雲長と連呼してハートマークを飛ばさない。鬱陶しいです。それから、乱れている袍を早く直して、キスマークを隠してください」
 劉備は顔を赤くして、直し切れなかった袍の胸元から覗くキスマークを急いで隠してから、すまん、と謝った。
「だから、跡をつけるのはやめろ、と言ったのだ」
「兄者があまりにも魅力的だったので、つい」
「あと、そうやってナチュラルにバカップルになるのもやめてください。砂を吐きそうです」
 ううぅ、諸葛亮が怖い、と劉備が泣きそうな顔になる。
「先ほどから聞いていれば兄者を愚弄するような言葉、兄者の気に入りの軍師だからといえど、これ以上は許さぬぞ」
 代わりに弟が口を挟んだので、幸い、とばかりに矛先を関羽へ向ける。
「貴方もです、関羽殿。貴方は確信犯なだけに性質が悪い。みなの前でいちゃついて、兄は自分のものだ、と所有権を主張するのは結構ですが、私に嫉妬するのはやめてください。体が持ちません。あと、私と殿が同衾した次の夜に殿を責め倒すのもやめてください。次の日、殿が執務に起きられないほどでは、政務に支障をきたします。貴方は殿を支えるためにいるのでしょう。殿の世を築くための邪魔をしてどうするのですか」
 ぐぬぅ、と関羽がまた盛大に唸っている。
「あと、人が真面目に話しているときに、殿のお尻を撫でてセクハラするのは禁止です。おかげで殿は会議の内容をいつも覚えていなくて、また後で私が説明するので二度手間です」
「セクハラとは、相手が嫌がればだ。兄者が嫌がっておられないのだから、セクハラでは断じてない」
「私に対するセクハラです! あと昼間はパワハラでしたね」
「ならば貴殿のそれはモラハラだ!」
「公衆の面前でいちゃつくのは軽犯罪です!」
「いつの時代の話だ、それは!」
 ヒートアップする二人は、しばらくそれに気付かなかったが、しゃくり声でぴたり、と口を噤んだ。
「殿?」
「兄者?」
 ぼろぼろ、とまた劉備が泣いている。
「す、すまない。私が不甲斐ないばかりに。諸葛亮がそんな悩みを抱えていることも、雲長が過ぎた行動をしていることにも気付かなかった。私は情けない主だ」
 すまない、とひたすら謝る劉備に、二人は慌ててフォローに入る。
「そんなことはありません。全てはこの髯もじゃがいけないのです。決して殿が悪いわけでは」
「そうですとも、兄者は何も悪くありませぬ。全てはこのもやしの精神がやわなせいで」
「なんですか」
「なんだ」
 また睨み合う二人に、劉備が「駄目だ」と声を張り上げる。
「二人とも私にとっては必要な存在だ。大事な存在だ。喧嘩などしてはならぬ!」
『二人とも?』
 しかし、劉備の一言が二人の形相を固めた。じろり、と冷ややかな諸葛亮の視線と熱を帯びた関羽の視線に晒され、劉備はびくり、と身を竦ませた。
「そうですね、ここは殿に決めてもらいましょうか」
「そうだな。兄者がどちらの味方をするか。それでこの件を収めようではないか」
「どちらの味方など。私にはどちらも大切で。そもそも比べられるものではないだろう」
「いいえ、ここははっきりさせていただきます」
「兄者のお心を聞かせていただきたい」
 ぐいっと、左右から迫られて劉備はまた泣き始める。
「騙されませんよ、殿」
「それは嘘泣きですな、兄者」
 あっさりと見破られて、劉備は頭を掻き毟る。
「だぁーーあ、もううるさいうるさい! 決められるか!」
 やけっぱちのように叫ぶ劉備に、諸葛亮はすっと立ち上がって見下ろした。冷え冷えとした極寒の地に吹き荒ぶブリザードのような眼差しに、劉備はもちろん、熱くなっていた関羽でさえ押し黙る。
 どうやら、とっておきの策を実行しなくはならなくなったようだ。
「そうですか。殿がそういうつもりでしたら、私、考えがあります」
「な、何だと?」
 左の掌に右の拳をつき合わせて頭を下げて、馬鹿丁寧な拝礼をして見せたあと、にこり、と笑って極寒の眼差しをそのままに言った。
「実家に帰らせていただきます」
「ちょ、は? えぇええーー?」
 それって、嫁が言う台詞じゃないのかー、と叫ぶ劉備を尻目に、諸葛亮は長袍を華麗に翻しながら、劉備の執務室を後にしたのだった。



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