「虚々実々(きょきょじつじつ)……(じつ) 2」
 関羽×劉備


 予定日をだいぶ過ぎてから、巡察官なる男は県舎を訪れた。すっかり待ちくたびれていた劉備たちだったが、姿勢を正し、巡察官の男を出迎えた。
「お待ちしておりました」
 拱手する。
 男は鷹揚に頷いて見せて、やせ細った体躯に似合う、細い双眼で劉備を一瞥した。
「お主が安熹県の長をしている、劉玄徳か」
「はい、左様でございます」
「随分と貧相な有様だな」
 しげ、と無遠慮な視線が劉備の頭からつま先まで動き回る。
 貧相、という言葉を聞いて、劉備の脇に立っている張飛がむっとしたように唇を突き出して、簡雍が「言えてる」と呟き、関羽が眉を跳ね上げた。
 しかし言われた張本人は柔和な笑みを張り付けたまま頭を下げた。
「なにぶん、小さな県を任されているに過ぎませんので、華美なものなど身に付けられません。ましてや面容のほうは生まれ付いてのもの、仕方ありません」
 自分でも不思議なのだが、己を貶(けな)されて腹を立てる、ということがない。自分が憤るとき、というのは常に、弱き者が挫かれたときや、身内と認めた者が虐げられたときだ。
 今も、男の言葉に毛筋ほども感情を動かされなかった。
「なるほど。それで華美なものなどないこのような田舎で、どのように私をもてなすつもりだ?」
「長旅でお疲れであろう巡察官殿には、まずは町一番の宿で汗を流してもらい、心ばかりの宴を開かせていただくつもりです。もちろん、肝心の視察もいつでもご案内できるよう、私がお傍におります」
「それから?」
「それから、と申しますと?」
 まだ何か足りないだろうか、と思索する。簡雍がぽん、と手を打って、これじゃね、これ? と小指を立てて振ってみせる。なるほど、と劉備は納得して、男に説明した。
「生憎と、小さな町ですので商売女はおりませんが、酌をさせるぐらいでしたら、綺麗どころを集めますので、ご安心ください」
「そちらは、元から大して期待はしておらん。それよりも、だ」
 細い目がさらに細くなり、唇が小さく歪んだ。
「こうして、朝廷の遣いとしてわざわざ足を運んでいる者がおる。私の心積もり一つで、お主らの進退が決まる。そういう者へ対しての労いと便宜としての、形ある誠意があるはずであろう」
 誠意とは……。
 心よりのもてなしと、何よりも朝廷のために真摯に官務を行っていることこそが、誠意ではなかろうか。
 それを見ずして、形ある誠意を求めるとは不可解極まりない。
 兄者、と小声で関羽に呼ばれる。そっと巨躯を屈め、劉備に耳打ちをした関羽の言葉に、思わず眉がひそまった。口を開いて反論したくなったが、堪えて笑みを作り直した。
「そちらをご所望でしたら、しばらくお待ちいただけますか。まずは旅の垢を落とされてから、ということで」
 その説明でようやく男は納得したのか、劉備の先導に歩み始める。
 苦い思いが競り上がってくるのを堪えながら、用意させてある宿へ劉備は男を案内した。


 巡察官が湯殿へ消えたところで、劉備たちは額を付き合わせた。
「金って、(まいない)じゃねえかよ!」
 関羽が耳打った言葉を劉備から聞いた張飛が、当然のように声を荒げた。
「地方のこんなちんけなところの賂なんて高が知れてるってのに、欲しいのかねえ」
 呆れた簡雍に、関羽が逆だろう、と言った。
「このような地方であるから、受け取りやすい。朝廷の目も行き届かぬであろう」
 皮肉なこった、と簡雍は肩を竦めた。
「で、玄徳。どうするよ? 余分な金なんてここにはないだろう?」
「当たり前だ」
 不機嫌さを隠さないで、劉備は答える。(たにん)の前では幾らでも感情を抑制できるが、弟たちと悪友の前だと気が置けないせいもあり、渋面もあらわだ。
 国の中枢が乱れている中、地方の小さな県の治安を維持させることは容易いことではない。重税を搾り取られている民の負担を軽くしようとすれば、当然地方財政は苦しい。
 賄賂など、もってのほかだ。そんな金を差し出すぐらいなら、盗賊防止の壁でも建てるか、開墾するための道具を買うかしたほうが有意義に決まっている。
「ふざけんなって怒鳴って、一発殴れば大人しくなるんじゃね?」
 物騒なことを言い出すのは張飛だ。直情的な彼の意見に、一瞬だが全員の顔に『賛成』という文字が浮かび上がる。
「馬鹿を言うな」
 しかし真っ先に否定したのは関羽だった。
「そのようなことをして朝廷に報告されたら、我らの立場が悪くなるだけだ」
「やだなー、冗談に決まってるだろ、冗談」
 ゲラゲラと笑う張飛に『嘘つけ』とまたしても全員の顔に文字が浮かび上がったが、それ以上の突っ込みは避けた。
「どのみち、賂を渡す金子(きんす)なんかねえけどよ」
 財政管理を行っている簡雍が肩を竦める。安熹の貧困ぶりを同じく把握している劉備は大きくため息を吐いた。
「それとなく、金子以外で解決しないか尋ねてみる。そもそも、職務成果を賂額で評価するほうがおかしいのだからな」
 正当な理由がまかり通る、良識を持った相手であることを祈りつつ、宴の準備に取り掛かった。


 男のしかめ面は中々薄れることはなく、簡雍が口説き落とした町一番の美女の酌にも、顔の筋ひとつ動かさない。
 嫌がる張飛を宥めて、秘蔵の酒を出させて飲ませても「旨い」とも言わず、心を込めて作られた料理に舌鼓を打つこともない。
 慣れない世辞に舌を噛みそうになりながら持ち上げる劉備の言葉も、先ほどから上滑りするだけだ。
 たん、と勢いよく箸が膳に叩きつけられた。
 しぃん……と宿の広間に静寂が漂った。
「それで?」
 箸を置いた男の、冷たい声が静けさを裂く。
「それで、とは?」
 辛抱し切れず尋ねたか、と思いつつ劉備は聞き返す。
「肝心なものはいつ出てくるのだ」
「大丈夫でございます。お求めのものは逃げるものではございません。それよりも明日はどうなさいますか。治安の様子をご覧になるのでしたら、案内しますので……」
 煩わしそうに劉備の言葉を遮り、男は手を振った。
「治安など興味ない。見てどうなる」
「おかしなことをおっしゃられますね。貴方様は安熹を治める私たちの視察に来られたのでしょう。なのに興味がない、とおっしゃられるのですか」
「ないものはない。そも、見てどうなるものでもなかろう。渡すものを渡さねば、貴様らは職務怠慢、という名目で追い出される。渡すならば今しばらくここでの滞在を許す。それだけだ」
「……貴方は仮にも朝廷の使者であられます。それが民の暮らしに興味がない、と?」
「ないな。税を搾取できるだけ働いてくれればそれで良い。そもそも、今の世で小さな県の治安を気にしてどうする」
「民を、ここで生きている者たちを守れずして、何を守れるというのです。ましてや、彼らを搾取できればいいなどと……」
 腕を引かれた。
 いつしか巡察官へ向かって反論を試みていた劉備は、我に返った。
「少々、兄は酔いが回っておられるようです。無礼をお許しください」
 腕を引いた男が、巡察官へ向けて巨躯を屈めて拱手した。
「全くだ。不快極まりない。大体にしてこのような田舎へ赴くことすら億劫であったのに、貧乏臭い飯を食わされ、旨くもない酒を飲まされ。挙句に見返りすらないなど、呆れるわ」
「申し訳ございませぬ」
 頭を垂れたまま謝辞する関羽の姿に、兄をこれ以上罵るならば黙ってない、とばかりに張飛が敵意を男へ向ける。それを一瞥のみで抑え込ませた関羽は、男へ微笑を与えた。
「それではお口直しに、ひとつ拙者が剣舞をお見せいたしましょう」
「剣舞など」
 男の興味は賄賂にしかないらしく、関羽の申し出にますます不機嫌そうになる。だが隆々とした関羽の体躯に、あまり強く出ると身の危険がある、とでも思ったのか、やや恐れた様相を見せつつも、顎をしゃくって「見るだけ見よう」と言った。
 えっらそうに、と悪態をつく張飛を、簡雍が宥めている。
 では、と関羽は部屋の隅にあった剣を二対手に取った。
 劉備はこのような場面であったが、関羽の剣舞が見られると、心を躍らせていた。
 長い手足が広間の中央でゆったりと構えられた。
 抜き身の刃が灯りで煌めき、壁に反射させている。ゆっくりと関羽は構え、ひた、と静止した。
 不意に広間の空気が澄んだ張り詰めたものに入れ替わった。
 初めは緩やかな、春の息吹を思わせるような所作から入った。わざとぶつけては鳴らされる二対の剣の金属音が緩く響く。
 かぁん、かぁん、かぁん……。
 それが徐々に逞しく変化していく。春の暖かさから勢いよく葉を茂らす若木のように、そして真夏の引き締まるような暑さへと動きは激しくなっていく。
 カンッ、カンッ、カンッ。
 引き裂くような鋭い金属音が際立っていく。
 そして暑さを惜しむように瑞々しかった葉は色付き、枯れ、ひらり、ひらり、と土に帰っていく。訪れる冬に向けて確実に身を細らせていく木々に、哀愁を覚える。
 かん、かん、かん。
 静かに土へと落ちていく葉を思わせる、小さな響きが二対の剣の間から発せられる。
 そして冬。
 無音の世界。衣擦れの音すら聞こえぬ、緩やかな舞いの合い間から、しかし確実に覗ける、再びの春の訪れ。
 静止。
 関羽が一礼する。
 真っ先に拍手をしたのは、意外なことに巡察官の男であった。
「見事であった。まさか、かようなものを目にすることが出来るとは。貴公は相当な武技を持つ者であったのか」
 素直に感嘆する男の愁眉はすっかり開かれ、関羽の剣舞に見惚れていた劉備たちも、こぞって褒め称えた。
「どこで身に付けたものだ」
 質問責めにする男に、関羽は言葉少なに答える。
「若いころ、旅先で少々……」
「幾ら払えば、貴公のような男を傍に置ける」
「申し訳ございませぬが、拙者の身魂はすでに一人に捧げておりますゆえ、金子では動きませぬ」
 微笑む関羽の眼差しは、ちらり、と劉備に走った。
 胸に湧く幸福感は言い知れないが、同時にむず痒さも感じ、劉備は頬を緩めながらも貧乏ゆすりのごとく体を揺らした。
「貴公のような男が、どうしてこのような男に仕えておる。うだつの上がらぬ田舎軍隊の長ではないか。県尉の地位ですらようやくもらえた末席。器が知れている」
 事実その通りであったから腹も立たないが、ああ、とため息がこぼれそうになる。
 そうだろうと、劉備も思う。
 どれだけ他人に評価されようとも、己の価値を決めるのは己自身だ。己が己の志を見失わなければ、価値が下がることはない。
 だから劉備自身のことをどう評価されてもいい。だが、劉備が低く見られることで、従っている男たちまで低く見られてしまうやるせなさに、いつも劉備は不甲斐なさで悔しくなる。
 しかし関羽は笑みを保ったまま、穏やかに答えた。
「拙者は自身の慧眼を信じております」
「慧眼……! 貴公の武技は賞賛に値するが、先見の明は盲目であるようだ」
 厭味っぽく男の唇は歪み、吐き捨てた。
「つまらぬところへ来た。やはり田舎は好かん。もう寝る」
 一方的に切り上げて、男は裾を翻した。
「っんだよ、あれ! 自分勝手も良いところだぜ。なあにが、盲目だ! おめえのほうが、よっぽど何も見えてねえ!」
 男の姿が消えるか消えないかのところで、生来の大音声で喚いたのは張飛だ。聞こえるぜ、と簡雍が言えば、聞こえるように言ったんだ、と切り返す。
「翼徳、構うな」
 劉備が宥めると、張飛は童のように唇を尖らせた。
「だってよー」
 雲長の兄者だってそう思うだろう、と張飛は関羽に意見を求めるが、関羽も首を左右に振っただけだった。
「あにじゃ〜」
 と、張飛は一人、不服そうだ。
「耐えろ、翼徳」
 だぁ〜、もう! と張飛は地団太を踏む調子でもどかしそうに叫んだ。
「雲長の兄者は、玄徳の兄者が馬鹿にされて悔しかったんだろう? 腹立ってるんだろう? なのに、さっきの兄者の生温さはなんなんだよ!」
 それも俺は腹が立つんだ、と文句をつける。
「俺はてっきり殴りつけてくれるもんだと期待していたんだぜっ?」
「馬鹿を言うな。言ったであろう。そのようなことをしたら、兄者の立場が悪くなるだけだ」
「だからって、兄者を馬鹿にされたままでいいわけないだろうが」
「しかし、お前のように感情に任せた行動ばかり取れば、この先、我々が志を貫いていくことなどできぬ」
「そうかもしれねえけど、志、志って兄者は言うけど、志を突き通すために、大事なもんを汚されたっていいってのは、俺は嫌だ」
「それほど、想いを貫くということは苦難であるし、だからこそ価値があるものだ」
「分かんねえよ! 大事なもんを守れない志に意味なんかあんのかよ!」
「翼徳、世の中は全てを捨てずに何かを手に入れることなど不可能だ。成すべきことのために、何かを犠牲にすることを、覚悟せねばならないものだ」
 感情で訴えてくる張飛とは対照的に、関羽は童子に道理を諭すように冷静だった。
「じゃあ兄者は、後生大事にしている志のために、玄徳の兄者がどんな目にあってもいいってのかよ」
「そのようなことは言っていない」
「だけど、そういうことだろう。志ってやつが貫けるなら、ちょっとぐらい嫌なことがあっても我慢しろってことだ。さっき、兄者が馬鹿にされたとき、雲長の兄者が堪えたのは、そういうことだろう」
「……」
「俺はそれが嫌なんだ。雲長の兄者が大事にしている志ってやつは、玄徳の兄者が馬鹿にされて、それを堪えなくちゃいけないぐらい大事なのか?」
「兄者はこのような県尉で終わるような漢ではない。先を望むには立場を悪くしては……」
「じゃあそのために、あんな奴に愛想笑いしなくちゃいけねえんなら、俺はそんなもん、いらねえ!」
「お前がいらなくとも、兄者には必要だ」
「……雲長の兄者はいつもそれだな」
 急に、張飛が冷めた目付きになり、吐き捨てた。
「俺さ、雲長の兄者は尊敬してるぜ。腕は立つし、学もあるし、いっつも冷静だしよ、玄徳の兄者をすっげえ大事にしてる。だけど、雲長の兄者はどうなんだ。玄徳の兄者を優先にするのは当たり前かも知れねえ。それでも、その前に雲長の兄者の意思ってあんだろう?『兄者、兄者』ってそればっかりで、雲長の兄者の気持ち、俺は時々分かんなくなんだよ」
「…………」
 関羽は言葉を探しあぐねているようだ。
「雲長の兄者は、あいつのこと、どう思って、どうしたかったんだ!」
 迫る張飛に対して、関羽は眉間に深い皺を刻んでから口を開いた。
「……兄者のために、耐えるべき場面であった」
 張飛の面容が赤く染まる。
「ああ、ああそうかよ! はいはい、それが雲長の兄者だよ、そうだよな! だけど、俺はそんな兄者は大嫌いだけどな!!」
 怒りに任せて捲くし立てた張飛は、広間をいかり肩のまま出て行ってしまう。
「おいおい、玄徳、どうして止めなかった」
 呆れる簡雍に、止められるか、と返す。弟二人のやり取りはいつものことだ。勢いよくやり合う二人に中々口を挟めるものではない。しかし今日はいつもより酷い。
 張飛があそこまではっきりと関羽へ敵意を剥き出しにしたことはなかった。
「大丈夫かよ、あれ」
 出て行った張飛を、顎をしゃくって示す簡雍に、劉備が言う。
「自棄酒くらって、暴れるかもしれないな」
「で、幾ら出す?」
「友人から金取るのか」
「こういうときだけダチぶるなよ。じゃあ、今度酒おごれ」
「分かった」
 契約成立、と呟き、簡雍は張飛の後を追いかけた。去り際に振り返り、そっちはお前が何とかしろよ、と言い残した。
 張飛の面倒は俺が見るんだから、関羽は劉備が何とかするべきだ、ということだ。
 言われなくとも、と思いつつも軽く手を上げた。



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