「虚々実々(きょきょじつじつ)……(じつ) 1」
 関羽×劉備



『兄者』と呼ぶ声が好きだ。
『いけません』と叱る声が好きだ。
『仕方ありませぬなぁ』とちょっと呆れた声が好きだ。
『拙者にお任せを』と答える声が好きだ。
『ともに歩むと決めました』と決然とした声が好きだ。

「雲長」と呼ぶと、振り返ったときに靡く髯と切れ長の眼差しと、その眼差しに映り込んでいる情深き色彩が、『兄者』という低く重く響く声音に乗る瞬間が、何よりも好きだ。

 雲長、雲長、雲長……と。
 狂ったように、それしか言葉を知らない童のように、繰り返し呼ぶ。

 頼もしくて、愛しくて、どうしようもなく惹かれる大切な漢を呼ぶ。

 大事な義弟の字を、口にすればするほどに甘く蕩けそうな想いに駆られる字を、呼び続ける。

「雲長」

 今日もまた、自分は呼ぶ。




   +++



 陽光を浴びて煌めく偃月刀の刃が、ひらり、ひらり、と舞っている。美しい娘の袖が軽やかに踊るよりも、芳しい、心ざわめく舞闘(ぶとう)の所作に、劉備は目を奪われる。
 一直線に伸ばされた肩先、腕、柄を握る手、柄から走る刃までが微動だにせず、彫られた木像ですらここまで鮮やかではないだろう、という完璧な静止、ののち、躍動。
 振られる刃が切り裂く空気は鋭いゆえに、澄んでいる。見知らぬ楽(がく)を聞かされて眠くなることはあっても、空気を裂いて奏でられる()に体の芯を熱くさせられ、瞬きすら惜しいと両目は爛とする。
 諸肌の男の体躯は偃月刀を操り、躍り、静止を繰り返すたびにしなやかに盛り上がり、整えられた筋を浮き上がらせ、汗を飛ばす。
 氣の乗った息は(はつ)として辺りを震わせて、聞く耳に心地良く、背筋を痺れさすほどの気迫であった。
 傾国の美女の舞すらも凌ぐ、と思われる舞闘は不意に終わりを告げ、男は得物である偃月刀を小脇へ収め、長く息を吐いた。
 ほお……っと、一緒になり息を吐き出した劉備は、鍛錬を終えた弟へ声をかけた。
「お疲れ、雲長」
「兄者」
 汗に濡れた額のまま、関羽は劉備の呼びかけに小さく笑ったが、すぐに眉を曇らせた。
「官舎のほうはどうされましたか」
憲和(けんわ)簡雍(かんよう))に任せてきた」
 曇っただけの眉筋が、雷雲を含みそうになりかけるのを、手を軽く上げて制す。
「冗談だ。ちゃんと切りをつけて出てきた。憲和は留守番をさせているだけだ。ここに来ることも言い残してあるぞ」
 暗雲が去っていったので、劉備は傍の枝に掛かっていた手ぬぐいを放る。難なく受け取った関羽は吹き出ている汗を拭った。
「兄者の冗談は冗談に聞こえぬから、性質が悪いのです」
「ははっ、そうか? 雲長が単純なだけじゃないのか?」
「……」
 じとり、と両眼の切れも鋭く睨まれるが、劉備は平然と笑い続ける。
「怒るな怒るな。私の嘘に簡単に引っ掛かるお前が好きだぞ」
「兄者」
 嗜める語調が強まる。何か言いたげな口許に、劉備は誤魔化す意味も込めて、さっと口吻を寄せる。
「――っ」
 不意を衝かれた関羽は、目を丸くして一瞬ののち、離れた劉備を苦い顔で見やった。
「兄者、このようなところでお止めください」
「何でだ。誰も見ていないのだから構わないだろう」
「以前とお立場が違う、という自覚をお持ちください」
 諭されて、劉備は拗ねる。
 可愛くない。
 こういうときの雲長は、本当に可愛くない。
 もっとも、九尺(207センチ)ある大男に対して、可愛い、という表現を使う人間など、この広い大陸を探しても劉備ぐらいのものだろう。
「こんな片田舎の県長と、今までの義勇軍の(おさ)だったのと、何が違うっていうんだ」
「義勇軍は身内の者だけ。安熹(あんき)の県尉は官の職務です。県民も兄者の官務(かんむ)を見ております。今までのような勢いや思い付きで事を行い、失敗したら笑って許されていたようにはいきませぬ」
「官職って言ったって、恩賞を待って待って、ようやく賜ったのでやってきてみれば、こんな小さい県の長だ。私たちが味わってきた苦労に見合っているとは到底思えん」
 遠い空へ去ったはずの雷雲が、再び頭上へ立ち込めた。眉間に深い皺を刻んだ関羽と睨み合う。
「兄者は、本当にそうお思いか」
「だってそうだろう。県尉じゃ生死を共にしてきた奴ら、全員養えないから、村に返した。苦労に見合った報償を受け取れたのはせいぜい私ぐらいだ。もっとも働いてくれたお前たちにすら、私は何もしてやれんのだぞ」
 悔しいのだ。
 小さな村で集めた義勇軍など、本来ならば初陣を飾ることすら出来なかっただろう。それが幾度も勝利を味わえたのは、紛れもなく目の前の男と、もう一人の男の武勇あってのことだ。
 その上での義勇軍の功績だというのに、朝廷がしてくれたのは冀州の片隅にある県の長、という役職だけ。
「それでも、与えられた官職には誠実でいなくてはなりますまい」
「分かっている!」
 関羽の冷静な言葉が憎たらしい。
 この義弟はいつでも沈着で大きく構えており、劉備が癇癪を起こそうが倦もうが、正しい言葉で諭してくる。
 だから、時々無性に憎らしい。
 己の狭量さや、どうにも出来ない現状が身内で渦巻く。
 ぶつけられない憤りを、傍の幹に拳で叩きつけようとして、関羽の掌に包まれる。
「ご自分を傷つけるのはお止めください」
 きっ、と頭一つ分は大きい弟を睨む。
「お前は悔しくないのか。仲間を幾人も失った。苦しい負け戦もあった。それでも力を失いつつある漢(かん)のために戦い続けた。その結果がこれだぞ。私は朝廷を恨……」
 関羽の掌が口を塞いだ。
「それ以上は口にしてはなりません。貴方ご自身が朝廷をどう思われようとも構いません。それでも、長である貴方が発した言葉は責が伴う。放たれた言葉は取り消せません。良く考えて発言なさいませ」
 晴れた空を映し込んだような、一片の曇りもない眼差しが注がれている。
「もしも、どうしても抑え込めない事があったら、吐き出さずにはいられない言葉があったなら、拙者が受け止めますゆえ、どうかそれで治めてくだされ」
 厚い皮に覆われた手を掴んで、口から離させた。
 敵わない、と負けを認めよう。私の均衡はお前によって保たれているのだ。
 だけども、悔しいから少しだけいじめてやろう。
「分かった。悪かった、お前に当たった」
 謝る。にこり、と笑う。
「だから、口付けて」
「……どうしてそういう結論になるのです」
 ため息は辛うじて堪えたようだが、関羽の眉根は寄った。
「雲長に抱き締められて口付けられると、落ち着く。だからだ」
 これは、兄特有の冗談だろうか、それとも本気なのだろうか、と探っている眼差しをしている。
「先ほども申し上げましたが、兄者の立場は以前と違います。義兄弟とはいえ、兄弟で関係を持っていることを知られれば、今のお立場が悪くなられます」
「だから、誰も見ていない今が良いのだろう?」
 町の隅、木陰の下で、どうして誰が覗こうというのだろうか。
 なあ、と掴んだ手を引いて促すが、男は渋面のまま動かない。
「やっぱりお前は、私のことが好きじゃないのか」
 あながち、芝居ともいえない悲しい気持ちが込み上げて、劉備の眉を歪ませる。
 好きだ、と告げたのは劉備だ。
 共に戦い続けるうちに芽生えていた恋い慕う想いを、常に隣にいる男に隠し続けるには辛すぎて、ある日ぽろり、と告げてしまった。
 あの時、初めて関羽の弱りきった顔、というものを見た。
 ああ、自分は告げてはならないことを告げてしまったのか、と一瞬にして悔いた。
 冗談だ、冗談、といつものようにうやむやにしようとしたのに、居た堪れなくてその場から逃げ出そうとした劉備の腕を掴んだのは、関羽だった。
『兄者の冗談は、拙者には本気に聞こえてしまうのです』
 本当はどちらなのです、と双眸が訴えていた。
『お前はどっちだと思う』
『……拙者は、兄者の心に沿うだけです』
 優しい、とも思ったし、卑怯だ、とも思った。
 劉備がなかったことにする、と言えば従うし、本気だ、と言えば応えるという。
 私はお前の言葉でお前の心を知りたい。私の言葉でお前を縛りたくない。縛って手に入れた心に何の意味がある?
 なのに、吐(つ)いて出た言葉は『本気だ』という呪縛の言葉で、途端に腕に閉じ込められた幸せに、疼いた心は大人しくなってしまった。
 まだ握っている偃月刀の刃が、陽光を弾いて関羽の横顔を照らしている。どうやらまた、自分は弟を困らせてしまったようだ。
 押し黙っている関羽の面持ちは、劉備でさえ何を想っているのか量れない。
 気まずい沈黙が二人の間に落ちるが、遠くから張飛の呼ぶ声がして、弾かれたように距離を取った。
「あ〜にじゃ〜、どこだ〜っ?」
 末弟特有の銅鑼声が、辺りに響き渡る。
 さて、どちらの兄を呼んでいる声だろうか。
「どうした、翼徳!」
 返したのは関羽だった。劉備との会話を終わりにしたかったのか、それとも張飛の大声にこれ以上の会話を諦めたのか、呼び返した関羽の顔からは読み取れなかった。
 重そうな足音が近付き、張飛は近寄ったはずなのになぜかさらに大音声で関羽に話しかけた。
「雲長の兄者、あのよ、兄者を知らねえ……って、なんだここにいたのか」
 関羽の巨躯に隠れるようにいた劉備に、張飛は気付いて笑顔になる。まだまだ髯も揃っていないながらも強面である顔が、人懐こそうに綻んだ。
 年の順で決めた兄弟の順序であるが、こういう無邪気なところを見るたびに、翼徳は末っ子であるなぁ、と関係のないことが頭を過ぎった。
「何かあったのか?」
 釣られて笑顔になり、尋ねる。
 関羽とは違った意味で、劉備はこの弟が可愛くて仕方がなかった。魯植の下で学んでいたときも、座学はそこそこに、侠と呼ばれる人間に囲まれて遊んでばかりいたが、気が付くと輪の中心にいて、弟分という存在には馴染みがあった。それでも、張飛の真っ直ぐさと、彼特有の敏さに劉備はもちろん、関羽とて愛しく思っているはずだ。
「簡雍が呼んでたぜ。何か朝廷から書簡が届いた、とかって」
「そうか、わざわざすまないな」
「いいって。どうせ腹ごなしのついでだ」
 ぽん、と腹を叩く。そういえば、関羽の鍛錬を見守るのに夢中で忘れていたが、すでに昼過ぎになっている。
「昼飯は何か残っているか?」
「俺が昨日獲ってきた猪肉の干したやつがあるぜ」
「豪華だなー。雲長はどうする?」
 先ほどまでの気まずさを払うつもりで、何事もなかったかのように話しかけた。
「拙者もいただきましょう」
 同じように、関羽も普段と変わりない口調で答えた。
 三人が並びながら官舎に戻ると、大いに人目を惹く。あちこちから声がかかり、いちいち返事をしながら帰るので歩みは遅い。
「すっかり、ここの人間たちは兄者を慕っておりますな」
 嬉しそうに髯を撫でる関羽に、劉備は直前にしていたやり取りを思い出し、複雑な心境に陥る。
 人に慕われることは嬉しいことだ。特にこうした身近な人々を助けたい、という思いもあり、義勇軍を立ち上げたのだ。ただ、どうしてもここで終わりたくない、弟たちの働きに応えられる官職に就きたい、と考えてしまう。今の境遇では満足できない。
 しかしそれを口にすれば、また関羽が渋い面をするのは目に見えている。張飛が来たせいでうやむやになってしまった会話を今さら繰り返すつもりはもうないが、少々当てこすりたくなった。
 なあ、翼徳、と末の弟へ声をかける。
「翼徳は、私のこと、好きか?」
「何だよ、いきなり。……ああ、好きだぜ、当たり前じゃねえか」
 あまりにも素直に即答されたので、問い掛けた劉備が恥ずかしくなるほどだ。
 しみじみと、劉備は言う。
「お前は可愛いな」
 その点、どうだろうか、直弟の可愛げのなさは。思わず、恨みがましく関羽をねめつけるが、二人の会話に聞こえないふりを決め込んだらしい関羽は、表情なく歩いていた。
 可愛くない。
 また、劉備は思った。
 劉備が張飛に求めた「好き」と関羽に求めた「好き」は明らかに種類の違う『好き』であるが、それでもこうもあっさりと口にしてくれる人間がいる傍らで、この違いはどうだろう、と不貞腐れたくなった。
「何だー? 兄者たち、喧嘩したのかぁ?」
 呆れ顔半分、笑い顔半分で、張飛が言った。
 敏い弟、というのも時には困ったものだ。
 劉備の唐突な質問と、二人の間に漂う微妙な緊張感からそう察したのだろうが、常に傍にいるのが当たり前、とはいえ相手のことが分かりすぎる、というのもこそばゆいような面倒なような。
「そういうわけではないが」
 口篭もる劉備を尻目に、張飛に突っ込まれては堪らない、と思ったのか関羽は一人で足早に官舎へと入っていってしまう。
 そんな調子であったから、関羽と二人の食事で会話が弾むはずもなく、辛抱堪らず昼餉の途中であったが簡雍を呼んで、書簡を開いてもらった。
「何と書かれてあります」
「……巡察官が来るそうだ。視察だろう」
「怠けていないか、見に来るってことか?」
 簡雍が訊く。
「そういうことだ」
「では、何も案じることはありませぬな。兄者は県民に慕われておりますし、職務もまっとうしておられる。いつ巡察官が来ようとも胸を張って出迎えられましょう」
「昔っから、受けだけはいいもんな、お前は」
 それぞれに劉備を評価する言葉を聞きながら、劉備は一つの決意を固めていた。



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