「腐心の草 3」
 関羽×劉備


  *****


 私室へ向かう回廊の途中で、いい加減に降ろしてくれ、と頼み、向かい合うように床に降ろされて、劉備はずっと合わせられずにいた視線を、関羽へ当てた。
「……」
 射抜くような目線が劉備を見下ろしていた。何かを言いたそうに唇が開かれるが、そこから漏れる言葉が怖くて、劉備は急いで声を上げた。
「すまん、少々酔っていたようだ。公祐には後で謝っておく」
 唇は閉じられたが、まだ目は何かを言いたそうだった。
「お前にも迷惑をかけたな」
「……」
 無言である関羽に、劉備は居た堪れなさを感じてそっと視線を外す。
 酔っていたのは本当で、途中から記憶があやふやだったのも確かだが、孫乾に絡んでいたらしく、関羽が引き剥がしたところで急速に酔いが醒めて、記憶がはっきりし始めた。
(呆れているのだろうな、やはり)
 張飛や簡雍、劉備など羽目の外しやすい人間ばかりが集まった中では、関羽はいつも御する側に回っていた。
 関羽が重んじているのは義、情、恩や孝といった儒に近いものばかりだ。武人として武の心も尊んでおり、あまり自己を乱すような真似はない。
 ただ、馬鹿をやらないか、といえばそうでもなく、劉備や張飛と一緒に随分と無茶なこともしてきている。
 冗談だって言う。それに乗って、幸いと己も乗ってしまったせいで今があるぐらいだ。
(だからこそ、後悔しているのだが)
「雲長……? 怒っているのか?」
 いつまでも何も言わない弟へ問いかけたのが合図だったように、関羽の大きな掌が劉備の両目を覆った。
 意図することが分からず、声をかけようとしたが、それは関羽の唇に塞がれて叶わなかった。
「っぅん……ん、んん」
 声にならない声は関羽に吸われ、馴染んだ感触に体は力を急速に失っていった。
 酒のせいか、いつもより熱い舌が唇をくすぐり歯列を割って口腔を弄ってきた。
 唐突の口付けに驚いたものの、心地良さはいつもと変わらず劉備を悦の淵へと招く。広い背中へ反射的に腕を伸ばそうとするが、ぴたり、と止めた。

『このままでは、いけないな』

 あの夜に聞いてしまったため息と呟きが再び耳の奥で木霊する。
 最近、劉備が悩んでいた要因を思い出して、関羽を求めようとする仕草を控えた。
(もう、こんなことは止めなくては。雲長のためにも切り出さねば)
 しかしその間も舌は途絶えることなく口腔を愛撫して、絡まる舌は酒の味を伴って苦く甘い。
「ふ、っ……ぅん」
 鼻にかかった、溶けるような息が漏れてしまう。
 ぞくぞくと背筋を間断なく悦が這い上がる。
 するっと関羽の手が耳を撫でた。
 欲しい、と期待する体に、決意を固めた心が折れそうになる。
 唇が離れた隙を狙って、制止の声を上げた。
「ちょっと待て、雲長。あの、だな、今日はちょっと困る……んだ」
 劉備の訴えに、両目を覆っていた手が外れた。闇夜に慣れない目に、眉間に皺を寄せた、不機嫌そうな関羽の顔が飛び込んできた。
(怒ったのか?)
 不安と、関係の終わりを予感させる態度に、折れかけた心が痛みを増す。
(なら、もう少し、もう少しだけならこのままでも)
「あ……とだな、お前、明日から西ではびこっている賊を退治しに行くのだろう。私も明日は公祐に付き合って朝から執務をする予定で。だから、な?」
 半分事実、半分嘘だ。
 諦めきれない心と、これ以上は、という心が生み出す中途半端な拒絶。
「随分と、ご熱心ですな」
 普段はあれだけ苦手だ、と嘆いているのに、と皮肉のように言う関羽の声は低い。おそらく皮肉のようにではなく、皮肉なのだろう。
「それに孫乾殿自身にも、ご執心のようだ」
 やはり呆れているのだ。あの宴での酒乱と絡みを見ていたなら当然だろう。
「それはそうだ。貴重な人材なのだ。欲しい、と思うのは当たり前ではないか?」
「……」
 また無言になる関羽へ、劉備は必死で話題を変えようと頭を回転させる。
「お前は……お前、今夜私のところへ来たがっていたが、これが目的か?」
 関羽から求められることは今までなかった。もしも今夜の目的が劉備を求めるため言うのならと、また劉備は切れかかった二人を繋ぐ糸を強く握ってしまう。
「……いえ、確認したいことがあり。しかしもう答えは出ましたから、部屋へお伺いする必要がなくなりました」
(嫌だ、それ以上なにも言うな)
 予感が劉備を恐怖に駆り立てる。
「拙者は兄者を抱くのをやめます」
 腐った心が思考と共に原型も留めずにドロドロと溶けていくのを感じた。
「今、何と?」
「抱きません、と申し上げました。拙者はもう兄者を抱きません。ですから、もう貴方がそんな顔をなさることはないのです」
 溶けた思考は、完全に役目を失った。
 聞き返そうにも、何を聞き返していいのかさえも分らない。
 返事がない劉備を置き去りにして、大股で去る関羽はあっという間にその姿を消してしまった。
「雲長……?」
 呆然とその場に立ち尽くす。
 そういうことか、とどこか冷静さが残っていた自分が納得していた。
 やはり関羽にとって、劉備との関係は不本意なもので、口実を探していたところに自分が都合よく匂わせたから、飛び付いたのか。
 だとしたら、もう良いではないか。
 いくら義兄弟といえども、そこまで縛ることは出来ない。義兄弟だからこそ、この関係はおかしかった。
 劉備とて、自ら終止符を打とうとした。出来ずにいた劉備に代わって関羽がしたまでだ。
 つまり、元に戻っただけだ。
 つかの間の夢だった。それだけだ。
 なのにどうしてだろうか。
 頬を濡らす熱い雫は次から次へと溢れてきて、堪えきれない嗚咽がこぼれる。
「……っふ、くっ……ぅ」
 拳を握り、口に当てて噛む。立ち尽くしていた回廊で蹲り、声を殺そうとするが、溢れる涙だけは止まらない。
「劉備、殿」
 遠慮がちな声がかけられた。闇の中で、しかも視界は涙で歪んでいる。それでもその声が誰だかすぐに分かったのは、耳に心地良かったからだ。
「こ、ゆう……っ」
 心地良さへ縋り付くように身を寄せた。ぎょっとその体は強張ったが、今度は引き剥がそうとする動きはなかった。
 ためらいがちに孫乾の腕が背中を撫でて、劉備はその腕の中で声を上げたのだった。


   *****


 一時の激情が過ぎたらしい劉備は、醜態を見せてしまった孫乾へ対して、羞恥が湧き起こってきたようだ。照れ臭そうに、すっかり泣き腫らしてしまった顔を伏せながら謝った。
「すまん、見苦しいところを見せた」
 二人は劉備の私室で向かい合っていた。
「劉備殿は、関羽殿と……」
 訊くまいかどうしようかと迷ったが、劉備を慰めるために――下手な慰めをしないためにも、事情は把握しておく必要があった。
「聞いていたか」
「申し訳ありません」
 孫乾が関羽の殺意に中てられてぐったりしている間に広間では、どういう流れでそうなったのか、張飛と簡雍の飲み比べ勝負が始まっており、孫乾の存在はすっかり忘れ去られていた。
 尋常ではない関羽の様子に、劉備が心配になった孫乾は、あの後すぐに二人を追いかけたのだ。
 居合わせたのは、劉備と関羽が口付けているところからだった。
 酔った上での冗談にしては、二人の様子があまりにも慣れていたので、恐らくは初めてのことではないだろう、と察した。
(あれは私を助けたのではなく、劉備殿を私から引き離したかったからか)
 自分に向けられた関羽の殺意は妬心が混じったもの、と理解して孫乾は立ち去ろうとしたのだが、その後すぐにどうにも雲行きの怪しい会話になり、機会を失った。
 そうして、泣き崩れる劉備を見かねて声をかけてしまった、というわけだ。
「いや、謝るのなら私だ。このような男が主では嫌だろう。去りたいのなら、去っても構わん。お前ぐらい優秀なら、何も私のところでなくともやっていける」
 慰めるはずが、なぜか励まされている。
 みっともないほどに泣き尽くしたくせに、傷付いているくせに、どうして他人を構えるほどの余裕があるのだ。
 腫れてしまった瞼を重そうにしながらも、劉備は笑っている。灯された燭台から届く光で、澄んだ瞳は迷いを映していない。
 あれほどに自分を欲していたはずなのに、引き止めないのか。
 それが酷く悔しく悲しい。
 だが、紡いだ言葉は違った。
「追いかけなくとも、よろしいのですか」
 どうして二人が仲違いしたのか分からないが、少なくとも劉備は泣くほどに関羽と別れることが辛いのだ。
 そして恐らくは関羽とて、本意ではないはずだ。孫乾に向けられた殺気は本物で、それは劉備への想いの裏返しだ。
「追いかけられぬよ」
 自嘲めいた笑みが浮かんだ。
「私は、翼徳を含めて三人で誓い合った。死ぬときは同じ日、と。そして志を共にせんとも。そしてその日から、あいつの武や身体、心根すら私のために尽くさせている。これ以上、何を望むのだ」
「それでも、貴方は欲したのでしょう?」
 関羽の芯に、奥底にあるであろう柔らかな部分さえも欲しいと願った。
 誰かのために、何かのために全霊を傾ける。
 それは孫乾にとって、遠い昔に忘れてしまった感情だ。
「そうだ。隣で共に戦っている男を、いつしかそれ以上の存在だ、と気付き。しかし臆病であった私は、雲長の言った冗談を利用した」


『私は、憲和も翼徳も雲長も大好きだ』
 何の勢いだったか、酒の力があったのも確かだが、二人きりで飲んでいたとき、そう劉備が言ったときだ。
『それは奇遇ですな。拙者も同じですぞ』
 低く笑いながら、そう返した関羽も酔っていたに違いない。
『いや、絶対に私のほうがお前の思慕よりも強い!』
 張り合ったのは、その言葉がくすぐったく、もっと聞きたかったからだ。
『それは心外。拙者のほうが上ですぞ』
『では具体的に言ってみろ。お前の想いはどの程度だ』
 想いを具体的に、とは難しいことをおっしゃる、とまた関羽は笑い、それから少し人をからかう悪戯めいた顔をして、
『……そうですね、兄者を抱けるほどには』
 と答えた。
 どきり、と跳ねた心臓を気取られはしなかったか。顔が赤らんだのは酒のせいだと思ってくれただろうか。
『なら、その言葉に偽りがないか、試してみろ』
 そう挑戦的に言い返した声は期待に震えてはいなかったか。
 自分の言った冗談に引っ込みがつかなくなったらしい関羽は、強張った顔になりながら、劉備を抱き寄せた。


 そうして幾度も抱き合った。誘うのはいつも劉備からだったが、関羽も決して断りはしなかった。しかし通じ合ってはいない想いは徐々に劉備を苦しめ始めた。
 それは関羽も同じだったようだ。関羽に宿った暗い澱みは、関羽の凛とした固い部分さえも腐らせていってしまいそうだった。
 義兄と仰いでいる男を抱く己を、あの関羽が許せるとは思えない。
 互いにこの関係の腐臭(おかしさ)を嗅いでいたに違いない。
「勝手なものだろう。自分から誘っておいて、勝手に苦しみ。相手にもそれ以上の苦しさを与えているのを知っておきながら、中々踏み出せずにいた。そしていざ、抱かない、と宣言されればなおも苦しい。それでも、雲長をこれ以上縛れない。だから、追いかけない」
「しかし、関羽殿も貴方を抱かない、と告げたとき辛そうでした。少なくとも、貴方を嫌々、義理で関係を持っていたとは思えません」
「そんなはずはない。このような私をどうして好きで抱くものがいる。ただ、男を抱く味をしめただけ……飽きれば嫌になる」
「貴方は意外とご自分の魅力を理解されていないのですね。確かに私は貴方を抱こうという気は起きませんが、そのようなことは関係なしに、惹かれています。このたった一日の間に」
 劉備の面容が驚きに染まった。
「どうしてだ。先ほどのような醜態も見せ、義弟と頼る男に抱かれ、挙句に捨てられて。それだけではない。この乱れた世でふらふらと雇われ兵のようにしているだけの私に」
「では、逆に訊きます。なぜですか。なぜ、そうも懸命になれるのですか」
 ずっと、ずっと胸の奥でとぐろを巻いている思いが流れていく。
「あそこまで取り乱すほど人を想うことも、何をやっても変わらないこの世を、変えようと粉骨し続け、頼るものがないまま彷徨うことも、どうして出来るのですか」
(私には、出来ない。出来なかった……)
 この腐りかけた世を糾したいと思い、勉学に打ち込んだ。そうしてこれは、と思う人物に仕えた。
 しかし、仕えた主は腐敗した心根の持ち主で、幾度か主を変えても変わらず、どれだけ孫乾が民の声を届けても、どれだけ働きかけても徒労に終わった。
 孫乾の外見しか見ずに言い寄る人々も、己のことしか省みない人々にも、うんざりした。
 そうしていつしか、全てを諦めて、捨て鉢のように日々を過ごしていた。
 そんなときに、劉備の噂を聞いたのだ。
 傭兵上がりで転戦を繰り返し放浪し、それでもひたすら世を糾す、と声高にしながら戦い続けている男がいると。
 鄭玄からいい加減に身の振り方を考えろ、と窘められたときも、劉備になら、会うだけなら、と気持ちが動いたのも、その話を聞いたからだ。
 孫乾の唐突な詰問に、劉備は困惑した顔になる。
 それは答えにくいことを訊かれて困った様ではなく、当たり前すぎることを訊かれて戸惑った、という感じだった。
 証拠に、劉備は即答したからだ。
「私の手は小さい。この手で出来ることなど限られている。だから、懸命にならなければ小さい手からすぐに大切なものはなくなってしまう」
「しかし、いくら孜々(しし)としても手から滑り落ちていくものがあったでしょう。掴めなかったものがあったでしょう。どうして絶望しないのですか」
「そうだな、今の世はそんなことの繰り返しだ。虚しくなるときもある。それでもな、私がまた歩いてみようか、と思うのは、お前みたいな人間を見られるからだ」
 虚を衝かれた。よほど、間の抜けた顔をしたのだろうか。くすり、と劉備が笑う。
「気付いていないか? だが私も驚いている。お前がこんなにしゃべれる奴で、しかもそんな良い顔をして熱くなれるなど」
 真っ直ぐに瞳を射抜かれた。まるで胸裏すら見透かすような、強く、しかし暖かな眼差しだった。
「お前のような顔を、目をしたものが、この世には溢れている。何をしても変わらない。無駄だと諦めて、ただ日々を生きるだけ。覇気の無い淀んだ目をした奴ばかりだ。ただ、その中でも時々、虚しさを苦しいと感じて、もがいている者に出会うときがある。自分一人あがいたところでどうにもならない。だが、何かをせずにはいられない。その葛藤で苦しんでいる者がいる」
 腐りきった大地から、まるでそれを肥やしと思うかのように、すくと伸び上がる一本の草がある。それは少しずつだが大地を緑へと変える力になる。そう劉備は信じて、その草たちへ手を伸ばした。
 そうして増えたのが、今の劉備軍なのだ。そして増えた者たちもまた、劉備に前へ進む力をくれる。
「お前も、そういう苦しみの狭間にいる。そして、何とかしたい、と思っている。お前の私に話すその見違えるような活力に満ちた目で、確信を持った」
 ただ、無理強いはせぬよ。お前にはお前の考えがある。戦う場所は私の下だけではない。
 だから、引き止めはしない。
 劉備は、ただ孫乾へ微笑みかけていた。
 とぐろを巻いて心を腐らせていた何かが、雲を得たようだった。雲はひどく高いところを流れていて、切れ端を掴むだけで自分さえも流れて行けそうな気になる。
 胸が熱い。目の奥が焼けるようだ。
 俯いて、目を閉じた。
 激情が去るのを少し待つ。
 それからゆっくりと微笑んだ。
「おかしいですね。『殿』を慰めるつもりだったのが、どうやらこちらが慰められてしまったようです」
 決意が呼称を変える。
「しかしこれでは貴方の臣として失格ですから、一つだけ申し上げます」
 劉備はなぜか呆然とした顔で孫乾を眺めている。
「貴方はもっとご自分に自信を持たれたほうがよろしい。関羽殿は決して貴方を惰性で抱いてなどおりません。私はあの方を少ししか知りません。ですけど、それでもあの方が芯の通った方なのは分かります。その関羽殿がそのような真似をすると?」
 我に返ったらしい劉備が、しかし、と途端に先ほどまでの端厳さを失い、肩を落とす。
 大地に根を張る草とは思えないほど、萎れた有様だ。
「殿でも、こと男女関係――おっと、この場合は男男ですか――不得手でしょうか。私から言わせれば、男女も男同士も変わりません。相手を大切に想えるかどうか、これに尽きます」
「お前は、従事としての能力だけでなく、そちらの道も詳しそうだな」
「ええ、これでも昔は引く手数多でしたので」
 澄ませば、劉備は苦笑した。
「そうだろうなあ。先ほどの笑った顔、初めて見たが迂闊にもどきり、とした。雲長以外で男の笑顔を見て動揺したのなど初めてだ」
「それはごちそうさまです」
 何気ない惚気に言葉を返し、孫乾は続ける。
「その関羽殿、良く存じ上げているのは殿ご本人でしょう。今一度、ゆっくり考えられてみてください。本当に、関羽殿が殿を欲だけで抱いているのか、そうでないのか」
「……不思議だな、公祐の言葉には妙な説得力がある」
「貴方ほどではありませんよ」
 久しぶりに浮かべた笑顔、まだぎこちなさがあるが、劉備を慰めるには充分だったようだ。
 もう一度だけ微笑んで、孫乾は新たな主と認めた劉備へ、深く拝礼を行った。



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