「腐心の草 1」
 関羽×劉備


 不意に消えた確かな暖か味に、劉備はそっと拳を握る。
 行ってしまうのかと、声をかけることは容易いはずなのに、それが出来ない。そうして幾度の夜を過ごしただろう。
 快感で歪む眉根も、悦を堪えて荒くなる息も、強く抱き寄せる熱い腕も偽りではないだろうが、その双眸はいつもどこか悲しげだった。いつも悲哀を含んで劉備を見つめる。
 切れ長の瞳に宿っているのは、行き場を失った澱みを溜めて腐った沼で、肌を重ねるたびに暗さを増すようだった。
 同情で抱いているのか? 快楽を共有するだけの相手としてしか見ていないのか?
 訊けないことは静かに、しかし確実に胸の底へと溜まり、劉備にも緩やかな腐敗を招く。腐臭を放つそれにいつまで己が耐えられるだろう。
 明日か、それとも一月後か。
 もう一回肌を重ねたとき、それとももしかしたら永遠に耐えることになるかもしれない。
 するり、と抜け出る衣の端を、今夜も握り損ねて虚しく拳を握った。
(行ってしまうのか、雲長)
 闇夜に浮かぶ見慣れた背中を見送ることがこんなにも辛いのなら、あんなことを言い出さなければ良かった。
 己の胸裏など、隠し通せば良かった。

 雲長。

 声に出さずにその背中へ呼びかける。
 聞こえたわけではないだろう。それでも離れようとしていた遠い背中が震えて止まる。
 慌てて目を瞑り、眠ったふりをした。
 小さな吐息が聞こえた。
 それは劉備が初めて聞いた、義弟の、苦悩に彩られたため息だった。
「このままでは、いけないな」
 呟く声が劉備の胸を抉る。
(後悔している?)
 激しい衝撃に息が詰まる。
 跳ね起きて問い質したいのに、身体はぴくりとも動かなかった。

 どこからか、腐臭が漂うようだった。



 ――興平元年(西暦一九四年)、秋口。


 城下街は、そして何よりそこに住んでいる民は、治める主の本当の顔を映すものだと。このごろ、劉備は肌に感じるようになった。
 主が健やかな政道を布いていれば、例え窮乏している暮らしであろうとも、人々の顔はどこか覇気がある。逆に、愚なる政道、私欲に走った政道を布いていれば、人々は諦めたような、生気のない顔付きをしている。
(しかしここは、どちらでもないな)
 馬をゆっくりと歩ませながら、劉備は見慣れた下ヒの通りを進んでいた。
 下ヒ――徐州の中心であるが、ここを治めるのは年老いた州牧だ。統治は決して悪くはなかった。しかしそれも去年までの話。
(あの人は士(ひと)を見る目がない)
 徐州牧である陶謙は、州牧という地位にありながらも人を見る力が弱かった。それゆえに、部下が曹操という苛烈な男を怒らせるような愚かなことをし、目を覆うような惨事を招いてしまったのだ。
 もっとも、陶謙の部下に父親を殺されて怒り狂う気持ちは理解できるが、無関係の徐州の民まで虐殺することまでは、劉備はどうしても理解できなかった。
(あの男はあの男でまた、起伏のあるやつだし)
 あまり長くを共にしたことはないが、人に深い楔を打ち込んでいくような、印象的な男だった。それは劉備がひどく曹操という人間を意識していたせいもあるだろう。
 劉備が曹操を、戦好きだ、と感じたことはない。ただ、戦の何たるかを知り、最大限に利用することは得意だ、と思ってはいる。自分も見習いたい、と思うところだったが、しかしこの徐州攻めに関してだけは、どうしても納得できない。
 去年、陶謙からの曹操襲撃、救援求むの知らせを受けて徐州へやってきた劉備であったが、悪鬼のごとく進軍する曹操軍を止められる自信はなかった。それでも救援を引き受けたのは、純粋な仁侠の精神からが大部分である。だが、非人道的な行為をする曹操に立ち向かえば、世間に劉備の名が知れ渡るだろう、という打算が働かなかった、といえば嘘だろう。
 それは皮肉にも、戦で得る武勲以外にも、戦というものは利用価値があるのだ、と劉備に教えた曹操のせいだ。
 そして、そんな曹操と今年の初夏、干戈を交えることになった。
 寡兵である劉備軍は、局地戦へ持ち込み、奇襲を繰り返して地道に勝ち星を稼いだものの、圧倒的な兵力差に徐々に圧され始めた。
 臍を噛む思いだった。
 一人一人の兵の力なら、決して曹操軍に引けをとらないのに、数と、そして認めたくはないが、総合的に指揮する力、つまりは劉備と曹操の地力の差だと、痛感したのだ。
 敗戦の色は日に日に濃くなり、度重なる戦で劉備の兵も陶謙から預けられた兵も焦燥と疲弊の色も強くなっていった。
 しかし、不意に曹操軍が撤退を始めた。
 訝しむ劉備たちは、初め罠かとも警戒したが、どうやら事実であると分かり、大きな安堵感に包まれた。それとほぼ同時に、曹操が引き上げていった理由も分かった。
 狂犬、呂布の存在だった。呂布が、曹操が拠点としている濮陽に襲い掛かったのだ。
 曹操と呂布。この二人が争っている間は、徐州は安泰だろう、というのは諸将の総意見であった。
 それから数ヶ月後、前々から体調が芳しくなかった陶謙は、季節の変わり目というのもあるのだろうが、大きく体を壊してしまっていた。
 劉備は曹操と呂布の動きに注視しながら、惨事によって乱れた徐州を建て直している煩雑な日々を送っていたが、合い間を縫っては陶謙を見舞っていた。
 しかし今日は、劉備自らではなく、陶謙からの招致を受けてのことだった。
(やはり、主が病に伏せていると、暮らしている民まで暗くなるものなのだろうか)
 惨事の傷もまだまだ深いところへの、治めるべき人間の所労、と不遇なことばかりが重なっている。これでは幾ら良い政道を布いたところで活気が出るはずもない。
 城下を歩く人々の顔は、誰もが憂いを帯びていた。
 微かに眉を寄せて見守る劉備へ、関羽が声をかけてきた。
「陶牧は何の御用でござろうか」
 今日は関羽が率いている兵卒たちは休息日であった。なので、関羽が劉備の陶謙への見舞いの護衛を買って出ていた。
 己の考えに没頭していた劉備は、我に返って関羽を見やった。
 劉備と同じように馬の背に揺られている義弟関羽は、思慮深そうな双眸に疑問を乗せて、自慢の髯を撫でていた。
 胸まで垂れる立派な頬髯と、鍛え抜かれた堂々たる体躯は人目をひく。俯き歩く人々も、足を止めて畏怖や憧れの目で関羽を見やっていた。自然、少し前を行く劉備にも衆目が集められ、いつの間にか頭を垂れる人々に見送られる形になる。
 劉備が徐州の民のため兵を駆けてきたのは、もうここでは周知の沙汰で、何度も出入りするうちにすっかり慕われるようになっていた。
「劉備様、陶謙様の容態はいかがなのでしょうか」
「私たちの暮らしはどうなってしまうのですか」
「曹操はもう来ないのですよね」
 不安が人々を押し潰そうとしているのだろう。口々に暗い話題が持ち上がり、劉備を取り巻く。
「そんなに悲壮になるな。下を向いている者に晴れた空は見えんのだぞ。雲の切れ間から日が射したとき、真っ先に喜べるのは、いつも上を向いている者だけだ」
 暗く、希望がないからこそ、少しでも明るく先を望まなくては生きる気力すら失われる。
 劉備自身も、俯いて地べたばかりを眺めて腐っていた時期があった。そのたびに母親に叱られたものだ。

『背筋を伸ばして前を見なさい。己のつま先ばかりを見て何が楽しいのですか。目指すものはいつも遥か先を駆けているのです。それを捕まえたいのなら、真っ直ぐ遠くを見つめていなさい』

 好き勝手に生きていたころもあったが、母にだけは頭が上がらなかった。
「いま、少しでも垂れ込めた雲を払おうと、陶謙殿以下、みなが力を尽くしている。だから、今しばらく辛抱のときだ」
 共に苦労を分かち合おう、という言葉に胸を打たれた、暗く澱んだたくさんの目は、少しばかりの灯りを得たようだ。そっと劉備へ頭を下げる、それらに見送られて、劉備と関羽は城内へ辿り着いた。
「一刻も早く、背筋を伸ばしたい、と思わせるような地にしなくてはならないなあ」
 ひとりごちる劉備は、関羽が微笑んでいるのを見て、小首を傾げる。
「何かおかしいか」
「いえ、やはり兄者は兄者であるな、と思いまして」
「なんだ、それは?」
「分からずとも良いのです。ただ、拙者は拙者の宿星(しゅくせい)に感謝しているだけです」
「お前は、時々わけの分からんことをいうな」
 二人は話しながら、馬番に馬を引き渡して、建物の中へ向かう。途中、すれ違う侍従や侍女が拱手する。
 入り口で待っていたのは、陶謙の重鎮である糜竺だ。
「お待ちしておりました、劉備殿」
「これはわざわざ糜竺殿に迎えられるとは、恐縮です」
 糜竺子仲(びじくしちゅう)。徐州では名の知られた資産家で、その名声と財力の高さで陶謙を支えている従事だ。
「劉備殿は、今はこの徐州になくてはならぬお方です。出迎えなど何の苦労でもありませんよ」
 しかしその地位にありながら、こうして屈託なく接してくる気さくさや誠実さは、彼の人柄を如実に表している。その一面の他に、苦しんでいる民のために財を惜しみなく差し出す熱い一面もあった。
 それは劉備の愛する侠の心に通じるものがあり、同じように糜竺も感じているらしく、二人が打ち解けるのにさして時間はかからなかった。
「ところで今日はどういった用向きでしょうか」
 案内のために先を歩く糜竺へ、劉備は尋ねた。
「ええ、実はぜひとも劉備殿に引き合わせたい御仁がいる、とのことで」
「人、ですか」
「私もまだ会ったことはないのですが、優秀な書生らしいです。劉備殿のところに事務に長けた者がいなく、難儀している、という話を聞いたので、良かったら、ということらしいです」
「あのときの話を覚えていらしたのですか」
 いつかの折に漏らした愚痴を、陶謙が覚えていたとは驚きだった。
「だいぶ大所帯になってきましたし、確かに人手は多いにこしたことはありません。細かいところを取り仕切る者は、いるにはいるのですが……」
 苦笑して、ちらり、と関羽と目を合わせた。関羽も同じように苦笑いしている。
 故郷のタク県から劉備に付いてきている、悪友ともいうべき男の顔が思い浮かんだ。
(あいつはやるときはやるのだが、机上でやることは得意ではないからな)
 今日も陶謙から分け与えられている軍糧と武具の点検をしながら、「柄じゃねえ」と頭を抱えていた。
「簡雍(かんよう)ばかりにやらせては、と思いますが」
「私も苦手だからな」
 関羽の言葉に劉備も同意を示す。
「しかし陶謙殿の紹介、となると」
 前述の通り、陶謙は人材を見極めるのはとんと疎く、太鼓判を押されても疑惑が劉備に湧き上がるのは無理からぬことだ。
「それはご心配には及びません。陶牧、と言っても実際の推挙は鄭玄(ていげん)殿からです」
「鄭玄殿?」
 意外な名を聞いて、劉備は思わず聞き返していた。
 鄭玄は高名な儒学者として知られていて、今はこの徐州に陶謙が賓客として招き、身を置いている。劉備も一度引き合わされて、話をしたことがある。そのときに分かったことだが、全く縁のない、と思っていた鄭玄と劉備に思わぬ繋がりがあった。
 劉備がまだ故郷にいたころ、魯植の門下生になったことがある。その魯植は、馬融(ばゆう)――彼もまた高名な儒者であるが――の弟子であった。そして、鄭玄もその馬融の弟子であったのだ。
 つまりは魯植と兄弟弟子であった鄭玄は、劉備が魯植の門下生だった、と知り、その縁の不思議さをいたく喜んだのだ。
「これから会っていただく書生の方は、鄭玄殿の知り合いだそうです。鄭玄殿と同じく北海郡の出身で、その縁でこちら――徐州へ流れてきたようです。まだ身の振り方も決まっていないらしく。どうするのか、と尋ねたところ、貴方に興味を示された、とのことです」
「私に、ですか?」
 怪訝に思う。
 劉備の立場は今でこそ、陶謙の推挙で豫州刺史になってはいるものの、所詮は平民あがりの傭兵軍の軍長だ。
 決して自分を卑下しているわけでもなく、客観的に見て誰もが思っていることだ。
 そんな自分へ興味を持つ男がいるとは、驚きだった。
「私もまだ会ったことがないので、詳しいことは全く。ともかく実際に会ってみてから判断したほうがよろしいかと」
 それはそうだ、と素直に頷き、糜竺に従い歩き、一室へ通された。
「劉刺史をお連れしました」
 声をかけて糜竺が扉を開けて、中へ促してくれる。
 部屋に入りまず目に入ったのは、中央に座している陶謙の姿だ。
(また痩せたな)
 劉備と陶謙が初めて会ったのは董卓討伐として、各地の雄が集まったときだ。そのころは頬もふくよかで、老いが覗けていた体躯ながらも鍛えられた体付きをしていたが、今は見る影もなかった。
「今日は関羽も一緒か。わざわざ足労すまぬな」
 劉備の後ろに立つ関羽を見止めてか、こけた頬を震わせながら、すっかり病魔に蝕まれた男は、それでも劉備たちを労った。
「いえ、陶謙殿のお声かけあれば、どこへなりと駆けつけます。何せ私の身は軽いのが取柄ですから」
 病は篤いままであろうに、客人を迎えるというので無理をして起きているらしい陶謙に、気を遣うな、という意味合いで冗談を口にした。
 ふわふわと拠りどころ無く中原を彷徨っている自身を揶揄したに過ぎないが、陶謙は小さく笑った。
 劉備の後ろで関羽が拱手して、邪魔にならぬようにと部屋の隅へ移動していく。
 それから改めて部屋にいる人物へ目を転じた。
 劉備に人物を紹介してくれる、という鄭玄がいる。にこり、と笑って拱手してきたので、返礼する。
 そして……。
 その隣にいる人物が、今回ここに招かれた理由である、劉備の近習を申し出た男だろう。
 男ぶりのあるいい眉目をしている。年の頃は劉備と同じか少し下か。体格もただの書生にしては立派なほうだ。
(しかし……)
 随分と覇気のない、陰気な顔付きをしている。せっかくの面立ちが台無しになるほどだ。
(やれ、鄭玄殿の紹介、と期待はしたものの、どうも期待はずれの感が出てきたか……?)
 外見の良し悪しで人柄すら決まる、と思われていた時代である。第一印象、外貌というのは何よりも重要視されていた。
 咄嗟に劉備が思ったのも、無理からぬことだ。
 しかしここからが劉備の変わったところで、
(だがまあ、大事なのは働きぶりだ。陰気さが表に出ていようとも、実際は分からん)
 と思い直したところだろう。
 事実、今劉備軍を裏方で支えている簡雍など、陽気で奔放であるが、仕事が凄まじく良く出来るか、といえばそうでもないのだ。
 劉備の内心を知ってか知らずか。渦中の男は覇気のない、死人のような目でちらり、と劉備を一瞥した。
 にこ、と笑って軽く拱手すれば、男は暗い眼差しのまま返礼した。その動作は醸し出されている雰囲気とは反対に、洗練された、流れるような動きだった。
 そっと、最近ようやく揃い始めた口髭を撫でながら、劉備はほっと感嘆の息をこぼした。
(やはり、一癖ありそうな気がしてきたぞ)
 少々楽しくなってきて、劉備は口元を緩ませた。
 元来、賑やか、祭り、騒動が好きな性質なのだ。それが長じて侠に身を投じたり、乱世に旗揚げをしてみたり、と血が騒ぐままにここまで来たぐらいだ。
 一癖二癖ある男なら、むしろ大歓迎だった。いや、そのぐらいでなければ、こんな放浪を繰り返す劉備へ付こう、などと言い出さないだろう。
(どういう腹積もりか訊いてみたいな)
「大体を糜竺から聞いてはいるだろうが、今日わざわざ足労を願ったのは、そちらにいる鄭玄殿からの要望だ」
 部屋の主である陶謙が口火を切った。声にもすっかり張りがなくなっているものの、客人の前、ということで無理をしているだろうことは、良く見舞いに来ている劉備は承知していた。
 それは鄭玄も同じようで、説明をしようとする陶謙をやんわりと制して、劉備へ話しかけた。
「以前陶謙殿より、劉備殿が処々に渡る雑事を受け持つ者がいなく、難儀している、という話を耳にしていたので、少々気にかけていたのです」
 鄭玄は儒学者ということであるが、のんびりした口調と柔らかな物腰が特徴的だ。普段の雰囲気はまったく似通っていないが、なぜか劉備は師(魯植)を思い出し、言葉を交わしたときより好感を抱いていた。
 魯植の門下生時代は不真面目で劣等生であった劉備だが、魯植のことは好きだった。大声過ぎるのが玉に瑕だったが、常に朝廷のこと、民のこと、学問のことを熱心に語っていた。
「そうしたところへ、私を頼ってこの者が参りましてね。昔から有能ではあったのですが、どうも仕官した先々で長続きをしないもので。すっかり本人の尻も重くなってしまったようです。しかし働かなくては家族も養えません。難儀しておりましたところ、私がふと貴方のお話をした際に、珍しくも本人から仕官の要望が出ましてね」
 ニコニコと鄭玄は嬉しそうだ。目を掛けていた男がようやく真っ当に働く気になった、と親のように喜んでいるらしい。
「才能は私が保証します。ぜひとも劉備殿の近侍をと願っております」
「仕官や近侍などと。私はそこまでの人間ではありませぬが、しかし鄭玄殿のご好意、ましてや今は一人でも人手が欲しいときです。むしろ願ったり叶ったりであるのは私のほうです」
「では?」
「ですがすぐ、というわけにはいきません。本人の意向や人柄も確かめたいですし。何せ私はまだ彼と話もしておりませんから」
「そうでしたね。少々気が焦りました」
 お恥ずかしい、と笑いながら、鄭玄はでは、と脇に立つ男へ頷いてみせた。
「改めて私から紹介いたしますが、北海郡出身である、姓は孫、名は乾、字は公祐と申します」
 孫乾公祐(そんけんこうゆう)。
 そう鄭玄に紹介された男はまた、纏っている空気には似つかわしくない、綺麗な拱手をして見せたのだった。

 ひとまず、ゆっくり孫乾と話をしてみたい、ということで、城の中庭へ降り、隅に設けられている亭(あずまや)へ劉備は男を誘った。
 すでに陶謙と鄭玄とは別れ、関羽も遠慮させて(それでも警護ということで、亭の見通せる場所に佇んでいる)、二人きりで並んで腰を下ろした。
 ここまで孫乾は一言も口を利いていない。さて、と劉備は覇気のない横顔を見やった。
 やや細めの垂れ目である双眸だが、やはり整った顔立ちの好い男だ。腰を下ろしている姿勢も背筋が伸びた気持ち良さがあるのだが、やはりどうしても醸し出される退廃的な空気が、嫌でも男ぶりを損なわせている。
「もったいないなあ」
 思わず漏らした言葉に、孫乾がふっと視線を劉備へ投げかけた。
 陰気な濁った目である。
 この瞳と良く似た瞳を劉備は幾度となく目にしてきたし、徐州でも蔓延している。
 自然とそうなってしまう今の世である。
 だがどうにかして抜け出そうと、もがいてでもいいから、少しでも良くしよう、という努力を怠ってしまったらおしまいなのだ。
 挫けそうになる度に、劉備は自分自身へと繰り返し言い聞かせてきた。
「どうして、私を選んでくれたのだ?」
 表情の乏しい双眸を見つめ返して、劉備は疑問を口にした。
「どうしてでしょう」
 ようやく、男の口が開いた。
「もう、どこにも仕えるつもりはなかったのですが」
 劉備に答えて、というよりは自分自身へ疑問を投げかけているかのようだった。
「ただ、貴方の噂を聞いて気になったので、興味が湧いた、というしかありません」
 声も外見を裏切ることのない通りの良い声だ。
(裏切っているのは、むしろその雰囲気、それを醸し出している心根だろうか)
「興味か」
「さほどのものではありませんが。農民兵に毛が生えたようなところなら、適当にやれるか、と」
 孫乾の物言いに呆気に取られた後、大笑いした。
 中々はっきりとものを言う。歯に衣着せぬ物言いは、小事にこだわらない――平たく言えば粗野な人間が多い――劉備たちの中で上手く溶け込めそうな気がした。
「正直な奴だ。だが確かにお前はまるで閑職を望む老人のようだ」
 劉備も、笑い終えて素直に伝えた。
「そうかも知れません」
「しかし老人にしては、まだこの世に未練がありそうだ」
「そうですか?」
「勘だがな」
「はあ」
「その勘が、お前を使ってみろ、と言っている」
 孫乾が戸惑った表情を浮かべた。
「雇っていただけると? このような私を。それをこうも簡単に決められるのですか?」
「ああ、そのことか。ははっ、そんな選別など贅沢なことを私たちが出来るはずがない。鄭玄殿が優秀と太鼓判を押したならそれを信じるし、何より一緒に働いてみないと人など分からないだろう?」
「ではなぜあのようなことを?」
 孫乾の当然の疑問に、劉備はにやっと笑ってみせる。
「すぐに飛び付いてしまったら、みっともないと思わないか? ああしてもったいぶったほうが、格好がつく」
 孫乾の細い目が僅かに見開かれた。
「子供のようなお人ですね」
「昔から、見栄と啖呵だけは一品、と言われたものだからな。そして、『勘』が外れたこともない」
 新しい仲間に歓迎の意を示しながら、劉備はその肩を叩いて促したのだった。



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