「極上の微笑 3」
 関羽×劉備


 だが、いつまで経っても賊は何もしようとはしない。ただ、黙って劉備を羽交い絞めにしているだけだ。
 さすがに不審さを覚え、辛うじて動かせる頭を捻って、賊の顔を仰ぎ見る。
 夜目に慣れた劉備には、賊の顔がすぐ見えた。
「――っ?」
 驚きのあまり、目を見開く。滲んでいた悔し涙もどこかへ引っ込む。
(雲長!?)
 そこには、困った顔をして劉備を見下ろす関羽がいた。
 劉備の体から力が抜ける。相手が分かり、安心して脱力してしまったのだ。
「兄者っ?」
 突然、劉備がぐったりしたので驚いたのだろう。関羽は慌てて劉備を寝台の端に腰掛けさせた。そして、跪き正面から顔を覗き込んで、心配そうに尋ねた。
「大丈夫ですか、兄者?」
「大丈夫ではない!」
 思わず、声を荒げてしまう。
「何の悪ふざけだ、雲長! 私は賊かと思い、驚き、賊ごときに命を奪われるのか、と怒りに体が熱くなったのだぞ!」
 そして、久々に感じた命が脅かされる感覚に、足が震えそうになった。それから解放された精神が、昂ぶって劉備の涙腺を弱くする。
 そもそもにして、劉備は涙脆いところがある。引っ込んだ涙が、また滲んできた。
 そうなると、長兄の涙に弱い弟は、ますます慌てる。
「すみませぬ、兄者。そんなつもりではなかったのです。ただ、その……」
 歯切れが悪くなる弟に、劉備は涙目のまま睨みつける。その目に見られ、関羽は大きな体を縮込ませながら、ぼそりと言う。
「兄者が諸葛亮の部屋から出てくるのを見て、何をしていたか気になって、話を聞きたいと思ったのですが、どう声をかけていいか迷っている間に兄者が行ってしまいそうになったので、つい……」
 しどろもどろに関羽が言い訳をする。その様は、とても戦場で軍神と恐れられている男には見えない。
 そんな関羽を見ているうちに、劉備はようやく気持ちが落ち着いてきた。落ち着いて周りを見れば、何てことはない。確かに、引きずり込まれた部屋は関羽に割り当てられた部屋だった。
 それに、自分が気配に気付けなかったのも合点がいく。相手が関羽なら、気配を消そうと思えば、いくらでも消せるのだ。自分が気付けなくとも不思議ではない。
 項を垂れて、落ち込んでいる関羽は、劉備には何だかひどく可愛く見えた。
「もうよい、雲長。もう気にしていない」
 劉備は、まるで幼子にやるように、頭を撫でてやる。
 さすがにそれは恥ずかしかったのか、関羽の手が顎鬚を撫でた。考え事をするときと、気持ちが昂ぶったときにする癖だ。
「しかし、雲長。お前は諸葛亮のことを意識しすぎだと思うのだが、私の気のせいか?」
 劉備は、問題解決の糸口が、向こうから飛び込んできたのを幸いと、聞いてみることにした。
「意識しすぎているわけではありませぬ。あの男が兄者の軍師として相応しいかどうかを見極めているのです」
 大体予想通りの答えに、劉備は苦笑した。分かって言っているのか、分からずに言っているのか、そこが問題だった。
「なあ、雲長。私がまだ曹操の下で客将に甘んじていた頃を覚えているか?」
 劉備の唐突な質問に、関羽は一瞬ついていけなくなったらしく、少し黙る。
「……覚えていますが、それが何か?」
「あの頃は、私のどこが気に入ったのか、曹操は私をしょっちゅう宴に誘ったものだ。それが気に入らないのか、翼徳はよく怒っていたな」
「はい。あいつは素直ですからね」
 関羽が、手のかかる弟を持つ兄の顔になる。
「お前は、少し素直ではないな?」
 劉備が言うと、関羽は少し困った顔をして、そうですか? と言う。
「そうだ。口では怒る翼徳を叱りながら、お前が一番怒っていた。もちろん、その理性あるところを見せるのはお前の大事な部分だが、時には思うことを口に出しても、私は構わないのだぞ? 特に、曹操と違って諸葛亮はこれから共に戦っていく仲間なのだ。あまりしこりを持ったままだと大変だぞ」
「それは分かっています。しかし、拙者には兄者に天下を取ってもらう、という志があります。それゆえに、兄者に仕えるものをじっくりと見定めるのは責務です」
 やれやれ、と劉備は頬を掻く。
 本人としては本心のつもりなのだろうし、確かにそれも含まれているのも事実だろう。
「だから、厄介なのだ」
 独り言を呟く劉備に、関羽は意味が分からないのだろう。首を傾げた。
 どうやら、関羽自身もあまりよく分かっていないようだ。
(そうなると、どうしたものか。私も我が身は可愛いのだが、このまま雲長と諸葛亮がうまくやっていけないとすれば、支障が出るのも時間の問題か)
 迷いは僅かだった。
(雲長なら嫌ではないと思うし、大丈夫だと思うが、明日の執務に支障が出るだろうな。そうすると諸葛亮に大目玉を食らってしまう。しかし、そこは雲長に押し付けるか。責任の半分は取ってもらわんと。これも広い視野で見れば漢王朝復興のための大事な通過点だ。……と思う)
 無理矢理自分を納得させて、劉備は決断する。
(さて、後は気付かせる方法だが。荒療治か、はたまた正攻法か。どちらがいいのだろう)
 弟の性格を考えるに、おそらく正攻法のほうがいいだろう。
 そう判断した劉備は、急に考え込んだ兄を心配している弟に、にっこりと微笑みかけた。
 極上の笑顔だ。
 関羽の頬が微かに赤らむ。
(どうしてこれで気付かないのだろうな)
 内心首を捻りながら、劉備は語りかけた。
「雲長、よく聞いてくれ。お前が曹操と諸葛亮に感じている感情は、私を心配してくれているもの、と思っているようだが、少し違う。お前自身は気付いていないようだが、その感情の名前は嫉妬だ」
 関羽は心底、虚を衝かれた、という感じで、茫然とした。
「私が、曹操に呼ばれて出かけていくときも、私が諸葛亮を大事にしている、と言ったときも、お前は同じ顔をしていた。少し怒ったような、拗ねたような顔だ。もしかしてお前が調練を厳しくしていたのも、その嫉妬のせいなのではないか? 八つ当たりだったのだろう?」
 劉備は責めるわけでもなく、ただ淡々と語る。その方が、関羽には伝わるはずだ。本当は賢い男なのだ。ただ、少し自分の気持ちの有り所が分からなくなっているだけだ。
 劉備は、関羽のおかしな顔の記憶を思い出すと、次々と思い当たる節があることに気付いた。本人が無自覚なだけに、劉備も確信を持つのに苦労したが、今回の諸葛亮への態度で、ようやく確信が持てた。
 昔から関羽の好意はよく感じていたが、それは互いに兄弟としての愛情だと思っていた。
 事実、劉備が張飛を構っても、関羽は笑って見ていた。だが、どうやら違ったらしい。関羽にとっても、張飛は家族である。劉備も同じであることは良く理解していた。だから、対象ではなかった。
 しかし、曹操や諸葛亮は違った。それを関羽はどこかで感じていたのだろう。その強い想いに対し、悪い気はしなかったが、弟としてしか見ていなかった劉備にとっては、何とも妙な気分だった。
「嫉妬、ですと? 拙者が?」
 混乱した様子で、関羽は聞き返してくる。いや、自問しているようだ。おそらく、答えはすぐ出るだろう。劉備は黙って関羽を見つめた。
「なぜだ。いや、確かに……」
 関羽の掌が、何度も顎鬚を上から下に撫でられている。必死で自分を省みているようだ。
 しばらくして、その手が止まった。そして、関羽の顔が赤くなる。どうやら答えに行き着いたらしい。
「分かったようだな」
 微笑んで、劉備は俯いてしまった関羽の頭を撫でる。はっとして、関羽は顔を上げ、劉備を見つめた。
「その気持ちを、私に教えてくるか?」
「しかし、それは」
 躊躇う関羽に、劉備は微笑んだまま首を横に振る。
「お前はな、少し私に気を遣いすぎるのだ。もっと自分の気持ちをぶつけてこい。私はそんなに柔でもないし、重荷などには感じぬぞ」
「兄者」
 関羽の目から迷いが消えた。その瞬間、劉備の目の前にいる男は、まるで幼子のようだった男から、一人の逞しい男へと姿を変えた。その劇的な変化に、長い年月を共に歩んできた劉備さえも息を呑む、雄々しくも美しい変化だった。
 答えが分かっている劉備だったが、関羽の言葉を待ち望んでしまう。
「拙者は、兄弟として有るまじき想いを抱いてしまいました。それは拙者にとって、許せぬ想いです。このような想いは捨ててしまったほうが良いと考えましたが、もし、兄者が許してくれるならば、一度だけ、言葉にしても良いでしょうか?」
 劉備を真っ直ぐに見つめてくる関羽の視線が、痛いほど劉備の胸に突き刺さり、熱くさせる。圧倒されていた。
「許す」
 声が、微かに震えた。
「お慕いしております。兄弟の思慕ではなく、人として、関羽雲長として、劉備玄徳殿を恋慕しております」
 その声は、静かで深く低い、よく通る関羽の声だった。
 しばらく、劉備は目を瞑り、その言葉と声の余韻に浸る。熱くなった胸の熱は、体中に広がっていった。
「雲長、よく言ってくれた。ならば、私もお前に答えを差し出そう」
 劉備も、もう迷いはなかった。
 例え、この気持ちが兄弟以上のものではなくとも、関羽の言葉は劉備の心を動かすには十分だった。いや、もしかしたら、劉備も言われて分かったのかも知れない。自分も、関羽をとっくに兄弟以上の思慕でいたことを。
「目を瞑ってくれ」
 言われるままに、関羽は目を瞑る。劉備は、自らの唇をそっと、関羽の唇へと重ねた。
「これが、私の答えだ」
 さすがに、今のは劉備も恥ずかしく、頬が熱くなる。
「兄者……」
 感極まった様子で、関羽が劉備を呼ぶ。急に、劉備は自分が寝台に座っていることに、恥ずかしさを覚える。
「では、戻るな」
 落ち着かなくなって、立ち上がり部屋へ戻ろうとすると、その腕を関羽が掴む。劉備は身を竦めた。
「なぜ、兄者は諸葛亮の上着を着ているのです?」
 おそらく、ずっと気になっていたのだろう。関羽は詰問するように劉備を睨んだ。
「これは、諸葛亮が貸してくれたのだ。私が薄着で散歩をしていたのでな」
「では、なぜ散歩をしていたはずの兄者が諸葛亮の部屋にいたのです」
「それは、あやつの部屋に明かりが見えたので、約束を破って仕事をしているのだと思い、叱りに行ったのだ」
 答えを聞いても、関羽の眼差しはきついままだ。
「兄の言葉を信じないのか」
「いえ、信じています。しかし、今の拙者は弟である以上に、大切なあなたを取られないか心配している、一人の男です」
 吹っ切れた男は強い。決然と、しかし微かに嫉妬を混ぜながら言う関羽に、劉備は苦笑した。
「ならば、私をお前のものにしろ。身も心も」
 元から、そのつもりだった。荒療治も、体を差し出すことで本当の気持ちに気付かせる、と言うものだったのだ。今更、迷いはない。
(さっきは、思わず恥ずかしくなり帰ろうとしてしまったが)
 心の中だけで、劉備は赤面する。
 さすがに、関羽の表情が固まる。答えあぐねているようだ。
「……兄者、構わないのですか?」
 躊躇いがちに尋ねる関羽に、劉備は頷いた。躊躇いを消すため、劉備は自分の腕を掴んだままでいる関羽の腕を叩く。



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