「真荀彧文若の苦労日誌 5」
荀彧×曹操


 許都の城下を歩いて見えるように駆ける、という器用な真似を荀彧はしていた。少し遅れて、衛兵たちが後ろを付いてきている。
 50メートル先の十字路を左折。次のT字路を左折。200メートル先にある干物屋の脇の小道が渋滞を避けられ、スムーズ。指定された目的地まで、およそ5分後に到着予定。
 荀彧の頭に叩き込まれた最新版ナビは、許都の入り組んだ路地裏まで正確に描き出し、道筋を導き出している。
 脇目も振らず、しかし傍から見ると少し急ぎ足の散歩を楽しんでいるようにしか見えない、都一番の好男子に、城下は物珍しげな視線を隠しもせずに向けている。男たちは羨望の眼差しを。女は焦燥のため息を。惜しみなく表していた。
 もちろん、当の本人は気付いているが無視である。今の彼には目的地に居るはずの人物の確保が最大の優先事項なのだ。
 目的地まで、あと20メートル。
 脳の中で正確に距離が計算され、告げられた。後ろにいる兵たちへ、右手を上げて合図を出す。
 ――散開。
 音も無く、兵たちは目的地である小さな店を四方から囲む。途端、常人であったなら気付かない気配を察して、店の中からのっそりと、巨躯が出てくる。普段はぼんやりした、牧歌的な顔立ちをしているが、不穏な空気を察してか険しいものの、荀彧の姿を見つけた瞬間、強張った。
「あの、あの……だな、荀彧ー」
 何かを言いたそうにする男に手を上げて制すると、うぅー、と唸って黙り込んだ。曹操を守らねばならない親衛隊の隊長である男も、荀彧の前では中々本来の役目を果たせないのだ。特に男――許褚は、人間の表面でなく、本質を見抜く力に長けているせいで、荀彧が怒らせるととてつもなく恐ろしいことを察している。今強く出たら、絶対に自分だけでなく、曹操の身がさらに危険になる、と悟り大人しくするしかなかった。それを確認してから、荀彧は悠々と表から店の暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ~……あら」
 店の看板娘の声が弾む。にこり、と微笑みかけて、声を出さないようゼスチャーで示すと、つかつかと店の奥、囲いで仕切られた小さなテーブル席へと歩み寄る。
 テーブル席の一角では、満面の笑みで今日出来上がった新メニュー『銅雀台ツインタワースペシャル』を先割れスプーンで平らげている曹操と郭嘉の姿があった。
 さっくさくのフレークを器の底に敷き、梅ゼリーと蜜柑ゼリーを彩りよく乗せ、ふわっふわのスポンジはプレーンとチョコのダブルで盛り立てられている。さらに季節ものの苺と、南蛮から取り寄せたバナナ、涼州の雪深い地方で保存されていた林檎が生のまま乗せられて、綺麗に飾り付けられ、上からたっぷりの生クリームと天然にも劣らない(遼来々印の)蜂蜜がかかっていた。
 その世にも甘そうな代物を目にして、甘い物が苦手な荀彧は危うく胸焼けを起こしそうになったが、主公、と何とか穏やかな声をかけることに成功した。
 ころん、と曹操が口に運ぼうとしていた苺がテーブルの上に落ちる。郭嘉は無言で逃げようとして、荀彧に首根っこを捕まえられて「うげぇ」と潰れたカエルのような声を漏らす。
「後生だ、文若。こ、この『銅雀台ツインタワースペシャル』を食べ終わってから説教を始めてくれ」
 涙目になりながら、曹操はこんもりと盛られているパフェを両手で死守して訴える。
「ええ、もちろん、よろしいですよ。どうぞじっくり味わって食べてください。当分、おやつ抜きですから」
 一瞬ばかり嬉しそうに顔を綻ばせた曹操は、おやつ抜き、の言葉に絶望の色を浮かべる。まさに天国(ヘブン)から地獄(ヘル)、荀文若必殺の地獄落とし(ヘルバスター)である。
「じゃ、じゃあ俺も食べてからで」
「貴方は今からおやつ抜きです、郭嘉」
「えー、酷い、差別だ差別だ、文若贔屓、えこ贔屓ー」
「小学生ですか!」
 首根っこをさらに強く引っ張り、騒ぐ郭嘉を黙らせて(気絶した)、店の外から恐々と顔を出した許褚へ引き渡して、曹操の前に座る。お、お主も食べるか、と恐る恐る訊いてきた曹操へ、いいえ、と柔らかい笑みで首を横へ振る。
「荀家の一員が糖尿病で死んだ、とあれば末代までの恥です」
 そ、そうか、と引き攣った笑みで曹操は言い、ツインタワーの攻略を再開した。これから始まる荀彧の説教地獄を極力考えないようにしているのか、意識を食べることへ集中し始めたのか、また満面の笑みでスプーンを口に運んでいる。
 幸せそうな顔だ。
 黙って執務を抜け出して、甘味処の新メニューの試食をしに来たことを説教しようとしているのだが、うっかり忘れそうになるほど、曹操は満ち足りた顔で口を動かしている。
 視線に気付いたのか、何だ、やっぱり食べたいのか、と言われて、いいえ、とまた答える。そうか、と首を傾げられて、スプーンで何かを取り出して差し出してきた。
「梅ゼリーじゃったら、そんなに甘くないし、文若でも食べられるぞ」
 ぷるり、と透明な緑色をした小さな四角いゼリーを見つめ、差し出している主君の手と、顔と、またスプーンを見つめた。そっと、スプーンの上のゼリーを摘み上げて、口に入れる。
 梅の香りと仄かな甘みが口の中に広がり、ゼリーの冷たさが咽を潤していった。
「何じゃ、せっかく口に運んでやろうとしたのに……どうだ、美味いか?」
「美味しいですね」
 それは良かった、と満足そうに曹操は頷いて、また一心不乱にツインタワーと格闘し始めた。
 馳走じゃった、と丁寧に頭を下げて、曹操はスプーンを置いた。奥から甘味処の主人が出てきて、どうでした、曹操様、と尋ねてくるのに、美味かったぞ、だが、少しクリームの量が足りんのと、スポンジの柔らかさを生かすために、器を広めにすると良いの、あとはもう少しスポンジをしっとしりさせて……とアドバイスを始める。曹操とは顔馴染みの主人は真剣に頷き、はい、改良してみます、と返事をしている。
美味(うま)かったの~」
 満足そうに腹を撫でながら、曹操は執政宮への道を歩く。郭嘉は許褚に背負われ、先に執政宮の保健室に運ばれている。今は荀彧が連れてきた兵たちが従い、曹操と荀彧を守っていた。
「太っても知りませんよ」
「その分、執務をこなすから平気じゃ」
 事実、曹操は普段から甘い物に限らず、食事もしっかり取っているわりに一向に太る気配はない。執務が激務である証拠でもあるし、それだけ忙しいにも関わらず鍛錬も怠らない。当然といえば当然だ。
 城門をくぐり、兵たちも持ち場に戻っていく。ご苦労だったな、と声をかける曹操へ、荀彧はちくり、と嫌味を口にする。
「主公が黙って抜け出されなければ、彼らも苦労しなかったのですけど?」
「はは、抜き打ち訓練だと思えば良い」
「またそうやって……」
「文若も、たまにはわしと町へ行こうではないか」
「無茶をおっしゃらないでください」
「しかし、夏侯惇や奉孝とは一緒に遊ぶこともあるが、お主とはあまり記憶が無くてなあ。虎痴とだって、遠乗りに行ったり遊ぶのだぞ?」
 見上げられる。含みも無く言ったのは分かり切っているのだが、当てこすられているような気がして、つい口にしていた。
「主公と私は政務でしか繋がっておりませんから、必要ないでしょう」
「何じゃ、もしかしてわしと遊んだことがないから拗ねたのか?」
 (ひが)みだと、さすがに自分でも分かっただけに、指摘されて表情が抜け落ちかける。まさか、と微笑してみせた。
「それは逆でしょう。私は政務で主公を独占しておりますから、私的な部分ぐらい皆に譲りませんと」
 それは本当の気持ちだ。だから曹操も納得しかけたようだが、いいや、と首を振った。
「執務のお主ではなく、公的なところから離れたお主と付き合ってみたい。考えてみればおかしな話じゃ。お主とはこれだけ長く傍に居るのに、奉孝のように町へ遊びに行ったり、惇と酒を飲んだり、ということがない」
「宴には参加させてもらっております」
「それは二人きりではないだろう」
「主公と二人きりになれる人間など高が知れております。主公の貴重な時間を割いてまで私と私的な時間をお作りにならなくて結構ですから」
 どうもおかしな方向へ話が進もうとしている。出来たら、今は曹操と二人きりになるのは避けたい。決して、先日の夏侯惇との会話を意識しているわけではない。あれから、すぐに曹操とはいつも通りの調子に戻ったし、荀彧とて気持ちに変化があったわけではない。変わらずあの二人はとっととくっつけばいい、と思っている。
 それでも、万が一、ということがある。夏侯惇の洞察力はあまり外れない。こと、自分自身に関しては働かないくせに、他人に対しては遺憾なく発揮される。夏侯惇が「そう見える」と言ったのなら、もしかしたら「そうなる」可能性もあるかもしれないのだ。
 荀彧にとって「そうなって」欲しくない。
 曹操には、一等幸せになってもらいたい。
 それには、夏侯惇と、少なくとも自分以外の誰か、曹操が心の底から望む「誰」かと幸せになってもらいたい。
 私は、主公の笑顔を見ているだけで幸せなのだから、それでいい。
「寂しいことを言うな」
 どきり、とした。心の中を見抜かれて叱られたのかと思った。
「文若と遊ぶことも大切な時間の一つなのだ」
「しかし、今日はもういけません。充分に遊んだでしょう。もう執務をしてくださらないと。私の説教の時間もありますし」
 そうではないと分かって言い返すと、曹操は「説教の時間は要らん」と不満顔だ。その顔が本当に不服そうで、荀彧は可笑しくなる。
「主公がそこまでお嫌なのでしたら特別に」
 特別に無しか、と期待に輝く顔に、笑顔で答える。
「私の説諭の時間を増やしましょう」
「文若の鬼! 石頭! 説教魔!」
「ふっふっ、主公ともあろう方が語彙の少ない悪口ですねえ。それでは私を怒らせることも出来ませんよ?」
「分からず屋、頭でっかち、木偶の坊、頑固……」
 荀彧の挑発に曹操は乗っかり、ありとあらゆる罵詈雑言を口にするが、ことごとく荀彧の感情を揺さぶるには至らない。長々と続いた雑言も、曹操の息切れとともに途切れていく。
「もう終わりですか?」
 涼しい顔で先を促すと、曹操は俯いたままぽつり、と呟く。
「文若の、色男」
「それは悪口ではありませんよ」
「察しが良くて、気遣い屋で、有能で、怒ると怖いが普段は男から見ても惚れ惚れする良い笑顔で、男からも女からも好かれておる」
「主公……?」
「でも、実は結構寂しがり屋で、人に甘えることを良しとしないくせに甘えたがりで、本当に懐いている相手にしか素顔を見せなくて、そこが何だか愛しくて」
「……」
 顔が熱くなるのが分かる。
「王佐の才の持ち主で、わしの大事な片腕で、張子房で、お主が居なくてはわしはここまで来られなかった。大切な男じゃ」
 いつの間にか二人は立ち止まっていた。
「それから、文若は大嘘吐きで、わしにも自分にも嘘をついておる」
「どのような……」
 聞き返すな、とどこかで自分自身が警告していた。聞き返したら引き返せない、とはっきりと叫んでいる自分がいた。
「どのような嘘ですか」
「知りたいか」
 顔を上げた曹操の真摯な目の光に促されて、荀彧は黙って頷いた。真摯な光は少しだけ戸惑いを映し、しかし戸惑いとためらいを振り切るように曹操は唇を引き結んだ。
 袖を掴まれる。それから反対側の手で衿を。ぐいっと引かれて曹操との身長差が一息に縮まる。
 唇に柔らかいものが押し付けられた。柔らかくて、甘い、梅ゼリーよりも飴菓子よりも甘い味がした。曹操が先ほどまで食べていたツインタワーの味か、とも思ったが、甘ったるい、胸が爛れそうな嫌な甘さではなく、ぎゅっと誰かに心臓を鷲掴まれたような、痛くて、切なくて、そしてやはり甘い味がした。
 啄ばむような感触が唇にして、またゆっくりと触れてきた。何度も啄ばまれ、押し付けられ、それからそっと覆われた。
 むせ返るような甘さが、なぜか口内ではなく脳内に広がっていく。
 文若、とその柔らかいものは唇の近くで囁いた。吐息と声が唇を震わせる。胸まで、震えた。
 腕を伸ばして、小さな背に回した。ひどく頼りなく感じて、力を込めて抱き寄せる。あ、と艶めいた声が柔らかいところから溢れて消えた。
「主公……」
 しかし、熱に浮かされたような自分の声が耳に届いた瞬間、我に返った。
「――っ」
 体を離した。唇を片手で覆った。今の今まで、曹操と触れていた、そこを、覆った。
 表情など取り繕えるはずもなかった。声も出せずにただ後ずさる。文若、と呼ばれた途端、踵を返していた。曹操の顔など見られるはずもない。いついかなるときも決して慌てている姿を見せることなく、ましてや駆けている姿など言語道断、という自身に対する戒律を破るべく、足に力を込めたが、袖を掴んでいる曹操に引き止められる。
「文若、待て、行くな!」
「離してください!」
 辛うじて声は出たが、上ずって二度と聞かせられるものではない。無言で袖を取り返そうと引っ張るが、今度は曹操が荀彧を引っ張りどこかへ連れて行こうとする。どこへ、と聞き返そうにも、今の声の調子では確固たる意志も含ませることは出来ないだろう。
 曹操に引かれるままに城内を歩いていく。その最中でも、荀彧の頭の中は混乱していて、先ほどの出来事を反芻することすら出来なかった。
 戸が閉められて、我に返る。
 連れて来られたのは、やけに日当たりの良い、そしてなぜか隅に布団が転がっている倉庫のような場所だった。
「奉孝の隠れ家じゃ」
 訊く前に曹操が答えた。
「あやつは何箇所か、こういう光合成(ひかりごうせい)の出来るところに隠れ家を作っている。わしも全部を把握しているわけではないが、ここは滅多に人も通りかからない、一番のお気に入りの場所だ」
光合成(こうごうせい)です、主公。合金合体変形ロボのように聞こえます」
「う~む、つっこむところはそっちじゃったか。第一、光合成(ひかりごうせい)でも間違いではないのだ。動揺し過ぎじゃ、文若。つっこみにキレが足らぬ、キレが」
 郭嘉を植物扱いしたまま、言われるまでもない、と心の中で同意する。怜君の二つ名を返上したいぐらい、頭は働いていない。文若、座れ、と言われて、素直に従う。床の上はたっぷりの陽射しで暖かく、普段だったら眠くなってくるほどだ。
「ここなら落ち着いて話せるであろう」
「説諭の場所を自らご用意されるとは、殊勝な心掛けでございます」
「違う! この流れでどうしてそうなる! 先ほどの続きに決まっているだろう。答えを、教えてやる……いや、わしとお主で確認せねばならぬ」
 言って、曹操も荀彧の正面に腰を下ろし、膝を詰めてきた。
「いけません、主公」
 近くなった曹操の気配に、ようやく頭が働き始める。
「何がだ」
「いけません、主公。確認するまでもありません。主公と私はそうなってはいけないのです」
「何が『そうなって』はならんのだ」
「私と主公は今まで通りで良いのです。これ以上などありえません」
「『ありえない』とはどういう意味じゃ。ありえないのなら、ありえるようにする。それがわしと文若がやってきたことだろう」
「国と個人の感情を混ぜないでください」
「『違う』でも『考えられない』でもなく、ありえない、というだけなら、あるようにする、と言っているだけだ」
 奇しくも夏侯惇と同じことを曹操は口にした。
「何を、誰をもってしてありえないと申すのか。お主が何を勘違いして、誰に遠慮しているのか知らぬが、いいか、そのようなこと関係ないのだ。これはお主の問題で、わしの問題で、お主とわしの問題だ。ほかの者は関係ない」
 最後の最後で、我を引っ込めて裏方に徹する。そういう生き方しかしてこなかった。
 荀家を代表する男と称えられ、それ故に荀彧の一挙一動、髪筋にさえ衆目が集まり、我を通しすぎても、通さなくとも良くなく、張られた綱の上を慎重に歩いていくような感覚を常に求められていた。
 息苦しい、と言えばそうだったかもしれないが、生まれた時から綱の上だったのなら、それが当たり前の感覚で、今さら思いもしないことだった。初めてそれを感じたのは、たぶん、曹操に仕えることを選び、一族に伝えた瞬間だったのだろう。
 その当時、曹操はまだまだ弱小の地方の豪族、ぐらいの扱いだった。派手に動き回っていたので名前だけは誰もが知っていたが、実力は決して伴ってはいなかった。そんな男へ名家である荀家、その中でも筆頭に書されている荀彧が仕えるに相応しいのか。長老たちは口やかましく訴えたが、すでに荀彧は曹操に惹かれていた。
 強引にうるさ型を捻じ伏せたとき、決意した。
 徹底した、完璧なる「王佐の才、荀文若」を貫こう、と。
 その時から、心の底に「一個人である荀文若」を閉じ込め、「曹操の片腕である荀文若」として生きてきた。そのような自分が、曹操の隣に「一個人」として寄り添うことなど『ありえない』ことだ。
 息を吸って、口角を緩く持ち上げて、眼差しを緩める。見惚れるような、完璧な尚書令の笑みを描き出した。
「そういうことでしたら、答えは至極簡単です。私は貴方を支える片腕でありたい。それ以上でもそれ以下でもありえません」
「文若……!」
 これで良い、導き出した答えは正しい。だのに、どうして曹操を怒らせているのだろうか。
 私の本当の望みは、ただ、この人に笑顔で居て欲しいだけなのに、いつも泣いて、怒って、笑ってばかりいるこの人に、ただ幸せそうにしていて欲しいだけなのに。
「文若は嘘吐きだ」
 怒った顔で曹操は言う。
『文若、一つだけ覚えておいて』
 郭嘉の声が蘇る。
『頭の良い奴って、他人にも自分にも、嘘を付くのが上手いんだよ』
 知っているさ、奉孝。だがな、私が嘘を見抜けないほど間抜けているとでも言うのか。
「今ごろ、ご理解されたのですか? おかしいですね、主公もご自身で先ほど私のことを罵ったではありませんか」
 悔しそうに、曹操の眉根がきつく寄せられて、唇は引き結ばれる。どうしてくれようか、この頑固者を、とありありと瞳が語っていた。だが次の瞬間、曹操は半ば諦めたような笑みを浮かべる。
「それでも。少し前のわしであったら、そうか、と納得したかも知れぬが、もう駄目じゃ。わしだけでなく、自分にも嘘をついてまで自分の気持ちを隠そうとする、どうしようもない頑固者だとしても。わしは、お主が良いのだ。そのようなお主だから、好いておる」
「……」
 どうして、どうしてこの人は。
 荀彧の中で何かが崩れていく。崩れていき、気付けば口にしていた。
「私は、貴方の張子房であり続けないとならないのです。ただの荀文若など、必要ない」
「馬鹿者! 張子房もただの荀文若も、わしはどっちも欲しいのだ!」
「……主公は我が侭ですね。私はそこまで我が侭になどなれないのです」
「お主は、元から充分に我が侭じゃぞ? 今さら遠慮するな」
「なれない」と口にした、ということは「なれ」と背中を押してもらいたいのだ。許しを請いたいのだ。
 人からどう見られるか、どう見えているのか。学んできたからこそ分かる。今自分はひどく見っとも無い顔をしている。荀怜君に相応しい面容も、荀家としての保たなくてはならない矜持も、曹操からただ一つの言葉を欲したいために、ただの荀文若へと移ろっていく。
 そして、曹操はためらいなく、荀彧の欲しかった言葉と、笑顔を差し出してくれた。
 考えるまでもなかった。
 荀彧の、曹操が浮かべていて欲しかった笑顔は、ここにあったのだ。
「お主は、どうなのじゃ」
「……慕っております」
 主公、と想いが零れ落ちるように声が漏れ、腕を伸ばし、今度こそその細い身体をしっかりと掻き抱いた。



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