「真荀彧文若の苦労日誌 4」
荀彧×曹操


 珍しく、荀彧は自室でぼんやりと外を眺めていた。まだ少し肌寒さの残る春先である。窓を開け放していれば次第に部屋の空気はひんやりとして、仕舞いかけて部屋の隅にある火鉢を引き寄せたくなる。
 下官の人間が、荀彧の決済が下りた書簡を取りに顔を出し、そんな尚書令の姿を不思議そうに眺めて出て行った。侍女が炭を入れましょうか、と申し出てきたが、いや、構わないよ、と断った。
 火急の採決が必要なものや、期日の迫っているものはすでに片付け終わり、残っているのは手を付けておけば後が楽になる、という程度のものだけだ。だからなのか、荀彧の筆は思うように進まず、ついには筆を置き、先ほどから窓の外をぼーっと眺めていた。
 郭嘉辺りがそんな荀彧を見つけたら、「鬼の霍乱キターー」と大騒ぎして一悶着起こすところだ。もしかしたら荀彧はその賑やかな来訪を待っているのかも知れないが、なぜかそういうときに限り、顔を出す気配はない。本能的に部屋が寒いことを察して近寄らないのかもしれないが。
 ため息が小さく漏れた。
「お前が窓を眺めて物憂げにため息を吐くと、俺でもどきり、とするぐらい色気があるな」
「勝手に部屋に入ってきて、何をおっしゃっているのですか、将軍。頭の中まで肥やしですか」
 男が口にしたのだから、純粋なる褒め言葉であることは間違いないのだが、荀彧は反射的に痛烈な悪態を吐いていた。
「何だ、いつも通りか」
 文卓に頬杖を付いていた荀彧の前にどかり、と腰を下ろしたのは、小ざっぱりした夏侯惇だ。ようやく汗や肥やしの匂いが消えている。
「ついでに言うと、勝手じゃない。何回も声を掛けたが返事がなかっただけだ。――大丈夫そうだから、心配するな」
 後半は部屋の外へ向かって投げかけられ、開いていた戸から侍女が慌てて頭を下げて、戸を閉めて去っていった。どうやら、彼女が部屋の前でおろおろしているところに、夏侯惇がやってきた、ということのようだ。
「何の御用です」
「お前が後で来い、と言ったんだろう」
 機嫌悪いな、と夏侯惇は肩を竦めた。そうだった、と思い出す。荀彧が後で治水工事の報告を聞く、と声を掛けていたのだ。曹操と夏侯惇の間で報告が済んでいるのなら、改めて荀彧が聞く必要もないのだが、大抵曹操が一方的に、夏侯惇が留守だった間のことをしゃべって、ほとんど報告の時間が無くなるのが常なのだ。
 あとで荀彧が聞いて、曹操に伝えておく。これが一番手っ取り早い。ところが夏侯惇は先日まで自身が言い出して始めた治水工事の件には触れなかった。
「孟徳も今日は少しおかしかったが、お前は相当おかしいな」
「主公が?」
「自分じゃなくて、そっちに食い付くあたり、やっぱりいつも通りな気がするが」
「私は自分自身のことはすべて把握しております。それよりもやはり主公はどこかおかしいのですね?」
「いや、まあ。おかしいというか、ぼーっとしているというか。丁度今のお前みたいだな」
「私はぼーっとなどしておりませんが、確かにそれはおかしいですね」
「ほんとにお前、自分のこと分かってるか?」
 夏侯惇が疑いの(まなこ)になって見つめていることなど目に入らず、気を揉む。
「貴方を迎えに行かれたら、と勧めたときから様子はおかしかったのですけども、将軍が顔を出されたらいつも通りになられたので安心していたのに、どうしてくれるのですか」
「俺のせいか」
「他に誰のせいだとおっしゃるのです」
「お前のせいとか」
「人のせいになさるおつもりですか」
「いや、人のせいっていうか、お前、ほんと機嫌悪いな。何かあったのか」
「私は普段と同じです」
 太陽が東から昇り、西へ沈むように、夜になると星が瞬くように、川の水が高い所から低い所へ流れるように、まったくもって世の摂理に反することのない、精神状態です、と言い切る。
「じゃあ、孟徳のところへ行ってこい」
「なぜそういう結論に達するのです」
「嫌なのか」
「主公が嫌だと思います」
「なんで」
「将軍が顔を出される前、主公に『つまらなさそうにしている』と指摘をされ機嫌を損ねてさせてしまったようでして。部屋を出て行くところだったのです。今顔を出しても、また同じことを言われてしまうだけでしょうから」
「喧嘩か」
「どうしてそうなるのです。将軍の頭はローカル単線ですか」
「ローカル……なんだって?」
「ローカル単線のように、主公の機嫌を損ねれば『喧嘩』という単語にすぐ結び付けようとする、思考回路が一本しかない、ローカル単線のよう、と言いたいのです」
「分かりやすく解説すまんな」
 これでも二人は仲が良いのだ。
 曹操が遠征するときは大抵二人で許都を取り仕切っているし、文官の要である荀彧と武官の要である夏侯惇は、片方がやや装っているのに対して、もう片方は天然である、という要素はあるものの、どちらも人当たりは良い。誰かを支えるために、自分の時間や能力、ましてや人生さえを惜しみなく注げる献身的な姿は、口に出したことはないが、お互いに尊敬していた。曹操という共通の繋がりを抜きにしても、気は合う。
 はっきりと物を言う荀彧と、それを素直に受け止められる夏侯惇、という関係も、二人の間に亀裂を作らないのかもしれないし、だからこそ荀彧も、怒らせると怖いが、普段は良い人、という怜君の仮面を堂々と外していられる。
「孟徳と一緒だとつまらんのか」
「まさか。私もつまらない、などと思っていなかったですし、仮に、太陽が西から昇って東に沈んで、雨が地面から降り出して、冬の次に夏が来るようなことがあるぐらいありえませんが、つまらない、と思っていたとしても、表に出すようなことはいたしません」
「そうだろうな」
 付き合うのに苦労する、目を離せない、世話がかかる、という苦労の言葉を並べたとしても、曹操とともに居て「つまらない」という単語が出てくる人間がこの世に居るはずがない、と信じている二人である。
「ただ、確かにあの時、僅かばかり考え事をして他のことに気を取られていましたから、もしかしたらそのせいだったのかもしれません」
「あいつ、敏感だからな、そこら辺」
 子供の頃から宦官の孫、と陰口を叩かれたりあからさまに罵られたりして、今も風評にはああ見えて、曹操は人一倍気にする性質だ。一喜一憂するほど柔な精神では無いにせよ、過剰に反応することは確かだ。
「荀彧が自分との話の最中に上の空だったら、傷付くだろうさ」
 さらっと、嫌なところを突いてきた。
「だったら、貴方がさっさと慰めてきてくださいよ。『お前には俺が居るだろう、孟徳』とその低音ボイスでパーリーしてくればいいじゃないですか」
 普段の荀彧だったら、すっくと立ち上がって潔く、謝ってきます、と足早に行動に移すところだったが、今日はあの苛立ちがまだ胸の底で燻っていた。
 どうせ、私が行ったところで主公の気持ちをすべて汲むことは出来ないのだから、この男のほうがいいだろう。その方が理にかなっている。
「ほんと、物真似得意だな、荀彧は。まあぱーりーは意味が分からんが、俺が行っても意味無いだろう? お前が行ってこそだろ」
「主公は貴方が顔を出したほうが嬉しいのですから、貴方が行くべきです。てか、早くくっついてください、じれったい」
 つい、口調は刺々しくなる。
「くっつくって……前から思っていたんだが、お前、孟徳と俺にどうなって欲しいんだ」
「そうやって聞き返してくるところがじれったいのです!」
 声も大きくなる。
「くっつくと言ったら一つしかないでしょう。一線を踏み越えろ、と言っているのです!」
「一線……って」
 夏侯惇、絶句である。その顔を見て、なぜかますます腹が立ってきた。一線でお分かりになられないのでしたら、事細かにご説明いたします。そうそう、そういえば貴方に前線へ送り出された兵卒同士が、欲の処理を求めて同性同士で抱き合うこともある、そのときの対処法もお教えしましたよね。あれを貴方と主公に置き換えて、ただいまから第二回、先輩の課外授業「荀文若の良い大人のせっくすえちけっと講座」を開いてさし上げましょう。まずは、主公の服を丁寧に脱がせます。決して怯えさせないように、優しくです。それと出来たら次の日のことを考えて、自分の服は綺麗に折り畳んでおくとよろしいですね。主公は着替えがあるでしょうが、貴方はありませんから、次の日部屋から出るとき、皺の付いた服で出てこられては困ります。それで露わになった主公の肌……。
「何を言い出してるんだ、お前は!」
 滅多に振るわれない、夏侯惇のつっこみ拳骨が荀彧の脳天に突き刺さった。ごん、とかなり良い音がした。やはり頭の中身が詰まっているからだろうか。
「……っっ、酷い」
 声も無く蹲り、小さくそれだけ呻いて、荀彧は涙目になる。頭脳労働者に対して、肉体労働者が遠慮なく、力いっぱい、全力で、加減なしでつっこめば、それはただの暴力である。
 理不尽さを訴えたものの、夏侯惇の顔は真っ赤だ。怒っているのかと思えば、も、孟徳の服を脱がして、は、肌を……っ、と言葉に詰まっている。照れているらしい。
「きも」
 頭を擦りながら(信じられないことにコブが出来ている。つっこみでコブ出来るとか、どうなの)、荀彧は容赦なく言い放つ。
「孟徳と俺はいい! むしろお前だ、お前!」
「主公と私がどうしたというのです」
「お前は良いのか、孟徳と俺がくっついても」
「さっき申し上げた通りです。じれったいのですから、早く一線を」
「一線とか言うな。想像させるな!」
「一線の言葉の響きで慌て始めるとは、小学生みたいですね」
「知るか。お前、孟徳と俺をそういう目で見ていたのか。だから事あるごとに俺に孟徳で何をしたのか訊いてきたのか」
「主公の動向を知るためもありましたけど、そういうことです」
 う~む、と大きく唸って、夏侯惇は妙に真剣な眼差しを荀彧へ当てて腕を組んだ。
「お前だから言っておくが、俺は孟徳に対してそういう気持ちになったことはない」
「そのようなこと……」
「最後まで聞け。ない、と自分では思っている。何せ俺は生まれたときから孟徳の従弟だ。自慢じゃないが、従弟として充分可愛がられてきたし、甘えさせてもらった。憧れの存在でもあり、今は大切な主君でもあり、全身全霊を持ってあいつの力になりたい。その気持ちにまったく、お前の言うところの一線を越えたい、という想いがないのか、と問われれば、断言は出来ん。あるのかもしれないが、俺自身は分からない、それが正確な答えだ」
 夏侯惇がこんなに長く自分のことを語るのは稀だ。曹操のことになると荀彧に負けないほどの長広舌(ちょうこうぜつ)ではあるが、自分のことに関してはあまり語らない。というよりも、恐らく自己分析などということをしない、する必要がないのだろう。
 この男は、決して自分というものを見失わない。
 ある意味で馬鹿で、ある意味で賢い、ただ真っ直ぐな人間だ。自分を騙すことも嘘をつくこともしないし、そもそも出来ない。
 だからきっと、荀彧は夏侯惇を好ましく思っているのだ。傍に居て心地よく、それは曹操も同じだろう。
「だから仮に俺が孟徳とそういう関係になる、というのなら、孟徳が俺を求めてくれた時だけだ」
「その時は、拒まない、と?」
「というか、拒むことなど出来ないだろうな」
 照れもせず、気負いもせず、きっとそうだろう、と淡々と告げる。
「傍から見ると、どう見てもお互いに惹かれ合っているとしてもですか」
「それを言うならお前と孟徳もだろう?」
 訝しい表情が瞬時に(おもて)へ浮かび上がる。
「おかしなことをおっしゃいますね、将軍は」
 そうだろうか、と隻眼が瞬かれた。少なくとも、と言う。
「俺にはそう見える。孟徳がどこまでどういう形でお前を想っているかは分からんが、少なくともお前は孟徳に対して」
「ありえません」
 遮り、言い切る。ありえません、と重ねて言う。
「そうか……」
 今度は疑問、否定、ではなく、ただの相槌だ。
「違います、でも。考えられません、でもないか……」
 夏侯惇の呟きに笑う。
「ありえません」
 もう一度、はっきりと告げて、綺麗に、一分の隙も見せない、怜君の名に相応しい笑みを浮かべた。



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