「真荀彧文若の苦労日誌 3」 荀彧×曹操 |
曹操への用件を全て済ませて退室した荀彧を郭嘉は追い駆けた。後ろも振り向かずに、荀彧は鋭い語気で言い放つ。 「じれったい!」 「うんうん、分かる、それは俺にもよぉ~く分かるよ。でもさ、本人に自覚がないんじゃ、仕方ないんじゃない?」 「だから! 私がこうして自覚を促そうとしているというのに、あれだ!」 むっつりとした顔で回廊を大股で歩く荀彧の後を、郭嘉がせかせかと追う。長身の荀彧の歩幅に合わせるのは大変なのだ。しかもお世辞にも体力があるとは言えない郭嘉は、すぐに息を切らして回廊の隅に蹲る。 「文若~、ちょっと待ったぁ」 情けない声を背中に浴びせると、荀彧がくるり、と振り返る。だから普段から肉、野菜、牛乳を飲め、と言っているではないか。虚弱体質も大概にしないとうかうかと戦場にも出せない。どうしてくれるんだ、郭嘉。蹲る頭上から容赦のない言葉が降り注がれるが、郭嘉の息が整うまで傍で待っている。ふらふらしながら立ち上がれば、腕を掴んで支えるようにゆっくりと歩き出す。 へへ、と笑うと、何が可笑しい、と冷たい眼差しで睨まれるが、郭嘉はまたうへへ、と笑ってしまった。 「ねえ、文若」 相槌も打たれないが、聞こえていないはずはないので、構わず続けた。 「こういうのって、自然となるようにしかならないと思うんだ。あんまり外野がぎゃいぎゃい喚いても仕方ないよ?」 「分かっている」 寸刻空けずに返ってきたところを見れば、荀彧も随分前からそう思っていたということだろう。険しかった顔に諦めの色が過ぎったが、すぐに切なそうな表情が浮かぶ。その変化を余すことなく見つめたまま、郭嘉は言う。 「でも、文若の気持ちも分かる」 「……」 「俺、主公の気持ちは手に取るように分かるよ。主公は大好きで大好きで、でもあんまりにも二人は長く傍にいたから、LIKE(好き)とLOVE(愛)の境界線が曖昧なんだよ。本人にも分かってないもん、あれ。相手も、きっと同じだと思う。尊敬する人、仕える主君で、男としても人間としても慕ってるけど、それ以外の気持ちが混じっているだなんて、これっぽっちも思ってないみたい」 困ったもんだよね、傍から見ればあれほど好き好きオーラ出して分かりやすいのに。肩を竦める郭嘉に、荀彧は立ち止まり、回廊の欄干を手持ち無沙汰の人のように撫でて、言った。 「私は、主公に幸せになってもらいたいだけだ」 「今も、主公は不幸せだ、と思ってないよ?」 だって、俺やあんたみたいに主君想いの臣下に囲まれていて、自分のために頑張ってくれているし、何より本人が、やりたいことがたくさん有り過ぎて毎日が忙しくて楽しいって思ってる。 「……だとしても、だ」 まるで駄々を捏ねる童のように、美麗な顔を歪ませて荀彧は言い放つ。まるで泣きそうな横顔を見せる七つ年上の同僚に、郭嘉は小さく笑う。 ほんと、文若は主公が大好きなんだから。 普段は曹操の片腕として申し分のない働きを見せ、端麗な顔に浮かべる人当たりの良い笑顔は彼の持ち味である。それは裏を返せば誰彼とも平等である、ということだ。彼が本当に心を許している人間は少なく、そのくせそんな相手には気が置けないものだから平気で冷たい態度を取ってみたりもする。器用に三つも四つも仕事をこなせるけれど、どうしても大事なことは意外と不器用で、途方に暮れている姿はあまりにも頼りない。 仕方ないな、この奉孝さんが手を貸すよ。だって、俺も主公が大好きだもん。 ぽんぽん、と欄干に置かれた手を叩いて、郭嘉は笑う。すると荀彧は冷めた眼で見下ろして、いい加減、手を洗え、郭嘉、と言った。 なにせ彼の手は、まだ飴菓子を食べたときのベタベタした手のままだったのだから。 「いい場面、台無し」 と郭嘉は肩を竦めたものの、ふっと真剣な眼差しで荀彧を見上げた。 「文若、一つだけ覚えておいて」 雨も降っていないのに庭先でカタツムリを見つけてしまったような、実に稀な郭嘉の顔付きに、荀彧は訝しそうな表情を浮かべる。 「頭の良い奴って、他人にも自分にも、嘘を付くのが上手いんだよ」 「どういう意味だ」 「さあ?」 聞き返すと、いつもと同じ締りのない顔に戻り、首を傾げて煙に巻く。 「出来たなら、文若には自分でちゃんと気付いて欲しいから」 腕を掴んで詰問しようとした荀彧の手をひらり、とかわして、郭嘉はひょっこひょっこ特徴ある歩き方をしながら回廊を一人歩いていった。 そわそわと膝を揺すりながら、青空が広がる窓の外や人が行き交っている扉の向こうを窺う曹操を横目で観察していた荀彧は、小さく笑みを浮かべて質問した。 「主公、昨日の面接で候補に挙げられていたこの人物とこの人物ですが、技能と能力的には大司農府の大倉令(地方の穀物輸送の管理を行う部署)が適任ですが、むしろ私はあえて全く違う都水台(河水、運河の保守を任されている役所)の下官からやらせてみるのが良いと思うのですが」 「うむ、わしもそう思っておった。任せる」 「それから、先日の徐州における反乱の鎮圧ですが、張郃将軍が初手柄を上げましたが、報奨はいかほどにいたしましょう」 「うむ、それが良いだろう」 「……今日は雨が降り、湿っぽいですね」 「その通りだと思う」 「……最近、主公の背が縮んだような気がするのです」 「良いことだな」 荀彧文若は公私を 「何が可笑しいのだ?」 「いえ、失礼しました」 すかさず笑いを収めて元の怜悧な顔を作れたのは、さすが荀彧文若である。ただ口許に微かに残った笑みだけは消さずに、聞き返した。 「主公こそ、朝から落ち着きませんね。何か気にかかることでもおありですか?」 「ん~、いや、なに、ほらな」 ゆったりと笑みを広げて、歯切れの悪い曹操の言葉を待つ。 「報告書が届いてからもう十日経つだろう? そろそろか、と思っての」 「ああ、梅の便りですか。そうですね、そのような時季ですね。今年も梅祭りをなさいますか?」 「うむ! いいな!」 目を輝かす曹操は、しかしすぐにはっとして、違う違う、と言った。 「おや。では……ああ、もうすぐ張遼将軍が手塩に掛けて育てた牝馬が仔を産むのでしたね。ご安心ください、生まれた時には主公も呼びますから」 「おお、もうか! それは楽しみじゃ……って、だから違う!」 「これでもありませんか。あとは……陛下(天子)の開かれる雑技団の公演でしょうか。それとも、文芸論談会のこと……ああ、もしかして今評判の甘味処の新メニューが近日のうちに完成でしたっけ?」 「それもどれも楽しみだが、どれも違う!」 「ついに無双シリーズも6まで来ましたね」 「そうなのだ!」 「ご安心ください、今回もしっかり主公の身長は公式どおり、174センチで申請しておきました」 「……しかしここ最近、シークレットブーツではないか、とか、いや、微妙に劉備よりちゃんと小さいぞ、とか、陰で色々と噂されておるようでな」 「ここ最近の話ではないのですけどね」 「何か言ったか?」 「そうですね……火の無いところに煙は立たぬ、と申しますし」 「お主もわしを小さい、と言うのじゃな」 「夏侯将軍はもうすぐお帰りだと思いますよ」 「…………誤魔化しおったな」 「それほど気になるのなら、迎えに行ったらよろしいではありませんか」 「いや、それは出来ぬ。夏侯惇は従弟とはいえ、わしの臣下の一人であることには変わりない。特別に接することは他に対する示しが付かぬ。わしが直々に迎えることにより、優遇されている、と見なされることは夏侯惇にとっても軍内での立場が悪くなるだろう」 真正面からのまともな意見に荀彧はコンマ数秒悩み、咳払いした。 「『俺はそんなこと気にする男ではないがな、孟徳』」 「激似!」 「『俺も同感。大体、旦那の人気っぷり、お主公知らないでしょう? 少しぐらい贔屓したって、誰も何も言わないって』」 「ちょ、文若、それ今度の梅祭りのとき、余興でやってくれ! 絶対に馬鹿ウケする! あと、誰と誰が出来るのだ」 「特徴あるしゃべり方をするのでしたら、誰でも。劉備とかも出来ます」 「マジで! やってやって!」 「『悪く思うな!』」 「うわ、その悪役的台詞、そっくりじゃ!」 「『殿、そのように些細なことに拘っておられては、美しくありませんよ?』」 「あっはっは、張郃じゃな。美しい、で分かってしまうぞ?」 「『ふっ……父よ、叔父貴と物見遊山をしてくればよろしい』」 「お主の声帯はどうなっておるのだ?」 「『ふははっ、馬鹿めーー!』」 「いや、もう分かった分かった」 「このぐらいの特徴を出さないとモブを脱出出来ないのでしたら、私は一生モブのままで結構です」 「いきなり真面目な顔で言われても困るのじゃが……」 「で、迎えに行かれないのですか?」 時々、お主と言う男が分からなくなる時があるのだが、わしはどうしたらいいのだろうな。 なぜか窓辺に佇んで黄昏始める曹操の背中へ、まだ真昼間ですよ、主公、と平然とした顔で荀彧は声をかけた。 「寂しいなら早く会いに行かれればよろしいのです」 「寂しいとか、そういうのではなくてだな」 「先日、私のことをお笑いになったので、意地を張られているのでしょう。男女の様な恋仲、という関係は置いておくにしても、寂しいことは寂しいのでしょう?」 「うむ……」 「将軍に話したいことがあるのでしょう?」 「そうじゃ」 「逆に将軍の話も聞きたい」 「うむ」 「会えなかった間のことを話して、傍で笑い合って、お互いを労って、それがとても幸せなのでしょう?」 「不思議と癒される」 「この人の傍に居ると安心できる、お互いが居なくなることなど考えられない」 「そう思うの」 限りなく恋情だと思う。男女ではない、異性ではないことなど関係ないほどに、曹操と夏侯惇の関係は従兄弟という血族、主従という絆、その他にもう一つの関係を築いていてもいいはずだ。 郭嘉の言う通り、今のままでも充分に曹操は夏侯惇との関係に満足しているだろう。不幸せなどと思っていない。それでも、こうして夏侯惇の話をするときの曹操の柔らかな表情を見てしまうと、もう少しだけ、自分の気持ちに気付いて欲しい、と思ってしまう。ましてや、想う相手も同じ気持ちであるのだから。 「行ってきてください」 背中を押す。小さな身体で乱世を御そうとする大きな背中を荀彧はぐっと押して、耳元で囁く。聞き取れるかどうか分からない、小さな声で告げる。 「私は将軍の隣にいる貴方の顔が大好きですから」 返事はなかった。ただ、戸を開けた曹操は振り返って、なぜか少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。 「主公?」 主の寂しげな顔を見つけて、荀彧は戸惑って言葉に詰まる。曹操は顔だけ振り返っていたのをくるり、と体ごと戻して、部屋に入り直した。 「……迎えに行かれないのですか」 「やめた」 すとん、と椅子に腰を落として、チェックの途中だった書簡に目を落として執務の続きを始めてしまう。 「誰も、責めませんよ?」 曹操と夏侯惇の主従を越えた絆の深さに嫉み、陰口を叩く人間など許都には居ないし、仮に居たとしても荀彧の笑顔一つで地方へ飛ばされる。 「わしが責める」 「どなたを」 「わし自身をだ」 何が主君の機嫌を損ねたのか、むっつりと不機嫌そうな顔で書簡を読み、朱筆で修正を書き加えて机の端へと追いやった。またもう一つ書簡を手に取った曹操を見つめて、分からない、と荀彧は思う。 荀彧とて曹操との付き合いは長い。 子供の頃から付き合いのある夏侯惇や、根っこで繋がって理解し合っている郭嘉には負けるかもしれないが、荀彧とて曹操の理解者である、という自負はある。曹操が立ち止まっているときは背中を押して欲しいであろう言葉を発し、迷っているときは共に悩み、道を見出した。 執務が立て込んでいるときはそれこそ、夏侯惇や郭嘉、曹操の家族よりも傍にいる時間が長い。曹操の作る文や詩を理解する感性も持ち、褒める語彙に困ったことはない。曹操の執る政治も理解している。 しかし、それでもこうして曹操が分からなくなるときがある。 「将軍か、郭嘉が居れば、困らないのでしょうね」 きっと彼らは、曹操の機嫌の悪さの原因もすぐ察して動き出している。適した言葉を掛けている。 「夏侯惇と奉孝がどうしたと言うのだ」 「いえ、何でも。執務の続きをなさる、と言うのでしたら、こちらの報告書と案件もお願いいたします」 口を衝いていた愚痴を誤魔化して、働き者の主を喜ぶように、にこやかに執務の追加を示してみせた。 結局、自分と曹操の繋がりは『国』を通してでしか存在していないのだろうな、と思う。王佐の才、と謳われた己の価値は申し分なく発揮されている。だからこそ曹操は荀彧を頼り、荀彧は曹操を盛り立てることに心血を注いでいる。 充分だと感じているのに、今日はひどく苛立つ。 「文若、わしと執務をしているのがつまらんか」 唐突な問い掛けに、事務的に曹操と会話をしていたらしく、我に返るように椅子に腰掛けている曹操を見下ろした。 問われて、自分の顔の筋肉を確認する。 荀彧は自分が美貌であるという自覚は持っている。見た目が重視される世の中に、この持って生まれた『才能』を活かさない手はないと思っている。だから、己がどんな表情を作れば人の気持ちを動かせるかも研究してきた。それは長年傍に居る主君であろうとも対象だ。 笑顔……だった。無理のない、いつもと同じ笑顔だ。取っ付き易い、話しかけても怒られることはない、どうしました、と微笑んで対応してくれる、有能な尚書令の面容をしている。 確認が終わると、疑問を滲ませた。 「そのようなことはございませんが。第一、主公と執務をしていることはいつものことではありませんか。今さらそのようなことをおっしゃるなど」 「そういう顔をしておる」 言っている当人が一番つまらなさそうな、機嫌の悪そうな顔付きなのだが、荀彧はあえて反論しなかった。 「では、一旦下がります。用がありましたらお呼びください」 拱手して、退室を願い出る。曹操が「文若」と何かを言いたそうに呼び止めるが、踵を返したところで部屋の外から声がかかった。 「殿、夏侯元譲、ただいま戻りました」 「夏侯惇か! 入れ入れ」 先ほどまでの不機嫌そうな顔からは想像も付かないような弾む声で、曹操は答えた。荀彧は夏侯惇が戸を開けるより早く中から開けて、男を招き入れる。 「お、荀彧も居たのか。いま戻った」 「ご無事の帰還、お喜び申し上げます、将軍。詳しい報告は後で聞きますので、私は失礼いたします」 「相変わらず忙しいな。分かった、殿に報告を済ませたらお前のところにも顔を出す」 笑う夏侯惇の顔は日に焼けて、また一層逞しくなっていた。屈託の無い笑顔は人を惹き付けるのだが、本人は無自覚らしい。だが、不意に鼻を衝いた強烈な匂いに眉をひそめた。 「ところで将軍、まさか貴方、身を清めもせずに顔を出しているのではないでしょうね」 「む……、すまん、匂うか?」 すん、と鼻を鳴らして、夏侯惇は自分の服の匂いを嗅ぐ。 「やはり肥やしを運んだせいか」 「肥やし、運んだんですか」 「帰る途中でちょっと頼まれたんでな」 「天下の大将軍に肥やしの運搬を頼むとは、我らの民の肝も相当据わっていますね」 「はは、さすが孟徳の民だな」 皮肉だったのだが、この男には通じない。曹操と荀彧しか部屋に居ない、と知れて口調は普段通りに変化している。あっという間に先ほどまでの妙な苛立ちも毒気も抜かれて、荀彧は低く笑う。 「ではなおさら、身を清めてからにしてください。親しき仲にも礼儀あり、と申します」 「うーむ、まあ言われてみればそうか。孟徳、すまん、出直す」 「わしは構わん。顔も見れた。後でゆっくり話を聞かせてくれ」 曹操も、そわそわしていたのが嘘のように、余裕を見せて頷いた。主に浮かぶ笑顔と態度に、安堵と同時に |
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