「めかくし鬼 3」
劉備×曹操


 むくり、と起き上がり、強烈な咽の渇きに水を欲したが、枕元の小台に水差しと器が置いてあり、ありがたくもらうことにした。
 一気に飲み干してから辺りを見回すと、真っ暗でありながらも闇に徐々に慣れてきた目に、見慣れない部屋が映る。ぬるかったが水を飲んだことでぼんやりしていた頭が冴えてきた。すぐに状況を思い出した。
「劉備の……」
 途中から記憶が曖昧だが、何となくは覚えている。どうやらまた、自分の悪い癖が出たらしい。自己嫌悪に陥りつつ、薄布に身を包んでいる己の姿を見下ろした。誰かが着込んでいた衣を脱がしたのだ。
 かあっと羞恥で全身が熱くなる。誰だ。もしも劉備や関羽だとしたら許せない。牀台(しょうだい)(寝台)から下りて暗闇の中で急いで衣を探した。衝立に掛けられていたのを見つけて、慌てて袖を通してようやく落ち着いた。
「虎痴、虎痴はいるか」
 曹操の声は小声だったが、すぐに巨躯が姿を現した。
「曹操様、起きただか」
 闇の中で、良かったと顔を綻ばせた許チョに詰問する。
「わしの衣を脱がしたのは誰だ」
「おいらだぞ。だって曹操様、あんまり人前で裸にならないだから、きっと嫌なんだろうって思って、そこへ寝かすときに一枚だけ脱がしただよ」
「そうか、ならいい」
 ようやく、身を焦がすような羞恥が杞憂だったと分かり、全身で息をついた。そんな曹操の様子を窺っていた許チョは、遠慮がちに言った。
「もう遅いだが、帰るか?」
 聞けば丑之初(うしのしょ)(午前二時ごろ)だそうだ。幾らなんでも他人の家を辞するには適さない時刻だ。劉備たちも寝ているだろう。
「いや、厄介になろう」
 許チョは黙って頷いた。少し外を歩きたいと思い立ち、素足のまま回廊へ出る。もちろん、後ろを影のように許チョが従う。
 酔った曹操を相手に、劉備は律儀に相手をしたらしく、屋敷の中庭に植えた野菜の説明や、裏庭を新しく開墾中だということも話して聞かせたくれたことが、ぼんやりと頭の片隅に残っている。
 おかしな奴だ、と曹操は劉備に出会ってから何千回と呟いたことをまた呟いた。
 掴み所のない、ぐいっと力任せに押せばその分下がり、慌てて力を抜けば元のところへは戻ってくるがそれ以上は戻らず。右から攻めれば受け流されて、左から攻めればいつの間にか素通りしている。のらりくらり、と人を食ったような態度をとったと思えば、何でもないことで食いついてきたり、人の神経を逆撫でした発言をしたと思えば、次のときには人を喜ばせるようなことを言ったり。
 今日の宴とて、勢いで提案してきたことは曹操も承知している。しかし面白そうだと思ったことも事実だ。実際、来てよかったと思っている。おかげで普段は従兄弟たちや郭嘉など気の置けない相手としか深酒などしないのだが、飲みすぎて悪い癖を出したほどだ。
 出逢ってからの月日など曹操は気にしない。逢ったとき、そして話して、相手を気に入ればそれだけで好きになるし、深く理解したいと望んであれこれと話し込んで相手の才を見つけて、引き出した。
 ところが劉備は勝手が違った。男自体が変わっていたせいだろうか。
 劉備と初めて会ったのは、劉備が下ヒを呂布に奪われて助力を求めに来たときだった。男の第一声は、助けてくれ、でも、曹操にへつらう言葉でもなく、ただ曹操をまじまじと見つめて、
『小さいですね』
 と言ったのだ。
 もちろん、場は殺気立った。曹操も内心では怒り心頭であった。初めて会う相手であり、呂布から逃れてきた男で、利用すれば鬼神と恐れられる呂布を討伐できる足がかりになるかもしれない、という計算が働いていなければ、切り捨てているところだ。
 曹操が己の小さな体に劣等感を抱いていることは、親しい者なら口にしたことはないが、誰もが熟知していた。敵対している人間から蔑むために罵られるときですら、頭に血を上らせて冷静さを失わせるためだ、と分かっていてなお叩き切ったこともあった。かといって、曹操を慕う者から出たとしても許せない。とにかく容姿のことを言われることに嫌忌していた。小ささを連想させる女を褒めるような形容も大嫌いであった。
『こんな人が徐州であんな酷いことをしたり、でも片方ではこんな立派な都を造ったりしているわけですか。ふ〜ん、凄いですね』
 続いた言葉に、すっと怒りが収まっていった。
 曹操を忌み嫌うために罵る輩や、媚びるために美辞麗句を並べて擦り寄ってくる者とも違う、素直な言葉だと伝わったからだ。
『世辞は要らぬ』
 それでも念を押して返したが、男は笑った。
『私は、昔から世辞とか苦手です。人の機嫌とか窺えないものですから、県尉などそれでこっちから辞めたりしたものですよ』
 あはは、と一見すれば阿呆みたいに笑っている男を眺めるにつれ、おかしな奴だ、と記念すべき第一回の呟きを舌の上に乗せたのであった。
 そんないい加減なところがあるせいなのか、時々図々しいほどに人の胸裏へずかずかと踏み込んでくる。褒められることを曹操が嫌う、と知ってもなお、真っ直ぐに己の気持ちをぶつけてくる。疎ましい、と思うこともある。けれども、曹操は劉備を身辺から離す気にはなれなかった。
「曹操殿」
 不意に、誰も居るはずのない中庭から声をかける者がいた。許チョがまったく反応しなかったので、敵意のある者ではないことは分かったし、曹操もすぐに誰だか見とめた。
「劉備か。このような夜中にどうしたのだ」
「なんだか目が覚めまして。ここにいれば、曹操殿と会えるような気がしたのです」
 当たりました、と淡い月明かりの下で劉備は小さな笑みを浮かべていた。
「わしを待っていたのか?」
「はい。そして会えた。どうです、まるで運命の相手のようじゃないですか?」
「冗談も休み休み言うのだな」
「ばれましたか。でも、貴方に会えたらいいな、とは思っていました」
 ならば、明日の朝でも良いだろうにおかしなことを言う、と思いつつも見事に生い茂っている野菜畑を眺めた。
「それにしても、よくもまあ、ここまで育てたものだ」
 感心半分、呆れ半分で闇に慣れた目で中庭を見渡す。
「暇だったもので」
 毎日の執務に忙殺されている荀ケが聞いたら、また『死ねばよいのです』と呟きそうなことを劉備は言う。忙しいのは曹操も同じだが、劉備の言葉に笑ってしまう。
「暇だというがお主、これからどうするつもりだ」
 今まで、あえて訊いてこなかったことを口にした。客将として招いたものの、曹操自身も劉備の使いどころを悩んでいた。帝と同じ劉姓であり、民からの人気もある。利用できるか、という思いもあり、当面の宿願であった呂布を倒したあとも、劉備を放逐しなかった。
「さあ? そうですね、曹操殿の臣下にしてもらえたらいいな、と思ってはいます」
 そうすれば、暇になることはなさそうですし、と言う劉備は中庭の真ん中に立っているせいで、夜目の効いた曹操ですらどのような顔をしているか分からなかった。
「本気か」
「私は世辞も言いませんが、嘘も申しません」
 なぜか、腹の底から怒りが込み上げた。裸足であることも忘れて中庭に降り立ち、ずかずかと劉備へ歩み寄り、衿を掴んだ。
「本気か」
「駄目ですか」
 いつもの、阿呆みたいな面で笑っているのだろうか、と思っていたが、見たこともないような真摯な面構えをしていて、曹操は息を呑む。同時に、腹の底で湧き起こった怒りが劉備の衿を掴む手に込められる。
「お主は……っ」
 その後の言葉が続かない。
「違うだろう」
 それしか思い付かなかった。
 お主はそういう男ではなかったはずだ。
 いい加減で、どこまで本気なのか分からず、羨むほどの武人を二人も連れているのに乱世の荒波にいつも溺れそうで、そのくせどこかそれを楽しんでいて。ボロ船だろうとも自分で舵を取ることが至上の喜びと考えている、そういう男だと思っていた。
「違う、だろう」
 足の裏に感じ取れる、柔らかく暖かい土すら腹立たしく、思い切り蹴り上げれば、目の前の男の足へとかかる。掴んだ衿にさらに力を込めれば、劉備は少し苦しそうな顔をしたが、抵抗しなかった。
「お主らしくない」
 しかし曹操がそう言った途端、劉備の雰囲気がするり、と入れ替わった。闇夜の中で双眸だけが不気味に光ったような気がして、思わず衿から手を離していた。
 険悪な二人の様子にも黙って見ていた許チョが駆け寄り、曹操を庇うように間に立った。それほど、劉備の様子が危険だったのだろう。
 ところが許チョが立ちはだかると、劉備の雰囲気はまた元の掴みどころのない軽薄な男へと戻った。敵意が消えたせいで身を引いた許チョを押しのけるようにして、劉備は曹操に笑いかけた。
「……?」
 なんだと思ったのもつかの間、突然の浮遊感が曹操を襲った。うわわ、と思わず悲鳴を上げたものの、劉備に抱き上げられた、と分かりなお慌てた。
「何をする、劉備! 下ろせ!」
「ふ〜ん、見た目通り曹操殿は軽いですね」
 一度は劉備の豹変で忘れていた怒気だったが、煮えくり返っていた(はらわた)にその台詞はとどめで、曹操は怒りのあまり言葉を失った。許チョが青褪めた顔をしたことだけ、視界の隅に入っていた。
「許チョ殿、曹操殿の足が汚れてしまったので、水を用意します。客間まで運んでくれますか?」
 劉備の腕から、馴染んだ許チョの腕に移されて、ようやく曹操は怒りの中からも言葉を思い出す。劉備、と声を荒げようとしたときには、劉備は奥へと消えていた。
 曹操が苛立っているせいか割れ物でも扱うかのような許チョの手で、曹操は客間の寝所へと逆戻りした。腹立たしさが収まらない曹操に、許チョはどうしたらいいのか分からないらしく、黙って立っている。
 すぐに劉備は現れて、水を湛えた桶を抱えて曹操の前に跪いた。拭きますよ、と差し出された手を泥に塗れた足で払い除け、もう片方の足で桶の中の水を蹴り上げて劉備にかける。
 ばしゃり、と見事に劉備は頭から水を被った。しかし男は気にした様子もなく、曹操を見上げて足をどうぞ、と促してくる。
「どういうつもりだ、劉備!」
「ですから、足を洗って差し上げようと」
「そういうことを言っているのではない! 先ほどの答えのことだ!」
「私が貴方に従属する、ということですか」
「それ以外に何がある!」
「駄目なのですか?」
「お主はそれでいいのか!」
「曹操殿は私にそれを望んでいたから、傍に置いてくれていたのではないのですか?」
 ぽたり、と劉備の顎から雫が落ちて、桶に落ちていった。
 そうだ。初めのうちはそうだった。
 劉備が追従を望んでくるのを待っていた。おかしな奴で、他の人間には毛嫌いされているが、曹操は傍に置いてみたい、と思っていた。
 また、才覚を見抜く慧眼を持つ曹操さえ、劉備にひそむ底知れない『何か』を覗くことは難しかった。もうしばらく傍で観察する必要があったのだ。
 そして、ふと掴んだ劉備の内側が描かれた切れ端から伝わる手ごたえが、劉備の従属を『違う』と称した。
 沈黙が二人の間に漂う。劉備はもう言うことはなくなったらしく口を閉ざし、曹操は何か言いたいのに言葉が浮かばず口を噤み、ぽたり、ぽたり、と劉備の顎を伝って落ちる雫だけが二人の間を割っていた。
「足なら、おいらが拭くから、それじゃあ駄目か」
 許チョが恐る恐る口を挟んできた。曹操が誰かと話しているときに口を出してくる許チョではない。それほど、二人の様子が尋常ではなかったのだろう。
「虎痴、出て行け」
「……でも、曹操様」
「聞こえなかったか」
 棘のある声で命じてしまった。傍目にも分かるほど許チョは大きな体を竦ませて、巨躯に似合わぬ素早さで出て行った。
「許チョ殿に当たらなくとも良いでしょう」
「お主のせいだ」
「人のせいになさいますか。見た目だけでなく、器まで小さい人だったとは」
 ばしゃり、とまた劉備に水をかけた。
「それ以上、口にするな!」
「水も滴るイイ漢、と言いますが」
 やはり気にした様子もなく、どう見ても本気で言っているとしか思えない、ふざけたことを口にして笑っている。
「もっとかけてやろうか」
「遠慮いたしましょう。それよりもいい加減、大人しくしていてください。足が拭けない」
 足首を掴まれた。曹操の細い足首は、劉備の手に収まりが良かったらしくがっちりと捕らえられて動かせない。自由のはずの足ごと抱えられているせいで、先ほどのように払い除けることも不可能だ。代わりに屈み込んだままの劉備の背を叩くが、足の裏に布が宛がわれれば珍妙な声が漏れそうになり、慌てて口を塞ぐ。
 急に大人しくなった曹操を劉備は訝しんだようだが、幸いとばかりに足を洗い始める。じゃぶじゃぶと水をかけられて、丁寧に柔らかい布で指の隙間、足の裏と拭いていく。
「……っ……く……っ」
 必死で曹操は堪えるが、下腹が痙攣するのだけは止められない。息を止めているせいか、酸欠状態だ。ようやく片足が終わったらしい。今しかない、と曹操は劉備を止める。
「自分でやる、貸せ!」
「いえ、お構いなく」
 顔も上げずに答えた劉備は、また足首を捕らえて強引に洗い始める。嫌がらせか、と思いつつもまた拷問が開始される。
 曹操にとっては長い時間が過ぎ去り、ようやく劉備は両足とも洗い終えたらしく顔を上げ、そしてすぐに首を傾げた。
「顔が真っ赤ですけども」
 声を堪えて息を詰めていたのだから、当然の有り様だ。
「お主が、人に気安く触ってくるから……っ」
 不思議そうな顔になる劉備は、自分の手にある布と曹操の顔を見比べて、ふ〜ん、と鼻を鳴らす。まだ掴まれたままの足首を持ち上げられて、曹操は体勢を崩して牀台に仰向けに転がってしまう。
「劉備!」
 抗議の声を上げたものの、劉備の両眼は悪戯小僧のように細く弧を描いている。
「曹操殿、ここが弱いのですね」
 言うなり、劉備も牀台に上がり、曹操の洗ったばかりの足を口に含んだ。
「ばっ……ひゃ」
 声が漏れてしまった。冷たい水で冷えた足の指に、暖かい口内は刺激が強すぎた。びくん、と身体は跳ね、また口を手で塞ぐ羽目になる。
 舌が足の指の間を舐めてきた。チロチロと這う舌先にくすぐったさと奇妙な悦が込み上げる。親指を強く吸われるとジンジンとした熱が足の先から心臓へと伝わってきた。
 足の裏は子供のころから苦手だった。ただでさえくすぐったがりの曹操の一番弱いところで、他人に少しでも触られると駄目だった。ふるふると首を左右に振ってやめてくれ、と訴えるが、劉備にやめる気配は微塵もない。
 ひくひくと咽が震えて、下腹は笑いを堪えるのにしきりに痙攣を繰り返している。
 親指を吸われ、人差し指をしゃぶられて、中指と薬指は舌に弄(もてあそ)ばれる。小指にいたっては噛み付かれて、食い千切られるかと思った。堪らず身を捩って痛さを訴えれば、ようやく劉備は曹操の足から口を離した。
「りゅ……びっ」
 息も絶え絶えの曹操は劉備を睨み付けるものの、主導権はすでに相手に奪われている。
「ねえ、曹操殿。私は貴方に興味があるんですよ。先ほどの怒った貴方も悪くなかった。今の耐えている貴方の姿もそそられる。貴方を見ていると飽きない。もっと、もっと貴方の傍で貴方の色々な顔を見てみたい。そう思って貴方の臣下になってもいいか、と思ったのです。それを貴方も望んでいた。だのに、どうして違うなどとおっしゃるのですか」
 中庭で感じた劉備の豹変した雰囲気が瞳の奥に宿っていた。冷たい光が徐々に表面へと現れてきて、いい加減で馬鹿みたいな顔で笑う男は目の前にいなく、見知らぬ男が曹操に圧し掛かるように迫っていた。
「私が、この私が誰かの下に付いてもいい、と思っているんですよ? なぜ認めないのですか」
 この男は……、と曹操はようやく劉備という男が分かりかけた。



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