「秋空、蜻蛉 3」 劉備×曹操 |
※※※ 人の気配に、劉備は動きを止めた。 放り込まれた牢に灯りはなく、後ろ手に縛られた上に、ご丁寧に柱にまで括りつけられている。陣営内に急遽建てただけの粗末な小屋が牢代わり、となっているが、柱一本を一人の人間が崩せるほどやわには出来ていなかった。 軋んだ音を立てて扉が開き、灯りを手にした男が入ってきた。ちらり、と見えた扉の隙間からは、夜であることが見て取れた。 約束の刻限まで、あと数刻、といったところだろう。 体感が鈍っていないことを確認した劉備は、燭皿を持つ男へ目を向ける。暗がりに慣れた目には、燭芯に灯された小さな炎でも、目が眩むほどの明るさだ。 「劉備殿」 低く、ずいぶんと起伏のない声音だ、と劉備は思った。感情の全てをどこかへ忘れてしまったような、血の通わない声だ。 「お前は……確か曹操殿の傍にいた」 しかしその特徴ある声は、劉備の記憶をすぐに呼び覚ました。ようやく明るさに慣れた目が、小屋に入ってきた男の顔を捉えた。 声を裏切らないのっぺりとした顔立ちに、憂いを含んだ眸子(ぼうし)が目に付く。 「賈ク、殿でしたか」 「ご記憶いただき、ありがとうございます。今は曹丞相の下で策士として身を置かせてもらっております、賈ク文和と申します」 ゆるり、と頭が下がる。 それから劉備の前に膝を揃えて座り、間に手にしていた燭皿を置いた。 「その策士殿がわたしに何の御用ですか」 大方、劉備の真意を量りにきたか、有益な情報を得ようとしてのことだろう、と思い、劉備はいつもと変わらぬ微笑を浮かべた。 劉備の微笑を目に留めてか、それとも言葉を選んでいるのか、賈クに逡巡が見られた。薄い唇が僅かに開き、閉じられる。彷徨っている黒目が内心の葛藤を露わにしていた。 ようやく考えがまとまったのか、眼差しが劉備を正面から見据えた。 「劉備殿は、どうして丞相に屈されないのか」 予想に反して、どうやら降伏への説得だったらしい。劉備は微笑を苦笑に変えて、返した。 「申し訳ないが、そういったお話でしたら、わたしからは何も言うことはありません。誰に何を言われようとも、わたしは曹操殿に降伏するつもりは秋毫(しゅうごう)もないので」 「では、あなたがそうして丞相に抵抗するほどに無益な血が流れることになろうとも、後悔はしない、とおっしゃるのですか」 「後悔、なるほど。わたしが素直に曹操殿へ頭(こうべ)を垂れれば、戦は終わる、と言うのか。抵抗を続ければ続けるほど血は流され、そのことに対してわたしが後悔すると」 「そうです。少なくとも今回のこの追討はあなたが民を引き連れて逃げる、などという愚かなことをしなければ起きなかったこと。劉jたちとともに大人しく降伏の道を選んでいれば良かったのです。しかもそれが夏侯将軍のいうように民を盾として考えていたならば、なおのこと」 憂いで曇っている眸子がゆらゆらと揺れている。それは燭芯の小さな炎のせいなのか、賈クの感情の起伏のせいなのか。 感情が籠もっていなかった声に、熱が含まれ始める。 「あなたがこの先も命を永らえ続けるのでしたら、きっとこの日を後悔します。どうしてこの選択をしたのか。命尽き果てるときまで悔やむでしょう」 じっと、劉備は揺れている男の双眸を覗き込む。 生憎と、劉備は賈クという男を噂でしか聞いたことがない。許都へ身を置いていたときは、まだこの男は曹操と敵対する立場にいた。直接の面識は今日が初めてだ。 しかし劉備はこれまで様々な人物の間を渡り歩いてきた。曹操のような大器とも、袁紹といった英雄には今一歩の人物まで千差万別である。そのためか、観察眼は人並みはずれたものがある。 だから、初めて会った男でも、胸裏を感じ取ることは難しいことではない。 「お前は、後悔しているのか」 淡く浮かべていた笑みを消して、男に聞き返す。 「今の言葉は、まるで自分に言っているように聞こえるな」 瞬きの少ない男の瞼が、忙しなく瞬かれた。態度が変化した劉備に戸惑ってなのか、言われた内容についてなのか、言葉を詰まらせたようだ。 「お前は、これまでに生きてきた道半ばで、そんな後悔をしてきたのだろう。だから、同じようなことをしているわたしを気にかけ、止めようとした」 膝の上に置かれた賈クの拳が色を失っている。それにちらり、と目をやり、劉備はまっすぐに男の双眸を貫いた。 「はっきり言う。余計なお世話だ」 びくり、と賈クの体が震えた。 「お前がどのような後悔で苦しんでいるのか知らぬが、わたしは自らの意志で自らの行いを決める。それに対してどのように後悔しようとも、それすらもわたしのものだ。他人にとやかく言われる筋合いはない。しかもお前のそれは親切心では決してない。己が出来なかったことを他人にやらせることにより、己が受けた傷を少しでも癒そうという、保身のためだ」 わなわな、と薄い唇が慄(おのの)いている。怒りではない。賈クの面容は雪のように白く色を失っている。 「出て行け」 言い捨てる。 貫いた双眸の奥は激しい感情に波打っている。 「……わ、わたしは……。あなたは……」 しゃがれた声で、賈クが必死で言葉を紡ごうとしている。くしゃくしゃに歪んだ男の顔に刻まれた深い皺が、いっそう際立つ。 「あなたは、誹りを受けることが怖くはないのですか。後世に悪名を残され、幾代にも渡り汚名を受け続けることが、恐ろしくはないのですか」 つかえながら、男がずっと胸の奥に仕舞いこんでいたはずの想いを吐露するのを、劉備は黙ってみていた。 「私は怖かった。太師が――董卓が殺され、宮中内の反董卓勢力が董卓の近臣たちに及ぼうとしていた。逃げようと提案する李カクと郭に各地で兵を集めて抵抗したほうが良い、と提言した。わたしはただ己が生き残りたいがために、必死だった。また、そうしたほうが良い、とそのときは思ったのです」 しかし結果だけ見れば、賈クの提案を呑んだ二人が大規模な反乱の雲気となり、大勢の血を降らすこととなった。もし仮に、賈クがもっと広い視野で物事を見ることが出来たなら、ここで抵抗することが世の乱雲を広げてしまうことだと気付けたはずだ。 いや――『本当は、賈クは知っていたのだ』 大人しく処断に甘んじることが治世への道の最善だと。だが、己の保身を真っ先に考えてしまった。 董卓、という暴威を退け、晴天を取り戻しかけた王朝を再び暗雲へと引き戻したのは、賈クの一言であったのは間違いない。 その辺りの経緯は劉備も聞き及んでいる。酷い戦だったとも聞いた。 「累々と転がる死屍を眺め、わたしは自分の選択が及ぼした影響に怖くなった。それからは、暴政に傾こうとした李カクたちを少しでも留めようと努力はしてきましたが、力及ばず放逐されました」 それから各地を転々と歩き、その先々で聞くのはあのときの惨状と、李カクたちを導いたとされる軍師の悪評だけだった。 「後悔しています。わたしの不用意な策で無意味な争いを招いてしまった。もしも李カクたちを引き止めなければ今頃は、王朝は安定し、穏やかな世になっていたかもしれないのです」 俯いた賈クの頬が濡れている。この男を長年苦しめている悔いは、一生消えないだろう。 「それで、お前は曹操殿に身を寄せて、やはり戦の手伝いをしているのか」 きっ、と賈クが思わぬ鋭さで顔を上げ、劉備を睨み付けた。 「丞相は戦をもっとも早く終わらせてくれる御仁。その力になることが、わたしのせめてもの罪滅ぼしなのです。あなたのように抵抗する者がいなければ、あの方の目指す世はぐっと近付く。もしもあなたがまだ反旗を翻すつもりがあるというならば、丞相が何と言われようとも、わたしがあなたをここで抹殺します」 懐に手を入れる賈クは、恐らくそこにあるであろう暗器(あんき)の類を握り締めているのだろう。感情の宿っていなかった双眼が、今は激しい決意を迸らせている。 「なるほど。先ほども言ったが、後悔はそれぞれのものだ。お前が自分でした選択の結果に苦しんでいることに、慰めるつもりを嘲るつもりもない。だから、お前の問いだけに答えよう」 しかし劉備は平然としたまま、男を眺めていた。 「誹りを受けることは、わたしも怖い。これでも徳の将軍、と呼ばれるほどには世間の目を気にしているのだ。だが、それでも譲れないものがある。己が進みたい、と決めた道を選ぶとき、後世のことなど気にしているか。結果などあとから付いてくるものだ。わたしがこの先天を掴んだとき、ならばお前や曹操殿はどうなる。わたしの道を阻んだ大逆の者として、脈々と語り継がれてしまうだろう。それにな、困ったことにわたしにはお前のように先を見通す力など備わっておらぬ。一歩一歩、確実に目の前の道を選んで歩いていくしかないのだ。一歩踏み出すたびに、右足がいいか左足がいいかなど、迷わぬだろう? 迷っていたら一歩も踏み出せない。だからわたしはこれでいいのだ、と思っている」 「それは、あなたは大局が見えていないだけの狭量なだけではないか」 「お前こそ、曹操という大道を歩いているくせに、いつまで過去を引きずっているつもりなのだ。それはあの男に失礼だ。狭量なのはどちらか。ましてや己の罪を贖うために、あの男を利用しているだけなのではないか?」 民を連れての逃走を愚か、ましてや盾として考えているというなら、賈クとて同じことを曹操にしていることになる。 言い切った劉備に対し、賈クが愕然とした面容になった。懐からこぼれた手がだらり、と膝の上に落ち、亡羊とした目付きで座り込んでいた。 「賈ク殿?」 呼んでみると、はっとした様子で賈?は立ち上がり、燭皿を持つのも忘れて小屋を飛び出していった。 小さく苦笑した。 少し言い過ぎたか。 感覚で物事を捉える劉備にとって、賈クのように理屈で動こうとする相手は、どうも可笑しく思えて、からかいにも似た気持ちで話しをしてしまう。 それは曹操相手にも言えることで。 そういえば、うちにも最近ひとり、理屈で動こうとする人間が入ったのだったな、と思い出す。 さて、一応の目的は果たせたし、その理屈で動くあやつの血管がぶち切れぬうちに帰らねばな、と劉備は中断していた動きを再開させた。 ※※※ もう一度だけ、劉備と話してみよう、と決めた。 それから劉備の処遇を考える、と夏侯惇を連れ立ったまま劉備を捕らえていた小屋へと、曹操は足を運んでいた。 と、小屋のあるほうから一人、男がよろけるように走ってくるではないか。 「賈クか?」 片目になっても曹操より物を捉える能力が高い夏侯惇が先に呟く。 「賈ク、どうした」 曹操も姿を見止めて声をかける。びくっと傍目にも分かるほど動揺して、男は足を止めた。 「何があった」 一目で分かるほど、賈クの様子はおかしかった。ギクシャクとした様子で拱手するが、視線を合わせようとしない。 「お前、劉備を放り込んでいる牢から来たな。劉備と何かあったのか」 夏侯惇が詰問する。 「い、いいえ、夏侯将軍。わたしは何も。気分が悪いので失礼させていただけますか」 拱手した手を胸元へ当てて、賈クは頭を下げて去ろうとする。その手を夏侯惇がさっと掴み、腕をねじ上げた。 「将軍っ、痛いっ……です」 手が外れた胸元から、からん、と短剣がこぼれ落ちた。さっと賈クの顔色が青褪める。いや、元々青白かったのでそれと分かるほどではないが、はっきりと狼狽した。 「護身用ではないな。これで劉備を殺そうとでもしたのか」 腕を掴んだまま、夏侯惇は器用に沓の先で短剣を蹴り上げて、手元へと落とした。 「丞相の許可もなしに」 短剣が落ちた瞬間には、賈クと同じように青褪めた曹操だったが、刃に血糊がついていなかったので、使わなかったのだろう、と推察して血の気を取り戻した。 「文和」 一時は苦しめられた敵であった、今は股肱の臣となった男を呼んだ。 びくり、と男の細い肩は震えて、そろそろと曹操のほうを見た。 息を呑んだ。 常に憂いしか湛えていなかった賈クの瞳に、今は分かりやすいほどの感情の波がたゆたっているのだ。 「何があったのだ」 「……」 肩で大きく息をついている。すっかり取り乱しているらしい賈クは、普段の不気味なほどの静けさを失っている。 「劉備に何か言われたのか」 「……あ、いえ」 掠れた声が聞こえた。 「何があったか話してくれぬか」 首を横に振られる。 「賈ク!」 夏侯惇が腕を掴んだまま体を揺する。ねじ上げられた腕が痛むのだろう。賈クの顔が苦痛に歪む。 「夏侯惇、離してやれ」 「すまん」 急いで夏侯惇は手を離した。よろっと、体が揺れたので、曹操は慌てて両手を伸ばして支えた。 「……丞相、わたしはあなたに必要とされていますか」 耳元で、弱々しい声がする。 元からこの男はあまり自己を誇示するほうではない。自分の策を提示して価値を見出してもらわなくてはならない軍師の中では、荀攸に引き続き顕示欲がないほうだろう。 「わたしはあなたを利用しているわけではないのです。決してそんなつもりはない」 何を言われたのだろう。 分からないが、劉備と会話をかわして、男は自己の根幹を揺さぶられたに違いない。 劉備は不思議と心の隙間に入り込むのが得意だ。本人がそうと意識してやっているかは定かではないが、いつの間にか本音をさらけ出し、自分でも気付いていなかったことに悟らされる。 「文和、いいか、良く聞け。わしはお主を必要としている。お主の頭嚢(ずのう)も先見の明も頼りにしている。お主に苦しめられた戦すら、良い思い出だ、と酒の肴に笑って話せるほどだ」 肩を叩きながら、言い聞かせる。 曹操の背では抱き締める、というよりは抱き締められている格好に近いが、賈クは縋り付くように曹操を抱き、肩口で頷いている。 「だから、わしより年くっているくせに女みたいに泣くな、いいか?」 衣の袖で、濡れている賈クの頬を拭ってやって、顔を覗き見る。歪んだ顔が泣き笑いを浮かべた。 「丞相、あの男は危険です。丞相の道を阻むだけでなく、もしかしたら丞相自身さえも」 男に囚われてしまうかもしれない。 「そうかもな」 それだけのものを備えているからこそ、曹操は劉備に惹かれるのだ。 「ご承知でしたか。つまらない諫言をいたしました。ですが、わたしはこれからも『あなたのために』苦言を申し上げます」 今度はゆっくりとだが、しっかりとした拱手を返した。再び上がった顔は、曹操の目を見ていた。 憂いで曇っていたはずの眼(まなこ)が、僅かだが光を灯している。何かが賈クの中で吹っ切れたのだろう。 変わったのか。このたった短い間で。 劉備のせいで? 頷いて、見送る。来たときより、足元は確かだった。 「大丈夫か?」 成り行きを見守っていた夏侯惇は、尋ねた。 「大丈夫だ。あれであやつはしぶとい。何よりわしを散々苦しめた男だ。簡単に折れはせぬよ」 「ならばいいが。本当にお前は会うつもりか。賈クでもあんな様だ。ここでとっとと切るか、むしろ逃がしたほうがいい気がするんだがな」 びっ、と曹操は腕を伸ばして、人差し指で夏侯惇の眉間を指差す。 「お主はわしが信じられぬのか。ん?」 「そんなことはないが、万が一ということがある……っつぅ!」 伸ばした指で皺の寄った眉間をぴしっと弾いた。悲鳴を上げた夏侯惇へ背を向けて歩き出す。 「わしを信頼できぬなら構わんぞ。呆れて見放してもよい」 「馬鹿を言うな! そんなことをするはずなかろう。俺はお前を信じている」 「ならば、そこで大人しく待っておれ」 小屋はすぐそこに見えていた。命令を受けた夏侯惇は、お預けを喰らった犬のような顔をして、立ち竦む。 「一緒に中に」 「駄目だ」 「しかし、何かあったとき、この距離では間に合わん」 「信じている、と言っただろう。男に二言は許さぬ」 「それとこれとは……」 「元譲」 上目遣いに聞き分けの悪い従弟を見やり、にこり、と微笑む。 「見張りだ」 「……分かった」 上目遣いの笑みに弱いことを知っている曹操の勝ちだった。 |
目次 戻る 次へ |